先日、家内が聞いているラジオの英会話を、私も傍で何気なく耳にしていたら、面白い話をしていた。アメリカ人の会話形式で、ある奥さんが話をしている場面である。細かいところの表現はともかくとして、およそこういう内容だったと記憶している。 「親戚の女性からパソコンの件でしばしば私に電話を掛けてきて、その都度つまらない内容に長時間付き合わされて、ひどい目に逢っている」と、こぼしている。 それは一体どういう用件だったのかというと「家のパソコンがウィルスに感染してしまい、どうしたらいいのかとパニックになって電話してきたり、その前はソフトを買ってきたが、インストールの方法がわからないなどと言っているのよ。やんなっちゃう。」という。 そして、その次に言っていたことが、まさに、目から鱗のような言葉だった。 「つい2〜3年前に、デジタル・ディバイドという言葉がはやって、インターネットの普及によって、これを使える人と、そうでない人との社会的格差が出てくることが問題になってきたのよね。そのときのメルクマールは、『電子メールが使えて、ブラウザでウェブ画面を閲覧できる』というものだったわ。」 「しかし、いまやニュー・デジタル・ディバイドが出来ちゃってるのではないかしら」。つまり、「パソコンやインターネットの仕組みを利用して、それを活用できている人のことね。ウィルス対策やソフトのインストールも知らないようじゃ、おしまいね。」などというのである。 私は、全くその通りだと思った。確かに世の中、かつての電子メールやブラウザの閲覧程度から一歩も二歩も進んでいる。中にはビジネスにしっかり活用している人もいて、つい先ごろテレビを見ていると、「楽天」に出店して何億円もかせいでいる人たちのパーティなるものを写していたし、ブログで横のつながりを作って月百万円もの収入があるソーホーの女性というのも報道していた。 はてそれでは、私自身はどうだろうと振り返ってみると、このホームページを作る程度の知識はあるが、そのほかといえば、航空券や電車の切符の予約、文章を書くときの用語や知識の調査、時刻表の下調べ、お店の予約と行き方の確認、報道機関の比較などというのが個人的な使い道である。もちろん、仕事にも使うが、法令集や判例集は専門のCDがあり、専らそれを使っているので、インターネットで調べるようなことはあまりない。まあ、このホームページがあるから、それに免じてどうやらニュー・デジタル・ディバイドの壁は乗り越えているのではないかと思う。 しかしその後、世の中の人々と、それに支えられているインターネットの世界は、本当に進んでいると実感したことがある。それは、先日、家内が病院に行ったときにたまたま耳にした入院患者の話である。その人は、岐阜県から出てきて都心の病院に入院したのであるが、その入院に至った経緯はインターネットなくして考えられなかったというのである。それは40歳を過ぎた主婦だったのであるが、体の調子がおかしくなって岐阜県内の病院で検診したところ、脳下垂体の癌らしいと診断された。しかも、かなり進行していて、このままでは時間の問題だと宣告された。そこで驚いて、インターネットで必死になっていろいろと調べたところ、この病気を専門にしている医者がみつかった。しかもその人に電子メールで直接に連絡をとったところ、ご親切に電子メールでアドバイスをしてくれたのだとのこと。そして、求めに応じて患部の写真を送ったら、これはすぐ手術した方がいいということになり、二人の子供さんを義母に預けて年末に岐阜から出てきて入院した。そして手術は成功し、これでしばらくは大丈夫と言われたという。 もうこうなると、「ニュー・デジタル・ディバイドなんて言うけど、そんなものは、たかがパソコンのオタクの世界ではないか」などと馬鹿にしてはいけない。今やその区切り線は、ひょっとして、人の生命までをも左右する大きな壁になってきているのである。 (平成17年1月24日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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