This is my essay.




       



        ふ る さ と
 
    兎追いし   かの山
 
    小鮒釣りし  かの川
 
    夢は今も   めぐりて
 
    忘れがたき  故郷(ふるさと)
 
    如何にいます 父母(ちちはは)
 
    恙なしや   友がき
 
    雨に風に   つけても
 
    思いいずる  故郷(ふるさと)
 
    こころざしを はたして
 
    いつの日にか 帰らん
 
    山はあおき  故郷(ふるさと)
 
    水は清き   故郷(ふるさと)
 
      作詞:高野辰之、作曲:岡野貞一
 




 先週発売になった文芸春秋の特集記事に、「消えた昭和」と題していろいろな人に短いエッセイを書かせているものがあった。各執筆者が取り上げたものをアトランダムに並べると、こんな風になる。蚊帳、焚き火、原っぱ、紙芝居、駄菓子屋、ラジオ、ちゃぶ台、神棚仏壇、蠅取り紙、社員旅行、百科事典、御用聞き、路地裏・・・。確かに、懐かしいものばかりで、それぞれについて書かれていることも、私の子供の頃の体験そのものである。本当なら、私もこのすべてについて書き残したいところであるが、とりあえず、これらを読んで、ふと何十年ぶりに脳裏に鮮やかに浮かんだことを記しておきたい。

 日本の高度経済成長時代が始まる前の、昭和30年代の半ばのことである。当時小学生だった私は、親の転勤で、都会の神戸から北陸の田舎町に引っ越した。その町の駅頭に降り立ち、そこからほど近い新しい我が家に向かう道すがらで驚いたのは、周囲がほとんど田圃だったことである。都会しか知らなかった私は、こんなところでこれからどうなるのかとついつい心配になり、家に近づく頃にはすっかり押し黙ってしまった。

 その家の前の道を少したどっていくと、両脇に繊維工場があり、それを抜けたところは、一面の田圃であった。その夜の私は、興奮してあまり良く眠れなかった。翌朝早く起きてしまったので、私は、家を抜け出してその田圃の方に向かって歩いた。繊維工場を窓から眺めると、そんな早くから、ガッチャン・ガッチャンと景気よく動いていた。天井からベルトのようなものが何本も下がっていて、床上のたくさんの機械に繋がり、それらが一斉に動いて音を出していた。草ぼうぼうの道端には、赤さびた織機の部品が転がっている。こんな風景も見たことがなかった。物珍しくて、しばらくぼうっと眺めていたが、工場から大人が出てきたので、小走りにそこを走り抜けて、田圃に出た。そしてここが、それからの私の第一の遊び場となったのである。

 田植えが終わって初夏になると、稲が青々と伸びて実に美しい。私がとても気に入ったのは、田圃の中を流れている小川である。まだ農薬が使われていない時代だったので、川水をタモで掬うと、メダカがいっぱい入っている。全長は3〜4センチ程度のものだが、群れて泳いでいるので、捕まえやすい。日がな一日、タモを持って捕まえ、飽きるとバケツをひっくり返してまた川に戻し、しばらくしてまた始めるということを繰り返した。小学校も高学年になると、メダカでは満足できなくなった。

 捕まえる魚で面白いのは、何といってもフナである。メダカとは比較にならないほど、すばしこくて早く、身を隠すのもうまい。上流の方にタモを置いて、下流から足で追い込んでいって、さっと引き上げて捕まえるというのが作戦である。ところが、敵もさるもので、そんなに簡単には捕まえられない。たまに大きなフナを捕まえたときは、大喜びで家に持って帰る。すると母親から「そんなもの、川に返してらっしゃい」といわれて、しぶしぶ返しに行ったということを幾度となく繰り返した。

 また秋になると、田圃は昆虫の宝庫になる。その主役はバッタで、稲が緑の頃は体が緑色で、稲が実る頃には茶色になったバッタが出てきて、それを手や網でよく捕まえた。ものすごい数で、捕まえても捕まえても数が減らなかった。地元の人は、こんなものを煮たりして食べると聞いて、とても信じられなかった。

 第二の遊び場は、近くの神社の境内である。父は「あそこは『カンペー』大社だから」と、よく言っていたものの、その頃は何かさっぱりわからなかった。大きくなってようやく、それは官幣大社つまり延喜式の社格を参照して明治政府が定めた神社の格だと知ったのであるが、小さかった私にはそんなことはどうでもよく、ともかくここの境内には遊ぶのに格好の池や隠れ家があった。その池には、父がアカハラとよぶイモリがいた。確かに背中としっぽは黒いものの、ひっくり返ると腹が真っ赤である。私にはこの赤が気持ち悪くて、網にこれが入っただけで嫌な気がしたものである。それを苦手としたのを除けば、この池にはオニヤンマやミズスマシ、ゲンゴロウにフナもいて、私のお気に入りの場所だった。

 秋も深まると、神社の横を流れている小川の岸辺には、蛍がいた。暗闇の中を何匹も、黄色いシュプールを交互に描くごとく見事に光り、消えていった。子供ながらに、その神秘さに打たれたものである。思わず川にもっと近づいて見ようとして、母親から「ほら、気をつけて」と声をかけられたほどだった。

 神社の境内は、高い杉の木立に囲まれていた。その奥には、枯れ草がたくさんあり、それを使って近所の悪道たちと勝手に、隠れ家と称するものを作って遊んでいた。この田舎は、最初は地元の方言がさっぱりわからなくて言葉に苦労した。しかしそれでもしばらくすれば、一緒に遊んでくれる近所の友達もできた。私の子供たちがよく読んだドラエモンの漫画に出てくる「ジャイアン」と「スネオ」そっくりのいじめっ子グループも確かにいた。しかし一方で、都会からの転校生も仲間に入れてくれる、心優しくおだやかな子供たちもまた、何人かいたのである。

 特に親しくしてくれたのは、地元の国鉄職員の息子だったOくんと、それから私と同じく転校生だったSくんである。Oくんはよく笑う穏やかな人柄で、ややトボケた感が持ち味、Sくんは小さいのに機械体操、とりわけ鉄棒の名手で、運動神経の鈍い私は、大いに尊敬したものである。ところが私は小学校の5年生のとき、また引っ越す羽目になって、この二人とも別れざるを得なかった。

 そして、10数年の月日が流れた。その間、私は父の転勤などでさらに数回にわたって転居を繰り返し、また自分も大学進学で親元を離れたりした。このお二人とも、いつしか縁が遠くなり、記憶の片隅に残る程度となった。しかし、人生は不思議なものである。私が最初の勤務先に就職し、研修所で研修を受けていた。すると、向こうから私の名を呼ぶ人がいる。それが何と、Oくんだったのである。Oくんは、研修者の名簿に私の名前を見つけて、すぐにわかったという。そればかりか、しばらくして、同じ部屋で一緒に仕事をするようになったのには、二人とも驚いたものである。とりわけ私がうれしかったのは、Oくんの人柄が、小学生のときと全く変わらなかったことである。いつもニコニコし、穏やかで、そしてちょっぴりトボケていて・・・。こういう経験ができるのは、生きていて、よかったということではないだろうか。





(平成17年3月14日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生・邯鄲の夢





悠々人生のエッセイ

(c) Yama san 2005, All rights reserved