My Journey to the South Africa




Nutscracker Dolls od Munich


 この写真は、私の家の居間にあるドイツのクルミ割り人形である。バイエルン州・ミュンヘンのマリエン広場近くのデパートで買ったものだが、ビールのジョッキを掲げているところが、いかにもミュンヘンらしくて、ほほえましい。ここは、街のあちこちにビア・ホールがあるし、10月になるとオクトーバー・フェストといって、大規模なビール祭りがあるほどの、ヒール好きの街なのである。私はミュンヘンには、国際交渉の仕事で1990年代はじめに毎年続けて3回ほど行ったことがあるので、ヨーロッパの中では一番のなじみの都市である。

 一言でミュンヘンについていうと、美しいけれどもともかく寒い街というのが私の印象である。たまたま私が訪れたその3回とも、残念ながら1月末という一年の中でもっとも寒い季節であったからである。しかも最初の訪問のときは、よりによって何十年ぶりの寒い年であった。空港に降り立った瞬間、私は摂氏マイナス20度の寒風にさらされた。迎えの車に乗るわずかな間、地面の接触している私の靴裏から、体温が奪われていくのをひしひしと感じ、足があっという間に凍えていくのがわかった。また、頭のてっぺんからも、熱が吸い取られていくような感覚に襲われ、頭の芯が痺れてきたのである。わずか数分の間に起こったこれらの異常事態にびっくりしていると、ちょうど運よく迎えの車がやってきて、ホテルに連れて行ってくれた。暖かい車の中で、体も心もほっとしたことを覚えている。私が日本で経験したのは、スキー場でのせいぜいマイナス5度から8度くらいである。しかもそのときはスキー・ウェアを着込んでいるし、スキー帽をかぶりゴーグルもかけているわけであるから、十分に対応できていた。ところが、このミュンヘンでは、背広にペラペラのコート一枚の東京のような格好で行ったものだから、その寒いこと寒いこと。凍えるとは、このことをいうのかと納得したほどである。

 到着したホテルの温度はちょうどよくて、それほど寒くないが、さほど暖かくもないという頃合の温度に設定されていた。そこで凍えきった体をしばし休ませながら、出入りする地元の人たちを観察していると、いずれもしっかりと、毛皮のオーバーと帽子を着用している。その帽子は、ロシアのようなあんな大げさなものではないけれども、それと似ているようで、もっと格好のいいものである。こういうものを着て出れば確かに暖かいのだろうが、何しろ私は、数日間の会議のために滞在する程度なので、そんなものをわざわざ買う気も起こらない。しかし、ちょっと外出するには寒いし、どうしようと思った末、下着や靴下をできる限り着込んでいくこととした。まず、下着を3枚も着込み、ワイシャツを着て、セーターをはおり、さらに背広を着てトレンチコートを着た。まるで体が雪玉か何かのようになった気分だが、さらにその上、頭にたまたま持っていたスキー用の毛糸のキャップをかぶった。まあ、外から見ると本当に不恰好なスタイルだったと思う。しかし、これで何とか体だけは寒くなくなったが、問題は靴だった。東京の革靴のままだったので、寒くて凍り付いている道路を歩くと、つるつるすべって危ない。ホテルから外に出たものの、早々に戻ってきてしまった。

 さて、ミュンヘンでは、連日、国際会議に出席した。参加者を見ていると、さすがにノルウェーとスウェーデンの人の服装は、違っていた。特に靴は、特に冬用に設計された青い雪ブーツのようなものだった。こんなに分厚い靴は見たことがなかったし、靴底には何層にも深い溝が設けられていた。もちろん、彼らの服装も毛皮製で、いかにも暖かそうだった。そんな中で、アメリカからの参加者が、私と一緒の薄いトレンチ・コートを着て寒さに震えていたのには、笑ってしまった。中でも財務省から来た若い人に、「こんな寒さ、経験したことあるの?」と聞いたところ、「いや、まったく初めてだから、びっくりした」と語っていた。

 私たちの会議が無事終了し、「さあ、本場のビールを飲みに行こう」と声がかかり、皆で出かけた。案内されたのは、ホーフブロイハウス(Hofbrauhous)といって、アドルフ・ヒトラーがスピーチをしたところとして、ミュンヘンで最も有名なビヤホールである。中に入ってみると、既にたくさんのお客さんが、赤ら顔をしてジョッキを傾けて、ビールを飲んでいる。わいわい、がやがやという話し声、ジョッキのガチャガチャという音などで、とても騒々しいと思ったのもつかの間、私もすぐにこの酒飲みのひとりになってしまっていた。まず注文したのは、ビールとソーセージである。驚いたのは、ほとんどのウェィトレスが、両方の手でビールジョッキを10個以上も持って歩いていたことである。ビールで満杯のジョッキは、1個で1キロ、おそらく1.5キロはあるから、それだけで15キロも運んでいる。両手を使った苦しい体勢でビールをこぼさずに運ぶわけだから、これはたいへんな力を必要とする。華奢な日本の女の子には、できない芸当である。

 そうやって、同じ会議の出席者と、ヴァイス・ヴルストなどという白いソーセージを肴にビールを痛飲し、大声で話をしていると、突然、一人の中年のドイツ人が、私のテーブルにやってきた。粋なハンティング・ソフト帽をかぶり、灰色の髪の毛から推察するに、どうやら60歳は超えていたように思う。そして私に、「あなたは日本人?」などと聞く。酔った勢いもあって、私も大声で「Yeah! Japanish!」。そうすると、その人、私の肩を抱くようにして、こう言った。「第二次世界大戦中に、私たちは戦友だった、しかし残念ながら、負けてしまった。今度こそ、一緒に勝とう。」まあ、普通の市井の人のように見えたので、恐らくは日ごろの冗談の延長のようなものだったのだろうけれど、各国の連中の前で突然そんなことを言われた私の方は、いっぺんに酔いがさめてしまった。まるで50年前のゴーストを見たような気がしたものである。外は、しんしんと雪が降る寒い夜の出来事であった。

 翌日、会議が早く終わって時間が空いたので、これ幸いと私は、旧市庁舎や大聖堂などを見るためにマリーエン広場へ行った。これらは、ヨーロッパらしい優美な建物だが、第二次世界大戦中にこれらを含めてミュンヘンの建物の4割が連合軍の爆撃で完全に破壊されたので、これらは復元された建物だとのこと。たとえば私が教会に入った時、壁の上部のごく一部のところに、フレスコ画の破片がはめ込まれていて、あとの部分は真っ白の壁だった。ガイドによると、爆撃の後に、市民が廃墟からこの破片を見つけて掘り出したので、これを基礎として復元しているところだという。文化的財産の回復にかけるドイツ人の熱意に感動するとともに、そういえば第二次世界大戦、日本でも国内の多くの都市が爆撃で廃墟となる中で、アメリカの学者の奔走でひとり京都・奈良地区だけが爆撃から免れたが、これは本当に僥倖だったのだなあと、つくづく思い知らされた。また、戦後50年近くなるのに、まだこれだけ戦争の爪あとが残っているのなら、昨夜の「戦友」の酔っ払いの振る舞いも、仕方のないことかもしれない。

 さて、そうやってマリーエン広場を歩いていると、品のいいご老人夫婦を何組か見かけた。それが実に素晴らしいスタイルで、うらやましいほど格好がよろしいのである。いずれも70歳以上のお見うけしたが、申し合わせたように夫の方は、鳥の羽毛を備えたダークグリーン色のチロリアン・ハットをかぶり、これまたダークグリーンのジャケットを着て、白い高いソックスを履いている。一方、奥さんの方はというと、夫のジャケットや帽子と同じダークグリーン色の魔法使い風の長いコートを着ている。まるで絵本から抜け出てきたようで、思わず見とれてしまった。このご夫婦たちのスタイルが、あまりに印象に残っていたせいか、これと同じスタイルのクルミ割り人形を広場近くのデパートで見つけて、衝動買いをしてしまった。それが、この冒頭の向かって右の人形である。

 このマリーエン広場近くは、ショッピングを楽しむこともできる。何しろ1月末なので、セールの季節である。ぶらぶら歩いていると、皮製のダーク・レッドのアタッシュ・ケースを見かけ、買い求めた。その時以来、もう10年以上も持ち歩いているけれども、ちょうどドイツ人と同じように非常にタフな製品で、一度も壊れていない。それを買ってから、さらにぶらぶらと歩いて行き、お腹がすいたのでレストランに入った。まず、ヴァイス・ビアという白いビールをに注文し、それから料理と思ったけれど、分かったのはザー・クラウトという酢漬けのキャベツと、ヴルストというソーセージで、あとは全くわからない。運悪くウェイターも英語がわからない。えい、ままよとばかりに適当なものを注文した。ところがそれの料理が来てみてびっくりした。それは、一匹の子豚を丸ごと煮たものだった。しかも、味がよければともかく、平板な味付けて、とても食べきれなかった。というわけで、これは失敗に終わった。

 ミュンヘンは、バイエルン州都という歴史豊かな都市であるだけでなく、オペラのメッカとしても有名である。会議も日曜日にかかることだし、オペラを見てみたいと思っていたら、ホスト国ドイツの手配で、運よく切符が手に入った。その日曜の夜に、私は他の国の人たちとともに、見に行ったのである。一緒に行ったアメリカ人もそうだったが、ちょうどニューヨークでオペラ・ハウスへ行くような気楽な感覚だったのであるが、到着した瞬間、これはしまったと思ったものの、後の祭りだった。というのは、観客が全員,揃いも揃って舞踏会風の正装だったからである。男性は皆ブラック・タイ、女性はいずれも肩も露わなイブニング・ドレスである。それに比べて私たちはといえば、単に普通の背広姿。もう、穴があったら入りたいくらいの心境である。しかしそれでも、来てしまって以上、指定の座席に座るしかない。しかもそれは非常に良い席なのである。ところが座ってみて、何か非常に奇妙な気がした。何だろうと考えてみると、私の前の席に座っているイブニング・ドレスを着た女性たちが皆、裸のようだったからである。考えてみれば、イブニング・ドレスを前から見ると、白い布で覆われているけれども、たいていのイブニング・ドレスの背中は、露出しているものが多い。私たちの前にその背中を向けて座っている女性たちが裸に見えたのは、むべなるかなというところか。
The Opera House of Munich
 かくして、どきまぎしつつオペラ鑑賞を終えて、出口に向かった。その途中、隣のドイツ人の若い男性に、「きょうのは、ドイツ語だから、意味はよく分かったのでしょうねぇ」と聞くと、「いやいや、古語でやっているから、イタリア語と同じで、さっぱりわかりませんよ」などと言っていたのは、おかしかった。いまから振り返ると、オペラの中身より、こういうつまらないことしか覚えていないのは、あまり芸術に縁がないというよりは、やはり言葉の問題だろうと思う。それが証拠に、ニューヨークに行くときも、時間があればミュージカルを見ることにしているが、この場合は、筋建ても役者の表情も結構覚えていて、たとえばミス・サイゴンなどは今でも思い出せるからである。

 以上が、私の最初のミュンヘン訪問記である。翌年も、まったく同じ季節にミュンヘンを再び訪れた。前年の凍えるような経験を反省して、このときは日本でも着られるようなしゃれたオーバーで、カシミア製のものを持っていった。ところが、空港に着いて拍子抜けをした。今回は一転して非常に暖かい気候だったからである。気度は5度以上で、前年と比べて30度近くも上回っていた。私のせっかくのオーバーへの投資は、無駄になってしまった。

 ところがそのおかげで、今回はミュンヘン市内を歩き回るには、ちょうど具合がよかった。この時の特筆すべきことは、ドイツ博物館を訪れたことである。幸いにも、私のホテルがちょうどこの博物館の近くにあったからである。これはいかにもドイツ的な、重厚で包括的な博物館で、イーゼル川の川中島にある。特に科学技術に特徴があり、昔の産業革命の頃からの機械文明の歴史をたどるには欠かせないものである。また、Uボート潜水艦の現物の展示もあった。一日かかっても、全部を見回ることができないほどの展示物の量である。

 ちなみに、今回私が泊まったホテルは、小さいが、美しくてアット・ホームな雰囲気のところである。特に私は、礼儀正しいベル・ボーイとともに、出入り口横の小さなバーのたたずまいが好きだった。小さなコーナーではあるが、その真ん中に、でん、とばかりに年代物のビールのサーバーが置かれている。それは、真っ赤な色をし、端が金色の真鍮でできていて、実に心地よい形をしていた。ビールを注文すると、ビヤホールのような制服を着たウェイトレスがそれでビールを注ぎ、赤じゅうたんの上を歩いて持ってきてくれる。ホテルの壁紙は褐色を帯びたもので、赤と金色のサーバーと白いウェイトレスとがマッチし、それらを眺めつつビールを口にし、贅沢な気分を味わったものである。

 このときも、国際交渉が順調に終わって、皆が満足する結果となったこともあったのだろうか、ホスト国のドイツ側の長官が、われわれ交渉団を自宅に招いてくれた。そのお宅は、あたかも小さな森の真中にあるようなところで、非常に静かな場所にある。玄関に優雅な奥様が現れて、私たちを大歓迎してくれた。ブロンドの髪の非常に品の良い温和な女性で、家の中を案内したくれた。まあ、いろいろなものがあった。特に私たちの目を引いたのは、アフリカ産の木製の彫刻やら、サファリの旅行写真などで、ヨーロッパ人にとって、アフリカは近いのだなと実感した。そのお宅から帰途に着き、その途中のバスの中で、酔っぱらっている英国の部長さんが、急に歌を歌い始めた。それが何と、昔のビートルズの歌、黄色の潜水艦であった。会議中の仏頂面とは打って変わって、満面の笑みを浮かべて気持ちよく歌っている。さすがに本家らしくて、なかなかうまい。とうとう、皆それを合唱するようになった。すると、それが終わった瞬間、アメリカ人が何やら歌を歌い始めた。彼らも歌うのかと思ってよく聞いてみると、それは国歌だった。何だつまらないと思ってわれわれはそれを無視し、引き続きイギリス人のリードでビートルズを歌い続けた。そうこうしているうちに、バスは偶然に、毛皮店の前を通った。それを見たアメリカの副長官の妻は、キンキンした声を張り上げて「あれあれ、あれを買いたいの」などとジョークを言う。なんのかんのといろいろな話題を残し、バスはホテルに帰りついた。

 さらにその翌年、私はまた同じ会議でミュンヘンを訪れた。3回目の訪問である。もうこれくらいになると、皆が顔なじみで、そこここで、再開の挨拶を交わした。そのうちの一人の話に、私はびっくりした。あの、私たちを招待してくれた長官が、つい最近、離婚して、副長官のひとりと再婚したとのこと。この副長官も、仕事のカウンターパートなので、私はよく知っている。そんなこと、あるのかなぁと思っていると、うわさの二人がペアで現れて、本当だと分かった。何というか、私は粛然としてしまい、彼の前の奥さんと、それから居間にあふれるほどあった、あのアフリカの品々の行方を思わずにはおられなかった。

 このときの会議は、連日、夜中まで働きに働いて日程をこなしていき、日曜日には、皆でアウクスブルクに出かけた。こちらは、ドイツで最も古い都市のうちのひとつであり、その基礎を作ったローマの皇帝のアウグスツヌスの名をとったという。ここは古代から交通の要所であり、中世になると、塩の交易で栄えた。その中でよく知られているのがフッガー家である。14〜15世紀に、この塩の商売で巨万の富を築き上げたが、同時に慈善事業にも力を入れた。その中で、今に至るまで残っているのが、貧困層の救済のための「フッガー・ハウス」である。これは、貧しい人たちのためのアパートで、これを名目的な家賃で貸したという。現在も、一ヶ月に1ドル程度の家賃を維持しているとのこと。

 このフッガー・ハウスには、もちろん今でも住んでいる方たちがいらっしゃるが、アウクスブルクの主な観光スポットのひとつとして、その一部の住居をオープンハウスとして観光客のために開放して見せている。基本的な構造は、これが作られた15〜16世紀と変わっていないそうなのだが、まずその外部は、美しい花と彩色されたレンガによって飾られている。そして中に入って驚いたのは、スペースが広いことと、それに何よりも東京の私の家よりも、はるかに過ごしやすそうなことであった。まったく、私の生活水準は、5世紀前と同じなのかとがっかりしながら、その家を後にしたものである。

 それから、アウクスブルクの街の中心を散歩した。多くの骨董品店があつて、そのいくつかを冷やかした。私の同僚の一人は、骨董のカップ・アンド・ソーサーをOrnament of Augusburg収集しており、その人のお話を耳にした後で、店の人の説明を聞き比べると、いろいろと面白かった。そうした中で私は、女性の絵入りの小さな装飾の小物入れを見つけた。私は、この街を訪れた記念のために、それを買うことにした。そんな至福の買い物の時を過ごし、ミュンヘンの小さなホテルに戻った。満月の素晴らしい夜であった。

 こうしてリラックスしていたときに、たまたま東京から電話が入った。それは東京で非常に大きな問題が起こったことを伝えるものであった。それは来る前にある程度予測できたもので、対策も立てていたものではあったが、それでも実際に起こってみると、これは大変だなあという思いで、気が重くなった。これが私が担当した某重大事件の始まりである。帰国した直後からこれに取り組んだが、それから3ヶ月の間、土日もなく一心不乱に仕事をして、ようやく収束させた。ミュンヘンとアウグスブルクが天国だとすると、この3ヶ月間の日々は、まさに地獄であったが、それも直前の天国の日々があったからこそ、乗り切れたと思っている。こうしてミュンヘンとアウグスブルクの地は、私にとって苦しい時の神頼みとなる永遠の聖地となったのである。

(平成12年12月 1日著)
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