私が中学2年生になったばかりのころ、それまで住んでいた日本海側の町を離れて、名古屋に引っ越しをした。そのとき私は、心底から「ほっとした」のである。というのは、私はその日本海側の町で、さんざん言葉のことでいじめられたからである。私は小学校3年生のときに神戸からその町へ移ってきたが、そこは全くの別世界で、まわりの人々が何の話をしているのか、さっぱり何にも理解できなかった。それどころか、私が何か話しはじめると「おまえのしゃべるのはラジオのことばだ、生意気だ。」というわけである。そのとき、私ははじめて方言というものがあることを実体験した。それまで私のいた神戸の須磨というところは、今から思うと関西といっても転勤族が大勢いたせいか、しゃべる言葉は完全に標準語であった。だから、日本海の地元の子供にとっては、それはアナウンサーの話す「ラジオの言葉」だったのである。 しかし、吸収の早い子供のころであるから、地元の言葉は2〜3ヶ月もしないうちに理解できるようになった。ところが、私は話す言葉だけでなくその発想や行動も、地元の子供にとっては、何かしら気にさわるものがあったらしい。今でいう、いじめ状態が恒常化した。しかし、私も小さいながらも人間であるから、そのいじめのガキ大将に真っ向からむかっていったりもしたが、その取り巻きがいつも何人かいて、一人と数人では多勢に無勢で撃退されるのが通例であった。 そこで、この連中をどうかして見返してやりたいと常々思っていた。体力は自信がないものの勉強があるさというわけで、あらゆるテストの機会をとらえて猛勉強をし、ともかくクラスで一番になることを狙った。一番の生徒でいると一応は目立つので、先生からも常時目をかけてもらえて、放課後に突然なぐられるという憂き目に合うこともないだろうと、私は必死だった。そのようにしていたところ、ある日テストがあった。それは、○と×の回答を細長い用紙に記入するというものであった。10問かそこらの短いテストだったが、たまたまそのガキ大将の解答用紙が私の前を通り過ぎた。それをのぞき込んだところ、あまりのことに驚き、かつあきれてしまった。そのガキ大将の回答は、×が並ぶべき所を○を並べるなど、私のものとほとんど正反対だったからである。それ以来、この連中にたとえ殴られても、少しも痛くもかゆくもなかった。 しばらくすると、私にも近しい友人が二人できた。ひとりは、やはり転勤族の子供で、私と同じく標準語でしかしゃべれない子である。ただこの人は体操が非常に得意で、体育館の高い鉄棒を使って大わざを披露し、女の子の注目の的であった。この人も、得意技を生かして、いじめから逃れていたくちであろう。もうひとりは地元の国鉄職員の子で、非常に人柄がよく、私がいじめにあって意気消沈していると、なぐさめてくれたりもした。今でも、とても感謝している。ところが世の中とはおもしろいもので、私が小学校5年生のときに引っ越していくこととなって、この人とはそのまま別れた。その後は全くの音信不通という状態が続いた。ところが、それから約10数年後に、何ということか、同じ職場に配属され、再びコンビを組むこととなった。うれしいことに、張り出された名簿の私の名前を見て、すぐに思い出してくれたのである。 いささか長い話となったが、そういうわけであるから、父から「今度は名古屋に引っ越す」と聞いて、地図にも大きく載っている大都会だから、もう言葉でいじめられることはなさそうだと思ったのである。心の中に、すっきりと暖かい安堵感が広がっていった。 トラックが来て、荷物が積み込まれ、我々も名古屋へと自動車で向かった。今や記憶はおぼろげであるが、どこかで泊まって翌日に新しい家に行き、荷物の運び入れを手伝った。家の中の片づけがあらかたが終わり、やれやれと思って私は外に出てみた。そのとき、向かいの家の勝手口が開いて、おばあさんが出てきた。そして、私に向かってこういったのである。「おみゃぁさよぅー! でょーきょから、きょーらしたぁ?」 私は、「ああ、また始まった」とがっくりしたのである。 憂鬱な気持ちで新しい学校に行ってみると、じゃんけんをやるのに「いんじゃん ほい」とやっているし、先生は、「たわけー」と叫んでいる。いずれも何だかさっぱりわからない。これは困ったところに来てしまったぞと思っていると、友達とは意外に標準語が通じるではないか。幸いなことにその地区は、千種区といって転勤族の家が多いところだったのである。純粋な名古屋弁を操る生徒がかえって肩身を狭くしていたのには、笑ってしまった。こうして心の余裕が生まれたからであろうか、私も名古屋弁の洗礼を受けて、徐々にその影響を受け始め、「そんなこと、あらせんもん」などと家で言い始めた。その名古屋からも私は18歳のときに離れたままとなっている。今となっては、日本海側の町の言葉はもう一切覚えていないが、このころに影響を受けた名古屋弁だけは、まだ記憶の端々に存在するのである。私にとって、これがふるさとの訛りとなる。 典型的な名古屋弁をあげてみよう。ただし、これはいまや高齢の人か、あるいはかなりの「郡部」でしか通用しないのではないだろうか。これを見ると、つくづく名古屋という町は、日本一の田舎町だと思う。しかし、だからこそ、なかなか「かわいい」ところのある町なのである。 (平成12年10月23日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) 新潮文庫「名古屋学」(岩中祥史著 平成12年2月を参照させてもらいました。)
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