悠々人生エッセイ








目 次            
       
 1    ギリシャ文明への憧れ
 2    メテオラ奇岩群に仰天
   (1)聳える奇岩上の修道院
   (2)アギオス・ステファノス修道院
   (3)ヴァルラーム修道院
   (4)郷土料理ムサカの味
 3    神々の宿る街デルフィ
   (1)禊用カスタリアの泉
   (2)世界のへそデルフィ
   (3)デルフィ考古博物館
   (4)ディオニソス神の像
   (5)美男子アンティノウス
   (6)生身のような御者の像
   (7)巫女さんはトランス状態
   (8)古代ギリシャの宝物庫等
 4    暑いアクロポリスの丘
   (1)パルテノン神殿の夜景
   (2)アテネのアクロポリス
   (3)パルテノン神殿の威容
   (4)凱旋門とゼウス神殿
   (5)オリンピックスタジアム
   (6)アテネの渋滞対策の話
 5    ミコノス島に行くはずが
   (1)ミコノス島への船便が欠航
   (2)早目にサントリーニ島へ
 6    絵になる島サントリーニ
   (1)カルデラで三日月形に
   (2)中心部フィラの絶景
   (3)第2の街イアの絶景
 7    新アクロポリス美術館
 8    後 日 談
   (1)パスポートだけでチェックイン
   (2)ドーハ空港の遅い掲示板
   (3)日本とギリシャの最高気温



1.ギリシャ文明への憧れ

 ギリシャ文明といえば、民主主義が産声を上げた地、洗練された大理石の彫刻、プラトンやアリストテレスなど現代につながる哲学や科学、更にはオリンピックの発祥の地等で有名である。それに加えて、エーゲ海は風光明媚な地としてよく知られている。そこで、ギリシャ本土のみならず、風光明媚なエーゲ海を巡る阪急交通社のツアーがあった。

 カタール航空機0809便で成田空港を17時25分に発ち、10時間55分乗ってドーハに現地時間22時20分に到着した。そこで大阪からの添乗員と合流して再びカタール航空機0211便で02時30分に発ち、4時間30分後にようやくアテネ着となった。



 直ぐにバスでギリシャ中部に向けて出発した380kmも北上する途中、カメナ・ブルナという海岸リゾートに到着した。ここは、海岸線の波打ち際にビーチパラソルが並んでいて、道路の向かいのレストランから飲み物や食べ物を運ぶという趣向で、海水も綺麗で透明度も高かった。

 昼食にスパゲッティを頼んだが、まあまあ美味しくいただいた。合わせて、生のミックスフルーツサラダも頼んだが、西瓜、早桃、林檎メロンなどがぶつ切りで入っていて、その形は味気ないものの、これも美味しいものだった。



 次に、スパルタ王レオニダスの記念碑に立ち寄った。テルモピレーの丘という古戦場で、紀元前480年に南下してきたペルシャとスパルタが激突した。

 20万人といわれるペルシャ軍に対し、ギリシャの英雄レオニダスは300人という寡勢でよく戦ったものの、最後は裏切りによって敗北し、全員ここに散った。まさにこれは、映画「300」の世界だ。

 「旅人よ、行きてラケダイモン(スパルタの別名)の人々に伝えよ。我ら命(めい)に服して、ここに眠ると」・・・これは、この戦いで散ったスパルタ兵を称えるために、戦場跡に建てられた記念碑に刻まれた碑文である。

 うーん・・・いかにもギリシャに来たという気がする。ちなみに、テルモピレーには、温泉が湧くらしい。


2.メテオラ奇岩群に仰天

(1)聳える奇岩上の修道院

 ギリシャ中部のテッサリア地方のカランバカ(Kalambaka)という街に着き、そこでホテル・アマリア・カランバカにチェックインした。



 ここテッサリア平原には、まるで積乱雲のごとくモクモクとそびえ立つ奇岩群がある。カランバカの街から、それらを見上げることができる。高さは地上から20mから600mもある。それだけでも十分に奇観なのに、そのいくつかの頂上に建つのは、何とまあキリスト教の修道院なのだ。これらは、まるで空中に浮かんでいるかのように見え、その「メテオラ(Meteora)」という名称は、文字通りギリシャ語で「中空に浮く」を意味する。



 かくしてこの「メテオラ」は、自然の造形美と人々の信仰心が織りなす、世界でも類を見ない絶景である。ユネスコの世界複合遺産にも登録されている。

 最盛期には24もの修道院があったようだが、現在も拝観可能な修道院は6つだけが生き残っている。それぞれ異なる特徴や見どころがある。

 もちろん、修道院は、修道士たちが俗世から隔絶された信仰生活を送るために築いたものなのだが、元々はイスラム教徒のオスマントルコに圧迫され、行き場を失ったキリスト教の聖職者たちがやむを得ず移り住んだという言い伝えが残っている。

(2)アギオス・ステファノス修道院

 最大規模のメガロ・メテオロン修道院が、残念ながらこの日は宗教行事で閉められていたため、別の修道院を見学することにした。あの奇岩の山を見上げて、「あんなところに登るのか」と、げんなりしていたら、バスは山道をどんどん登っていき、気がついたら修道院のすぐそばまで来てしまった。これは、ラッキーだ。



 それでやって来たのが、アギオス・ステファノス修道院(Agios Stefanos Monastery)という尼僧院。こちらはアクセスしやすく、車を降りて直ぐ目の前のほんの10mほどの橋を渡るだけで入ることができる。昔はこんな橋はなかったので、聳え立つ奇岩を登るしかなかったようだ。

 入ってみると、受付や土産物の店番はもちろん修道女さんたちで、いつも笑顔を絶やさず、愛想はとても良い。構内には、あちこちに猫がいて、のんびり昼寝をしていたり、松ぼっくりで遊んでいたりと、見ていて癒される。



 礼拝堂などに入室すると、ギリシャ正教に特徴的な愛想のない宗教画の数々が迎えてくれる。フレスコ画だが、最後の晩餐、キリストの処刑とその復活、龍が火を噴く地獄等々である。このあたりは、残念ながら撮影禁止だった。

 余談ながら、手で身体の前で十字を切るときは、カトリックの場合は上→下→左→右の順であるのに対し、ギリシャ正教では上→下→右→左だという。また、カトリックの場合はマリア様はまだ人間的な表情があるが、ギリシャ正教では、マリア様もあるが、概して聖人の顔が多く、それも何というか定型的な固まったような顔つきをしている。かくのごとく、同じキリスト教でもいろいろな違いがあるものだ。



 建物の外に出ると、眼下にカランバカの街並みを一望できる絶景ポイントがあり、今いるこの場所はこんなに高い所にあるのかと改めて感じる。尼僧院らしく、あちこちに花が植えられている。中でも凌霄花(ノウゼンカズラ)のオレンジの花は、青い空の下で補色関係にあって実に美しい。

(3)ヴァルラーム修道院

 次に訪れたのが、ヴァルラーム修道院(Varlaam Monastery)である。ここは先ほどのメガロ・メテオロン修道院に次ぐ規模を誇る修道院である。こちらは、門をくぐってから120段の階段を登る必要がある。ちょっとした運動だ。ここは、男性修道僧の修道院である。




 建物の中はここも先程のアギオス・ステファノス修道院と同様に撮影が禁じられているが、美しいフレスコ画や貴重な宗教遺物、例えば聖人の頭蓋骨などが展示されていた。



 面白かったのは、この修道院には、かつて荷物の運搬に使われていた滑車や吊り籠があったことで、そう言えば映画の007にこの場面があったことを思い出した。

(4)郷土料理ムサカの味


 平地に降りてきて、カランバカのレストラン(タベルナ)に立ち寄り、昼食をとった。その時のメインディッシュが、「ムサカ」という郷土料理だった。茄子と挽肉とチーズをパイ風に焼いたもので、四角に切り分けてある。それだけでも結構なボリュームなのに、その前に出てきたサラダで既にお腹のかなりの部分が占められていたから、惜しいことに肝心のムサカを残す人が大半だった。


3.神々の宿る街デルフィ

(1)禊用カスタリアの泉

 3日目となるこの日は、昼過ぎにバスでメテオラを出発し、4時間後にデルフィに着いてホテル・アマリア・デルフィにチェックインした。

 その直前には、「カスタリア(Castalia)の泉」に立ち寄った。これは、ギリシャ中部のパルナッソス山麓にある古代都市デルフィに存在した霊泉で、アポロン神殿の聖域に隣接する場所にあった。


その役割は、後述するデルフィの神託に訪れた参拝者や、神託を告げる巫女(ピュティア)が、アポロンの神域に入る前に身を清める場所として使われた。今では、泉の跡地には石組みの遺構が残っているにすぎない。

(2)世界のへそデルフィ

 現代のデルフィは、パルナッソス山の南斜面に位置するごくごく小さな街である。斜面に並行に並ぶたった三筋の小さな道の、その両脇にある街に過ぎないが、メテオラと並んで世界遺産となっている。

 というのは、古代ギリシャにおいてこの地は「世界のへそ」と信じられ、アポロンの神託が行われた聖地となっていたからである。

 その神域の成立は紀元前8世紀に遡り、それから紀元4世紀にかけて、ギリシャ世界で最も重要な聖域の一つとされていた。人々がギリシャ各地からこの地を訪れ、未来の予言や人生の指針を求めてアポロンの神託を受けたという。

 この神託は、個人の人生の悩みから各国の指導者や王による戦争や統治、植民地の建設まで、ありとあらゆる事柄に及んだという。

 加えて、ここデルフィでは、アポロンを讃える「ピュティア大祭」が4年に一度開催され、音楽、演劇、体育競技が行われた。これは、ギリシャ世界では古代オリンピックと並ぶ重要な祭典として位置付けられていた。

(3)デルフィ考古博物館

 デルフィにある考古博物館は、この地域の遺跡で見つかった貴重な発掘品の数々が展示されている。ギリシャ文明の最盛期には、ギリシャ各地に作られたアテネその他の都市国家が、デルフィに奉納した品々を収納する宝物庫を持っていた。




 それらが長い間に朽ち果て、収奪され、またローマやオスマン・トルコの支配を経て散逸し、20世紀初頭に至っては、これらの地区の上には貧しい家々が建てられていた。そこに、フランスの探検隊がこうした家屋を一掃して発掘を行い、貴重な考古学上の発見をし、それらが展示されているのが、この考古博物館というわけである。

(4)ディオニソス神の像

 印象に残った展示物を見ていくと、まずは「ディオニソス神の像」である。この像は、紀元前4世紀に建設されたアポロン神殿の西破風(西側の屋根の妻飾り部分)の中央に置かれていたものだという。アポロン神殿は、デルフィがアポロンの神託所として知られる中心的な場所であったため、非常に重要な建物だった。


 ギリシャ神話の中で、ディオニソス神は、ブドウ酒と酩酊、狂乱、そして演劇の神として知られている。一方で、デルフィの守護神であるアポロン神は、秩序、理知、音楽の神である。一見すると対照的な二つの神ではあるが、古代ギリシャの信仰では、アポロン神が留守にしている冬の3か月間、デルフィの聖域はディオニソス神が守護するとされていた。だからこの像は、その信仰を具体的に表すものとされていた。

 ディオニソス神の像の周りには、「テイアデス(Thyiades)」と呼ばれるディオニソスの巫女たちが歌い踊る姿の彫刻が飾られていたそうな。そしてこの像そのものは、まるで美しい女性と見間違えるほどの柔らかな顔をしている。

 他方、アポロン像は理知的で冷静な印象の顔として表現されるだけに、それとは全く対照的に、激情的な芸術の神としてのディオニソスの側面を表現していると言われている。

(5)美男子アンティノウス

 若い美男子の像があった。これは、ローマ皇帝ハドリアヌスの愛人であった「アンティノウスの像」とのこと。彼は、紀元2世紀にハドリアヌス帝の寵愛を受け、帝国の巡察に同行するなど、皇帝にとって非常に重要な存在だったという。


 しかし、紀元130年頃、わずか19歳という若さで彼がナイル川にて溺死するという悲劇的な事件が起こった。ハドリアヌス帝の悲しみは深く、彼はアンティノウスを神格化し、各地に彼の像を大量に作らせた。その一つが、ここデルフィにあり、それを掘り出したというわけである。

(6)生身のような御者の像

 ここデルフィ考古学博物館の白眉が、「デルフィの御者像」である。このブロンズ像は、古代ギリシャ彫刻の最高傑作の一つとされており、その精巧さと保存状態の良さで知られている。

 紀元前474年頃の初期古典期の時代に制作され、シチリア島のゲラのタイラント(君主)であるポリュザロスが、ピュティア祭の戦車競争で優勝したことを記念して、アポロン神殿に奉納したとされている。


 この像は、1896年にここデルフィの遺跡で発見された。しかも、紀元前373年の地震によって地中に埋もれたため、保存状態がとりわけ良好だった。100体近くあった青銅像でただ一つ、今日に残っている貴重なものである。

 素材はブロンズで、高さは約1.8メートルと、等身大である。もともとは、4頭立ての馬車に乗った御者と、それを引く馬、そしておそらくは馬丁も含まれている大規模な群像の一部だったと思われるが、現在残っているのは、この御者像のみである。

 御者の顔や体つきは非常に写実的である。例えば、瞳にはガラスや石がはめ込まれており、まるで生きているかのようなリアルな眼差しをしているし、唇には銅が象嵌され、より生々しく感じられる。

 御者服のプリーツ(ひだ)が細かく表現され、布の質感や動きすら感じられる。顔付きは、勝利の喜びを露わにするのではなく、静かで厳粛な表情をしている。これは、当時の貴族的な理想と、神に勝利を奉納するという謙虚な姿勢を反映していると言われている。

 技術的にも、当時の高度な鋳造技術を示す貴重な遺物です。複数のパーツを組み合わせて作られている。

(7)巫女さんはトランス状態

 展示品の中に、古代中国の鼎のようなものがあった。何なのか不思議に思っていたら、こういうことらしい。


 これは、巫女さんがこの上に座って使うものだという。この鼎を通じて当地の地中からしみ出てくるガスを吸い込み、それによってトランス状態になり、お告げを話すという。

 面白いことに、それが、どうにも何とでも解釈することができるものらしくて、そこが御神託のミソだったようだ。

 なるほど、そういう仕組みなのかと理解した。というのは、お告げがはっきりと誰にも分かるものだと、もし外れた時はそれが明白だし、お告げを依頼した人からは責任を追及されかねないからだ。

 その点、色々と解釈の余地のあるお告げだと、仮に外れたとしても、それは解釈が悪いと言い逃れができるというもの。なるほど、上手く出来ている。

(8)古代ギリシャの宝物庫等

 デルフィの考古博物館の裏山をせっせと登っていくと、コリント式の柱が立ち並ぶまるでパルテノン神殿を小型にしたような神殿風の建物がある。これは先に述べたフランス隊によってこれ一つだけ再現されたアテネの宝物庫の表門だという。




 なるほど、古代ギリシャの各都市国家は、それぞれこんな宝物庫をここに構えていたのかと、古えのこの地の繁栄が偲ばれる。


 上り坂を更に登っていくと、開けた所に円形劇場がある。ここで、古代ギリシャ悲劇などが演じられていたようだ。もっと登ると、競技場があるそうだが、残念ながらこの日は閉鎖されていた。


4.暑いアクロポリスの丘

(1)パルテノン神殿の夜景

 4日目、デルフィからまたバスに3時間半乗り、アテネに到着した。パルテノン神殿があるアクロポリスの丘を訪れ、イリシアホテルにチェックインの後、夕食はパルテノン神殿のライトアップを見ながら楽しんだ。サマータイム中でも、なかなか暗くならず、ようやく午後8時20分になって太陽が沈んだ。





 ちなみに、私がいたレストランの視界の左側にはアクロポリスの丘があり、右側にはリカヴィドスの丘がある。この丘の頂上まではケーブルカーで上がることができ、そこには教会があるそうだ。

(2)アテネのアクロポリス

 ギリシャの各都市国家にはいずれもアクロポリスがあった。なかでも有名なのは、アテネのアクロポリスで、市街を見下ろす160mの高さの丘に建てられている。

 アクロポリスの丘の歩くところは大理石でできているため、気温が上がりやすく、例えば外気温が42度だと丘の上は45度にもなってしまい、そうすると閉鎖されるという。先週は、まさにそうしたことで、遺跡全体が閉じられたそうだ。ところが、幸いにも私が行ったこの日の気温は36度だったから、何とか見学ができた。

 そんなことで、遺跡に入ったのだけど、いや暑いのなんのって、大変だった。確かに大理石には熱がこもるようだし、その白い表面は太陽光を反射する。しかも、大理石はツルツル滑る。やっとのことで、パルテノン神殿がある平らな頂上部に出た。しかし、神殿の顔と言うべき手前のところは修復中で、足場がかかっていたから、写真映りは良くなくて、その点は残念だったが仕方がない。

(3)パルテノン神殿の威容

 遺跡に入るには、まずはプロピュライアの門をくぐる。これはアクロポリスの正面玄関にあたる大きな門で、神域への入口となっている。





 そして、階段を登って右側にパルテノン神殿がある。これは、アテネの守護神である女神アテナを祀る神殿で、アクロポリスの象徴。紀元前5世紀に建てられたドリス式建築の傑作で、近くで見ると、実に高さがあって、堂々としている。しかしその割には大理石の白さとその優雅な柱のおかげで、不思議と圧迫感は全然ない。



 階段を登って左側にある小ぶりの建物がエレクテイオン神殿である。これはパルテノン神殿といわば相対する位置にある神殿で、6人の乙女の像(カリアティード)が柱の代わりになっているのが特徴。もっとも、これらはレプリカであり、本物は後述の通り新アクロポリス美術館に収蔵されている。

(4)凱旋門とゼウス神殿

 ハドリアヌスの凱旋門という建造物があり、その開口部からパルテノン神殿を眺めることができるる。そして振り返ったところがゼウス神殿である。




 これは、古代ギリシャの主神であるゼウスに捧げられた神殿で、アテネで最も大きな規模を誇る。高さ17mのコリント式の柱がかつては104本あったらしいが、今はそのうち15本が残るのみとなっている。

(5)オリンピックスタジアム

 車窓から、アテネの通称オリンピックスタジアムを眺めた。正式にはパナティナイコ・スタジアムは、紀元前4世紀に古代ギリシャの祭典「大パナテナイア祭」のために建設された競技場跡に、1896年に開催された第1回近代オリンピックのために総大理石で再建されたもの。


 アテネ・マラソンのゴール地点やオリンピックの聖火リレーの式典などで使用されている。今に至るまで、綺麗に保存されている。

(6)アテネの渋滞対策の話

 現地ガイドが披露してくれたアテネのエピソードの中で面白かったのは、アテネの渋滞対策の話である。

 中心部への車両の乗入れ規制をするため、ナンバーが偶数か奇数かで区別しようとしたら、多くの人が両方のナンバーの車を持つようになって、意味がなくなったそうだ。お上に政策があれば、下々には対策があるといつわけだ。


5.ミコノス島に行くはずが

(1)ミコノス島への船便が欠航

 早朝、アテネのホテルからピレウス港に行き、船でミコノス島に行く予定だった。ところが港に着いてみると、今日は強風で運行しないことが判明した。

 これは困ったということになり、いったんホテルに戻った。それで飛行機にするということで待機していたところ、ミコノス島への飛行機は取れないことがわかった。

 そこで次善の策として明日以降に行くことになっていたサントリーニ島に早目に行くのはどうかといくことになり、幸いにもそのチケットが取れた。まさに奇跡的な体験で、個人旅行では、こうは上手くいかなかっただろうと思う。

(2)早目にサントリーニ島へ

 アテネ空港から、スカイエアのプロペア機でサントリーニ島まで38分で着いた。船で行くと3時間かかり、しかも船酔いの危険も考慮すると、この行程は、もう天国だ。



 お昼頃に着いた何の変哲もない空港から、フィラ地区を散歩して、その郊外のヌースサントリーニ・ホテル(NOUS Santorini)にチェックインした。ここは、広大な敷地にヴィラタイプの部屋があり、青く美しいプールがある5つ星ホテルだった。


6.絵になる島サントリーニ

(1)カルデラで三日月形に

 ギリシャのエーゲ海の真ん中辺りに位置するサントリーニ島(Santorini)は、もともと一つの大きな円形の島だった。しかし、紀元前1600年頃に発生した大規模な火山噴火によって、島の中心部が陥没してカルデラを形成し、そこに海水が流入した結果、現在の三日月のような外輪山の一部が残り、それが島となって今に至る。

 ちなみにこの噴火は、歴史上でも最大級の火山災害の一つとされている。これは、哲学者プラトンの著作に出てくる伝説の古代都市で、大地震と大洪水により一夜で消滅した「アトランティス」のモデルになったという説がある。

 現在のカルデラの内側には、ネア・カメニ島とパレア・カメニ島という二つの小さな火山島が浮かんでいる。これらは、大噴火後に再び始まった火山活動によって形成されたものだ。

(2)中心部フィラの絶景

 サントリーニ島の中心地であるフィラ(Fira)は、美しいカルデラの絶景を楽しめ、観光客でごった返す活気あふれる街だ。その風景は、カルデラの絶壁にへばりつく白い壁の家々と青いドームの教会、外側のコバルトブルーの海と豪華クルーズ船が素晴らしく、まるで絵葉書のような美しい街並みが魅力的だ。来るまでは、こんな天国のような街とは思わなかった。




 そうした風景に目をやりながら、迷路のような細い路地を散策したり、お土産屋さんやブティック、カフェ、レストラン、アイスクリーム屋を巡ったりして、リゾート雰囲気を楽しむのがこの街での過ごし方のようだ。

 フィラの街の外れには、崖の上の市街と下の旧港を結ぶケーブルカーがあり、1つ6人乗りの可愛い6つのカートが連なって断崖絶壁を上り下りする。

 それだけでスリリングな体験だが、眼下のエーゲ海や周辺の島々のパノラマビューは素晴らしい。これで下の旧港まで下って、昔ながらの移動手段の「ロバタクシー」に跨って登ってくるというのが定番だ。




 なお、このケーブルカーは1時間に1,200人を運ぶそうだが、クルーズ船がやってきて1隻当たり数千人が上陸すると、とてつもなく混雑する。そういう時は、588段の階段を上り下りするという手もあるが、これは、かなりきつい運動だ。

 フィラの高台に建つ真っ白な大聖堂は「ギリシャ正教会メトロポリタン大聖堂(Orthodox Metropolitan Cathedral)」で、街のランドマークの一つとなっている。その内部は静謐な空間で、美しいフレスコ画が描かれている。





 この教会の前の下にある青いドームの教会、正式名「聖ヨハネ・バプティスト教会(Church of St. John the Baptist)」は、写真の絶好のスポットとして知られている。

 フィラは、後述するイアに負けず劣らず美しい夕日が見られる場所として有名だ。カルデラ沿いのレストランから、エーゲ海の彼方に沈む夕日を眺めたのは最高の思い出になった。


 夕日が見えるレストランでは、タコが美味しいと聞き、注文したところ、大きな太い2本の脚が焼かれて出てきたのにはびっくりした。でも、話の通り、とても美味しかった。また、昼食時に注文したギリシャの代表的な料理であるスブラキ(肉の串焼き)も、なかなかジューシーで美味だった。景色も料理も最高だ。

(3)第2の街イアの絶景

 サントリーニ島の第2の街イア(Oia)は、島を三日月に見立てれば、その先端部にあり、カルデラを西に望む絶好の位置にある。とりわけ、こちらは「世界一美しい夕日が見られる場所」として知られている。


 エーゲ海を見下ろす断崖絶壁に、白壁の建物と青いドームの教会が密集するのはフィラの街と同じで、あたかもスタジオ・ジブリの世界から飛び出して来たような美しい街である。

 イアの街は車両通行が禁止されているため、安心して散策を楽しめる。メインストリートの「ニックノミコウ通り」には、おしゃれなカフェ、レストラン、ブティック、土産物屋、ホテルが軒を連ね、歩いているだけでも気分が良い。あちこちにはブーゲンビリアの赤や紫や橙色の花が咲き誇り、白壁の路地とのコントラストが素晴らしい。




 そうして、細い路地を上がったり下ったり、時折り立ち止まってブルードームの教会や白い家々を撮影しながら、風車の脇を通ってイア城跡(Oia Castle)に至った。




 そこから、階段を下って崖下の小さな港(アモウディ港)を、目指して歩いた。膝が笑うなどの這々の体でたどり着いた港には、新鮮なシーフードレストランが集まっている。そのうちの一軒には、タコの脚が広げられて干されているから、面白かった。





 イアの街には特に有名な青いドームの教会がいくつかあり、写真撮影の定番スポットになっている。とりわけ、メインストリートから少し細い路地に入り、海と崖の家々と青いドームが並んでいる美しい景色は、どこを切り取っても絵になる綺麗な街並みである。つくづく、こんな天国のような島に来て良かったと思った。


7.新アクロポリス美術館

 サントリーニ島からアテネに戻り、時間があったので、新アクロポリス美術館に入った。こちらには、アクロポリスの丘で発掘された貴重な遺物が多数展示されている。



 例えば、パルテノン神殿を飾っていた大理石の彫刻群がある。一部は大英博物館が所蔵しており、新アクロポリス美術館ではオリジナルの彫刻と、欠落部分を補うレプリカが組み合わせて展示されている。




 カリアティード(エレクテイオンの乙女像)は、エレクテイオン神殿の屋根を支えていた6体の女性像のうち、5体のオリジナルが展示されている。残りの1体は大英博物館が所蔵しているので、この美術館内にはレプリカが置かれている。


 クリティオス少年像(Kritios Boy)は、古代ギリシャのアルカイック様式からクラシック様式への移行期を象徴する作品で、柔らかな体の表現が特徴となっている。


 モスコフォロス(子牛を担ぐ男)は、紀元前6世紀の作品だ。子牛を肩に担いだ若者の像で、アルカイックスマイルと呼ばれるわずかな微笑みが目を惹く。

 これが、今回のギリシャ・エーゲ海旅行の最後のハイライトとなった。その他、展示物が充実しているアテネ考古学博物館にも行ってみたかっが、残念ながら時間がなかった。まあ、これだけ見たから、良しとしよう。


8.後日談

(1)パスポートだけでチェックイン

 今回、成田空港で航空会社のカウンターでチェックインをする時、パスポートだけでよいことが分かった。いつもは、パスポートと航空券を一緒に提出していたから、ついチェックインにはその二つが必須だと思っていた。ところが、今やパスポートのみで良いのである。

 なぜこんなことを言うかというと、私の乗る飛行機は17時25分発であり、旅行会社のカウンターには15時25分に来てチケットなどを取りに来いというインストラクションがあった。その数日前に添乗員から掛かってきた電話によると、チェックインは、航空券なしでパスポートだけで良いと言う。

 私はてっきり、旅行会社のカウンターで航空券を貰ってからチェックインの手続きをするものと思っていたから、これには驚いた。

 乗る予定の航空会社はカタール航空だから、成田空港でのカウンターはたぶん「Q」だろう。旅行会社のカウンターは「A」の更に先だから、当初の考えだとあの重い荷物を持って成田空港を端から端まで歩くことになる。そんなことは御免だ。

 ところが、パスポートだけでチェックインが出来るとなると、まずチェックインして重い荷物を預けてからチケットを取りに行けば良いから、かなり楽になる。

 ということで、カタール航空のチェックイン開始時刻を調べてみると、14時24分だ。そこで、これに並んでまずチェックインをし、預け終わったのが14時35分、それからeチケットを取りに行った。

(2)ドーハ空港の遅い掲示板

 世界各地の国際空港には、大画面の電光掲示板があって、そこに飛行機の便名、出発予定時刻、ステータス、ゲート番号などが表示されているのが当たり前である。

 今回のツアーでは、我々は成田空港から飛んできて、ドーハ空港で乗り換えたわけであるが、当然のことながら、ドーハ空港にもそういう電光掲示板があった。

 現地時間22時20分にドーハ空港へ到着し、乗り換えの飛行機の出発ターミナルを探そうと思ってその電光掲示板を見上げた。そうすると、02時30分発は、まだ載っていなかった。02時25分発までは載っているから、もうすぐ載るだろうと思って気ままに時間をつぶして過ごしていた。

 でも、00時になっても、01時になっても、電光掲示板の最新の飛行機は02時25分発のままだった。これはさすがに変だなぁと思って空港のインフォメーションに座っている案内嬢に聞きに行った。そうして、ようやく出発ターミナルが分かった。その時にはもう搭乗時刻の1時間前に近づいていたので、あわててそのターミナルに向かった次第である。

 そうした顛末を添乗員に話すと、「それはよくあることだから、自分は、ターミナル内にある小さな端末に搭乗券をかざすんです。そうすると、教えてくれますよ」との御宣託だった。これで、一つ、賢くなった。

 というわけなのだが、帰りにアテネ空港からこのドーハ空港で乗り換えようとしたら、やはり同じ問題が起きた。電光掲示板には我々の飛行機の表示がない。

 仕方がないので、添乗員さんが言っていた「小さな端末」を探したが、簡単には見つからない。そこで、来た時と同じように空港の案内係に聞いて、ターミナルがやっと分かった。

(3)日本とギリシャの最高気温

 この時期、連日の猛暑が続く日本では、私が日本を立った翌日(2025年8月5日)には遂に群馬県伊勢崎市で最高気温41.8度を記録した。その他、日本国内では40度を超える地域が続出している。

 実は、こんな時に熱暑のヨーロッパに行って大丈夫かという心配が頭の片隅にないわけでもなかったが、いざ現地に着いてみると、最高気温36度、最低気温26度くらいで、猛暑の日本に慣れている身としては、結構過ごしやすかった。特に高地のメテオラでは、最高気温22度、最低気温18度で、寒いくらいだった。

 ところが、そのアテネでも、前の週は最高気温42度という猛暑で、アクロポリスの丘が閉鎖されてパルテノン神殿観光ができなくなったそうだ。

 今年の夏の世界的な酷暑は、北半球の偏西風が南北に蛇行しはじめたことにあるようだ。つまり、北へ蛇行すると「Ω」型となって、そこに南からの暑い風が入ってきて猛暑をもたらすそうだ。だから、ギリシャ上空で起こったその「Ω」型の蛇行が、1週間経って日本の上空に来たようだ。



 ギリシャ・エーゲ海への旅( 写 真 )は、こちらから。






(令和7年8月12日著)
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