悠々人生のエッセイ








 私は、いまでこそ法律などを扱う仕事をしているが、これでも小さい頃は、自分は科学者になると信じてうたがわなかった。私は、小学校3年生の頃に、都会から日本海側の小さな町に移り住んだことは、すでに述べた(注1)。方言や何やらで最初はどうにも回りになじめず、家にいることの比較的多かった私は、そこで読書の楽しみを覚えた。といっても、子ども向けのやさしい読み物や、それから図鑑である。今では、テレビという便利なものがあるので、世界のありとあらゆる映像や音声が、それこそ座ったままで目や耳に飛び込んでくる。これにインターネットが加わってしまい、情報過多で、頭がくらむほどの症状を招くほどである。ところが当時は、白黒テレビが一般にもまだ普及していない時期だったので、放送といえばラジオしかなかった。そういう中で、子どもであった私の想像をかき立てたものは、まずは、ありとあらゆる絵の描いてある図鑑であった。

 それは、テーマ別になっていて、植物図鑑、動物図鑑、交通図鑑、天体図鑑などといろいろあった。これらは、父が県庁所在地のある市に月に一度ほど出張で出かけるので、その折りに買ってきてくれたものである。私には、それが何よりも楽しみで、毎月増えていく図鑑のコレクションを、日がな飽きるほど眺めたものである。私の大のお気に入りは、天文と地質であった。恒星の一生の図、きらびやかに描かれた星座の数々、いろいろな化石、生物の体の中、本当に興味は尽きなかった。そのうちに見たり読んだりするだけでなく、何か自分でも作ってみようという気になった。そうこうしているうちに、本屋で少年向けの科学雑誌があることを知った。「子供の科学」というものである。この雑誌は、小学校時代の私に対して、数多くの夢を与えてくれただけでなく、科学への好奇心を十分に満たしてくれた。

 小学校の4年になり、私は、母が「がらくた箱」と名付けたものを持つようになった。それはまさに私の宝物で、その中には、材料と道具が何でも詰まっていた。木の切れ端、もめんの糸、釘、針金、紙箱の角の部分だけ、それにペンチ、鋸、ハンマー、ドライバーなどの工具である。「子供の科学」を見て何かヒントをつかみ、そのまま息せき切って町の中心部の模型屋に走った。そこで部品や材料を買い、この箱の中のものを使って何か作るのである。感心なことに、この当時の模型屋は、こうした科学少年の良き相談相手であり、部品屋でもあった。出来合いのプラモデルなどを売り始める前の時代のことである。

 まず私は、空にあこがれた。「子供の科学」にも毎号といってよいほど飛行機の写真と設計図が載っていた。そこで、ゴム動力の飛行機を何機も作った。これはよく飛んで、またよく壊れた。コツは、翼の構造材にする竹ひごにある。これをろうそくの火で暖めながら徐々に決まった形に曲げていくわけである。これがうまくいかないと、飛び終わって着陸するときのわずかな衝撃でも、翼は見るも無惨に分解してしまうのである。またそれ以前に、そもそもまっすぐ飛ばなかった。この工作は、小さな少年には、なかなかむずかしいものではあったが、不器用な私でも何回か経験するうちに自然と習熟していった。

 やがていろいろなバリエーションにも挑戦した。雑誌の設計図の中には、たとえば空高く舞い上がる機体というものがあった。図によれば、やや、いかつい作りのものであった。そのとおりに作ったところ、機体がどんどんと舞い上がっていって、豆粒ほどになりそのままどこかへ消えてしまったこともある。もったいなくて残念のような、それでいてどこか誇らしい複雑な気がした。

 また、「子供の科学」の絵で、「ホーバークラフト」なる乗り物があることを知った。これは、プロペラを付けたエンジンで風を真下に吹き付けて、その空気圧で浮かんで航行するものである。それによると、回りにスカートのようなものを付けるのがコツらしい。そこで私は、模型屋に飛んでいき、マブチ(注2)のモーターを購入した。それにゴム飛行機のプロペラを付けたものをお菓子の空き箱の上に据え、ちゃんとスカートも付けた。母を唯一の見物人として、それをちゃぶ台の上で試運転してみた。スイッチ・オン、ガガガガーという音を立てて、ゆっくりと動き始めて、ちゃぶ台から落ちそうになった。「おお、動いた、動いた」と手をたたいて喜んだものである。しかしよくみると、空中には浮かんでおらず、ただモーターとプロペラの振動で動いているにすぎなかった。

 またある日、模型屋で、潜水艦の材料を見つけた。それは、ひれ、スクリュー、鉛のおもりである。私は、適当な木の切れ端を持ってきて、それを流線型に削り、先端の両脇にひれをまず取り付けた。このひれの角度で、潜水の深さが変わるというものである。次に、鑑底に鉛のおもりを一列に付けた。これのバランスが悪いと、潜水艦は傾くのである。前後を紐で吊って様子をみた。最後に、スクリューを取り付け、それにゴム飛行機のゴムを張った。全体をねずみ色に塗って、出来上がりとなった。町の中にある噴水のところまで行き、ゴムを思い切り巻いて、それを水に浮かべた。私のちっぽけな潜水艦は、手を離した瞬間やや左に傾いたかと思うと、水中をすべるように潜っていき、しばらくして、対岸の前で浮かんできた。やった! 大成功である。得意満面となった。この噴水では、それから何度も潜水艦や船を浮かべに行き、よく遊ばせてもらった。

 「子供の科学」を読んでいたら、鉱石ラジオなるものがあることを知った。ゲルマニウム鉱石で作るらしい。設計図も載っていた。それを隅から隅まで眺めて、必要な部品を頭に入れた。どうして音が出るのかはわからないが、ともかくこの設計図通りにやれば、ラジオが聴けるらしい。さっそく模型屋に走った。すると彼らも商売で、必要なものがちゃんとそろっているではないか。鉱石、バリコン、イヤホーン、コンデンサなどを買い込んだ。設計図を見つつ、それをひとつひとつ丁寧に組み立て、やっと出来上がった。この満足感は、いまでも鮮明に記憶に残っている。

 ところで、この設計図の中で、どうしてもわからないところが一ヶ所だけあった。それは、「アンテナは電灯線を使います」という説明とともに、図には、一本足のプラグで電灯線につなげてあった。私は、「おかしい。電灯線は、プラスとマイナスで、二つのはずなのに、どうして一本なのだろう。」と、いくら考えても理由がよくわからないのである。とうとう、これは何かの間違いに過ぎないと結論を下し、市販の二本足のプラグに、ラジオから出てくる銅線をつなげた。ああ、出来た、出来たと小躍りして、それを差込口に入れてみた。すると、とたんに「ボッ!」と不吉な音がして、プラグの先端から青い火が出て、家のヒューズが飛んでしまった。全く意識してはいなかったが、そのとき私は、あやうく感電死するというあぶないところだったのである。

 隣の部屋では、何も知らない母が、ヒューズがまた飛んだと騒いでいた。私は意気消沈して、焼けこげたプラグをそっと道具箱の中にしまった。いつまでも、胸がどきどきしていたことを覚えている。一年ほどして、町の電器屋で鉱石ラジオを見かけたが、それには一本足のプラグがついていたのである。お店の人に聞いてようやく理由がわかった。つまり、電灯線は使うが、二本のうちの一本だけを「アンテナとして」使えということだったのである。それを知らないものだから、二本まとめてつないでしまったので、ただちにショートしてしまったわけである。生兵法は怪我の本である。私は反省して、それ以来ラジオやテレビの類には、全く手を出していない。

 小学校の5〜6年生になった。当時はまず少年少女マンガが創刊されたり、その後テレビが子ども向け番組を作ったこともあって、鉄人28号とか、鉄腕アトムなどといったロボットが広く子どもたちに影響を与えるようになった。わが愛読紙にもロボットの設計図が載った。それによると、頭、腕、胴体などの上体だけロボットらしく作っていて、足の部分は四本のタイヤをただ箱で覆っているという原始的なものがひとつのタイプである。しかしこれでは、ただ彫像の下に四輪車を付けたにすぎない。私は不満であった。それに比べてもうひとつのタイプは、少しはロボットらしくて、いちおう、両手と両足が動くようになっている。胴体にモーターを仕込み、それに何枚かの歯車を経由させ、カムの構造で足と手を交互に動かすものである。こちらの方を作ることとした。

 模型屋に行ったものの、モーターや歯車はあるが、カムの構造の出来合いのものが売られていない。その構造は、たとえば車のうしろの二つのタイヤを、それに繋がったシャフトとともに思い浮かべていただければわかる。両タイヤの端に、それぞれ対極の位置で長い棒を一本ずつ取り付けると、シャフトが回ればその二本の棒が交互に上下する。その際に、棒の途中に長四角の穴を開けてそれを胴体の両端に固定する。そうすれば、棒の先端が少しだけ持ち上がってから降りるという動きを両足で交互に行う。これを前進力に使うという理屈である。

 設計図ではそれに手を繋げてあったが、そんなものをつけると複雑になってしまうので、足だけにチャレンジすることとした。手をぶらさげておけば、下半身だけでも動くと両手もブラブラするだろうと思ったからである。ちょうど手元に木製のお菓子の箱があったので、それでロボットの胴体を作りはじめた。薄い木の板であったが、この頃には私も工作に習熟していて、板にまず錐で穴を開けてから、釘を打ち込んだ。ところが鋸で切った箇所がうまくいかず、ぎざぎざになってしまっていた。それを固定しようとしても、なにせ薄い板だからうまくいかない。あれこれ工夫し、最後はセメダインで何回も固めて乗り切った。

 カムの構造は、戦車の車台を転用した。困ったのは、車台の先の車から下半身に動力を伝える二本の長い棒である。途中に、長四角の穴を開けなければならない。プラスチックの棒だと、そんなものは開けられない。三日くらい、あれではダメか、これでも無理だなどと悩んだだろうか。ある日、アイスクリームのキャンディを買いに行き、ふとひらめいたのである。そうだ、この棒を使おう。ところが、これはすぐ割れてまう代物だった。いろいろと試した結果、まず真ん中の穴については、ろうそくの火でちょっと焼いて固くし、さらにセメダインを塗りつけた。車との接合部分は、鳩目をはめ込んで補強した。

 さて、これを立てて、動力部の試運転である。スイッチ・オン。ウィーンという音とともに、チュコチョコと動き出した。歩くというより、カタカタと振動で揺れながら、まるで競歩している人のようである。不満ながらも、まあ成功かと自分で納得して、さらに二日ほどかけて頭と手を作り、完成させた。ところが、キャンディの棒では、荷が重かったらしい。2〜3回それで遊んだら、片方の棒が縦に割れてしまい。同じところをぐるぐる回るようになった。これも、しいていえば60点くらいの出来だったろうか。

 そのうち、私は中学生になった。その頃、模型の世界には、大きな歴史的転機が訪れたのである。第一は、ラジコンの時代が幕を開けたことである。マンガに描かれた鉄人28号という図体の大きなロボットは、ラジコンで動いている。子供の科学や少年向けの雑誌には、毎号のように、ラジコンの車、ボート、モーター飛行機などの宣伝が載るようになった。私は、いつも食い入るように眺めたが、その当時の田舎の中学生にとっては、所詮は高嶺の花であった。第二は、プラスチックの模型、今でいうプラモデルが世に出たことである。田宮模型(注3)などがメーカーである。これを使うと、ゼロ戦やメッサーシュミット、伊号潜水艦などがいとも簡単に、しかも美しく作ることが出来る。私は、最初こそ喜んで作っていたが、すぐに飽きてしまった。ちっとも面白くないからである。

 振り返って思うと、私の作った模型のうちで、まともに動いたものは、ゴム動力の飛行機と潜水艦くらいである。その他のものは、ここに書いたとおり、そのほとんどは失敗作であった。私はもちろん、まともに動く模型ができたときは実にうれしかった。しかし、たとえ結果は出来損ないになっても、そういうものを作っている途中もまた、それなりに楽しかったのである。あるものを作ろうとするときに、限られた材料からその特性を見抜き、それを部品として使っていつの間にかちゃんとしたものを作るという、その過程が快感そのものだった。ところが、ラジコンは高くて手が出ない。プラモデルはただ組み立てるだけである。そういうわけで、たまたま高校受験もあったことから、私はあれほど夢中になっていた模型の世界から、いつしか心が離れていったのである。考えてみると、少年の日々に、あれだけ無心に楽しめた世界はなかった。あの失敗作のほんのひとつでも、いま手元にあれば、その一端でも思い出せるのにと、残念に思っている。

 それからの私は、理科系の世界からはますます遠ざかって、いまや文科系の最たる分野である法律なぞを糧としているわけである。それはそれで人生経験が豊富になるに連れて、実に面白いものではある。しかし他方で「科学する心」が、私の日常にふと頭をもたげることがある。たとえば、文学書を読むより最新の科学の啓蒙書を漁るのが好きだし、新聞の記事でも、ついそういう方面に目が行ってしまう。ただ、少年時代に経験した模型作りは、私にとって、そういった現在の趣味の淵源以上のものであったように思う。それは、現在の私の好奇心と知識欲の原型となり、さらには、自分でいうのも何であるが、乏しき中で無から有をひねり出せるという妙な能力の土台になっているように思えてきてならないのである。

 つまり、私は模型作りによって、何でも新しいものに挑戦しようという意欲を持ったし、ものを作り上げたときの喜びと満足感を味わった。その過程では、科学技術に対する畏敬の念を一生持ち続けることになった。それだけではなく、何もないはずのところから工夫をして、何らかのものを作り上げるのが得意である。模型の世界ではないが、いまでも日曜大工が好きで、限られた材料から工夫をして製品を仕上げたりする。また法律の仕事でも同じことで、たとえば全く初めて経験するような種類の事件であっても、限られた既存の知識と経験からやりくりをして、何とかそれをやり遂げることができる。私はそのたびに、「ああ、また、模型作りのおかげで助かった」などと思うのである。その意味で、雑誌の「子供の科学」は、私の人生の師であったといってもよいであろう。

 私の息子が、晴れて中学生になったときのことである。この子は、それまで1年ばかりの間、中学受験で時間を取られていた。そこで、そういう暇はなかろうと遠慮していたのだが、めでたく合格をし、私はやっとこれで「子供の科学」を読むことを勧められると思った。私はいそいそと本屋に行ってこの雑誌を買い、「これ、読んでごらん」といって手渡した。それは最初、子どもの部屋の勉強机の右端に置かれた。私は、いつこの子がその話をするのかと、楽しみにしていた。ところが、そういう話題をとりあげる様子は微塵もない。そっと部屋を見に行くと、この雑誌はまるで読まれた風もなく、最初の場所に置かれていた。一ヶ月たってもそのままで、そのうちいつともなく、机から忽然と姿を消してしまった。どうも、私とこの子とは、興味の対象がまるきり違うらしい。しかし世の中は面白いもので、この子も大学に入るときには、法学部を選んだ。私と同業者になるらしい。






(注1) 「ラジオの言葉」を参照のこと。

(注2) 上場企業でも簡単につぶれてしまうこの厳しい世の中で、うれしいことにマブチも田宮模型も、どちらも現在立派に生き残っている。その生き方は対照的であり、マブチは今や小型モーターでは世界的な企業となっているし、田宮模型は模型専業として非常に高い評価を受けている。先頃、田宮社長がその会社と生き方を綴った本を出された。実物を分解までして構造を押さえてから模型を作るというその徹底した姿勢は誠にすばらしい。日本の製造業にこういう姿勢こそ学んでほしく、たかが模型というと失礼ではあるが、その専業だけの世界に、この企業をとどめておくのは何かもったいないという気がするほどである。

 そういうわけで、私も田宮模型の一ファンであるが、下のアドレスで、三菱パジェロ V6 3500の製品の説明を読み、いささか複雑な思いがした。それには、こう書いてあった。「接着剤を使わずにはめ込みだけで組み立てられ、金具をセットするだけでモーターライズ機構も完成。手軽に組み立てていただけます。また、ボディをオリジナル塗装で仕上げるのも楽しみです。」 そうか、最近のファンの腕の見せ所は、塗装なのか。

  http://www.tamiya.com/japan/j-home.htm

(注3) 冒頭の写真は、上記ホームページの中の、パジェロのシャーシと伊号型潜水艦から合成






(平成12年11月11日著)
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