悠々人生のエッセイ








 私は、30歳代の前半で、ある東南アジアの国で生活することとなった。初めての海外生活であるから、ともかく赴任するまでに、いろいろな先輩の話を聞いて参考にしようと考えた。そこで、官庁の人から関係する会社の人まで、現地で仕事をしていた人たちに対し、思いつく限りに片っ端にアポを申し込んだ。そして、仕事のことから住宅、日常生活、家族の健康維持のことまで様々な質問項目を用意して、10数人近くに会っていただいた。

 その結果の私の感想は、その人の勤務時期が昔になればなるほど、ますます現地事情に疎くなるというものであった。たとえば、ある人は「日本料理のレストランがわずか数軒しかなくて、しかも人を連れて行けるのは、竹葉亭と勘八しかなかった」といっているのに、次に会った人は「いやいや、今ではたくさんあって、選択に困るほどだ」という。10年前に駐在していたある人は、「道を通っている車は数えるほどだった」というのに、実際にいってみたら交通渋滞にたまげてしまった。また、食材について聞いた奥さんは、「スーパーなどなくって、現地の市場に出かけると、あちこちで鳥の羽をむしっていて、それはすごいのなんのって」と話をしていたが、われわれのいた頃から日本のスーパーが続々と進出して全く不自由しなくなった。

 ともかく、この20年間の東南アジア諸国の進歩は驚異的ですらある。その結果、シンガポールなどは、外面的にも内面的にもすでに日本を追い越してしまったのではないか。われわれのいたわずか3年間のあいだにも、その国の発展はすごいものであった。近代的スーパーが普通となった。高速道路は、当初はたった一本しかなくて名神高速道のようであったが、その後、全国に拡大した。世界一とかいう高層建築物も作られてしまった。国際空港も、日本の関西空港以上にモダンで機能的である。

 かつての日本の駐在員が直面した問題は、日本との文化的な接触である。大人たちは、毎日航空便で送られてくる一日遅れの新聞を見ていれば、まあ何とか用が足せるが、それでもたまには雑誌なども読みたくなる。これは子供たちも同様で、日本にいる両親から、子供たち向けのアニメのビデオをよく送ってもらっていた。ただ、私のいち頃から日本の本屋が進出してきたし、いまではインターネットを見ていれば、何でも即座に情報が入手できる。うかうかすると、現地駐在員の役割もなくなってしまいかねない勢いである。

 これほどまでに日本との情報と物の格差がなくなると、外国といっても、国内にいるのと同じ気分と雰囲気になるのも無理からぬことである。私がいた頃、ある繁華街を車で走っていたところ、自転車の前のかごに子供を乗せて走っている日本人らしき女性を見て、びっくり仰天した。よく見ると、それはつい最近来たばかりの、ある大会社の若い社員の奥さんであった。車がビュンビュン通り過ぎるこのような所で、全く日本にいるような調子で自転車に子供を乗せて走るなど、全く危険きわまりないことがわからないのだろうか。だいたい、あの暑い日差しの下で、10分も走ると脱水症状になりかねない。何と非常識なと思ったものである。

 私は日本を出るとき、ひとつだけ、心に誓ったことがある。それは、ある先輩の言葉にいたく感激したからだった。その人はこういった。「せっかく、激務の日本から離れて、外国で貴重な体験をするのだから、何かひとつは自分の役に立つことを身につけたらどうかね」というわけである。ははあ、なるほどと思い、二つやってみようと考えた。第一は、ゴルフがうまくなりたい。第二は、英語を自在に話せるようになりたいということである。

 どちらも大変だった。ゴルフは、行った当初は全くの素人で、スコアは150を切れば儲けものという体たらくだった。現地に行ってみると、家から15分のところにゴルフ場が二つあったが、一方は国際試合も行われる一流コースだがとてつもないお金を支払わなければならなかった。しかも市内居住者はプレイできないという嫌らしいルールがあり、練習すらままならない。それでもう一つの方の会員になるしかなかったが、それがまた非常に面倒であった。友人知人のつてをたどってようやく申し込み、それが終わったと思ったら長いこと待たされ、呼び出されてインタビューつまり面接を受け、その後に役員と一緒にプレーをして、やっとこさ合格という次第である。4月の赴任直後から手続を始めたものの、会員になれたのは12月だった。その代わり他のクラブにもいろいろと手広く申し込んだので、二ヶ所のゴルフ場と一ヶ所の社交クラブの会員となった。

 さて、それから猛練習を始めたのであるが、ゴルフというスポーツは、誠に参入障壁が高いものであるということを思い知られた。やれどもやれども、なかなか結果が出ない。週に三回以上、両手にいくつか豆を作ってそれが何度も破れるほどやったが、1ヶ月たっても、2ヶ月、3ヶ月とたっても、なかなか成果が出ない。私のゴルフの球筋は、左の方へ引っかけるものばかりであった。いわゆるフック、それも「ド」フックという定冠詞がつく。これを直すのに、半年はかかった。

 ゴルフ場にインド人のプロという人がいたが、それにゴルフのコツを尋ねると「Oh! It's easy Lah! Straight take back and throw to the sky!」などという。つまり、「まっすぐ引いて、空に向かって打て」というわけである(ちなみに「Lah!」というのは現地訛りの英語)。「鉄砲を打つのじゃあるまいし、そんなことできるか」と思うが、しかしその人がやると、まさにその通り、まっすぐ後ろにテーク・バックし、すうっと振り下ろせばあら不思議。ゴルフ・ボールは空に向かっていとも美しく打ち上がるのである。ただ、私がそれを真似すると、ぎっくり腰を患ったような感覚になる。だからこのプロに師事することは、やめにした。

 それからは我流でこつこつとやっていき、8ヶ月ほどたったところ、やっと100の大台を切るようになった。うれしかった。家に帰って、家内に報告するのも、誇らしげに感じたことを覚えている。実はこの頃、家内も友達とゴルフを始めたので、話をよくわかってくれた。こういう共通の話題があるというのも、大事なことである。話はそれるが、よく、夫婦でゴルフをやると、喧嘩になるという人が多い。夫婦だと遠慮がなくて、お互いに言い合いになるからである。そういう例を多く見てきたので、私たちの場合はたとえ一緒に回っても、お互いに決してコメントや批評をしないことにした。これは、いいルールだったと思っている。

 100をコンスタントに切るようになると、半年以内に90を切るスコアもたまに出るようになった。ただ、89とか、88とかである。それも、最初から出そうな感じではなくて、最後の2ホールでバーディをとったりして、たまたまそのスコアになるというものである。この辺りが限界かと思いながら、そのうち仕事が忙しくなって、それ以上の進歩は望めなくなった。結局、現地での最高スコアは、85であった。

 他方、英語の方はというと、これも思わぬ苦戦をした。というのは、現地の人たちの英語は、訛りがあまりに多くて、最初は何だかさっぱりわからなかったからである。たとえば、赴任して三日後、秘書の女性の「電話です」という声を受けて受話器をとったところ、いきなり飛び込んできた言葉が、「This is from Goh Kah!」というものであった。こちらは、「Goh Kahさんという人なぞは知らないし、ゴーカート会社かな、そりゃ何だ」などと思いながらもう一度尋ねると、また同じ答えが返ってくる。失礼ながらといって、さらにもう一度尋ねると「American Goh Kah!」といったので、ようやく理解した。これは、「アメックスのゴールド・カード」の担当者からなのである。この人は、中国人なので、語尾の「d」を省略するくせがある。つまり彼は、「This is from Gold Card!」といったらしい。インド人は巻き舌のくせがあるし、万事こういう調子で、実戦できたえられた。

 日常、新聞は英字紙だし、交渉や情報収集も英語という生活を続けていると、最低、半年もあればかなりの用は足せるようになる。それでも最初は、日常生活用の単語を知らないので、困ることが多かった。たとえば、家ではよく電球が切れる。ところがそれは、日本のような単純な規格のものではなくて、まず根元のところがねじ式か小さな棒が出ている式のものかの違いがある。これを「screw」と「pin」という言葉で表現する。それから、丸い球とろうそく型のものがあり、それぞれ、「bulb」、「candle」という。さらに、それぞれ大中小があり、蛍光灯(fluorescent lamp)があるというわけで、店に行ってこれらを誤りなく注文するのは、大変なことである。

 それでも、そのうち何とか理解できるようになり、さらにはある日のこと、「英語の夢」を見てしまったのである。それ以来というもの、頭の中でも英語で考えるようになり、しかも驚いたことに、どの環境に放り込まれたかによって、これが使いわけられるようになった。つまり、日本人の間にいると、もちろん日本語で考え、しゃべっている。ところが、現地の人の間にいると、英語で考え、かつ話すということが、ごく自然にできるようになった。これは、別に才能というものではなく、私は、小さい頃から父の転勤に伴って国内ではあるが各地を転々としたので、たぶんそのせいで言語環境への慣れが早くなったのではないかと思っている。

 当然のことながら、相手によって、別に考えもしないで、自動的に英語か日本語が出てくるようになった。しかし、考えてみると、現地の中国人つまり華僑たちも、同じことをやっているのである。相手によって、英語、広東語、福建語、北京語、インドネシア・マレー語、タイ語、場合によりタミール語などをしゃべり分けるのである。それに比べれば、こちらはたった二カ国語であるから、たいしたことはないのである。

 ある日のこと、日本の「たいそう偉い人」がやってきた。そばにぴったりと寄り添っていたのは、英会話の時間で有名な、サイマルの某氏である。写真で見た巻き毛が頭にからみついている。そのまま、当地の政治家に会いに行くから、私も道案内にお供せよということで付いていった。現地に着き、めでたく会談が終わり、彼は通訳として活躍した。その政治家の英語は、なかなかわかりやすかったのである。ところがその晩、パーティとなり、大勢のお客が招待された。そこでこの通訳氏は、パニック状態に陥った。何しろ、来る客人たちの英語が彼には理解できないものだったからである。そこで、差し出がましいがと断りつつ、私が通訳をし、この人はそばで小さくなっていた。

 それからさらに日が経ち、あるパーティの席で、日本の銀行員が私のしゃべる英語を聞きつけていった。「ここにいると、英語が日に日に下手になるような気がしますよ、あなたもいま、『Long time no see you.』といいましたよね。気を付けた方がいいですよ。」

 私はそれ以降は反省をし、日本に帰国した後は、東南アジア英語を全く忘れるように努めた。ちょうど、アメリカ人たちとの交渉ごとがあり、それが2年ほどにわたったので、米語に慣れるいい機会があったからである。ところが悲しいかな、その相手にはテキサスの人が多かったらしい。「I think」というところを「I tank」という輩が多くて、困ってしまった。話は飛ぶが、そういえば、この間ちょっと話をしたオーストラリア人は、「todai」とか「Saturdai」とかいっていた。私は、いつになったら、標準語たる英語に出会えるのか、いや、もしかすると、このインターネット時代には、もはやそういうものは存在しないのかもしれない。





【後日談 1】

 実はこの話には後日談がある。最近アメリカの映画を何本か見ていたら、立て続けに『Long time no see you.』と言っている場面に出くわした。それも、教養ありそうな人が言っていたのである。何のことはない、これはアメリカではごく普通の表現らしい。よく考えてみると、私に有り難い忠告をくれたこの銀行員の人は、ロンドンで働いていたというから、あまりアメリカ英語はご存じなかったらしい。だから私は、本来それほど卑屈になることはなかったのである。




【後日談 2】

 更にまたこの話に後日談がある。最近のSNSによると、「long time no see」というのは、中国語の「好久不見(お久しぶり)」の直訳であるから、中国人の間で「そんな恥ずかしい表現はやめようとか、いや中国風英語もそれなりにあっても良いではないか」という議論があるという。そうすると、先日、私が見たアメリカの映画でしゃべっていたのは中国系アメリカ人かな・・・いやいやそうには、見えなかったけれども、やや記憶は曖昧である。この表現は中国人以外を相手にするときは、やはり、しない方がよさそうだ。




(平成12年11月3日著)
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