This is my essay.







川越祭りの華やかさ( 写 真 )は、こちらから。

 ふと思い立って、家内と一緒に、埼玉の川越に行って来た。というのも、つい最近開通した大江戸線が、どうにもこうにも客足が伸びないというわけで、東京都の交通局が西武鉄道とともに、その販促のために宣伝していたからである。キャッチフレーズは、『東京の「大江戸」から川越「小江戸」に行きませんか』などというものである。それに乗せられてしまう我々もどうかと思うが、まあ、そのパンフレットにあった不思議な蔵のようなものが、気にかかっていたということもある、と言い訳しておこう。

 新宿より西武新宿線の特急で約45分近く乗っただけで、もう着いてしまった。小旅行気分で、車内で食べる軽食を買って、それを食べ終わったと思ったら、本川越という声を聞いた。旅というのも気恥ずかしいが、新幹線だと、ちょいと「こだま」に乗って熱海までといったところである。

 さっそく車内のパンフレットで仕入れた知識によると、ここ川越は、江戸時代はあの柳沢吉保や酒井忠勝が城主だったところである。明治になり、川越は穀物の中継地、タンスや織物の産地として栄えた。この町のひとつの名物は京都の祇園祭のような山車で、たとえば1889年には六軒町の山車が造られている。

 ところが、1893年(明治26年)には川越大火に遭って、町の三分の一が消失してしまった。これより、川越商人は、耐火性のある「土蔵造り」というものに注目し、これで町並みを整えていった。別名を蔵造りというこの建築様式は、元々は江戸時代の商家の耐火建築であるが、現存の多くはこの川越大火以後に建てられたものという。 そして、この町並みのシンボルともいうべきものが「時の鐘」である。これは、川越城主であった酒井忠勝が作らせたもので、城内に加えてこの蔵造りの町並みの中にも作らせた。現存するものは二代目にあたり、川越大火の翌年に建てられたものである。

 というような俄づくりの知識を仕入れたあとで、ちょっとつまんでうとうとしている間に、もう川越に着いてしまったというわけである。駅に降り立ってみると、いやあ何というか、ふつうの町でした。ただいつもと違うのは、成人式の日だったので、着物姿の若い女性が多くて、地方色を感じてしまった。都内ではもう、お正月や成人式の晴れ着など、あまり見かけなくなってしまっている。ところで、こうした成人の若い女性たちも、そのまましゃなりしゃなりと歩いているのなら、まあよく似合っているといえる。しかし、中身が現代女性であることは隠しようがない。袖口を押さえて隠そうともせずに、そのままむき出しの両腕を上に突き出して友達に力説する子やら、「わあっ」と喚声を挙げて急に走り出す子やらで、もう何が何だかわからない状態である。着物の着付学校の先生が見たら卒倒しそうな風景である。

 そういう現代着物女性が次々にやってくる方向に、蔵造りの町並みがあるらしい。仕方がないので、着物の人垣の流れに逆らって歩き出した。観光用のバスがあるらしいが、地図で見ると、15分もかからないようである。というわけで、車が通り過ぎる中を家内と二人で歩き出した。商店街を抜け、二股の道を通り、どんどんと行くと、ありました、ありました。遠目で見ると、やっぱり土蔵そのものである。二階の窓なんて、時代劇に出てくる質屋のものとそっくりである。ところが一階は、まあ普通の商店であり、そのアンバランスが何ともいえない。ところどころが歯抜け状態になっていて蔵造りの家が続いていないのは残念であるが、まあまあこれだけ残っていれば、上出来であろう。

時の鐘

 あれっ、あそこは大きい蔵だな、と思ったら、何とコンビニのサンクスである。屋根は瓦葺きで、紺色で風情のあるのれんを吊していて、うまく周りの風景に合うように配慮しているらしい。そういえば、昔モリブというアメリカ西海岸の観光地に行ったときに、マクドナルドがあのけばけばしい色を使わないで、周りの町並みに合わせて、店舗の外見を茶色にしていたことを思い出した。いいことである。

 見つけた、ありました、時の鐘が。しかもちょうど三時だったので、鐘の音が聞こえた。なかなかの冴えた音色である。高さはというと、16メートルらしい。明治のはじめだと、物見櫓の役割も果たしたのかもしれない。その時の鐘の前の店で、いろいろな豆を売っていた。そこで家内は、東京ではめったに見ないという大振りの豆を買い求めていた。升で掬って漏斗で袋に入れて買うのである。小さい頃、商店はそういう売り方だったことを思いだした。

 帰り道、別の商店街をぶらぶらと歩いて駅まで戻ったのであるが、その道すがら、米屋があり、そこで「古代米あり升」なんて、昔なつかしい札が下がっている。ふと見ると、黒い米と赤い米である。ちょうど最近、NHKの日本人のルーツ探しの番組をやっていて、赤い古代米(ジャポニカ種)のことをやっていた。今でも、隠岐あたりで先祖代々これを作っているらしい。へえっと感心していると、家内が買っていこうという。お店の人に聞くと、赤い米と普通の米を1対6の割合でたくと良いという、試してみることとした。その結果はというと、赤い米はやや固めに仕上がるものの、何の変哲もない味である。黒いお米はといえば、炊きあがると紫かがった真っ黒で、何も知識がないと、正直いってあまり食べたいとは思えない色に仕上がる。味も、別に変哲もないといったところで、そりゃあ、ササニシキに比べれば、味は落ちる。やっぱり、現代米の方がよい。

 というわけで、江戸と古代を堪能した不思議な一日だった。




(平成14年 1月31日著)



川越祭りの山車


 さあ、秋だ、秋だ。秋といえば、祭りのシーズンである。もちろん、夏祭りも捨てがたい。あのうだるような暑さを吹き飛ばす爽快感が、何ともいえないからである。しかし、祭りは何といっても秋ではないだろうか。もとより日本は農村国家であったので、収穫をお祝いする村祭の伝統がどこにもある。しかし、商業で栄えた古い町のお祭りというのは、単なる盆踊りの域を超えたものがある。その点、江戸の雰囲気を残している川越の祭りはどうだろうかと、ふと思った。川越を前回訪ねたのは、3年前の1月の寒いときで、その古き良き町並みに感じ入ったところである。普段のときですらこうして感激するのだから、川越祭りというのは、さぞかし素晴らしいものに違いないと思って、秋祭りの季節に行ってみた。すると、期待に違わず、川越祭りというのは、誠に見事であった。

 小江戸と称する川越は、江戸時代はこの辺りの産物を江戸に運ぶ水運の拠点として栄えたようである。1651年に城主の松平伊豆守の勧めにより始まり、年々隆盛になって、傘鉾形式の江戸山車を先頭に踊り屋台や底抜け屋台が練り歩いた。明治になると、山車が主体となった。明治26年の川越大火にもかかわらず、祭りは江戸以上に隆盛になり、山車の囃子台が360度も回転する独自の機構も始まった。山車の最上段には牛若丸、浦島、道灌、龍神などの人形を置き、これがその山車のテーマとなる。その下に四方に幕を張った上段があり、さらにその下に唐破風または欄間のある囃子台を有し、そこに五人囃子と舞い手が登る。流儀は、王蔵流、芝金流、堤崎流に分かれているという。

 見ていると、まるで日本舞踊と狂言を合わせたような感じで、しかもリズムに乗って当意即妙にやっている。このような伝統芸能が今もなお生き続けていること自体が、すばらしいではないか。



川越祭りの山車





(平成17年10月15日著)
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悠々人生・邯鄲の夢





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