This is my essay.








 2005年の新春を迎え、新年のお祝いを申し上げたいところであるが、残念なことに今年はそういう気分にはなれない。というのは、昨年末にインド洋で発生した前代未聞の大津波により、その沿岸諸国で総計15万人とも20万人ともいわれる死者が出たばかりか500万人以上が家を失ったといわれているからである。

 昨年12月26日午前8時(日本時間午前10時)、インドネシアのスマトラ島北部のインド洋側の沖合でマグニチュード(M)9.0の巨大地震が発生した。震源に近かったインドネシアのスマトラ島にはその直後に20メートルを超える大規模な津波が押し寄せそれから30分後にタイ南部のプーケット島を襲い、さらに1時間後にスリランカとインド、2時間後には南国のリゾート地のモルディブに襲来した。これによる推定被害者数は死者だけで少なく見積もっても15万人を超えたということであるから、一つの自然災害による死者数としては、有史以来最大のものではないかといわれている。

 アメリカ地質研究所によれば、震源はスマトラ島北部の西方沖で、震源の深さは約10キロメートルと比較的浅く、地震の規模はM9.0と推定される。1900年以降の地震では5番目の大きさで、計算上では地震のエネルギーは1995年の阪神大震災(M7.3)の1,600倍ということである。

 最初に大津波が襲ったインドネシア・スマトラ島の北西の先端にあるバンダ・アチェ市では、一瞬にして市街が壊滅してしまった。津波の襲来前後の写真を比較すると、それは一目瞭然である。かつてあった美しい町並みは完璧に破壊されて大きな水溜りがあちこちに出来たばかりか、周囲の海岸の白い砂浜までもがすべてなくなり、街全体が縮んでしまっている。あるインドネシア人の若い女性などは、街中を歩いてモスクに行く途中で突然の大津波にさらわれ、いったん海水中に呑み込まれたあと、たまたま流れてきた椰子の木につかまって漂流し、やっと数日後に沖合いを通る貨物船に救助されたということである。しかし、これはごく一部の運がよかった人のことで、大半の人はそのまま溺死した。

 それに加えてちょうど折悪しく、この大津波が発生した12月26日は日曜日で、欧米人のクリスマス休暇のまっただ中であった。タイのプーケット島やインド南方のモルディブでは、海岸は多くの観光客でにぎわっていたが、そこに何の前触れもなく大津波が襲ってきた。普段であれば、青い空に浮かぶ白い入道雲の下で、真っ青な透明な海に純白の砂浜という南国のビーチが広がり、海中には色とりどりの珊瑚礁の間を色彩豊かな熱帯魚が泳ぎまわるという、まさにこの世の天国といった場所柄である。しかし、これらの南国のリゾートは、天国に近いとともに、実は地獄にも近かったなどとは、夢にも思いつかないことであった。

 最近の地震の通説となっている大陸移動説によると、ミャンマーからインドネシアにかけては、いわゆるユーラシア・プレートに乗っていて、その右からフィリピン・プレート、そして左からはインドオーストラリア・プレートによって挿まれる形に押し上げられている。地震の巣はこれらのプレートの境目に連なっていて、今回の震央は、インドネシアのインド洋側にあるインドオーストラリア・プレートとの境界線のまさにその真上にある。その結果この地域では、約200年毎に大地震が生じており、前回は171年前にあったとのこと。ただ、太平洋側の諸国と違って、このインド洋側では、津波を警戒する国際的システムが作られていないうえに、住民に何の知識もなかったことから、今回の大惨事につながったという。

 たとえばタイのリゾート地プーケット島は、アンダマン海の外洋に面している。地震発生の当時は日曜日であったので大勢の観光客が浜辺で遊んでいた。そうしたところ、急に汐が引いたので、何も知らない観光客たちは喜んで、その取り残された魚のつかみ取りをやっていたのである。ところがその直後に10メートルもの大津波が襲来した。したがって遊んでいた人たちはそれに気づくのが遅れて水に呑み込まれ、多数が行方不明となったのである。ところがその一方では、観光地で飼われていた象たちが異変に気づいて客を乗せて山の方に逃げたので、何人かが助かったという。

 また中には勇敢な女性もいる。ある北欧の国からタイのビーチに来ていた一家は、夫と3人の息子が数メートルの津波に襲われて海岸から陸に向けて必死に逃げようとしている一方で、その子供たちの方つまり海の方向に向かって女性警察官である妻(45歳)が迎えに行くように走っている姿の写真が撮られていた。その後この一家はどうなったのだろうと思われていたところ、何とその全員が無事に助かって、帰国できたという。これは奇跡に近いと祝福されていた。このような大災害の中にも、いろいろな人間模様があるものである。

 それにしても、今回、膨大な数にのぼる津波被害者の皆さんに対して、日本としても、また一個人たる私としても、義捐金の拠出のほかに何かできることはないものだろうか。




 実は私の友人が、スリランカのコロンボに赴任して技術協力の仕事をしている。この津波の一報を受けたとき、まさかインドネシア沖から、そんなところにまで津波は行くまいと思っていた。ところが、現にそのスリランカでは、海岸線を走っていた列車がこの津波に遭って乗客のほぼ全員の1,500人近くが死んだなどという、誠に凄惨な事件がテレビで報道されて驚くとともに、急に心配になった。そうしていささか胸騒ぎがする新年を迎えたのであるが、幸い、本人から無事を知らせる次のようなメールが届いたので、心から安心した次第である。


皆様へ

 コロンボから新年の御挨拶を申し上げます。

 一週間にわたり、日夜、報道されておりますように、12月26日の日曜日に、スマトラ島沖で発生しました地震及びその後のインド洋の津波で広範囲に被害が出ております。日曜日の時点では、津波の被害もたいしたこともないと思い、ミニマムの連絡しかしませんでした。その後、報道されるたびに、犠牲者の人数が一桁ずつ増えていって、スリランカだけでも2万人を越えており、驚いております。これより少ない数であることを祈っております。

 ということで、新年のご挨拶が、安否確認になってしまいました。

 スリランカでは、スマトラ島沖の地震の震源地に面している島の東部・南部に被害が集中しております。この地域は、交通や通信が不便で、日本でもそうですが、被災地の状況はなかなか把握できないものです。コロンボは島の西側に位置しておりまして、北海道の西と東というと大袈裟(スリランカは少し縦に細長いので半分くらいでしょうが)ですがそれに近いくらい離れている感覚です。後で、知ったのですが、震源とスリランカは1,600kmだそうで、津波は海の深さによるのですが、数時間で届いたものと思います。チリの地震では、太平洋18,000kmを1日かけて伝わってきましたが、今回は一桁近いので、大きな波が襲ったのかも知れません。

 スリランカやコロンボが壊滅したような印象をお持ちかもしれませんが、コロンボでは水位が上昇し、港や海岸沿いの道路が冠水した程度で、ほとんど影響がありません。尤も郊外(10キロ以上南)では、海岸沿いの鉄道、道路、住宅が大きな被害を受けているようです。後で思えば、運が良かったのでしょう。私の仕事仲間は、幸い、皆、無事でしたが、彼らの知人や関係者に、行方不明の人もおります。また、直後は、電話が非常にかかりにくくなっていたり、インターネットが遅くなったりして、仕事に影響が出ております。

 今年の日本は、集中豪雨、猛暑、記録破りの台風、地震と自然災害で大きな被害を受けました。打ち止めかと思いましたが、最後に東南アジアに大きな被害がもたらされました。国際化が進んでいる今日、海外でも日本人が自然災害に巻き込まれる可能性は十分にあります。でも、今回の津波は、観光地では、本当に寝耳に水だったでしょう。

 コロンボ市内は、避難してきた旅行客(その多くは外国人ですが)で、ホテルや避難所が一杯になりましたが、現在は平常に近くなっておりまして、平静です。スーパーから、水、缶詰、菓子類、粉ミルクなどが一時的になくなりましたが、これもすぐに補充され、コロンボ市内においてはモノ不足になっていることはありません。

 ご心配をいただいておりますが、無事で元気ですので、ご安心ください。

 自然災害のことばかり書きましたが、私のスリランカでの仕事も、残り5か月となりました。IT分野では、大国であります中国やインドが注目されておりまして、その周辺の小国は取り残されるのではないかと心配です。小国には小国の生き方があると思いますので、その国の特性や環境を活かして、独自の道を歩むことができるようになることが不可欠と考えております。スリランカの場合は、その前に、長年の懸案となっております和平に向けての努力に加えて、今回の津波被害からの復興と大きな課題に直面しております。

 本年が良い年でありますようにお祈りいたします。



              
 (2005年1月2日 記)


(参 考)スリランカ国 カルタラ・ビーチの
    津波襲来前と襲来の4時間後の様子




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(平成17年1月10日著)
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