Thank you for coming. These are tiny memos of my daily life.



徒然なるままに、心に浮かぶ よしなし事を・・・・

目  次






031.近頃の傷の手当て

 ニキビのちょっと大きなようなものができたので、皮膚科に行ってそれを取ってもらった。皮膚を2〜3センチほどカットしたので、数針縫ってもらったのだが、そのあとの手当の方法を知ってびっくりした。私の常識では、その傷のところに化膿止めの軟膏を塗り、滅菌ガーゼを当ててしっかりと固定して、一週間くらいはお風呂を控えるなどという注意を受けるはずであった。ところが実際は、二日分くらいの化膿止めの飲み薬をもらい、傷口にガーゼを当てられ、「きょうはやめておいた方がいいけれど、明日からはお風呂に入ってもいいですからね」と言われた。私が「そんな・・・」という顔をすると、医者は「いや、最近は、そうなんですよ」という。

 そういえば、待合室に有った本を暇つぶしに読んでいると、「傷の手当て」と題して面白い記事が載っていた。それによると、「負傷したとき、異物があればまずそれを取り除き、異物がなければそのまま、傷口を水道水で洗い流すようにし、それから傷口の乾燥を避けるために透明な被覆剤(家庭にあるものでは、ラップ・フィルムで代用できる)をかぶせて、落ちないようにサージカル・テープで止める」というのが正しい手当だというのである。ちなみに、従来は消毒薬を使っていたが、それでは自分の傷口を修復しようとしている細胞まで殺してしまうので、よろしくないというのである。そして、水道水の消毒力は、消毒薬とさほど違わないとまで書いてある。また、傷口から滲出してくる液体こそが修復するために大事なものなので、それをむやみに吸収するガーゼのような材料よりも、ラップ・フィルムのような被覆材を使うべきだとする。

 これでは、ほとんど自力で直せというのと変わらないではないかと思うのであるが、どうやら、そういうことらしい。この治療方法の方が、治りが早くてしかも治り方がきれいだという。それを読んで、ふと顔を上げると、治療室から出てくる人たちの、顔やら手の擦り傷に、透明なフィルムが貼られている。確かに、この治療方法が現に行われていた。それにしても、昨日の常識は、今日の非常識になるとは、いつものこととはいえ、何とも分かりにくい世の中である。


(2005年10月18日記)





030.最新カーナビと郵政民営化

 2005年9月11日は、あのニューヨークの貿易センタービルなどへの大規模テロから、ちょど5年が経過する日である。ところが2005年9月11日は、日本では小泉首相が、郵政民営化を唯一の争点として打って出た、総選挙の投票日でもある。今日はその3日前であるが、先週末の新聞の報道によれば、自民党の圧勝という予想とされている。もちろん、この種の予想は外れるのが常であるから、何ともいえない。しかし、それにしても、今日はなぜ郵政民営化が必要なのか、身をもって体験した。

 事の起こりは、お昼に、私の乗ったオフィス・カーが事故に遭ったことである。小雨のそぼ降る中、私の乗った車が上り坂を右折しようとしたところ、坂の上から降りてきたタクシーが、停まらずにそのまま私の車の右後部ドアに、ドーンと音を立ててぶつかってきたのである。それだけでなく、そのタクシーは、ぶつかった直後にあわててその坂をバックしようとして、いったんはバックできたものの、どういうわけかブレーキが利かずに、すぐ落ちてきてまたぶつかってきたのである。いわば、同じところに二度ビンタをくらったようなものだ。おかげで、右後部ドアがへこんでしまった。

 タクシーの運転手が降りてきて「お体は、大丈夫ですか」などと、平謝りに謝った。こちらは、私はたまたま後部左の座席にいたし、運転手の席にも当ったわけではないので「ああ、二人とも大丈夫ですよ」と答えて、ぶつかった箇所をチェックし「それにしても、派手にやりましたなぁ」というと、タクシーさんは、頭をかいていた。そうこうしているうちに、近くの派出所から警官が来てくれて「ここは、よく事故があるんですよ」などといいながら、手早く書類を作ってくれた。私はしばらくその場にいたが、あとは運転手に任せて近くで用事を済ませた。

 私の車の運転手は、それから車を修理に出し、レンタ・カーをあてがってもらったらしい。夕方に帰る段になって、私はそのレンタ・カーをはじめて見た。私がいつも乗っている車と比べて、やや大きい。そして、運転席の横には、カーナビがある。いまや6〜7割の車がつけているカーナビであるが、実は悲しいことに、私の車には装着されていない。したがって、私は最新式のカーナビなるものを、初めて見たのである。

 それは、運転手とて同じで「これ、面白いですよ。」などと言いながら、信号で停まるたびにいじっている。私もそのカーナビを眺めて、よく出来ているとつくづく思った。何しろ出始めのカーナビは、車が川や海の中を走っているのは、ざらにあることだったから、そのわずか数年の技術の進歩には、すさまじいものがある。それに対してこのカーナビは、正確さはもちろん、表示もわかりやすい。手前の方と奥の方とでは、縮尺を変えているようで、まるで鳥瞰図のように見える。しかも、画面上で赤くなっている道路は、渋滞中であるらしい。確かに、至れり尽くせりとは、このことである。感心しつつも、運転手と一緒に楽しんでいるわけにはいかない。「おっと、前をよく見てね。」などと、私は気が気でない。

 また、運転手は、画面の下のボタンを押し始めた。『銀行』、『コンビニ』を押すと、いま走っている近くの銀行とコンビニが、ロゴ入りで出てくる。いやすごい。それどころか、車のギヤをバックに入れると、何とまあ、車の後ろの映像がカーナビ画面に出てくるのには、びっくりした。いったい、何だこれはという感じである。地図というより、情報端末と言うべきか。

 さて、カーナビに、『銀行』や『コンビニ』のボタンと並んで、『郵便局』というのがある。神田神保町を通り過ぎようかというとき、それを押してみた。すると、驚いたの何のって・・・。画面いっぱいに重なるように、郵便局のロゴがたくさん出てきた。大げさかもしれないが、わずか数ブロックの範囲内の、ありとあらゆるところに郵便局がある。ざっと数えて、20局はあったであろうか。それを見て、私と運転手は同時に叫んだ。「やっぱり、郵政民営化は必要なんだ!」

(2005年9月12日記)






029.タイム・トリッパー

 私のホームページ「悠々人生」には、その冒頭に据えるオープニングページとして、動くページを作っている。動かない絵や文章を置いてあるオープニングページでは、あまり人目を惹きつけないからである。画像を少しでも動かすと、そのページの魅力はいやが上にも増す。パブリック・ドメインのソフトと画像とをいかに組み合わせるかが、私の腕の見せどころである。もう37個も作ってきたが、なかなか面白くて、やめられない。先週も、これを新たに作るための素料探しでウェブ・サイトを検索していたところ、とても素晴らしいサイトを見つけた。それは、Koji Yamamoto さんの Time Tripper というサイトであるが、そのお作りになる Java Applet の完成度が非常に高いのである。作品の見た目の美しさとスムーズな動きに思わず驚いてしまう。

 たとえば、Time Tripper 中に、jhanabi10.lzh という花火の Java Applet が出てくるが、花火の色や形が美しいだけでなく、打ち上げる途中や、花火が咲いた直後の煙までもが、とてもリアルなのである。そこで早速、私のオープニングページに組み込んでみた。これを使わせていただいたものと、使わないで在来技術で作ったものとを比較すると、Time Tripper 製 Java Applet の優秀さは明らかである。

 しかし、それだけではない。Time Tripper の jheri.lzh というのは、Javaで作成したアプレット版のフルポリゴンの垂直離陸方の3Dフライトシミュレータであるが、これはすごいとしか、言いようがない。三次元で、いろいろな飛行機のフライトをシミュレーションできるソフトであるが、使える飛行機や景色を自作できるうえに、ラジコン感覚でその操縦も自由自在にできる。一昔前ならば、大コンピューターを必要としたようなものなのに、そころにあるパソコンと、ほんの小さな容量のソフトで実現できてしまうなんて、考えつきもしなかった。

 この作者の技量が優れているのか、あるいはパソコンの能力やJava技術が向上したのか、おそらくはその両方のおかげであろうが、いずれにせよ技術というのは、どんどん進歩している。このソフトはもちろん、Koji Yamamoto さんという篤志家が善意で作ってくれたわけだが、この調子で技術が進歩すると、そのうち、チョイチョイと構想を伝えて「作れ」と指示をすれば、指示通りに制作してくれるソフトができるかもしれない。その時がくるまで、私は、自分で Java Applet を作るなどという大風呂敷を広げるのはよして、もっぱらこの方のような篤志家を頼ることとしよう。

 ところでこの3Dフライトシミュレータは、試してみると、なかなか難しい。エンジン回転後、大空の舞い上がったかと思うと、すぐに不安定になって急角度で墜落する。これでは、本物のラジコン操縦など、夢のまた夢かもしれないと思いつつ、しばらくやっていると、少しはマシになった。大空を鳥のように優雅に舞うとまではいかないが、お正月の奴凧のように、右へ左へと揺れつつ、何とか落ちないで、空に浮いていることができるようになった。そのコツは、要するに、あまり大胆に動かしてはいけないということ。そろーり、そろーり、やさしくね、というのが、肝要のようだ。何でも、そうなのかもしれない。



(2005年7月18日記)





028.春 爛 漫

 せっかくの桜が今まさに満開だというのに、しとしとと雨が降り出した。都心が靄の中に浸っているようである。もっとも、春の雨なので、あくまでもやさしく、柔らかく包み込むような降り方である。その中で、つい気にしてしまうのが、満開時期をやや過ぎた桜の花である。ソメイヨシノは、昨日の強風とこの雨で、散ってしまうだろう。晴れた日に、桜吹雪の中を歩いてみたかったなと、いささか心残りである。

 そんなことを考えながら、通勤途中の皇居お濠端で、おなじみのしだれ桜を眺めると、雨でぼんやりとけむっている中で、ピンク色をした木全体がぼんぼりのように浮かんでいるのが見えた。

 
春がすみ、夢か桜か 幻か

という感じなのである。ソメイヨシノと比べて、しだれ桜の木は開花期間がいささか長いようだ。しかし、両脇の柳の木が次第に新緑に包まれ始めたので、そろそろ主役の座を譲る頃かもしれない。

(2005年4月11日記)





027.花粉症の不思議

 3月のある日、電車に乗ってみたら、私の向かいの席には9人が座っていた、そのうち3人は、顔全部を覆うような白いマスクをしている。今や日本人の34%が花粉症だというが、たまたま座った電車の席でも、その数字が正しいことを裏付けている。

 私は、いまのところ大丈夫であるが、職場では、この季節になると、くしゃみを連発したり、目をしょぼしょぼさせて憂鬱な人が目立つようになる。本当に不快そうで、見ていてる私の方も、気持ちが暗くなる。市内のショップでは、花粉症グッズが売れに売れているというし、病院も花粉症の患者で一杯らしい。

 昨年が異常に暖かであったせいで、今年の花粉の飛散量は、尋常の量ではないようである。一説によれば例年の千倍というから恐れ入る。テレビを見ていると、東京の近郊の杉林は一面黄色になっていて、これすべてが花粉らしい。いやいや、ひどいものである。

 医療情報によれば、花粉症対策の治療法が、一応は確立されつつあるという。もっとも、耐性ができるまでに2〜3年もかかったり、あるいはさほど効果がなかったりということらしい。他方、杉自体も、花粉が飛散しないようなタイプのものが開発されつつあるというが、それを全国に行き渡らせるには100年以上もかかりそうだというので、冗談ではないと思う。国民の3割が苦しんでいるというのに、そんな悠長なことを言っている場合かと思う。

 そもそも、杉なぞは、戦後にこんなものを人工的に大量に植林してしまうから、こういうことになってしまったのである。照葉樹林に恵まれた日本の山々は、放っておいたらクヌギやナラのような木に自然となるわけだから、少なくとも、都市近郊の杉林は、直ちに切ってしまうべきであると思うが、いかがであろうか。昭和40年代の日本人なら、杉公害だ、けしからぬと、大々的に伐採運動でも全国的に繰り広げられたものと思うが、しかし最近の日本人のおとなしいこと・・・。そんなことは考えもつかないと見える。もっとも、別に命にかかわることではないからかもしれないし、花粉の季節が過ぎると忘れてしまうからかも・・・。そういえば、忘れることにかけては、日本人より勝っている民族はいないらしい。

(2005年 3月23日記)





026.ゴールデン・ホース

 クアラルンプールの郊外に、マイン・リゾートというちょっとしたリゾート地がある。その名のとおり、かつての錫鉱山の掘削後にできた人工の湖を利用している。その細長い湖の一方の端に、ゴールデン・ホースというホテルが建っている。数年前に、アジア太平洋首脳会議(APEC)が開かれて、日米中や東南アジア各国の首脳が会議を開いたところである。建物の外見は、イスラム風の丸い塔がのっている回教寺院(モスク)式建築となっている。



 ところがおもしろいのは、その名にもあるように、ここは、ウマ・馬・ウマと、馬づくしなのである。まず、ホテルのエントランス前で客を出迎えるのはブロンズの4頭立ての馬車で、それぞれの馬の表情が実に躍動的である。なかなか良い雰囲気だ。次に建物に入った私の目の前では、これまたブロンズ製の馬2頭が、歯をむき出してこちらを見ている。あまりにリアルで、目のやり場に困って天井を見上げると、天使ならぬ馬天使がいっぱい空に浮かんでいる。

 やれやれと思って、部屋に向かおうとすると、廊下の横の壁のタペストリーが、また馬さんである。その次の水墨画にも、何頭かの馬が佇んでいる。エレベーターを降りて部屋に入ると、電話の横のペン立てが、馬さんである。もちろん、メモ用紙にはすべて、たてがみ豊かなウマの顔が印刷されている。これは、オーナーがよほどウマ好きに違いないと思ったら、そのホテルの近くには、競馬場があるという。なるほど、納得した。さて、夕食でもと部屋から出てロビー階に降りて行ったら、ホテルの中に日本料理店があった。その名もずばり、「金馬」。ただし、メニューには、さすがに馬刺しはなかった。オーナーは、馬の愛好家らしい。

 ところで、ビデオにあるように、このホテルは、マイン・リゾートのひとつで、湖の他方の端には、ショッピング・センターとともにマイン・リゾート・ホテルがある。その二つのホテルの間をボートが往復している。これに乗ると、風が心地良いし、周りの景色もゴルフ場が見えたりして、何かしらイギリスの田舎で水路を行き来しているような、そんな雰囲気なのである。いいところだ。

(2005年 3月 1日記)



025.二胡の演奏会

 小石川後楽園では、2月になると、梅まつりということで、いろいろな催しものがある。ちょうど2年ほど前、寒い中をたまたま訪れたときには、琴と尺八の演奏会を開いていた。園内の奥まったところにある小さな東屋で、和服を着た若い二人の男女が、和風庭園に調和した良い音色を鳴らしていたものである。それが今回、二胡の演奏会を開くというので、これまた寒風吹きすさぶ中を家内と二人で出かけて行った。



 黒い詰め襟服と茶色のシャツを着た短髪の、お若い男性が二人出てきて、演奏会は始まった。詰め襟の人が二胡、シャツの人がギターである。トークショーのような二人の掛け合いによると、二胡は中国のバイオリンと言われていて、その名のとおり、西洋のバイオリンが4弦であるのに対して、2弦しかない。弓は、その弦を挟んでいるので、手を離しても落ちない。横の太鼓の皮のような部分は、ニシキヘビの皮でできていて、ワシントン条約で輸出入が規制されているから、持ち込むのに手続きが大変だという。きょうは、そういう二胡とギターの取り合わせで演奏したいとのこと。

 さて演奏が始まった。最初は「良宵」という曲であったが、伸びやかで音量と音色が豊かである。確かにこれは、バイオリンと同じくらいの表現力に富む楽器であることが良くわかった。日本人にとっては、シルク・ロードのバック・グラウンド・ミュージックの世界といった方がわかりやすいかもしれない。一言で評してしまえば、とても大陸的なのである。途中で奏者は、「古い曲しか弾けないように思われても困るから」といって、最近の曲も弾いていた。

 しばし同じような曲目が続いたあと、最後の曲には驚かされた。中国人ならみな知っている曲で、その題名を「賽馬(競馬)」というらしい。モンゴル的なリズムで始まったかと思うと、途中で「ヒヒーン・ブルブフルブル」と、馬のいななきそっくりの音を出した。これはまさに圧巻で、聴衆が「おおっ!」と、一瞬ざわめいたほどだった。まさにモンゴル平原を疾走する馬を想起させられた。きょうは、これを聞けただけでも、わざわざ聴きに来た甲斐があったというものである。

(2005年2月26日記)



024.落し物対策

 私は、あまり落し物をしない方である。もともと性格的に注意深いせいもあるかもしれないが、これにはコツがあるというか、それなりに色々と工夫をしているのである。

 たとえば数年前に初めて携帯電話を持たされたとき、これは間違いなく、そのうち落とすと思った。まだ出始めの頃であるから今のように折りたたみ式のものではなくて、ずんぐりした棒のような形をしていた。ズボンのポケットに入れたままでソファーに座ったら、スルリとすべり出てくる。いちいち気にしているのも疲れるので、ストラップでそのままズボンのベルトに留めることにした。そして電話本体はポケットに入れておくのである。ズボンから飛び出ても、そのストラップに繋がってブラブラと垂れ下がるので、すぐにわかる。

 これは安全確実だと思って自画自賛していたら、電話がかかってきた。出ようとして携帯をとりあげると、そのストラップが短いので、耳のところまで電話が届かない。「ちょっと待ってください」と大声でいってストラップをベルトから外し、そして耳のところに持っていくという面倒なことをしなければならなかった。これではとてもたまらないので、仕方がなく、ベルトに留める携帯電話専用のホルダーを買った。

 しかし、これも、電話がかかってきたら、いちいちホルダーから出さなければならない。確かにストラップをベルトに留めていた時よりは、電話に出るのが早くなったが、あまり便利になったとはいえなかった。そして、そもそも西部劇のガンマンのように、携帯電話が腰から飛び出てぶら下がっているというのも、これまた面倒なことである。

 そして、ふと思いついたのが、ストラップの代わりにビィーンと伸びるバネのようなものがあれば、携帯電話に出るときに不都合がなくなるということである。いまでこそ、そういうものは簡単に手に入るようになったが、数年前には、携帯電話専門店をはじめとして近くの店のどこを探してもなかった。しかしあるとき、青山の趣味の店に行けば、ひょっとして売っているかもしれないと思いつき、青山一丁目のファンシー・ショップに探しに行った。店内にキティーちゃんもどきのピンクやらマリーン・ブルーなどの商品が雑多にいっぱい並んでいて、目がチカチカするような思いがした。しかしそういうものをかき分けかき分けして、目当てのものをようやく見つけることができた。プラスチック製のバネで、一方が携帯に繋げることができ、他方でベルトに容易に装着できる。これは便利なもので、やっと懸案が片付いた。

 また別の話になるが、去年、実家に帰ろうと思って、ラフな格好で飛行機に乗った。約1時間飛行した後、空港に到着した、さあ出ようとして立ち上がった瞬間、たまたま左手がポケットに触った。すると、ポケットがぺちゃんこなのである。確か、財布があったはずなのにと思ってポケットに手を突っ込んでみたが、何もない。そして右のポケットも探してみたが、ここにもない。どこで落としたかと考えてみたが、飛行機に乗るのはクレジット・カードを使ったチケット・レスなので、チェック・イン時点では財布は間違いなくあったはずである。そうすると、そこから飛行機に至るまでか、もしくはこの機内だが、別にトイレに立ち上がったわけだはないから、この座席の辺りかもしれないと思った。そこで、体を折り曲げて座席の下を覗いてみたところ、暗い中で、私の財布がゴロリと転がっていた。あった、あったと非常にうれしかった。

 しかし、なぜ私のポケットから財布が転げ落ちていったのかと、飛行機から降りながら改めて考えてみた。その日は、いつものスーツ姿ではなかった。はいていたズボンがたまたまカジュアル・タイプのポリエステルの生地だったので、すべりやすかったのだろうとしか思いつかなかった。しかしまた同じ目に遭うのも困るので、いっそのこと、財布をズボンに縛り付けておこうと思った。ちょうど、使わなくなった携帯電話のストラップがあったので、それを財布の一部にくくりつけ、他方をベルト通しの穴にしばりつけた。これで万が一ポケットから飛び出しても、大丈夫というわけである。これで、この一年くらいを過ごしてみたが、勘定を払うときも、別に財布を高く掲げるようなことはしないので、これで十分であることがわかった。

 そういうわけで、私の左ポケットには財布がくくりつけられ、右ポケットには携帯電話がバネで縛りつけられていて、まるで昔の西部劇の二挺拳銃のような次第となっている。それを見た家内が何か言おうとしたこともあったが、機先を制してなぜこうしているかを説明したら、あなたらしいと笑われてしまった。そうかなぁ。

(後日談)

 その後しばらくしてからのことである。夕方になって、オフィスからいつものように家路に着いた。到着して車から降り、つかつかと玄関の扉を開けてオートロックの前に立った。そして、鍵束付きの小銭入れを取り出そうと右のポケットを触ったが、あれれっ・・・ない。上着の中かと思って全部のポケットを探したが、やはり見つからない。一瞬、鍵を落としたかと思ったが、そういえばオフィスから帰る直前に、鍵付きのロッカーを閉めたので、その時点ではあったはずだと思い出した。では、そのときにそのまま机の上にでも置いてきてしまったのだろうと考えた。それから自分の部屋の扉を閉めたので、誰も入って行けないはずだ。

 ということで、鍵の在り処については心配する必要がないとして、ではこのオートロックを解除するのに、家内を呼び出さなければならない。インターホンで自分の部屋番号を入れてと・・・。ピンポーン、ピンポーン・・・。あれあれ、返事がない。お風呂にでも入っているのかなぁ・・・。はてさて、困ったものだ・・・と、難渋していたところに、何と都合のいいことに、その家内が玄関の扉を開けて帰ってきたではないか。こういうところが、私の運のいいところだと素直に喜んで「いや、ちょっと、鍵を忘れてきてしまってね」と照れながらいうと、「あらっ、珍しいわね。でも、ちょうど帰ってきてよかった。」、「いや、全く。で、買い物かい?」、「誰も帰ってこないから、ちょっと散歩してたの」、「ははぁ」と話しながら、エレベーターで昇って行き、部屋にたどり着いた。

 ちょうどその翌日は文化の日で休みだった。鍵がないのは不便だから、オフィスに取りに行こうかとも考えたが、別にこれといった外出の予定もないし、誰か家にいるということなので、そのままにしておいた。

 さて、その翌日の朝のこと、いつものように迎えの車に乗り込もうとしたところ、運転手さんが「お早うございます。お忘れ物がありましたので、肘掛のボックスに入れておきました。」という。あれれっ、ひょっとしたらと思いつつ、右肘の下のそのボックスを開けてみたところ、そこに、探していた鍵束がひっそりと鎮座していた。「ああ、ありがとう」と言いながら、何だ、オフィスではなかったのかと目論見違いに我ながらあきれてしまった。

 そこで、これはいけないと思い出した。やはり、これについても、バネでベルト通しの穴にしばりつけようと考え、近くの「オフィス24」に買いに行った。その頃には、わざわざ青山一丁目のファンシー・ショップまで行かなくても、その種の店内で普通に見かけるようになってきていたのである。ところが、ほんの数ヶ月ほど前にその店内で見かけた携帯電話用のバネが、もう消えてしまっている。店内の女性店員に聞いても、「あるとしたらこの辺りだが、もう置いていないかもしれない」と、誠に頼りない言い方をする。しかし、あきらめずに、そこのぶら下がっていた商品をひとつひとつめくっていくと、あった、あった。一つだけ、バネが見つかったのである。

 そこで、それを鍵束付きの小銭入れに付けて、右ポケットにバネをくくり付けた。西部劇の二挺拳銃どころか、三挺拳銃が出来上がってしまったのである。その格好で家に帰ると、早速、家内が「鍵、あったの?」と聞くので、待ってましたとばかりに「もちろん、これ!」と三挺拳銃を見せたら、大笑いされた。

(2004.10. 7、11. 5 追加)



023. ある水槽メーカー

 今朝の新聞をふと見ると、「観賞魚水槽大手メーカーのニッソー(本社・東京)が民事再生法の適用を東京地裁に申請した」とある。負債の総額は95億円で、その原因は、景気低迷により水槽の需要が減少したこと、バブル期の不動産投資で含み損が生じたこと、大口取引先の倒産で債権が焦げ付いたことであるという。些細なことではあるが、実は私はこのメーカーには、大変お世話になったことがある。その顛末は、私のエッセイ(鯉のお話)で、次のように書いたところである。

 「ある二月の寒い夜、勤めから帰って水槽に目をやると、水が大量に減っていた。ベランダに出てみると、そこは漏れ出た水でびっしょりと濡れている。手が切れそうな冷たい水をかきわけてやっと調べた結果が、水槽のひび割れである。底のガラスに亀裂が走っていた。しかし、水は一気に流れ出るというわけでもない。もう午前零時を過ぎてしまっている。仕方がないので、ホースから水道の水を出しっぱなしにして、様子を見たところ流れ出る水と入ってくる水とがどうやら釣り合っている。とりあえずそのままにして、その夜は寝ることとした。寝床の中で、はてどうしたものかと考え始めたら、なかなか寝付けなかった。結局、水槽のメーカーの営業所を電話帳で調べて、水槽の現物を持ってきて助けてくれないか、頼むこととした。

 翌朝、ニッソーというメーカーの北区にある営業所が、環八道路を通ってくれば比較的近いということがわかり、電話をして窮状を訴えたところ、快く来てくれることになった。おそらく電器機器のメーカーだったら、こういうわけてはいかないだろう。ペットを扱うメーカーだから、顧客の心がわかるのだろうと思って、うれしくなった。しかしその日は、私はどうしても外せない仕事があり、後ろ髪を引かれる思いで出勤し、あとは家内に任せた。これからは、家内からの伝聞である。

 そのメーカーは、四輪トラックに乗って、お昼過ぎに来てくれた。ここで最初に問題になったのは、『ウチの水槽ではない』ということだったらしい。それまで、この会社の水槽を使っていたし、外見もそれとほとんど同じだったから、ついこちらもこのメーカーに声をかけてしまったからである。家内が『まあ、そう言わずにお願いします。今から小売店に頼んでもとっても間に合わないし、水がなくなれば死んでしまうから』といって頼んだところ、仕方がないということになった。

 それから、この来てくれた人は、『この鯉は、いくらしましたか』と聞いたらしい。家内が『たった500円でした』というと、安心した顔で作業に取りかかったとのこと。『確かに、500円と50万円の鯉とでは、取り扱いには差があるわね』と家内は笑っていた。ところが、その人は、それから大奮闘してくれたという。この寒い中、暴れる鯉太マンを濡れ鼠になりながら両手で捕まえ、これを予備のバケツに入れた。それから亀裂の入った水槽の濾過装置や玉砂利など一切合切を外し、新しい水槽を台の上に据え付け、またこれらを入れてくれた。そしてゆっくりと鯉太マンをそこに戻したという。家内が心から『ありがとうございました』とお礼を言うと、『いやぁ、こんなことをしているから、当社は儲からないんですよ』というので、大笑いしたという。近頃では、なかなか珍しい奇特な会社である。バブル後の平成大不況は乗り切ったのだろうか。」

 確かこの会社は、ガラスの水槽の角を、それまでの直角から丸くしたことでも知られている。これによって、水槽を鑑賞しやすくなったし、角がとがったままで危ないという気もしなくなった。こういう企業こそ、再生してもらいたいものである。


(2004. 7.27)



022. マックおじさん

 平日の昼間、都心で地下鉄に乗った。もちろん車内は比較的空いていて、乗客はほぼ全員がベンチ・シートに座ることができ、ほんの2〜3人がドアの近くに立っていた。私も、ベンチ・シートの真ん中あたりに座ることができた。何気なくふと前を見ると、中年の外国人がどっかりと座っていて、ニューズウイーク誌を熱心に読んでいる。その顔にどこかしら、見覚えがあるのである。はて、誰だろうと考えていたところ、思いついた。

 ハンバーグのマクドナルド店の前においてある、あの「マックおじさん」とそっくりなのであった。ただ、仔細に見ると、あの人形よりは、やや禿げ上がっているけれど、立派なひげ、太い眉、白髪など、非常によく似ている。へえ、あの人形さんがニューズウイークを読んでいると思うと、内心、笑いがこみ上げてきた。

 私の座っているシートの左手のドアのところに、スーツ姿の紳士(もちろん、日本人)が立っていた。ところがその人、いきなり携帯電話を取り出して、電話をかけはじめた。「もしもし、○○です。はいっ、わかりました」などと話をしている。静粛な車内だから、目立つなぁ、と思っていたそのとき、そのマックおじさんがすっくと立ち上がった。そして、つかつかっと、そのスーツ姿の日本人のところへ行った。回りの人は、いったい何事かと、目を見開いている。

 マックおじさんは、
Excuse me! Your cell phone!と英語で短く言って、すぐに元いた席に戻った。言われた日本人は、その意味がわかったらしく「はぁ、はい」と言って、とても気まずそうに、その携帯電話を背広のポケットにしまった。菊の金バッチをしていたから、弁理士だったのだろう。

 われわれ座っていた普通の人は、どうなってしまうのかと固唾を呑んで見ていたが、マックおじさんは何事もなかったように、再びニューズウィークを読み続けている。ただし、心なしか、その雑誌を持ち上げて、顔を隠しているようだ。一方、言われた弁理士殿は、いつの間にか、さらに離れたドアの方に移動してしまっていた。

 最近は、若者中心に、ちょっとしたことで切れる人が多いので、私などはこの程度のことで見ず知らずの他人に対して注意はしないことにしている。そんな中でこれを見て、おおっ、あのマックおじさん、なかなかやるじゃないかと思った次第である。


(2004. 6. 6)



021. 職場の紅一点

 私の秘書さん、職場の紅一点でもあり、若い女性特有の華やかさと元気さがあるので、おじさんばかりで沈滞しがちな職場の中を、大いに盛り上げてくれる貴重な存在である。ご両親やおじいちゃん、おばあちゃんに囲まれて、とてもすくすくと育ったらしく、物怖じせずに、率直で素直な言動が好感をよんで、職場のアイドルとなっている。ところが、先日、そのアイドルちゃんに悲劇が起こった。

 お昼休みに、大好物の井村屋のアイス・キャンディを買って、すぐに頬ばったらしい。ところが、そのアイスが冷えすぎていて、口の中に張り付いて、どうにもこうにも動かなくなった。あわててそれを無理にひっぱった。そうしたところ、ベリッと音がしてアイスが口からはがれたまではよかったのだけれど、口から血も出てきてしまったのである。

 皆で、医者に行ったらと勧めたが、本人はいたって気丈に「いや、大丈夫です」とのことで、そのまま勤務をしていた。そしていわく「ああ、びっくりした。アイスって、凶器になりますね」。

そして、職場の姉御にそのことを報告したところ、「あなた何歳?」と聞かれたので、とりあえず、「5歳」と答えたらしい。しかしその日の彼女は、珍しく皿をガッチャンと割ったりして、やはり調子が悪かった。

 とっても平和な時代の、ごくごく平凡な職場のお話しである。


(2004. 4. 20)




020. 薫る梅の香


 今年の冬は、とても暖かかった。1月に入り、東京では氷点下となった日はなく、最低気温は0.2度の日が一日あっただけで、最高気温は15〜16度という日も多かった。都市のヒートアイランド現象か、それとも地球温暖化現象の表れなのであろうか。南極では氷が解けて、氷床がどんどん後退しているらしい。

 それはともかく、暖かい気温のおかげで、春の花は満開となっている。房総の方では菜の花がもう盛りを過ぎたという。東京の真ん中の私の家の近くでも、湯島天神の豊後梅をはじめとして、どこもかしこも梅の花が真っ盛りである。夜でも暖かいので、換気のために窓を開け放つことがある。そうすると、梅の花の、まったりしたふくよかな香りが、鼻の奥をくすぐる。桜の花吹雪もいいが、この甘い梅の香りも捨てがたい。

(2004. 3. 1)



019. 合格して遊び呆け

2004年4月から、いよいよ日本でも法科大学院が開設される。全国で70校近い大学で設置が認可され、本年に入って一斉に行われたその入学試験もそろそろ終わろうとしている。

 ところで、そのうちの一校の合格者に対して、その大学の「法科大学院開設準備室・学習指導委員会」から、次のような手紙が送られてきた。

 ○○大学法科大学院への入学手続を取られた皆さんに、改めて歓迎の意を表します。法科大学院という新たな制度の第一期生となった皆さんは、それぞれに想い描く将来展望に大きく胸膨らませていることと思います。しかし、それと同時に、社会人から戻られる方々や法律学を全くご存じない方々を筆頭として、それぞれにまた一抹の不安を感じられ、授業開始までにせめて学習面でできることをやっておきたいと考えている方も居られるのではないでしょうか。合格して遊び呆けている皆さんにも同様に円滑なスタートを切っていただけるようにと、皆さんの学習を指導・援助する責務を負う委員会として、最低限の幾つかの事項をお伝えしようと思います。

 これを読んで、小首を傾げたくなったのは、上記の赤い部分である。この大学は、日本を代表する一流校ではあるが、やはりこのように、法科大学院の学生を見ているのだろうか。最近の学生はさっぱり勉強しなくて、大学当局はよほど手を焼いているとみえる。しかし、法科大学院の学生の場合は、絶対に大丈夫。そもそも、勉強をしないと、肝心の司法試験には合格しないのだから。



(2004. 2.21)


018. 年 の 功

 私の勤務先で永年勤続表彰をするので承知していただきたいとの回状がまわってきた。なんの気なしに「はて、今年は誰だろう」と思ってその紙を見たところ、何とその冒頭に私自身の氏名が上がっていて、勤続30年の対象者であるとのこと。

 自分ではこれまでいちいち勤続年数を数え上げるようなことがなかっただけに、「もう、そんなになるのか」という驚きの気持ちや、「そういえば同期で入った21人の中で、まだ辞めずに残っているのは9人だから仕方がないか」という諦めの心境とかが心の中で交錯して、なかなか複雑なものである。

 そういえば、この表彰対象には20年もあるが、私はそんなのもらった記憶がない。どうなっているのだろう。ひょっとしたら、忘れられたのかも。そういう意味では、今回はよく思い出してくれたものだ。よって「そんなの、いらない」などと要らぬ抵抗はせずに、せっかくだから有り難く表彰の栄に預かることとしよう。こういう素直な気持ちになれるところが、勤続30年という年齢の最大の功かもしれない。




(2003.11.20)


017.信じがたい銀行

 私の銀行のキャッシュカードには、両脇にスリットがあり、その片方は普通の預金の引き出し用だが、もう一方にはマイカードなるものになっていて、いつも引き出しのときに、紛らわしくて困っていた。急いでいるときなど、誤ってマイカードの方を入れてしまうことがある。そういうときは、ATMの機械が警告してくるので、あわててひっくり返して預金の引き出しの方を入れなおすということが、たまにある。

 ある日、私の銀行預金通帳を見て、そういえばしばらく放っておいたなあと思い、それをATMに持っていって、印字をしてもらった。キーン・キーンという音がして、ガチャガチャと機械が働いた。それが終わって出てきた預金通帳を何の気なしに見ていたところ、あれあれっ「ご返済 1万円」という欄があるではないか。「おかしい、借金などしていないのに」と思って、念のためにその通帳をかなり前まで遡ってチェックしたものの、どうもそれらしき項目は見当たらない。

 そこで、その辺にいた行員に、いったいこれは何だろうと相談した。すると、「お客さん、マイカードで借りたことはありますか」と聞くので、「いいえ、全然ありません」と答えた。「他行で引き出したことはありますか」と言うので、「そういえば、2〜3ヶ月前に、近くの銀行で預金を下ろしたことはあるけど。」と答えると、その行員はちょっと失礼といって私の通帳を見て、「あった、あった。これですよ。」というので見ると、8月の初めに6万円と3万円、9月も4万円を別の銀行で下ろしている。

 「これが関係あるんですか」というと、行員は、「ウチのATMでは、預金を下ろそうとしてキャッシュカードを入れる方向を間違って、マイカードつまり借金する方を入れると警告の画面が出るのですが、他行のATMだと区別できなくて、お客さんがマイカードで借り入れをしたと思ってお金が出てきてしまうのですよ。だから、「ちょっと、マイカードの残高をチェックしてください」と言う。

 こちらは借金をする気などさらさらないのに、それは一体何だと思ったが、ともかくマイカードの残高とやらを見たところ、「31,888円」となっている。やっぱり、知らないうちに、借りていたことになっていたらしい。仕方がないので、普通預金からお金を繰り入れて、それを帳消しにした。

 確かにそれは、こちらが他行で引き出し、しかもキャッシュカードの方向をたまたま逆にして引き出したからそうなったのかもしれないが、だいたい最初から借りるつもりもない客に、こんなことで借りさせた形をとって、結果的に金利を稼ぐというのは、いささかひどいのではないかと思ったものである。

 それにしてもこれ、金利の計算は、どうなっているのだろうか。8月に3万円借りたのが10月になって1万円の利息を差し引いて元利31,888円というと、わずか二ヶ月で3万円に対して11,888円もの利息となる。ひどい暴利ではないか。しかし、これでは利息制限法の上限金利どころではないので、それとも、元金はやっぱり4万円の方なのだろうな。とすると、41,888円というわけか。いずれにせよ、もうちょっと預金通帳をよく調べてみよう。いやはや、銀行すら信じられない世の中になってしまったようだ。いや、護送船団のいままでが、異常だったのかもしれない。


(2002.10.21)


(注) 12月になって、取引明細書が送られてきた。それによると、
  9月4日  他銀行で、40,000円マイカード引き出し。
  9月末   手数料と利息 114円
 10月    新規利用料1,470円! 一体、何だこれは!
        利息、295円。
 11月    利息、65円。

  
要するに、利率は、8.4%だが、新規利用料というのが、響いたようだ。


016.まずい冗談

 日曜日の昼下がり、2月というのにぽかぽかと暖かい日差しが降りそそぎ、その中でテニスボールを追いかけて走り回っていた。すると、ごく最近われわれの仲間に加わった人で、同年代ながら実にテニスのうまい人がいた。そのプレースタイルは、身のこなしが非常に優雅でしなやかで、堂に入ったものなのである。ボレーするにも、ツツツーーとボールのところまですり足で走っていって、これをすくい上げたり、上から叩いたりして、それはそれは見事なものと感心するばかりである。

 それに比べてこちらとといえば、早いボールには手が届かないと最初からあきらめて走らないし、ボレーは足を出さないとしっかり受けられないのに、面倒なのでただ手をひょっいと出すだけときている。そういうぐうたらなプレーヤー連中の中で、このテニスのうまい人は、頭ひとつどころか、体全体くらい抜きん出ているというわけだ。それにその、ボールを追いかける華麗な身のこなしといえば、まるで山野をかけめぐる鹿かカモシカのごとく、というわけで、私はしばし見とれてしまった。ところが、その人の顔はというと、どう見てもわれわれより相当年輩ではないかと思われるのである。その大きな原因は、その人が真っ白の髪をしているからである。そう思い立った私は、「はあぁ、すばらしいですね。若者顔負けの見事な身のこなしだ。髪の毛が黒かったら、見分けがつかないな」と、声を掛けた。本心である。

 それを横で聞いていたM商事の部長は、「いやいや、あれは髪を白く染めているだけですよ」と、これまた歯の浮くようなお世辞を口に出したので、その人は、まんざらではない顔をした。そこで、よせばいいのに私は、「それじゃ、お若いときは、赤に染めていたのでは」と、何の気なしに口走ってしまった。すると、一部の人の顔つきが、さっと変わるのが目に入った。「あれっ、何か変なことを言ったのかなぁ」という気がしたものの、そのままプレーを続けた。そして、それが終わってコート横で休んでいたときに、その人の知人とおぼしき人から、彼の職業を聞いた。その人は、いまは大会社の社長だが、若かりし頃はその種の活動に熱心だった由。

 いや、まずい冗談であった。これから、気を付けようっと。


(2002. 2.25)


015.ウイルス

 いやはや、ついに私のところにも、コンピューター・ウイルスが来てしまった。幸いなことに、つい最近買ってきてインストールしたシマンティックのソフトが働いて、事前に止めてくれたので、事なきを得たのである。わずか8千円程度のものだが、実に安い買い物だった。常時接続のADSLを導入したし、OSをWindows XPにしたこともあり、もしやと思って買いに行ったのがよかった。良きにつけ悪しきにつけ、我ながら、時代の先端を行っているなと、変なところで自分に感心してしまったのである。

 ウイルス君がやってきたのは、友人からの電子メールである。メール・ボックスを開けてみたら、友人の特許事務所からのものがあった。「へぇ、珍しいなぁ、そういえば5月頃に、メール・アドレスを教えたっけ。それにしても、これ、初めてのメールだなぁ」と暢気に開けてみたら、中身はなくて、添付メールがある。これをクリックして開けようとしたら、赤い虫のマークが現れ、「バッドトランスBウイルスです」という表示が出て、びっくり仰天。そのままあわてて削除してしまった。だから、どういう性質のウィルスかはよくわからなかったが、どうやらメール・リストを勝手に開いて、その宛先あてに自分のコピーを添付して送りつけるものらしい。

 やれやれ、とんだ贈り物だ。「それにしても、彼、知っているのかなあ」と思いつつ、目の前の仕事を片づけているうちに、2〜3時間が経ってしまった。すると、電話がピロピロッと鳴り、その友人の声がした。心なしか、やや緊張した声で「こんにちは」というので、私は、「いや、しばらく。元気だった? ところで、ウイルスの件でしょ」というと、ほっとした様子で、「そうなんです。ご迷惑をおかけして。大丈夫でしたか。私の知り合いからのメールが感染していて、送られて来ちゃいまして」という。私は、「私のところは、ソフトがブロックしたから、ご心配なく。それにしても、こうやってあちこちにお電話されているんですか。たいへんですねぇ」ということになり、最後は笑って、電話はおしまいになった。

 いやはや、これからはもっと気を付けよう。このウイルスソフトのウイルスの定義ファイルは、週に少なくとも2〜3回は、更新されている。それだけ、新種のウィルスが出ているのだろう。やっかいなことだ。きょうも、Windows XPにセキュリティ・ホールが見つかったという。修正ソフトを早速ダウンロードして、インストールしてみた。いたちごっこだとは思うが、できるだけ、手を尽くしていくしかない。

(2001.12.20)


 
後 日 談

 さて、これを書いてから約一ヶ月後、私の大学時代の同級生から次のような電子メールが舞い込んできた。「いきなり用件から入ります。とんでもない連絡ですが、私のPC経由で皆様のPCが悪質なウイルスに感染した可能性があります。至急下記に転送いたしましたメールの内容に沿ってチェックの上、もし感染していましたら削除してください。」とあり、”sulfnbk.exe”というファイルを削除せよ、というのである。

 いや、これは大変だということで、あわてて自分のOSをチェックしたら、該当ファイルがなかったので、ひと安心した。しかし、話はこれでは終わらなかった。同じくこの電子メールを送られた同級生から「あれは、デマ・メールだから、あのファイルを削除したらだめだ」というメールが送られてきたかと思うと、さらに別の同級生から、「あの、デマ・メールには、『バッドトランスB』という本物のウィルスが付いていたぞ」という連絡があった。もう、笑い話もいいところである。うーむ、勉強になった。世の中、知らないということは、おそろしいものである。


014. ADSL来る

 今年の6月19日、孫氏率いるヤフー(まるで、IT戦国時代を象徴するかのような表現で、我ながら滑稽だ)が、インターネット接続に関して従来の常識や価格設定を根底から覆すような劇的な発表をした。それは、ADSLを、初期費用の3,600円 月額 2,830円、しかも最初に加入する百万人までは工事費無料というものである。速度も速くて、下り最大8Mbps、上り最大900kbps、電話線ダイヤルアップ(56kbps)の約140倍の高速通信だという。同じブロードバンドだと喧伝されていた当時の我がマンションのCATVインターネットでは、そのケーブル・テレビ会社は、月5,300円、初期費用19,000円、性能は上り64kbps、下り512kbpsというものを用意していたので、まさに雲泥の差であった。そしてこれが契機となって、日本が世界に誇るブロードバンド時代に突入していったのであるから、世の中わからないものである。

 6月に申し込んでから、ヤフー側からはうんともすんとも何にも言ってこなくて、いったいどうしたかと思っていたところ、8月にサービス開始するというメールが来た。ところが、それでもなかなか返事がない。ようやく10月初旬になって、モデムを送るという連絡がやって来て、それから三日後に届いたのである。待ちくたびれて、あまり感激というものもなかったが、それでも、いそいそと家の電話線に繋いだ。ところが、どうにも繋がらないのである。「WLK」というランプがチカチカと点いているので、説明書によれば、これは電話会社のNTTの方の工事が終わっていないことを示しているという。「やれやれ、やっぱりそうか、安かろう、悪かろうなのかな」と思い、諦めてそのまま放置した。

 それから二週間ほどして、ヤフーから連絡が突然あり、チェックに来るという。日曜日の夕刻に約束したが、予定より早くお昼に来てしまい、私は残念ながら立ち会えなかった。でも、家の者が代わって応対してくれて、分かったことがひとつ。何と私の接続が間違っていたのである。それを直したらその場で繋がったらしく、速度もまずまずで、最大8Mbpsのところが6.32Mbps出たという。いや、それにしても私もお粗末で、その場にいたら恥をさらすところだった。まあ、いずれにせよ、よかったというわけである。

 実際にその6.32Mbpsという速度でモデムと繋いでみると、いやその早いこと早いこと。国内のインターネットのサイトなら、本のページをサッサッとめくっていくような感覚である。試しにインターネット・エクスプローラー新しくしようとして、6.0をダウンロードしたら、わずか1〜2秒で終了してしまったので、びっくりした。この間、電話線ダイヤルアップで5.0を5.5に更新したときには、予定時間で2時間15分、実際には4時間近くかかったのに比べると月とスッポンで、新幹線と自転車くらいのスピードの差がある。加えて常時接続なので、時間を気にする必要もないというのも、気が楽になる。

 というわけで、これを利用してこれからはインターネット・ライフがもっと生活に密着したものになるだろう。新しい時代が到来する予感がするのである。


(2001. 10.28著)


013.味とデザイン

  一日の仕事が終わり、家路に着いた。きょうは暑かったなあと思いながら家内の顔を見て、我が家のテーブルにすわる。何気なく、前に目をやったところ、そこには中国製のような陶器のとっくりがある。青磁のような味わいがする。いや、変わったものがあるなあと思いながら、それを手にとったら、軽いのでびっくりした。何だ、これはウーロン茶の缶ではないか。それにしても、遠くから見れば、陶器のように見えるのは気が利いている。これは面白い商品だと思い、何かピンと来るものがあったのである。普通のウーロン茶はやや渋い味わいがして、私はあまりたくさんは飲めないが、この陶器のような缶の味は、やや軽めである。だから、私でもあまり抵抗なく飲める。これは、味良し、デザイン良しである。

 そうしていたところ、それから一週間も経たないうちに、この缶についての新聞記事が載った。朝日新聞によると、ウーロン茶の王者であるサントリーに対して、このキリン・ビバレッジという会社が挑むという構図らしい。最初、鳳凰という製品でチャレンジしたところ、敢えなく敗れ去ったので、捲土重来を狙ってこの商品を出したとのこと。そして「聞茶は5月末までに、計画より1ヶ月早く300万ケース売れた。年間の販売計画量も800万ケースから1500万ケースに上方修正・・・」という、誠に景気の良い話である。聞茶(ききちゃ)と発音するらしい。まあ、味もさることながら、その缶のデザイナーに対して、賞賛の言葉を差し上げたい。プレジデント6月号には「デザイナーが金沢の窯元にまで陶器の原版を焼きに行き、できあがったデザインをスキャナーで読みとってアルミ板に転写するという手法で、陶器の味わいを出した」という。それに、白地の缶を作るのも難題だったが、頼み込んで作ってもらったという。

 ところで、私のテニス仲間の一人に、今申し上げ王者サントリーの人がいて、同じように商品開発を仰せつかったという。ちゃんと、キリンの挑戦を受けて立つという仕組みである。ここまでいくと、現代の果たし合いである。こちらは、お茶葉系(ウーロン茶・緑茶)のように旨味はあるが渋味も出るというものと、穀物系(麦茶)のようにさっぱりしているが旨味も渋味もないものとの融合を考え、旨味はあるが渋味のないものができないかと試行錯誤した。そして、「熟茶」と書いて「じゅくちゃ」と呼ばせるものを世に送り出した。中国奥地の雲南省西双版納にて吟味に吟味を重ねた結果、やっと作り出しに成功したプーアル茶の一つであるそうな。

 「えぇっ、ウーロン茶でないのか、プーアル茶といえば、数年前に私の友人が、『これを飲んで数キロ痩せた!痩せた! だから、お前も飲め』と騒いでいたものだ。仕方がないので、これを飲んでみたら、まあ、かび臭いというか、とっても飲める代物ではなかった。そんな薬みたいなものをねぇ」という気がしたものである。

 しかしともあれ、三煎・二層抽出なる画期的製法を開発したという能書きの書きつけてある紙付きで、その一缶をいただき、試しに味わってみた。そうしたところ、これが意外や意外、プーアル茶にありがちな臭みやら、胃にドーンと来るような重さがなくて、非常に飲み良い代物であった。これは私にはぴったりだなあと思ったのもつかの間、それから一月も経たないうちに、町で見かけなくなってしまった。

 これも後講釈だが、あのペットボトルの色と形が、類似商品とあまり差がなかったからだとと思う。これは、味はともかく、デザインがそれに追いついていかなかった例である。こんな風にして飲食料品業界では、新製品が毎年何百・何千と生まれながら、そのうち生き残るものはわずか数%いや、一説によればもっと少ないという。いやまあ、何と無駄なことか。


 ところで、6月9日の日経新聞に、何でもランキングと称して、主婦が飲みたい茶飲料のランキングがあった。それによると、次のようになっている。
 1位 生 茶   (キリンビバレッジ)
 2位 十六茶   (アサヒ飲料)
 3位 爽健美茶  (日本コカコーラ)
 4位 まろ茶   (日本コカコーラ)
 5位 旨 茶   (アサヒ飲料)
 6位 
聞 茶   (キリンビバレッジ)
 7位 おーいお茶 (伊藤園)
 8位 しみじみ緑茶(サントリー)
 9位 なごみ麦茶 (日本コカコーラ)
 10位 
熟 茶   (サントリー)

 このうち1位の生茶は、発売以来、3090万ケースが売れた大ヒットの定番商品。味が「さっぱり」としつつも、「深い味わい」が消費者に受けた。2位と3位は、ともに93年の発売で、ブレンド茶の草分けである。以上の1位から3位までの製品は、四位以下を大きく引き離している。最近の特徴は、苦みや渋味を押さえたもので、7位と10位は、これを狙っている。他方、6位の聞茶はボトル缶を採用して「デザインがいい」という理由になっている。ところでこの「ボトル缶」の特徴は、一度に飲みきれなくとも栓ができるし、光を通さないアルミでできていることから、最近ではお茶に使用されはじめている。ところで、調査期間の後となってしまって、以上のランキング対象品目からは外れてしまったが、このほかにサントリーの定番トップ商品の「烏龍茶」がある。

 うーむ、勉強になった。
 

 (2001. 6. 7著、6. 9追加)


012.道を聞かれて

 このゴールデン・ウィーク中に、珍しい出来事があった。私は、たまたま神田小川町からお茶の水に向けて、あの長い坂をトコトコと上がっていった。そして三井海上のビル当たりにさしかかったところ、坂の上から、若い女性が息せき切って駆け下りてくるのが見えた。グレーのスーツ、タイトなスカートで、いわゆるリクルート・ルックである。その子が、どういうわけか、私の目の前で急に止まり、「あの、ちょっと」と何か尋ね始めた。何しろ赤ん坊などは、私の顔を見ると泣き出すこともあるから、小さい子や若い女性が向こうから話しかけてくることなど、誠にもって珍しいことである。

 その若い子は、面長のなかなか可愛らしい人で、言葉遣いもしっかりしている。
「この辺に、日大経済学部はありませんか。」というのである。「日大の医学部ならあるけれど、その他の学部は、ずいぶん前に移転したのではないでしょうかねぇ。地図や住所は持っていますか。」と聞くと、彼女は一枚のはがきを出してきた。それには、「就職面接会場」と書いてある。しかも、そこに印刷された地図のJRの駅をつくづく見ると、「水道橋」とあるではないか。

 そこで
「あぁ、ここはお茶の水で、水道橋は隣の駅ですよ。一度この坂を上がっていってからJRの黄色い電車で次の駅に行き、そこから行けばいいですね。」というと、「はい、わかりました。ありがとうございます。」と答えて、さっと振り向いて、坂を上っていった。ポニー・テイルの髪を左右に振り振り、案外早いスピードで、視界から消えていったのである。

 いやはや、まだ5月だというのに、もう就職の面接が始まっている。就職氷河期だから、この子も何社も回らざるを得ないのだろうな。それにしても大変なことだけれども、言葉遣いは合格、しかも容姿端麗なので、ご健闘を祈りたい。

(2001. 4.30)


011.根津のつつじ

 近くの根津神社では、毎年4月中旬から5月初旬にかけて、つつじ祭りというものが行われる。境内の斜面一面に色とりどりのつつじが咲き誇るのを鑑賞するという、ただそれだけの催しである。ところが、これがまた見事なもので、初めて見る人は思わず「ほほぅ」という声をあげてしまう。いつもはただ緑一色の何の変哲もないところに、急に一面が白、赤、ピンク、紫などの原色の花に覆われた数多くのこんもりとした木々が出現するのであるから、私ならずとも、歓声を上げたくなるというものである。しかし、このようにいくら言葉を使って説明しても、この風景を十分に説明しつくせない嫌いがある。

 まあ、百聞は一見に如かずというところで、一度はお出かけいただくとよい。ただし、この季節になると、地下鉄の千代田線根津駅を降りたとたん、ぞろぞろと神社に向かう老若男女の群れに出くわして、前へ急いで進むのも、後ろへ向かうのも、いずれも非常に困難なものとなる。いま「老若」と申し上げたが、実は「老老」といったところで、実年熟年の世代が多い。それというのも、この根津神社のつつじを皮切りに、上野東照宮のぼたんと、亀戸天神の藤の花が見事であり、これらをぐるりと回ってくれば、夫婦そろってごく手軽に下町の花を楽しめるからである。

 この東京の下町の花の歳時記を取り上げてみよう。

 2月 湯島天満宮の梅祭り
 4月 根津神社のつつじ祭り、播磨坂さくら祭り
 5月 上野東照宮のぼたん、亀戸天神の藤祭り
 6月 白山神社のあじさい祭り
 7月 伝通院・源覚寺の朝顔・ほおずき市、
    下谷鬼子母神の朝顔祭り
    浅草寺のほおずき市
10月 谷中菊祭り
11月 湯島天満宮の菊祭り


 このほか、花とは関係がないが、おもしろい行事として、次のお祭りなどは、一見の価値がある。日枝神社、神田明神の祭りとともに江戸三大祭の一つである浅草神社の三社祭では、専門の御神輿かつぎチームが活躍し、本当にびっくりするような下町の力を感じる。また浅草サンバカ−ニバルは、これとは全く別の意味での若いエネルギーに驚かされる。地球の裏側の激しい踊りが、日本の、しかもお江戸以来の歴史のある町にこれほどまでに定着したというのは、誠に不思議な感じがする。もちろん踊り手は若い人だが、どういうわけか、その見物人は実年以上が多い。

 5月 浅草神社の三社祭
 7月 隅田川花火大会
 8月 浅草サンバカ−ニバル
12月 浅草寺の羽子板市


(2001. 4.24)


010. 図太い神経

 きょう、のどかな春の土曜日、ふとテレビの討論番組を見ていると、ある私立大学の学長さんが出ていた。今やロマンス・グレーになったが、なかなかの恰幅である。昔々のことになるけれども、実は私の親しい先輩がこの学長さんの仕打ちに辟易して、ひどく腹を立てていたことを思い出し、思わず含み笑いをしてしまったから、家内が不思議そうな顔をした。

 そこで、およそ20年前に、この人を巡ってどういう経緯があったのかを、説明してあげたのである。その時分、私の先輩は、エネルギー問題の専門家として売り出していて、テレビの座談会に招かれた。当日指定された会場に行ってみると、その座談会に出る人たちが待合室に三々五々に集まってきて、雑談をしていた。その中で、若き日のこの学者も、その出席者の一人となっていた。

 そこで私の先輩は、これらの出席者の前で現下のエネルギー問題をとうとうとまくし立て、ご丁寧にいろいろと事例まで挙げて説明したのである。さて、それから本番の収録となり、出席者はテレビ・カメラの前に集結した。司会に促されて最初に口火を切ったのが、この学者だった。ところが、それを聞いて私の先輩はビックリした。その学者が話す内容は、何とまあ、自分がたった今、その控室で話した内容そのものであったからである。しかも、事例も全く同じであった。

 そうこうしているうちに、先輩がしゃべる番が回ってきたが、何しろ自分の大切な持ちネタがすべて使われてしまった後なので、そのショックから立ち直れず、さりとてそう急には新しいことを思いつけるわけでもなく、非常にあせった。何とか説明を始めたけれども、結局のところメロメロの無茶苦茶になって終わってしまったのである。

 それ以来この先輩は、「あの、エセ学者め。とんでもないヤツだ」と、あちこちでさんざんに罵倒していた。ところが、その学者の方はどんどん出世して、政府の枢要な審議会の会長として君臨するは、日本で有数の私立大学の学長を勤めるはで、その先輩は足下にも及ばなくなってしまった。いまや二回目の学長ポストをお勤めになっている。

 こういう他人の智恵を横取りしてそれをすぐに使って平然としているその神経の太さと、出世の階段を駆け上がる早さから推察されるその政治力の確かさとが、この学長さんの持ち味らしいが、それにしても、まあその生臭いこと、町の政治家も顔負けである。それ以来、この私立大学には、何か胡散臭い気がしてなならないのである。しかし、何というか、これが世渡り上手というものであろうか。 


 (2001. 4 7) 



009 犬と石頭

  皇居の桜田門の付近を車で通るたびに、首を伸ばして警視庁の中庭の茂みを覗くのであるが、お目当ての彫刻が見つからない。何しろ、警視庁の建物なので、外からじっくり探すわけにもいかない。やっぱりあれは、酒飲みの与太話だったかと思うのであるが、それにしても、よく出来ていた話だなあと残念に思うのである。

 あるとき、私の知人が、とっておきの話だといって、酒の席でこんなことを語っていたのである。桜田門にある警視庁の建物は比較的新しいが、これを作った頃は、彫刻家に頼んで彫刻を彫ってもらい、それを玄関前に飾るというのが慣行だった。そこで、警視庁の建物についても、流 政之という現代彫刻家に依頼した。問題は、この大家がいわゆる無頼風の人柄だったことである。彫刻ができあがってみると、どうもそれはお稲荷様のような外見をしている。そして、関係者がびっくり仰天したのは、その彫刻家がこれに「桜田門の犬」という名前を付けよと言ったのである。まあそうかもしれないが、それはあまりにもひどいではないかということで、すったもんだのあげくに、結局その彫刻は、飾られれはしたものの、人目に付かない場所となったという。

 しかも、これには後日談がある。その直後に、今度は特許庁の建物が建てられることになり、やはりその流氏に依頼した。できあがった彫刻は、球体を二つに割って半球にしたような外見であった。そしてこれについても、流氏は「三年町の石頭」という題を付けよといったそうである。しかしこの時の発注者は偉かった。警視庁での騒ぎをあらかじめわきまえていて、「すでに内部でこれに適当な題を募集し、その結果『叡知の微笑』という題が付いたので、もう替えられません」といって押し切ったそうである。それ以来、官庁が彼に彫刻を依頼したという話は、ついぞ聞いたことがない。

 今日、たまたま赤坂溜池近くの特許庁の前を通りかかったところ、それらしき半球状の彫刻が玄関横に確かにあった。たまたま一緒にいたこの辺に詳しい人に聞くと、昔々このあたり電車が通っていた頃には、この特許庁前は「三年町」と言っていたという。「あっ、それだ!」と思った。これで石頭の意味がわかった。惜しむらくは、もう一つの証拠である「犬」が見あたらないのである。さりとて、警視庁の人に直接聞くのも気が引ける。ひょっとして、最高機密事項かもしれない。いや、これは冗談であるが、ともあれ、いつの日かその真偽を知りたいと思っている。


 (2001. 3.14)


008 悲惨な内職

 3月7日、朝日新聞の朝刊を読んでいたところ、中国の江西省宣春市の小学校で爆発があり、建物が全壊し児童ら40人近くが死亡し、27人が負傷したとの記事があった。短い記事なので、さっぱり要領がつかめないが、児童の内職の爆薬が爆発したというのである。ところが、「小学校」、「児童」、「内職」、「爆発」、「40人近く死亡」という一連のキーワードがどうしても私の頭の中で結びつかなくて、悲惨な事件ではあるが、いったい本当のことだろうかと疑問に思っていた。
 ところが、その日の日経新聞の夕刊で、なぞは一気に解けた。何と、この中国の小学校では、不足している運営経費を補填するため、児童らが学校で爆竹に導火線を付ける「内職」をしていたというのである。ところが、たまたま教室内に置いてあった加工中の爆竹に引火してこの惨事が起こった。この爆発で四つの教室はほぼ吹き飛び、二階建ての校舎は全壊した。
 しかし、いくら何でも児童に内職をさせるというのは、わが国では明治以降はもちろん、江戸時代の寺子屋でもやらなかったのではないだろうか。しかもそれが、危険きわまりない爆竹というのでは、全くもって何をいわんやである。これでは安心して子供を学校に預けられないし、そもそもこういうことを黙認している政府の指導層の人権感覚を疑いたくなるところである。翌日の朝刊で、大人に抱きかかえられて泣いている女の子の写真を見て、胸がつまった。


(2001.03.08)



007.御神酒徳利

 私のマンションにはいろいろな人がいるが、その中にはこの地元に長く根付いている人たちもいる。江戸筆の伝統工芸士というおじさん、絵描きのおじいさん、和菓子の元職人など、いろいろである。こういう人たちに混じって、もう80歳を超すというおばあさんが住んでいて、これがまた有名人なのである。

 旦那さんははるか前にお亡くなりになっているので、一人住まいである。背筋はしゃきっとしていて、江戸っ子らしく気っぷがいい。常に和服を着こなしている。開放的な人柄で、誰とも区別せずに部屋に上げておしゃべりをするのが楽しみである。それに悠々自適という身の上なので、やることなすことが変わっている。年金の中から毎月5千円を社会のために使うということで、野良猫に餌を買ってあげたり、時には上野公園まで出かけ、ホームレスにお金を恵んであげているらしいのである。

 この人の部屋に一日二回は必ず訪ねてくるという友達のおばあさんがいる。こちらも、80歳を超した人で、昔からの無二の親友と言っていた。こちらは近くの小さな一軒家に住んでいて、料理が好きなようで、よく自分の作ったおかずを持ってきて、その気っぷのよいおばあさんと食事をしているのである。気っぷのいい方が背が高い。それに対して、料理の好きな方は背が低いので、その二人が出ていくと、われわれ口さがないマンション住民は「ああ、また御神酒徳利が歩いている」と言うのである。この二人の行動半径はとても広くて、近くの谷中だんだん坂の商店街はへっちゃらで、時には浅草までそろって出かけていくのである。それも「歩いて」である。いやもう、お元気なことで、われわれも常々感心していた。

 ところが、最近このおばあさんはちょっと弱気になってきたのか、「もう、いつでもお迎えがきてもいいわ」などと言っていた。こちらは「そんなこと、言うものじゃない」と話をしていたところ、年初めのある日、家の中で躓いて転んで、足を骨折してしまった。それがケチのつきはじめで、それで入院中に今度は肺炎になってしまったり、何だかんだとあって、可哀想なことに、まだ入院中である。これが「徳利」さんの方であるが、きょう、たまたまマンションの前を歩いていたら、「御神酒」さんに会った。「Mさん、まだ入院中ですか」と聞くと、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして、悲しそうに「そうなんの」と言っていた。「それじゃ、また」と言って去っていくその背中は、とても寂しそうだった。


 (2001. 2.25)


006.小さい子の話

 もう、うちの子供達は社会人の一歩手前であり、もはや仕上がってしまったので、小さな子供を観察する機会はあまりなくなってしまった。それでも、家内が近くのスーパーに行くと、小さな子供連れのお母さんの会話を耳にして、たまに面白い話をしてくれる。

 今日の昼は、二歳くらいの女の子と、そのお母さんとの会話である。


 女の子  ねえ、これ、家にあったかしら
 お母さん ええ、お父さんが買ってきてくれたのがまだあったと思うわ。
 女の子  そうかなあ・・・
 
お母さん ああ、あれ買わなきゃ、さあ行きましょ


 なかなか、駆け引きのある会話である。女の子は、買ってくれとは正面切って言っていない。何度か痛い目にあったらしい。自己防衛本能が働いている。またこのお母さんも子供のあしらいがうまくて、正面からダメとはいわずに、その場にいないお父さんのせいにしている。そして、子供の目先をそらせて、どこかへ消えていってしまった。

 しかし、この女の子は、まだ二歳くらいだったという。それでいて、ちゃんと社交的駆け引きをしているところが、すごいところである。

(2001. 2.25)


005.ぞんざいな店

 きょうはお昼に近くの日本料理屋に入った。ここは、下町の食堂とでも言うのがふさわしいところで、店には何の体裁も加えていないし、店主もその息子のウェイターの兄ちゃんもまるで地のままのぞんざいさである。店内はざわざわしているし、普通ならこんな店に来たくなるはずがないのに、月に2〜3回は顔を出してしまう。なぜかというとその答えは簡単で、くやしいが、料理の味がよろしいのである。そのうえ、安くて、しかも早いときている。まるで昔の吉野屋であるが、ああいうファースト・フードではなくて、家庭料理そのままに作っていて、それでいて味だけは格別によいのである。

 きょう、その店で私はカウンターに座り、焼魚定食を頼んだ。出てきたのは、ぶりの照り焼きに、しじみのみそ汁、それに蓮根だのニンジンだのが入った煮物である。なかなか、うまいと思って、昼時の喧噪の中でそれを黙々と食べていると、隣に私と同年代の紳士が座った。彼は、カウンターの向こうの店主に注文しようとして、こう叫んだ。

お 客 「ミンチカツをください。そっ、それに野菜をたっぷり目にお願いします。」
店 主 「それじゃ、50円増しだよっ!」
お 客 「ぇへへへっー」
店 主 「んー、もうっ。『ぇへへっ』じゃないよ! ほんとだよっ!」
お 客 「そっ、そうかぁー。大雪で最近の野菜は高いからねぇ。」

 さて、あなたならどうしますか。このお客のように従順に納得してしまうか、じろりと店主をにらみ返すか、それとも席を蹴って出てくるか。まあ、たかが50円という、誠にもってみみっちい話ではあるが、その人の人生観が垣間見えるというものである。ちなみにこの紳士は、皿一杯に広がったキャベツのみじん切りの上に、小ぶりのミンチカツがぽつんと置かれたものがくると、それを黙々と食べ始めた。その後どうなったかは、よくわからない。

(2001. 2.14)


004.計算の季節

 父からのメール「今週の動き」によると、
   確定申告の書類作成し、2月1日に所轄税務署へ
   控えに受付印を押印して貰った。
 とある。受付日の2月15日のはるか前にもう行っている。企業財務の専門家だった几帳面な父らしい。

 それはともかくとして、また確定申告の季節が巡ってきてしまった。とりわけ面倒極まりないのは、医療費の控除である。歯医者に行ってハイ10万円などというのは滅多になく、その多くは細々とした領収書である。中には120円などという目を疑いたくなるものすらある。家内が真面目でしかも几帳面なせいか、領収書と名が付くと何でもかんでもとってある。それでも家族4人分になると、日替わりならぬ年替わりとでも言おうか、その年々によって代わる代わるに何か起こる。そうして領収書の計算を積み重ねると、不思議なことに、控除額の10万円を超えるのである。去年などは、病院へ行ったタクシー代と地下鉄のメトロカードを合計した分だけ超えたと言って笑い転げた。

 しかし、このようなものを計算させられる税務署の若い人は、はなはだもって気の毒である。もっとも、ベストセラーの「金持ち父さん、貧乏父さん」によると、私などは年間5ヶ月は国つまり税金のために働いているのだから、それくらいは我慢してもらいたい。それにしても、残りの7ヶ月って、いったい何だろう。2ヶ月は銀行つまり住宅ローン、3ヶ月は大学生の子供だから、そうすると、私は家内と自分のために一年の内わずか2ヶ月しか働いていないのか。やっぱり貧乏父さんの状態になっているのは、仕方がないことかもしれない。

(2001. 2.10)


003.貧乏父さん

 ロバート・キヨサキという日系アメリカ人の書いた「金持ち父さん、貧乏父さん」という本が評判である。私もそのうち書評でも書いてみるかという気がしているが、私自身はこの本のいう貧乏父さんの典型だと思って、思わず苦笑してしまった。知性もあり社会的地位もあるが、残念ながらお金に関する知恵と知識が全くなくて、ラットレースといわれるがごとくに、人生をあたふたと駆けめぐっている。住宅ローンという名の負債を抱えて、その借金を返すのに汲々としている。うーん、全くその通りである。アメリカ人の中では、知性も地位に何もなくてよいから、ともかく50歳を目標に大金を稼いで悠々と引退しようとする人ほど尊敬されるということは知っていたが、これは金持ち父さんのことであったのか。目から鱗の心境である。しかしまあ、そういう手合いは、日本では成金といって、決して尊敬される存在ではないのだけれど、現代資本主義社会では、やはり勝者なのだろう。

 それにしても、貧乏父さんのままでは、私だって面白くない。といっても、いまから急に金持父さんになれるほどお金儲けの知恵があるわけではない。まあ、私として唯一自慢できるものといえば、常々、自分で考えたりあるいは家内と話しをしていることが、それなりに面白くて大切な知的財産であると思いこんでいることである。だからそういうことでもこの欄に書き付けておき、せめてもの鬱憤晴らしとしよう。

(2001. 2.05)


002.気に掛かること

 ずっと昔のことで、しかもそれが大したことではないものの、何かどうも腑に落ちなくて、心の片隅に引っかかっていたことがある。それが何十年も経ってからふとした出来事がきっかけで、「ああそういうことだったのか」と初めて気がついて、我が身の不明をいたく恥じたり、後悔したりすることがあったりする。
 つい先頃もそういうことがあった。きっかけは、大学時代の同窓会が夫婦同伴で開かれて、私の家内がある友人の隣にすわったことである。家内が聞き上手だったのか、それとも今や社会的に成功しているその友人がなつかしい昔話として語る気になったのか、まあどちらでもよいが、私はその話をあとから家内から聞いて、たいへんに驚いたのである。

 というのは、その友人は、親の事業がうまくいかなかったので、大学時代にはとてもお金に苦労し、生活のためにアルバイトを何でもやって大変だったと語ったらしい。この友人は、大学時代にはそんな様子を全く見せていなかった。それどころか、いささか大言壮語の癖があるのではないかと思うくらいに、元気に何でも積極的な人で、私はこの人のことを「そんな性格なのだろう、それにしても変わっているな」などと、単純に思っていたのである。ところが、そういう目で改めて昔の彼との交遊を振り返ってみると、彼にはその生活の苦労をしのばせるような、いろいろと納得することがあった。当時の私は、そんな事情とはつゆ知らなかったとはいえ、彼に対してもう少し気を働かせて接してあげればよかったのではないかと、やや忸怩たる気持ちになったものである。

(2001. 2.03)


001.折々の心覚え

 吉田兼好 法師のような枯れた心境ではないが、歳をとると確かに何か思いついたことを徒然なるままに記しておきたくなる。それがまとまって長いものになれば、エッセイと称して写真付きで麗々しくアップロードするが、そうでもない短いものは、人生折々の心覚えのためにでも、こちらで記録しておくことにしたい。

(2001. 2. 1)












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