悠々人生エッセイ



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         目  次
       
 1    染井吉野の撮影は叶わず
 2    懐かしの銀閣寺
 3    椿の霊鑑寺
 4    原谷苑はハズレ
 5    懐かしの餃子の王将
 6    金閣寺で雨に降られ
 7    龍安寺は石庭より龍の絵
 8    仁和寺の御室桜をまた見逃し
 9    清水寺は外国人ばかり
 10    産寧坂・二年坂で思い出す
 11    円山公園の枝垂れ桜が満開
 12    平安神宮の桜も蕾ばかり
 13    懐かしの京都大学と進々堂
 14    ギオンコーナーは昔の方が良かった
 15    金閣寺の再チャレンジ撮影は成功
 16    三十三間堂の国宝と千体観音は圧巻


 京都へ桜直前の旅( 写 真 )は、こちらから。


1.染井吉野の撮影は叶わず

 このたび、京都で行われた学術研究会に招かれた。この研究会での私の話とそれに引き続く質疑応答そのものは、お招きいただいた大学教授の皆様のおかげで成功裏に終わった。

 それはそれとして、たまたま桜の季節に京都を訪れるのだから、研究会での講演の後、滞在を数日間延長して桜が咲き誇る古都の写真を撮るのを楽しみにしていた。ところが、誠に残念なことに、哲学の道や琵琶湖疏水近辺の染井吉野はまだ蕾で、全然開花していなかった。

 そこで、万やむを得ず「京都へ桜直前の旅」と名打って、こうして記事を書いている次第である。桜がなければ別の花とばかりに、椿が有名だと教えてもらった霊鑑寺に行ってみたら、確かにその椿は種類も多く、とても見事だった。気を良くして、次の日、円山公園に行ってみたところ、思いがけないことに、あの有名な枝垂れ桜だけは満開で、これには大いに満足した。

 今回は、第1日に、銀閣寺→霊鑑寺→原谷苑→金閣寺のそばの「王将」で食事→金閣寺→龍安寺→仁和寺と頑張った。午後には雨が降ってきたが、何とかやり過ごしたものの、やはり雨の中の金閣寺の写真の出来映えは、全然良くなかった。


2.懐かしの銀閣寺

 その第1日の旅は、京都駅から市バスに乗って、まずは銀閣寺に行くことから始まった。銀閣寺道で降り、そこから緩い登り坂を上がっていく。両脇は、土産物屋だ。この道は、過去半世紀の間、全く変わらない。まだ朝の9時を過ぎたばかりなので、お店はポツポツ開け始めたところだ。やがてお寺に着き、拝観料を支払って中に入る。たまたま、「国宝の東求堂の春の特別拝観」をやっていたところなので、後から入るつもりでいた。銀閣寺のHPによると、その概要は、次の通り。

 「正式名称を東山慈照寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。銀閣寺の名の由来は江戸時代、金閣寺に対し、銀閣寺と称せられることとなったといわれています。

 室町幕府八代将軍の足利義政によって造営された山荘東山殿を起原とし、義政の没後、臨済宗の寺院となり義政の法号慈照院にちなんで慈照寺と名付けられました。

 九歳にして家督を、十五歳にして将軍職を継いだ義政は、生涯をかけ自らの美意識のすべてを投影し、東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げました。銀閣寺は美の求道者ともいえる義政の精神のドラマを五百年後の現代にも脈々と伝えています」








 『美の求道者』とは、かなりの表現だなと思いつつ、庭に入らせてもらうと、まず目に入るのが、銀沙灘と向月台、そしてその向こうの観音殿(銀閣)である。銀沙灘は白い砂を横に凹凸を付けて波のように描いて、その名の通り海面を表しているようだ。向月台は、頭を落とした円錐のようなもので、何回見ても、よくこんな造形を考えついたものだと驚くばかりだ。

 もう今から56年も前のことになるが、私が京都で大学に入学した時、私の父母が入学式に来てくれた。そのついでに、3人で大学近くのここ銀閣寺に来て、この向月台を背景に、母の写真を撮ったのは、とても良い思い出だ。久しぶりに、その時の和服を着た母の姿が脳裏に浮かんだ。その時の写真を探してみたら見つかったので、ここに掲げておく。父と私の写真もあった。これは懐かしい。この二人に慈しまれ、見守られて、今の私があると思うと、ただ感謝あるのみだ。



 観音殿は、学生の頃、中に入らせていただいたことがある。一層目を心空殿、二層目を潮音殿というそうだが、近くの銀沙灘と向月台と呼応し合って、これこそ「禅の世界」という気がする。外から見上げると、潮音殿の三つの禅寺風の窓が、何とも言えないほど魅力的だ。

 それから、洗月池に観音殿が映るのを眺め、東求堂の脇から後ろの山を登って観音殿を見下ろし、遠くに京都市内を一望してまた池のほとりに出てきた。さて、東求堂の拝観はどうなっているのだろうと思って聞いてみると、堂内では写真撮影は出来ないと分かって、残念ながら断念した。


3.椿の霊鑑寺

 銀閣寺に別れを告げ、哲学の道を辿って椿で有名な霊鑑寺に行こうとしたが、哲学の道の両脇の染井吉野は一輪も咲いていない。これでは来た意味がないので、曲がりくねった哲学の道を通って行くのは諦めて、直線的に歩いて霊鑑寺に向かうことにした。山裾の道で、左手は崖のような地形だ。

 iPhoneのGoogle Mapを当てにして歩いた。すると「霊鑑寺まで歩いて7分」と出るので、「おかしい。こんなに近いはずがない」と思いつつ歩いて行くと、Google Mapは、「着きました」と言う。ところが、そこは法然院で、霊鑑寺ではない。困ったので、地元の人に聞くと、「霊鑑寺はこの先で、まだまだですよ」と言う。「出た、、、いい加減なGoogle Map。騙されるのは、これで生涯3回目だ」と思った。仕方がないので、試しに、寺の名前ではなくて、寺の住所(京都市左京区鹿ケ谷御所ノ段町12)をGoogle Mapに入れたら、首尾良く正しそうな地点を示した。それに沿って歩いたら、ちゃんと、到着した。「馬鹿と鋏は使いよう」ということか(大笑い)。



 霊鑑寺のHPによると、こう書かれている。「『椿の寺』として知られる霊鑑寺は、承応3年(1654)、後水尾(ごみずのお)天皇の皇女・多利宮(たりのみや)を開基として創建され、歴代皇女が住職を務めた尼門跡寺院。別名「谷の御所」と呼ばれた格式と清楚な佇まいを今に伝えている。

 後水尾天皇が椿を好まれたことから、広い庭内には100種以上の椿が植えられており、日光(じっこう)椿(京都市指定天然記念物)をはじめ、散椿、白牡丹椿、舞鶴椿などが、色とりどりに咲き誇る。後西(ごさい)天皇の院御所から移築した書院は『四季花鳥図』など狩野派の作と伝わる華麗な障壁が飾られており、本堂は江戸幕府十一代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)が寄進したもので、如意輪観音像(にょいりんかんのんぞう)を安置している」








 庭内を歩くと、名前は様々で、色とりどりの椿が咲いている。ただ、同じ木に、咲き誇っている花や、花弁の先端が茶色くなっている花、それにすっかり枯れてしまっている花が同居しているので、その椿の木の全体を写すと、あまり綺麗とは言い難い。そこで、ついつい咲き誇っている花の全体を真ん中に置く、いわゆる「日の丸構図」で撮ってしまうのは、致し方ないところだ。その代わりと言っては何だが、緑が鮮やかな苔の上に落ちた赤い椿の花を撮ると、これだまた実に美しい。中にはそれをハート型に集めておいたものがあり、思わず頬が緩む。





 書院には確かに狩野派らしく豪勢な障壁画が飾られており、檀家らしき方が説明したおられた。その庭にあった椿は、真ん中の黄色い雄しべが長くて大きく、これが、月光椿(げっこうつばき)と言うそうだ。では、京都市指定天然記念物の日光椿(じっこうつばき)はどこかと言うと、入り口付近にあった。こちらは、真ん中の雄しべの部分が赤くて、クシャクシャと丸まっている。これは、周囲の花弁の部分がここに集まり、そうなっているそうな。なお、かつてはここに樹齢400年、高さ8mの日光椿の巨木があったが、2015年に枯れてしまい、これはそれと根が繋がった子木のようだ。


4.原谷苑はハズレ

 霊鑑寺のある左京区鹿ケ谷から、タクシーで一気に右京区に飛ぶ。運転手さんは、そもそも原谷苑(はらだにえん)という存在を知らなかった。検索して「ああ、原谷(はらだに)ですね」と言って向かってくれた。すると、街中の白梅町から山道に入り、クネクネと回る道の果てに、よれよれで壊れかけの入り口があった。

 そのHPによれば、「祖父や父の意志を受け継ぎ、代々、50年余りにわたり、仕事に専念して参りました。北山台杉はもちろんのこと、桜、紅葉などの植木類の育成に従事し、最近は、京野菜の栽培にも真剣に取り組んでおります。見た目はともかく、味質のよいものと、それなりに大好評を持しています。

 ぜひ、村岩農園に来園して頂き、私が、丹精込めて育てている、広大な地所の中でゆったりと育った、苗木、樹木、野菜を注文して頂きましたら、大変嬉しく存じ上げます。

   四代目当主   村瀬 浩司」


 ああ、なるほど、元々は北山杉や桜を扱う植木屋さんだっのか。素人がやっているから、道理で、ちゃんとした設備や案内など全くないし、客あしらいが上手くないはずだ。

 さらにそのHPによると、「苑内は、景観と桜の育成を大切にしているため、舗装されておらず、大きな段差や急な坂道となっております。苑内でのご散策には十分お気を付けてください。車椅子の対応が出来ておりません。また、東門側からは急な坂になります。原谷苑〜御室間は道幅が狭く、離合時の脱輪事故など多発してますので、タクシーご利用の場合は迂回下さいませ」とある。





 しかも、入ってみると、木々に囲まれて、普通のお家がポツンと一軒建っている。当主の家かもしれない。その周りには桜の木がいっぱいなのだが、残念ながら全然咲いていない。わずかに、早咲きの小さな桜が二木あるだけだ。代わりに、馬酔木、雪柳、れんぎょう、ミズキがあるのみ。私のほかには、もう一人だけ入園者がいるだけだ。これは、大きくハズレたなぁと思って、早々に出て来た。

 この辺りには、流しのタクシーなどない。何しろ裏山の谷間を無理矢理に住宅地にしたような地形だ。原谷苑の近くの農協バス停から、立命館大学行きのバスに乗る。しばらくすると金閣寺の塀に沿ってバスが走る。ああ、ここだと思って「わら天神前」というバス停で降りた。


5.懐かしの餃子の王将

 たまたま、通りを挟んですぐ前に、「餃子の王将」があるではないか。懐かしい。もちろんこの店ではないが、私は学生時代に、百万遍近くの「餃子の王将」の京都2号店によく通ったものである。ちなみに、1号店は四条大宮だったと記憶している。それから数十年で全国レベルのチェーン店に育った。2013年に起こった社長の遭難事件を乗り越えて、大きく育っているようだ。

 というわけで、入ってみようと思い、店のドアを開けてみたら、順番待ちの発券機がある。それだけ、客が多いということか、、、その券を手にして待っていたら、すぐに呼ばれた。店員さんも、笑顔を絶やさず、キビキビと動いている。

 私は酢豚が好みなので、その定食を注文したら、餃子が三つ付いてきた。餃子は、とても美味しい。酢豚は、もう少し味が強くても良いと思うが、街の定食としては、まあこんなものだろう。これで、1,050円なのだから、十分だと思って出て来た。


6.金閣寺で雨に降られ

 そこから、金閣寺までは、歩いて10分もかからない距離だ。何歩か歩き出した途端に、ザザザーっと、まるで夕立のような大粒で強い雨に見舞われた。いやはや、これは酷い。そんなこと、天気予報では言ってなかった。

 しばらく雨宿りをしていたが、少し待つと小やみになってきたので、傘をさして歩き出した。ところが金閣寺に着いたら、再び強く降って来た。雨宿りする場所もなく、仕方がないので、そのまま入った。こちらの拝観券は、例の通り「お札」なので、出来れば濡れないようにしたかったが、直ぐにずぶ濡れになってしまった。

 鏡湖池に出て、舎利殿(金閣)を撮ろうとしたが、何しろ大雨だ。これでは、写真どころではない。池の周りを通りながら撮ったが、たぶん雨が映り込んで、良い写真であるはずがない。これは、捲土重来を期すべきところだろう。

 野外の石の階段を上がっていると、雨が滝のように降って、地面が濁流のようになっている。これは引き上げた方が良いと思い、境内から早々に出てきた。


7.龍安寺は石庭より龍の絵

 金閣寺から、歩いて15分ほどで龍安寺に着く。雨も小降りとなる中、ひたすら歩いて着いた。石庭には、大きな四つの謎が秘められているという。それを極めようと、縁側に腰掛けて、庭の石を真剣に眺める。しばらく経つと、良い考えでも浮かぶかと思いきや、そこは素人の故、全く何にも出てこなかった。これだから凡人には禅は意味がないのかと諦めてその場を離れ、背景の建物の中の襖絵を眺める。すると、龍安寺だけあって力強い龍の水墨画ばかりだ。これは、昭和28年から5年がかりで描かれた皐月鶴翁の筆によるもので、今まで何回も来ているが、これほどの力作とは意識していなかった。









 蹲踞(つくばい)の「吾唯足知」(われ、ただ、たるを、しる)の所に来た。同寺のHPによると、これは、「知足の者は貧しといえども富めり、不知足の者は富めりといえども貧し」という釈迦の説法から来ているそうだ。




8.仁和寺の御室桜をまた見逃し

 そこから更に10数分間歩くと、仁和寺に着く。実はまだ雨が降っていたので、あまり考えもなく、お庭だけを拝観する券だけを買ってしまったが、どうせなら伽藍全体の拝観券を買えば良かったと反省したものの、ここまでかなり歩いて来ていて、大層疲れてしまっていたから、結果的にそれで良かった。それに、あちらこちらの伽藍では、建物の大修繕を行っていたから、今は拝観にはあまり適当な時期とは言いがたい。





 なお、以前桜の季節に京都に来た時、ここ仁和寺の御室桜(おむろざくら)がまだ咲いていなかった。今回も同じで、また見逃してしまったことになる。


9.清水寺は外国人ばかり

 第2日は、清水寺→ 産寧坂・二年坂→ 円山公園・八坂神社→ 平安神宮→京都大学→ギオンコーナーというコースである。

 市バスを五条坂で降り、そこから近道だという「茶わん坂」を登って清水寺に行く。これが、かなりの急坂で、昨日17,000歩も歩いた身としては、疲れた。朝からこれでは、先が思いやられると、心の中で苦笑いをする。

 ともかく、清水寺に着き、楼門である仁王門の脇に出た。外国人客であちこちいっぱいだ。それも、中国人、欧米人、ブラジル人、東南アジア人、ムスリムなど、様々だ。

 取り敢えず、西門と鐘楼の間を抜けて三重塔を見上げ、随求堂を通って本堂に向かう。そして、定番の本堂を横から眺める位置に着いて、やっと清水寺に来た気がした。紅葉の季節は、まるで燃え上がるような紅葉越しに本堂が見えて幻想的だ。





 あと1週間でも遅ければ、桜のピンク色に染まるのにと、本当に残念だが、まあ仕方がない。その後、奥の院の真下にある音羽の瀧に立ち寄り、寧々の道を通って北に向かった。


10.産寧坂・二年坂で思い出す

 産寧坂に着いた。相変わらずの急な階段で、その両脇には土産物屋が並ぶ。昔と違うのは、貸し和服屋が、かなり幅を利かせているところだ。こういうお店で借りた外国人で、特に中国人は、よく似合っている。もっとも、歩き方が凄くて、女性でも太腿を露わにして歩く人もいるから、つい目を背けたくなる。



 道中にあった「おたべ人形」に癒されながら、坂を下る。産寧坂が終わる所で、更に右手に下る坂があり、それが二年坂だ。その階段を降りている途中、とある土産物屋が左手にあるのに気がついた。

 20年ほど前、たまたまここで店の正面に展示してあった太めの女性の人形を撮っていたら、店内からその人形そっくりのおばさんが出てきて、相当の剣幕で「撮るな」と言われたことがある。それなら、最初から展示しない方が良いと思うのだが、あまりの理不尽さに呆れて、その場を離れたことを思い出した。今回はどうだろうと観察していたら、人形はほぼ同じだったが、店番は若い兄さんに代わっていた。あれは、一体全体、何だったのだろう。


11.円山公園の枝垂れ桜が満開

 その先が円山公園で、有名な、枝垂れ桜の所に出た。嬉しいことに、満開だ。10年ほど前はたった1本で、しかも樹勢が衰えていたが、今回は樹勢が回復しているだけでなく、その脇に植えられた2本の枝垂れ桜が大きくなって、素晴らしい景観を作り出している。



 幸い、天候も回復して、青空が見え隠れしている。絶好の写真日和だ。早速、写真を撮り始めたが、中国人の団体が邪魔で仕方がない。それだけでなく、和服を来たカップルが和傘まで持って、枝垂れ桜の前で色々なポーズをとっている。考えてみると、この人たちがここに来るのは一生に一度だろうし、私は東京在住だから、いつでも来ることが出来る。だから、空くのを辛抱強く待っていた。そうしていると、ある中国人カップルのうちの女性が、非常に和服が似合う。しかも誰でも撮ってくれとばかりに、ポーズを決めている。周囲の人とともに、撮らせてもらった。



 円山公園を抜けて、八坂神社に入った。露店が多く、相変わらずの賑わいである。そこから、岡崎まで市バスに乗った。京都市内の移動は、Google Mapを見ながら市バスと地下鉄の組み合わせが便利である。バスも本数が多いから、少し待てば直ぐに次のバスが来る。バスに乗ってGoogle Mapを見ていると、今どこを走っているかがよく分かる。


12.平安神宮の桜も蕾ばかり

 平安神宮の枝垂れ桜も満開かと期待して行ったのだが、神苑では、何とまあ、まだ蕾だった。満開なら、さぞかし綺麗だったろうに。


13.懐かしの京都大学と進々堂

 今日は、せっかく平安神宮まで来たので、それでは母校を見て来ようと、足を伸ばした。バスで京大正門前で降りる。

 大学正面からの時計台からの眺めは、あまり変わらない。もちろん、私の頃は大学紛争のあおりで、ぼろぼろだったが、それに比べれば、かなり綺麗になったものの、基本の構造は変わらない。





 中に入って時計台の左手に行く。そうすると、図書館が同じ位置にあるが、これがまたとても綺麗に変身している。私の頃は何の変哲もないコンクリートの建物だったのに、今や外壁のタイルが洒落た煉瓦色で、周囲の景観によくマッチしている。

 法経本館をちょっと眺めて、先を急ぐ。両脇の理学部の建物は、もちろん綺麗になったものの、基本的には建物は同じ構造だ。その前にたくさんあった自転車は、整然と並べられている。

 やがて本部キャンパスを突っ切って、百万遍に出た。道を渡り、喫茶店の進々堂を探す。まだあるはずだ。しばらく行くと、昔のままの佇まいで、あった、あった。昔は、ここで仲間と熱くなって議論を闘わしたものだ。

 いちごのサンドウィッチと、カフェオレを頼んだ時、「こちらには、53年ぶりなんだよ」と言うと、女将は、「まだまだ、昨日は60年ぶりのお客様がおいでになりましたから」と言われてしまった。





 茶色い大きなテーブルは、昔のままだ。後ろにある本のコーナーも、これまた同じ。自宅で読み終わった本を、よくここに寄付したものだ、、、そんな風景を眺めていると、昔々ここに一緒に来た友人の顔を思い出す。あの銀行に行った彼は、ここに座っていたなぁ。弁護士になった彼からも、ここで議論をふっかけられた、、、いやいや、とんだ懐かしの旅になってしまった。でも、こうやって自らの来し方を振り返るのも、悪くはない。


14.ギオンコーナーは昔の方が良かった

 ギオンコーナーは、日本の伝統芸能を観るにはとても便利で、いかにも京都らしい公演だ。そのHPによると、「祇園甲部歌舞練場小劇場では、舞妓による京舞をはじめ、狂言、舞楽、茶道、華道、箏曲、文楽、能など日本が世界に誇る伝統文化や伝統芸能をダイジェストで、約1時間でご覧いただけます」というのが売りである。



 私は前からこのショーが好きで、これで4回目ほどの鑑賞となる。ところが、以前の新聞記事で、「この建物が帝国ホテルに買収され、ギオンコーナーもなくなる」ということだったと記憶していたが、いざ京都に来てみると、このショーがまだ存続していたから、ありがたかった。祇園甲部歌舞練場に行ったところ、確かに左手前で帝国ホテルの建物が建築中だったが、その右手脇を通り抜けて、ずーっと奥の方に案内された。

 ショーが始まった。その始まる直前、カメラ撮影は禁止だと言う。あれあれ、これは予定外だ。前回2014年に来た時は、自由に撮って良かったので、今回もそれを頭に置いて、前から3列目の特等席を買ったのに、残念なことこの上ない。仕方がないので、以下ではその11年前の写真を掲げておく。

 最初は「茶道(さどう)」だ。アナウンスが「ちゃどう」と言うから、気になって仕方がない。舞台に向かって右手にお茶のセットが置かれており、そこに和服姿の女性が2人出て来て、裏千家のお点前を披露する。そしてそのうちの1人が舞台から降りて、その立てられた抹茶の茶碗を見物客の誰かに飲んでもらっている。演じている人たちは、観ていて、いかにもぎこちないのである。例えば笑顔を絶やさないなど、もう少し愛想良くすれば良いのにと思う。これでは観客の大半を占める外国人にとって、ホスピタリティが全然感じられないのではないだろうか。これは、改善するべきだろう。

 次は舞台の幕が上がって、舞台右手では琴の演奏が響く中、左手の和服の女性が、お花を生ける。「箏曲」と「華道」だ。和服姿の女性が、まだ蕾のように見受けられる花が付いている3本の枝をささっと切って、剣山に差し、手早く花を生ける。それを、控えている和服の男性が、恭しく床の間に飾る。この2人も、無愛想この上ない。外国人相手なのだから、これも早急に改めるべきだろう。

 幕が降り、また上がると、「舞楽」になった。赤鬼のような仮面を被り、全て西陣織のオレンジ色鮮やかな衣装を身につけ、笙や篳篥の緩い音楽に合わせて、ゆったりと踊る。音楽はのんびりしているし、舞のテンポはスローなので、まだろっこしくて聞いていると眠たくなる。まあ、これは仕方がない。何しろ千数百年前の舞曲なのだから。ちなみにこの公演では、舞楽「蘭陵王」が舞われたそうだ。

 その次の「狂言」は、最初にこのショーで観るまで、私は観たことがなかった。棒縛(ぼうしばり)という面白い演目である。その解説を敷衍すると、こういうことだ。「いつも主人が留守になると酒を呑む横着者の太郎冠者と次郎冠者がいる。それに気がついた主人は、一計を案じる。次郎冠者に棒の使い方を演じさせ、その隙を見て棒で両手を縛り、酒を飲めないようにしてしまった。それを笑って見ていた太郎冠者についても、油断に乗じて同じく後ろ手に縛る。そして安心して出掛けてしまった。後に残された不自由な二人だが、工夫して壺から酒を汲み、それでもって酔っ払って舞うは踊るはの大騒ぎを繰り広げ、帰ってきた主人を呆れさせる。」いやいや、実に面白い。

 次いで、「能」になる。解説によると、「狂言はそれが成立した15世紀頃の現実の世界を生々とコミカルに表現するのに対し、能は、夢幻の世界や悲劇性を表現する」という。本日の演目は、羽衣(はごろも)で、「天女が漁師から羽衣を返してもらい、喜びの舞を舞いながら、富士山を見下ろして天に昇っていく」場面を演じていたそうだ。

 「京舞」は、江戸期の文化文政の頃に京都で起こり発展してきたもので、品格の高い宮廷風の、優雅で美しい座敷舞だという。特にそれを演じるのが舞妓さんだから、艶やかで豪華絢爛だ。この日は、二人の舞妓さんが出てきて、二曲踊ってくれた。私は、最後の祇園小唄が大好きで、これを祇園で聞くと、京都に来たという感じがする。



 なお、上の写真は2014年のものだが、その時にはあった「文楽」は、残念ながらこの日はなかった。前回、これを見て感動したものだが、遺憾ながら同じく体験をすることは、かなわなかった。


15.金閣寺の再チャレンジ撮影は成功

 第3日は、金閣寺→三十三間堂→京都駅というコースである。この日は、午後2時に新幹線に乗る予定なので、観光は半日しか出来ない。そこで、どこに行こうかと考えたが、一昨日は、雨に祟られて金閣寺の写真が台無しになったので、最終日の今日こそは良い写真を撮ってみたいと思って金閣寺に向かった。幸い、朝から快晴だ。これなら、青空に金箔が映えて綺麗だろうと期待できる。

 午前7時半に出発と、朝早く余裕を持って出かけたものだから、8時45分にはもう金閣寺に着いてしまった。特に行くところもなく、そのまま9時の開門まで、待っていた。個人客と団体客を合わせて、もう100名ほどが並んでいる。すごい人気だ。

 開門して直ぐに鏡湖池に行って舎利殿の写真を撮りに行った。上手いことに舎利殿の背景がちょうど青空で、それが金箔に映えて実に美しい。まるで絵葉書のような写真が撮れた。舎利殿のてっぺんにある黄金の鳳凰が、これまた青い空と映えて綺麗だ。写真と合わせてビデオも撮ったので、帰ったら私のホームページの表紙に載せるとしよう。





 金閣寺のHPによると、「正式名称を鹿苑寺といい、相国寺の塔頭寺院の一つ。舎利殿「金閣」が特に有名なため一般的に金閣寺と呼ばれています。

 元は鎌倉時代の公卿、西園寺公経の別荘を室町幕府三代将軍の足利義満が譲り受け、山荘北山殿を造ったのが始まりとされています。金閣を中心とした庭園・建築は極楽浄土をこの世にあらわしたと言われ、有名な一休禅師の父である後小松天皇を招いたり、中国との貿易を盛んにして文化の発展に貢献した舞台で、この時代の文化を特に北山文化といいます。義満の死後、遺言によりお寺となり、夢窓国師を開山とし、義満の法号鹿苑院殿から二字をとって鹿苑寺と名づけられました」


16.三十三間堂の国宝と千体観音は圧巻

 金閣寺の帰り、東山七条の三十三間堂に立ち寄ることにした。この堂は、後白河法皇の御所に1164年に造営され、一時焼失して再建された後、足利義政将軍によって修復され、その後、太閤秀吉により整備されたという経緯をたどる。

 お堂には、千手観音坐像、千体千手観音立像、風神像、雷神像、二十八部衆像がある。私は、それこそ何十年ぶりにこれら国宝の像と1001体の菩薩像が長さ120メートルのお堂を埋め尽くす姿を眺めて、もう圧倒されたとしか言いようがなかった。千手観音坐像を始めとする国宝の31体は別として、あとの1001体にも及ぶ菩薩像は、それぞれ誰かが寄進したものなのだろう。こうして、後世まで何百年も伝わると思っていたのだろうか。

 そのHPによると、「正式には蓮華王院(れんげおういん)で、天台宗の古刹。鎌倉時代に再建された本堂は南北約120メートルの長大なお堂で国宝に指定され、安置されている本尊千手観音坐像はじめ千体千手観音立像など諸仏すべてが国宝です。

 千手観音立像は、平成30年(2018)にそのすべてが国宝指定されたことを記念して、国立博物館に寄託されていた像が本堂に還座し、1,001体が勢ぞろいしました。

 また、同年に二十八部衆像と風神・雷神像の配置が、鎌倉時代の版画やこれまでの学術研究に基づき、本来の状態に戻されました。また、境内には2021年に整備された池泉回遊式庭園や、桃山時代に建立された南大門、太閤塀は重要文化財に指定されています」


 残念ながら堂内での撮影は禁止されていたので、写真は全然撮れず、成果なしで帰って来た。






(令和7年3月29日著)
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