悠々人生エッセイ



01.jpg



<
 
目     次 
 01  ブダペスト着と夜景   08  カルロヴィ・ヴァリの街並み
 02  ブダペストのブダ城 09  プルゼニのピルスナー
 03  バンスカー・ビストリッツァ 10  ミュンヘンの大聖堂とHB
 04  古都クラクフと岩塩鉱山 11  ザルツブルクのモーツアルト
 05  アウシュビッツ強制収容所 12  ハルシュタットの世界遺産
 06  プラハ城と大聖堂 13  ウィーンのシェーンブルン宮殿
 07  プラハ最古のカレル橋 14  ウィーンの歴史地区と大聖堂

 中欧・東欧への旅( 写 真 )は、こちらから。
 中欧・東欧への旅( ビデオ )は、こちらから。


1.プダペスト(ハンガリー)

(1)エミレーツ航空に乗り、アブダビ経由で、ハンガリーの首都プダペストに着いた。

 ハンガリーは中央ヨーロッパの内陸の国で、その面積は日本の25%、人口は約971万人である。紀元5世紀頃にアジアから侵入してきたフン族によって初めて国家が樹立され、アッチラの時代に隆盛を誇ったが、その死後に分裂した。9世紀にはウラル山脈からマジャール人が移住してきた。

 10世紀末に即位した君主イシュトヴァーン1世は、西暦1000年にキリスト教に改宗し、ハンガリー王国を建国した。これが現在のハンガリーに連なる。

(2)首都プダペスト(Budapest)は、「ドナウの真珠」とか「東欧のパリ」とまで呼ばれる美しくかつ瀟洒な街と言われているが、昼間にみるとややくすんでいる街並みである。しかしその夜景は素晴らしい。

 街の真ん中を南北に流れているドナウ川(Danube River)を挟んで、西側の丘陵地帯にあるブダ地区と、東側の低地にあるペスト地区とが1873年に合併し、それで「ブダペスト」となったそうだ。

 余談だが、ドナウ川はドイツに端を発して、概ね西から東へと各国(オーストリア、スロバキア、ハンガリー、クロアチア、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、モルドバ)を通ってウクライナで黒海に注ぐ。ところが、たまたまプダペストに限っていえば、川は北から南へと流れている。




(3)到着後すぐに「英雄広場」に行った。青銅の像を載せて高くそびえる柱と、建国 1000 年記念のハンガリーの 7 人の創始者の青銅の碑があり、1896 年に建設された。ともかくただっ広い広場である。両脇には西洋美術館と現代美術館がある。


 空港からここに至るまでの道は、駐車に1車線分が使われているから、車が通るのはたった1車線と、誠に狭い。こんな道で、交通が頻繁な首都の道は大丈夫かという気がする。もっとも、中心部に行くと、さすがに二車線になってきたが、それでも渋滞が慢性化している。

(4)「聖イシュトヴァーン大聖堂」は、ハンガリー王国の初代国王である聖イシュトヴァーンに捧げられた大聖堂で、ネオルネッサンス様式で建てられているとのこと。

 教会の外見も実に繊細で美しいが、中に入ったら、マリア像に十字架のキリストの絵など典型的なカトリックの装飾で、これまた誠に素晴らしい。高いドームの絵画や両脇のステンドグラスの芸術的価値は高く、設えてあるパイプオルガンが演奏されれば、さぞかし素敵な音色がすることだろうと思う。




 ちなみに入場料は600フリント(約250円)だったが、わざわざユーロの小銭をもらうのは面倒だと思っていたところ、クレジットカードのVISA(タッチ式)が使えて助かった。これから、非ユーロ圏では、この調子でタッチ式を活用しよう。ただ、ヨーロッパ圏では一般的な有料トイレだけは、小銭がないと困る。

(5)「国会議事堂」は、ドナウ川のほとりにあるネオゴシックの建築物で、世界で最も美しい議事堂と言われている。昼間に通りかかって外観を見ただけだが、確かに凝った造りとなっている。でも、しげしげと見入る余裕がなかった。というのは、その前を流れているドナウ川のクルーズが、夕方5時半に始まるからである。





 それは川を運航するレストラン船である。ビュッフェスタイルの夕食が始まると、船が静かに動き出し、両岸を川から眺める趣向である。沈み行く太陽に照らし出される街の建物も素敵だが、日が暮れてからは両岸の建物がオレンジ色にライトアップされて、それがもう豪華絢爛そのものの風景なのである。



 中でも、国会議事堂は夜景が素晴らしく、よくこんな美しい建物が残っているなと感心するほどだ。鉄の吊り橋である鎖橋など、川に掛かっている橋もライトアップされ、それぞれに個性があって美しい。




 ガイドによると、この季節のリバー・クルーズが一番良い。というのは、午後5時半から乗船してビュッフェの夕食が終わる頃に太陽が沈み、両岸の建物がライトアップされて夜景が美しい。ところが夏になってサマータイムが始まると、太陽が沈むのが午後8時頃だから、夜景は楽しめないそうだ。船から降りて、メルキュール・プダペスト・コローナ・ホテルという国立博物館の前にあるホテルに泊まった。



(6)翌日は、「王宮の丘」であるブダ城に入り、修復中の部分を通って漁夫の砦からマーチャーシュ教会に行った。ちなみに「ブダ城」は、もちろんブダ地区に位置し、その美しい景観は、ブダペストのドナウ河岸、ブダ城地区及びアドラーシ通りとしてまとめて世界遺産になっている。



 王宮の丘から見る眼前のドナウ川とその対岸の眺めは絶景で、ブダペストの街並みを一望することができる。正面には昨日行った聖イシュトヴァーン教会の二つの尖塔があり、左手(北)には国会議事堂と二つの橋がある。近いのが最古の「セーチェニー鎖橋」、その向こうが「マルギット橋」で、車だけでなくトラムが走っている。これが二番目に架けられたそうだ。




「漁夫の砦」は、世界で一番美しい砦と言われているそうで、1895年から1902年にかけて、ハンガリーの建国千年祭を記念して作られた。白い7つの塔とそれをつなぐ洒落た回廊から成るネオ・ロマネスク様式の建築である。そのネーミングは、かつてこの地が魚市場であったことにより漁夫のギルドが費用を出したからという説が有力である。川魚の独占販売ごときで、そんなに儲かっていたのかと、意外な気もしないではない。

(7)同じくブダ城地区の「マーチャーシュ聖堂」は、1541年にトルコに占領された時にモスクとなり、彫刻が損壊されたりしたが、1686年のその撤退後にまたキリスト教会にもどった。そしてハンガリー建国1000年後の記念日となる1896年には、本来のゴシック建築様式を基調の建物に改築されて現在のネオゴシック様式の造りとなったという。




 そうした二転三転した歴史のせいか、外見の美しさとは裏腹に、内部の装飾はありきたりで、聖イシュトヴァーン大聖堂の時のような感動は、さほど覚えなかった。

 大統領官邸の前では、衛兵の交代式が行われていた。指揮官1名、兵士2名、楽隊1名の最小限の構成で、太鼓の音に合わせながら、キビキビとした動きで交代をしていた。

(8)お昼は、台灣料理のレストランに行った。料理のレベルは結構高くて、こんなヨーロッパの果てにも、中国人が進出しているとは、思わなかった。

 献立は、海藻のスープ、鱈のブツ切り、豚肉の甘辛煮、白菜の煮物などと出て、最後のオレンジも、全て美味しかった。これには同行の中国人のツアーメンバーもとても満足していた。

(9)芸術家の村で、観光客が集まるという名所センテンドレ芸術家村に行ってみた。村の中心部に行くにつれて土産物屋が増えてきて、中心部の教会の前の広場の周りには、レストランが並んでいる。更に行くと、学校やら体育館がある。




 学校の前を通りかかれば、美しい歌声が聞こえてきて、女生徒が合唱している。その前を過ぎると、教室の窓が開いていて、ほんの1メートルほどの距離で、教室に座っている女生徒と目が合った。思わず手を振ると、それに応えて満面の笑みで手を振ってくる。そういうのどかな村である。

(10)プダペスト中心部にまた戻ってきた。人々の群を描いた白い大きな像のある広場に面したカルチャー・カフェに行く。この1858年創業の「カフェ・ジェルボー」は、いわゆる老舗カフェで、まるで、19世紀を彷彿させるようなシックな装飾であり、そこにいるだけで心地よい。




 実はそれだけではない。普通のハンガリーのレストランや物販のお店では、接客が非常に無愛想なのである。共産主義国時代の負の遺産だと思う。

 ところが驚くことに、この店では逆で、ウェイターやウェイトレスさんがいつもニコニコしていて非常に愛想が良い。このレストランがいつもお客がいっぱいで流行っている理由が垣間見えた。

 願わくはハンガリーで、こういうウェイターやウェイトレスさんのお店がもっと増えることを祈る。そこでケーキとフルーツティーを注文した。ケーキは美味しかったが、いかんせん甘すぎた。ガイドによると、これが普通だそうだ。

(11)夕食は、一種のカルチャーレストランに行った。6人の楽団が演奏しているすぐ前の席に案内された。特等席だ。そこで、ワルツやハンガリー舞曲、そしてたまには蘇州歌曲などを聴きながら食事をする。





 しばらくすると、ハットを被った民族衣装の男性が出てきて、ステップダンスをはじめた。手を叩いたり、腰を叩いたり、両足を叩いたりして、驚くことにそれだけで踊りになっている。そして、民族衣装の女性が登場し、二人でクルクル回る。伝統民族舞踊だそうだ。衣装を変えてそれを3回もやる。元気の良さに圧倒された。帰りに、チップをはずんでおいた。

 肝心の食事内容だが、チキンがいささか大味過ぎて食べられないので難渋していたら、周りの中国人がマレーシア・チリソースを分けてくれた。それをかけたところ、それなりに味が付いて、何とか完食できた。こんな所まで来て、チリソースをかけないと食べられないなんて、有り得ない話のようだが、本当だ。


2.バンスカー・ビストリッツァ(スロバキア)

(1)ハンガリーから、東欧の大平原を貫く片側一車線の曲がりくねった道を、バスに乗ってひたすら走る。国境を超えてスロバキアに入ってすぐに、トイレ休憩でガソリンスタンドに立ち寄った。

 各自それぞれにユーロコインを持って店員のところに行き、トイレを借りたいと言うと「全員で10ユーロ、男性は外」と言われて女性には鍵を渡された。

 「ええーっ、、男性は外って、本当か」と思いながら外に出て周りを見渡すと、それらしき場所はない。建物に沿って歩いて行くと、その建物に外から入るトイレがあったので、全員が安心した。もう、、、笑い話だ。

 この日の最初の目的地であるバンスカー・ビストリッツァまであと半時間というところで、バスはやっと高速道路に乗った。行き先表示が一般道路の青色から高速の緑色となり、片側二車線となったので安心だ。

(2)ようやく「バンスカー・ビストリッツァ(Banska Bystrica)」に到着した。市庁舎のある19世紀以来の古風な街並みを抜けて、緩やかな坂を下り、10数分ほど歩いてショッピングモールに行き着いた。その三階にある中華と西洋が混ざったバイキング料理の店が目的地である。サーモンやかっぱ寿司まである。それらを美味しくいただいて、街を散策する。



 SNP美術館というのがあった。SNPとは、英語で言えば「Slovak National Uprising」つまり「スロバキア民族蜂起」のことで、これはナチス支配に対する蜂起を意味するそうだ。欧州の中央にあるというその戦略的位置からして、スロバキアは古来数々の勢力の下に置かれていた。

 20世紀の初頭にオーストリア・ハプスブルグ帝国の支配から脱した後、第一次大戦後にチェコと「チェコスロバキア共和国」を構成したものの、ナチスの支配が強まるにつれて、傀儡政権のスロバキア共和国が作られた。これに対して、1944年にここバンスカー・ビストリッツァにおいて、ナチス傀儡政権を打倒する蜂起が起こり、それが遂に成功した。そのことを言うらしい。

(3)市庁舎の前まで戻った。地元に以前からある塔に加えて、黒い塔もある。これは何かというと、旧ソ連が建てた第2次世界大戦の無名戦士の記念碑だという。現在進行中のウクライナ戦争に思いをはせると、こんな歴史的遺物まであるとは、スロバキアも大変だったのだろう。





 先の歴史の続きとなるが、ナチスが崩壊してソ連の影響力が強まったスロバキアは、再びチェコ・スロバキア連邦共和国を構成することになる。ところが冷戦の崩壊に伴い、1993年には同連邦から分離独立して新たにスロバキア共和国となり、2004年にはEUのメンバーとなって、2009年には中・東欧諸国の中でいち早くユーロを導入した。

 おかげで今回も、私は昼食代を手持ちのユーロで支払うことができた。さて、ポーランドのクラクフまで、更にバスで5時間の道のりである。かなりの山越えになるらしい。


3.クラクフ(ポーランド)

(1)ポーランドに入った。シェンゲン協定のおかげで、ここも国境をバスが通り過ぎただけだ。その前は国境を越えるパスポート検査に1時間はかかったらしい。ポーランドはEU加盟国ながら、通貨はまだユーロを導入していないらしい。1ユーロが、およそ4ズロチという。

 ポーランドの面積は日本の約8割、人口は3784万人で、バルト海に面している。国境を接している国を西から時計回りに挙げると、ドイツ、チェコ、スロバキア、ウクライナ、リトアニア、そしてロシアの飛地のカリーニングラードである。

 ポーランドに入ってからの街の雰囲気は、家が大きくなって、それなりに豊かそうだ。通る道の両脇には三階建てや四階建ての一軒家が立ち並ぶし、その向こうにも多くの家々がある。これに対してスロバキアでは、街に入って道の脇に家があったとしても、その数は僅かだし概ね平屋ばかりで、その向こうには大平原が続いているだけだった。

 昔、世界の地理で、ポーランドとチェコは工業国、スロバキアは農業国と習ったことを思い出した。もっとも、ポーランドでも相変わらず、曲がりくねった田舎の一本道が続くが、これほど豊かなのだから高速道路を作ってくれていたら、もっと早く着くはずだ、、、そう思っているうちに、クラクフまであと1時間という所で、ようやく高速道路に乗った。しかも渋滞などないから、バスは気持ちよく走って、今夜から二泊するノボテル・クラクフに到着した。






(2)「クラクフ(Krakow)」は、ポーランドの南部にあり、17世紀初頭までは首都だったというから、日本で言えば、京都のような都市である。  翌朝、古都クラクフ市内観光に出かける。現地ガイドのロバーツが「自分たちは中欧であって、東欧ではない。西欧と東欧の橋渡しをしているのだ」と強調していたのが印象的だった。東欧の方より、気持ちの上ではやや優位にあるとでも思っているのかどうか、それは聞きそびれた。まずは歴代の王の城であった「ヴァヴェル城」を歩く。

 その後、中央広場までやってきて、「聖マリア大聖堂」の中に入った。聖母マリアに関する様々な場面が描かれたその「ヴィット・スウォシ主祭壇 」の精巧さには驚いたが、それがまた縦に動いて観音開きとなったのでもっとびっくりした。それはそのはず、これはヴィト・ストフォシュ作の木彫で、国宝指定がされているとのこと。






 大聖堂の外に出てみると、時計が0分になってラッパが鳴り、突然に鳴り止んだ。これは、かつてモンゴル軍の襲来をラッパの音で伝え、射られて命を落としたラッパ手を偲んで、ということらしい。

 やはり中央広場にある「織物会館」に入る。19世紀に建てられた趣きのある建物だが、中は土産物のアーケードとなっていて、散策するのにちょうど良い。色々な土産物があったが、当地特産の琥珀(Amber)が売られていたのは私には珍しかった。

 昼食後、クラクフ南東の郊外にある「ヴィエリチカ岩塩鉱山」に行く。ここは世界最古の14世紀より採掘が始まった岩塩鉱山で、ポーランド王国の繁栄を長年支える重要な財源だった。

 これまで、700年間も掘り続けられてきた坑道は、今では全長300km、深さ300m以上にもなっている。鉱山内には、天井が高い礼拝堂や精巧な像があり、どちらも岩塩で作られているとは、俄には信じられないほどの造作となっている。このヴィエリチカ岩塩抗は、クラクフの旧市街とともに、1978年に始まったばかりの世界遺産の初回に登録された。





 見学には、言語別のガイドが付いて、地底(最深部140m)を延々と3kmも歩かされて参った。13世紀から掘り継がれてきた岩塩は、かつては食糧の保存に不可欠で、現金代わりになるほど貴重なものだったらしい。そういうわけで、この塩は700年間もポーランドに底知れない富をもたらしてきた。坑内には、実に立派な礼拝堂があったのには、驚いた。



 話は変わるが、現代の原油と比較すると、原油の本格的採掘は1950年代からだ。ところが最近の脱炭素の動きからして、あと50年間もすれば、その利用価値がなくなるかもしれない。だから、アブダビのようにオイルマネーで砂漠に蜃気楼のような大都市を作ることができるのは、まさにこの一瞬のことかもしれない。産油国の興亡も、こちらの700年間と比べれば、歴史的にはほんの僅かな期間のことなのである。

 この日の夕食は、岩塩鉱山近くの地元のレストランだった。まず出て来たのは、ボリュームのある円形のパンの筒である。大きくてびっくりした。その上部が横に切ってあり、それを開けるとスープが入っている。これがまた美味しいのである。もっとも、塩っばかった。






 それから、ポーランド風の餃子、ピエロギが沢山入ったお皿が出てきた。これは量が多いと思ったら、そればかりか更にポーク・リブまで出てきた。ポーク・リブを4人で分けても、まだ半分も食べ残すようなすごい量だ。呆然としながら隣のテーブルを見ると、地元の筋骨隆々のおじさんが、それを一人で軽々と平らげていた。


4.アウシュヴィッツ(ポーランド)

(1)ポーランド南部クラクフ近郊にある「アウシュヴィッツ(Auschwitz)強制収容所」は、言わずと知れたナチスによるユダヤ人虐殺の跡地である。

 同じく第二次世界大戦下で起こった広島長崎への原子爆弾投下による死者は合わせて22万人と言われているが、こちらの強制収容所では、収容されていた10人中の9人、合計100万人にのぼるユダヤ人が殺されたそうだ。残忍なナチスによる狂気としか言いようがない。ちなみに、ドイツとその占領地でナチスに殺されたユダヤ人は、600万人と言われている。




(2)入り口には、有名な「働けば、自由になる(ARBEIT MACHT FREI )」という標語が掲げられている。全くの嘘っぱちなのに、よくもまあという気がする。よく見ると三文字目のBの文字が、上下逆さまになっている。収容者が少しでも抵抗した印なのだそうだ。



 居住棟やら何やらを延々と見て回った。見て回るにつれて、沈鬱な気がますます強くなる。処刑の前に髪を切って写真を撮り、囚人服を着せた。その時の写真が廊下に延々と張り出されている。全てガス室で虫ケラのように殺された。



 そうかと思うと、人々の毛を何トンも集めた部屋があるかと思えば、義足や義手を集めて部屋いっぱいになっている所もある。一体何人を殺したらこれだけの装具を集められるのか、唖然とする。





 また、人々の眼鏡や靴や衣類が山ほど積み上げられた部屋もある。中には小さな子供の衣類があり、涙を誘う。

 人体実験の棟があった。150人を対象にしたその主任の医師は、戦後はブラジルに逃れて、そこで死んだそうだ。

 ガイドに、「ナチスがなぜこれほどまでにユダヤ人を敵視したのか」と聞いた。すると、「良い質問だ。話せば長いが、色々と理由がある中で、自分は主に三つだと思う。

 第一は、第1次世界大戦に負けたのは、ユダヤ人の金持ちが英米の側についたからだと信じていたこと。
 第二は、ヒットラーの母は乳がんで亡くなったが、その時の医師はユダヤ人だったこと。
 第三に、ヒットラーはウィーンの芸術学校に入りたくて2度受験していずれも失敗したが、その時の学長や教授もやはりユダヤ人だったことで、逆恨みをしたのではないかと思っている」と語っていた。


 すると、もしヒットラーが絵の才能を認められて芸術学校に入学できていたとしたら、第2次世界大戦と、このユダヤ人の悲劇は起こらなかったかもしれない。そう思うと、何たる歴史の皮肉かと、つくづく感じてしまう。

 収容所の境には、何千ボルトの電圧をかけられた二重の電気柵がある。そこを出た所には、死体を焼却した炉があった。ともかく、酸鼻を極めた場所だったが、人間として一度は見ておかなければならないという意味で、避けて通れない所であることは、間違いない。


5.プラハ(チェコ)

(1)チェコの首都プラハ(チェコ語Praha、英語Prague)には、私は仕事で 1997年に訪れたことがある。その時は旧ソビエト連邦のくびきからようやく逃れ、しかも隣のスロバキア共和国とも分離独立することができた年だった。

 ガイドのサリーによると、15世紀頃にチェックという清教徒がこの地に来て、美しい自然に感動し、住み着いた。それがチェコ王国の始まりとのこと。「プラハ」とは、「未来への第一歩」を意味するそうだ。

 この地の月給は、約1500ユーロほど、プラハの生活費は高くて月2500ユーロは必要なので、皆、通勤に1時間ほどかかるが、生活費の安い郊外に住んでいる。

 現在のチェコの人口は、1,300万人で、ガイドによれば「人口が少なく、列強の隣国らに蹂躙されてきたので、散々な歴史だった。国旗の赤は、血を象徴し、青は青空、白は清潔を表している」そうだ。

 実は私も、1989年のビロード革命の前の1968年の「プラハの春」をよく覚えている。ドプチェクが共産党第一書記に就任して「人間の顔をした社会主義」を推し進めようとしたところ、旧ソビエト連邦の軍事介入に遭い、あえなく潰された事件である。ソ連が戦車を連ねてプラハに侵入し、それを市民が唖然として見ていたテレビ中継がまだ目に浮かぶ。

 その時のドプチェク書記は占領軍によってその地位から引きずり下ろされ、遂には故郷で木樵にされてしまった。現在進行中のロシアのウクライナ戦争も、どうかするとその二の舞となっていたところだ。だから、ウクライナには、是非とも勝ってもらいたい。







(2)それはともかく、「プラハ城」の観光に行った。ここは、世界最大かつ最古の城とされていて、9世紀に建築が始まり、現在の形になったのは、14世紀という。ボヘミア王国と神聖ローマ帝国の本拠地だった。中には、王宮があり、ボヘミア国王の宝冠や肖像画が飾られている。その他、構内には、聖ヴィート大聖堂、聖イジー教会、旧王宮、黄金小路などがある。





 「聖ヴィート大聖堂」は、堂々たるゴシック建築で、歴代のボヘミア王や聖人が埋葬されている。中に入ると、そのステンドグラスの美しいことといったらない。さすがボヘミアングラスの本場である。壁に飾られているステンドグラスのサイズは大きいし、カメラの望遠レンズで撮って拡大してみると、図柄が明瞭である。これは、今まで見た中で最高のステンドグラスである。

 礼拝堂の一角に、赤の長四角がたくさん描かれた小さな図があった。あまり整然としたものではなくて、中には他と比べて斜めになっていたり、重なっていたりで、バラバラだ。しげしげと見ていると、これは歴代のボヘミア王や聖人が埋葬位置のようだ。

 これには驚いた。そのほとんどが我々が歩く床の下なのである。そもそも、そんな遺体を踏みつけて歩いてよいものかと、そちらの方が気になった。ガイドに聞いたら、苦笑いをしていた。そんなものらしい。

(3)「聖イジー教会」があったが、外から見ただけで入ることもなく「旧王宮」に行った。ボヘミア王の居住区だったようだ。中庭に行くと、周囲を3階の廻廊が取り囲んでいる静謐な空間だ。かつて大学としても使われていたらしい。

(4)「黄金小路」に行った。ああ、ここは以前に来たことがある。お目当ては「No.22のカフカの家」だった。「ある朝、起きてみると毒虫に変身していた」という、あの作家だ。




 学生時代にその小説「変身」を読んで、変わったことを考える作家がいるものだと思ったが、今から思うと旧ソ連の抑圧によって精神的なくびきを感じていたのかもしれない。





(5)その他、以前来た時にはこんなものがあったのだろうか、全く覚えてないが、「甲冑博物館」というものがあった。これはすごいコレクションで、中世の甲冑がずらりと並べられている。手作りだから、ありとあらゆる型式がある。しかし、こんな物を着て戦うなんて、重かっただろうなぁと、中世の騎士に同情する。

(6)そこから、アンティークの車に乗って坂を降り、一気に「旧市街」まで行った。中世そのものの広場と、そこから四方八方に曲がりくねった小道が続く。プラハは二度にわたる世界大戦でも破壊されなかったから、ここには文字通りの中世の世界が残っている。




 有名な「天文時計」があった。毎正時にカラクリ時計が鳴って人形が動く仕掛けだ。それを待っていると、ゆっくり動き始めた。やけに寒いなと思ったら、何と、霰が降ってきた。気温は、零度である。今回の旅行での最低を記録した。

(7)プラハの街の真ん中を「ヴルタヴァ川、チェコ語。独語ではモルダウ川、Moldau」が流れている。スメタナの「我が祖国」に出てくる川だ。

  その川に架かるのが、「カレル橋(チェコ語)で、15世紀初頭に架けられた最古の橋という。西欧と東欧の交通を繋ぐ大事な役割を果たしていたという。ガイドは、聖チャールズ橋(Saint Charles Bridge )と言っていた。






ここは、以前に来たことがある。橋のあちこちに、精巧な像があって、一つ一つが見応えがある。橋の外へと目をやると、モルダウ川越しに先ほどまでいたプラハ城が遠くに見える。今や観光客で一杯だ。

(8)ところで、今日朝から晩までプラハ城とカレル橋そして旧市街広場を歩き回って、疲れた。歩数は15,607歩で、大したことはない。ところが、道路が石畳みなものだから、厚い靴を履いていても、足が痛くなる。それに、時折りみぞれ混じりの雨まで降って来て、寒い風も吹いてくる。気温は、たぶん0度近くなのだろう。プラハ訪問の時期をあと1ヶ月ほど遅らせれば良かった。

 そんな気候にもかかわらず、観光客の数は多い。歩いていると、旧市街地のあの狭い通りでも、肩と肩がぶつかりそうになる。だから、これがもし気候の良いシーズンだったら、さぞかし混み合うだろうと思う。


6.カルロヴィ・ヴァリ(チェコ) 

(1)チェコ国内にある「カルロヴィ・ヴァリ(チェコKarlovy Vary、英語Carlsbad)」は、いわゆる温泉地で、その中心を流れるテプラ川は、時折り、湯気が立ち上がっている。温泉のせいで水温が高くなっているそうだ。街中で陶器のカップを売っていて、それで温泉が飲めるという趣向は、面白い。

 温泉会館のような建物があり、その中では温泉が5メートルほど噴出している。その隣に、まるでローマ帝国の元老院の建物を横に長くしたような廻廊があって、その中に「65度」、「52度」などと書かれた温泉の噴出口が幾つもあり、そこで温泉水が飲める。硫黄のかすかな臭いがするし、温泉の溜まり場はオレンジ色だ。





(2)街中を歩いていくと、まるでおとぎの国のような可愛くてカラフルな建物が立ち並んでいる。その大半が土産物屋かブランド品のアウトレットである。また、劇場があり、実に美しい建物だ。





 どこかでこんな風景を見たことがあると思ったら、ディズニーランドとハウステンボスである。そう、あのような景色なのである。ここは、街全体が、テーマパークのようなものだ。


7.プルゼニ(チェコ)

(1)ドイツの軽めのビールの代名詞である「ピルスナー」は、ここボヘミアの地プルゼニ(チェコ語プルゼニュ(Plze?)、ドイツ語・英語Pilsen)で生まれた。ホップの効いた爽やかな淡い色のビールである。なお、ピルセン又はピルゼンはドイツ語で、今はチェコに属してピルゼニュというそうだ。

 それでは、せっかく醸造所まで来たのだからということで、ブルーワリーに着いた時、普段はほとんど飲まない私も、昼食とともにピルスナーをいただいた。





 このピルスナーのブルーワリー(Pilsner Urquell Brewery)は、19世紀の創業で、つい最近まで同じ地の同じ方法と同じ設備でビールを醸造していたが、30年前に全設備をコンピュータ管理の自動化にしたそうだ。我々が見学したのは、その古い設備の方である。

(2)ガイドによると、ビールは、良い水と穀物とホップそれに酵母の4つだけで製造するものだそうだ。

 水はこの醸造所の地下100メートルから汲み上げているとのこと。ホップはビールに苦味を与えるもので、果実を乾かし、スリ砕いて添加するそうだ。

 まず、穀物から糖を作る発酵と、次にその糖からアルコールを作る発酵の二段構えだという。5週間で、出来上がりの由。

 地下に置かれていた幾つもの大きな発酵のタンクの一つから、もう発酵が終わるという最後の段階のビールを試飲させてもらった。灯りに透かすと、白く濁っている。文字通りの生ビールである。特に美味しいかと言われれば、、、私がビールの味音痴のせいでもあるのか、まあ普通のビールの味だった。

(3)ちなみに、この地ピルセンは、第二次世界大戦の頃は機関銃の工場があったところで、それを巡る攻防があったところらしい。これから更にバスに乗って、ドイツのミュンヘンに向かう。


8.ミュンヘン(ドイツ)

(1)ピルセンからバスで4時間かけて、ようやくミュンヘン(ドイツ語Munchen、英語Munich)に到着した。かつて日米欧の三極がこの地に集まり、特許制度を調和させるために侃侃諤諤の議論を行った。その頃の私は特許庁にいて、事務方の責任者として全力投球した晴れ舞台である。

 しかし、いずれの会議も1月の下旬に開かれるのが常で、とっても寒かった。3年続いて行ったが、最初の年は気温が零下20度だった。そんな時に、東京の真冬のつもりで薄いトレンチコート姿で行ったものだから、身体中が凍えてしまった。トレンチコートはもちろん、毛糸のキャップも革靴も全く役に立たない。街を歩くと、靴から地面へ、頭から空中へと、体熱が逃げていくのがハッキリとわかる。

 それに懲りて2年目は色々と耐寒服やブーツを取り揃えて行ったのだが、そういう時に限って気温は零度と、前年とは打って変わって暖かかったから、拍子抜けした記憶がある。ちなみに3年目は、零下5度だった。

 その他、ミュンヘンでは、ドイツ博物館で特にUボートの展示に感じ入ったこと、マリエン広場で素敵なファッションの老夫婦を見かけたこと、ホーフブロイハウスで酔っ払いから絡まれたこと(後述(3)参照)、ノイシュバンシュタイン城が美しいのに感激したことなどが懐かしい思い出である。

(2)ガイドの先導で、街歩きを始める。まずは二本の玉葱型の塔を持つ「フラウエン教会(聖母大聖堂)」だ。ここには、入ったことがなかった。内部は白い柱が立ち並ぶロココ形式の真っ白な装飾で、軽快な印象を受ける。チェコのプラハの教会のようにゴシックで荘重な感じのものではない。





 チェコでは、ステンドグラスが素晴らしかったが、ここミュンヘンではその代わりに天井に描かれたフレスコ画がいかにも軽やかで素敵である。プラハの教会が差し詰め「豪」とすれば、このミュンヘンのフラウエン教会は「柔」というところか。また、聖霊教会に入ってみたら、ロココ調の絵画が美しく、感じ入った。



(3)街中を散歩していると、おお、懐かしいホーフブロイハウスがあった。昔、ひとりでふらりと訪れたところ、ハンチング帽の酔っ払いから、「今度はイタリア抜きで組んで戦争しよう」と絡まれて辟易したところだ(回想録118頁)。

 お昼は、そのホーフブロイハウスで食べることになった。アーチの天井は以前と同じ、6人掛けテーブルがお客さんでごった返しているのも変わらずで、実に懐かしい。



 ビールは、両手に5本ずつ抱えて持ってくるのも相変わらずだが、女性ではなく男性のウェイターだった。ふと見ると、女性ウェイトレスは5人に1人程度で、後は男性ウェイターばかりだ。今や女性は柳腰のスラリとした人ばかりで、昔のような体格が隆々としていかにも農村から出てきたばかりという力持ちの女性はいなくなっている。時代の流れか、、、。





 ビールは二種類で、黒ビールかローカルだが、てっきり黒ビールの方がアルコール度数が高いと思っていたら、その逆だそうだ。


 持ってきてもらった料理は、酸っぱいトマトスープ→これは塩っぱい、一塊りの骨付き肉のポークと黄色い卵状の野菜→これも塩っぱくて大味、そして最後にデザート→甘過ぎて頭が痛くなりそうだ。寒い国だからといってこんなに塩や砂糖を摂っていると、高血圧や糖尿病になりそうだ。




(4)マリエン広場の新庁舎は、クラシックなデザインなのでもう何百年も経っているように見えるが、実は100年程度だそうで、比較的新しい。私も、この広場に36年ぶりに戻ってきたわけである。

 毎時から始まるカラクリ人形を見上げてビデオを撮り、観光客でごった返す広場を見渡す。かつて見かけたようなお洒落なドイツ人夫妻などはもうおらず、普段着の観光客ばかりだ。昔見た、出目金のような魚の噴水が見当たらないと思ったら、広場の端の方にあった。


9.ザルツブルグ(オーストリア)

(1)ドイツのミュンヘンから、オーストラリアのザルツブルク(ドイツ語・英語ともにSalzburg)に着いた。ザルツ(塩)+ブルク(城)という名の通り、古代ローマ以来、塩で栄えた街である。

 実は私はここにも、昔、特許の仕事の合間に皆で来たことがある(回想録117頁)。雪を抱く山々に周囲を囲まれた美しい街である。ミュージカル映画のサウンド・オブ・ミュージックの舞台としても有名である。

(2)新市街でバスを降り、ザルツブルク大聖堂を訪れる。1000年近い歴史があり、内部は白を基調としたバロック様式で、天井のフレスコ画などが美しい。また、こちらはモーツァルトが洗礼を受けてオルガン奏者として活躍した所だそうだ。

(3)ミラベル宮殿というのがあった。庭園が綺麗だ。その入り口を覆うように斜めになっている二つの像を見て思い出した。サウンド・オブ・ミュージックでは、ここで踊って歌っていた。聞くと確かにその通りだった。






(4)ザルツァッハ川に架かるマカルトシュテク橋を渡って旧市街に向かう。橋には、数限りない南京錠が掛けられている。何でも、永遠の愛を誓う恋人たちがその名前を書いた南京錠を欄干に掛けるということになっているそうだ。でも、残念ながら2年に1度は全て撤去されるという。

 旧市街は、その街並みが美しい。太い壁のようなものが二つあり、その上に家が作られている。これは、街を囲んでいた二重の城壁を崩さずに利用しているそうだ。面白いことに、そうした壁にトンネルをくり抜いて、そこから自由に通りに出られるようになっている。

(5)ゲトライデ通りにあるモーツァルトの生家に行った。色鮮やかな黄色が目立つ外観だから、直ぐにわかる。この家には、モーツァルトの家族が 1747年から住みはじめて、1756年にモーツァルトが生まれたそうだ。そして20数年間住んだという。ただ、父の収入が乏しくなり、借家に移ったとのこと。



 新市街のマルカルトプラッツ広場には1773年に一家が引っ越した住居があり、私は1997年にここを訪れたことがある。モーツァルトが使用していた、今で言えばピアノが残されていた。



 再び、この生家に話を戻す。2階が受付で、そのまま3階まで上がると、そこには楽譜とか楽器とかが展示されている。楽譜は本人の直筆らしい。ごく小さなバイオリンがあったので、説明を読むと、モーツァルトがその幼少期に使っていたもののようだ。金の縦笛もあったが、これも本人のものだという。

 モーツァルトは音楽家の父を持ち、幼少の頃から神童として名高く、そのせいでヨーロッパ各地の王宮を訪ねて腕前を披露したそうだ。その足跡を示した地図があったが、文字通りヨーロッパをくまなく回っている。その旅の疲れのせいだろうか、36歳の若さで亡くなってしまった。





 今回は時間がなくて行けなかったが、メンヒスベルクの丘の上に聳え立っているホーエンザルツブルク城は、市内のどこからでも見えて、街のシンボルである。


10.ハルシュタット(オーストリア)

(1)ハルシュタット(Hallstadt)は、世界一美しい世界遺産とされる景勝地である。眼前に広がる美しい湖、その向こうの突き出た半島、更にその向こうの対岸に広がるスイスのような街並みが綺麗だ。目線を上にあげれば山々が連なり、更に遠くの山は雪を頂いている。今は3月末だが、5月にもなると、野原は色とりどりの花々でいっぱいになるそうだ。



(2)ケーブルカーで、350メートル上がって展望台まで行ってみた。今日は天気が良い。だから先ほどより、更に一段と素晴らしい眺めだ。世界遺産の山と湖と街の景色が展望台から眼下にパノラマとなって広がる。







 ただ、風が強いのでカメラがブレ、帽子が吹き飛ばされそうだ。眼下の湖から上の方に目をやると、これまたスイスのような自然のままの山があり、緑色と青空の対比が綺麗だ。

(3)ハルシュタットの街中に降りてみると、教会の脇に広場があり、そこに曲がりくねった道が続いているのは、ドイツ圏の街並みの特徴である。そうして広場に面しているレストランに入って食事をした。ちなみに、ガイドによるとこの街の人口は750人であるが、年間60万人の観光客が訪れるそうだ。





(4)この街は、ただ景色が美しいというだけではなく、「Hall」がケルト語で塩、「Stadt」がドイツ語で街を意味している通り、7000年も前から岩塩坑があって、採掘されていたそうだ。


11.ウィーン(オーストリア)

(1)やっと、音楽の街ウィーン(ドイツ語Wien、英語Vienna)に到着した。オーストリアの首都である。ガイドによると、「オーストリア」は、東(オスト)のマルケ(辺境)という意味で、フランク王国のカール大帝が命名した。それがラテン読みで現在のようになったという。

 オーストリアの人口は910万人、そのうちウィーンには189万人が住み、文化、交通、医療、治安などの面で世界で一番住みやすいと言われているという。とりわけ、中東欧に名を馳せたハプスブルク王朝時代の豪華絢爛としか言いようがない宮殿、楽友会館など文化施設、自然に触れられる公園や緑地などは、非常に素晴らしいと思う。音楽の都らしく、あちこちに演奏会などの掲示があった。

(2)「シェーンブルン宮殿(Schloss Schonbrunn)」に行った。「シェーン」は美しい、「ブルン」は噴水の意味。つまり、美しい噴水がある宮殿のことだそうな。ハプスブルク王朝の歴代君主が「夏の離宮」として使用した。その庭園群とともに、世界遺産に登録されている。




 シェーンブルン宮殿の中に入ると、まるでフランスのベルサイユ宮殿の「鏡の間」さながらの派手に装飾が施された部屋がある。ここで、宴会や舞踏会が開かれたそうだ。

 神聖ローマ帝国のマリア・テレジア皇后と夫フランツ1世との間の16人の子供たちの部屋がそのまま残してあり、王家の肖像画が描かれている。ちなみに、ブルボン王朝のルイ16世に嫁いでフランス革命で処刑されマリーアントアネットは、その下から2番目の末子だそうな。可哀想に38歳の若さでギロチンの露となった。他の兄弟とともにいるその子供の頃の肖像画もあった。

 ガイドによると、この宮殿は、第二次世界大戦で爆撃を受けたが、幸い不発弾だったために部屋の一角に穴を開けただけで、爆発はしなかったそうだ。





 部屋の中には、皇帝一家の肖像画のほか、数多くの大きな絵があるが、その中の一つに、オペラか演奏会などの場面があった(064)。最前列には、マリア・テレジアとその子たちが座っている(065)。そこから何列か後に、大人に囲まれて小さな子供が座っているのが見える。実はその子は、年端もいかない頃の神童ベートーヴェンとのこと(066)。




 宮殿を出て、その裏手にある庭園を見学する。庭園というと、狭い空間と思えるが、いやいやとんでもなく広くて、先が見えないほどなのだ。そういえば、ロンドンでもそうだった。女王陛下の庭園は、終わりが見えないほど広大なのである。ベルサイユ宮殿も、またしかり。絶対王政というのは、これほど強力なものだった。




(3)市の中心部にある大きなアパート、「フンデルトヴァッサー・ハウス」に行った。不揃いの窓に目立つ色彩、不揃いの形という、まるで変わったデザインの建物である。著名な建築家が、1980年代初頭に無償で設計したもので、200人ほどが現に住んでいるという。そのデザインが独特なものだから観光化している。岐阜県の養老天命反転地ほどではないが、あれを思い起こすほど、前衛的な建物である。




(4)「美術史博物館」は、エジプト、ギリシャ・ローマの彫刻など、歴代のハプスブルク家の皇帝が収集した美術品を収蔵しているところである。また、「ホーフブルク宮殿」は、ハプスブルク家の冬の宮殿として640年にわたり使われた由緒あるところである。しかし、残念ながら、時間がなかったため、外観を見るにとどまった。



(5)「シュテファン大聖堂」は、「リング」と呼ばれるウィーン歴史地区にあり、堂々たるゴシック建築で知られる。しかし、中に入ると、ステンドグラスではなくて、単に長四角に淡い色が付いているだけで味気なかった。



 そのリング地区は、銀座より遥かに賑やかな繁華街だった。著名なブランド店が群れをなし、大勢の観光客で、ごった返している。なるほど、プラハやザルツブルクに比べて、はるかに都会である。







12.後日談

(1)今回のように、マレーシアの旅行社で編成されたツアーに参加するのは、昨年5月のニュージーランド、10月のスイスに次いで今回が3回目となる。

 これがもし日本のツアーだと、参加者の間で直ぐに職業だの社会的地位だのという詮索が始まって煩わしいことこの上ない。ところが、マレーシア発の旅行だと、「あんた誰」と聞かれて単に「I am a lawyer. Formerly I was working in KL」とでも言っておけば、それで済むから、気楽である。

 今回も、参加者は、私が日本人だと知って、無理して日本語で話しかけてくる人ばかりで、人柄が良い。それに、添乗員が昨年のスイス旅行の時と同一人物なので、私が写真好きだと知っていてあらかじめ撮影ポイントを知らせてくれるなど、気心が知れているので助かった。

(2)参加者の中で、最も印象に残った人がいる。会計事務所(所員10人)を経営する70歳の女性である。31歳の三男と来ていて、スタスタと歩く。ただ、階段になるとその三男は、さりげなく手を支えてあげている。そんな孝行息子と母親である。

 しかも、その孝行息子は、英国留学を終えてあちらの公認会計士の資格を取得済みで、今や母親の事務所を引き継ぐ後継者と目されている。話してみると、穏やかなインテリという印象で、参加者の誰からも「あんな息子が私にも居たら良かったのに」と羨まれるほどである。

 驚いたのは、その母親と話した時に、「自分は42歳の時に、脳梗塞に見舞われて、一時は半身不随で言葉も出てこなかった。この子はまだ幼く、その上に二人の男の子もいたから、一時は絶望した」というので、私はびっくりして「では、どうしてそれほどの健康体に回復されたんですか」と聞くと、「鍼と意志の力」だと言う。

「発症直後、半身不随で倒れて病院にかつぎこまれたが、手の施しようがないと言われて自宅に戻されてしまいました。もう絶望しかなかった。

 でも翌日に親類の者がやってきて、『鍼』を勧められたので世界が変わった。藁をも掴む思いで行ってみると、頭に何本か打たれました。すると、かなりよくなって、頭が晴れていくのを感じたのです。

 それとともに、まるで牛歩のようですが、脚が少し動くようになったので、歩行訓練を始めたんです。自宅マンションを一周すると、普段は20分かかるのですが、そんな自分が歩くと2時間もかかるんです。情けないったらありはしない。

 しかし、『幼い子供たちを路頭に迷わせるわけにはいかない』と思って必死に頑張った。そうすると、次第に早く歩けるようになり、それにつれて言葉も出るようになったというわけです。だから、鍼と自分の『早く治りたい』という意志の力ですね」
とおっしゃるので、つくづく感心してしまった。この人に会えただけでも、今回の旅は良かったと言えよう。

(4)さて、話題を変える。私はこれまで34か国を旅行してきたが、今回はそれに、ハンガリー、スロバキア、ポーランドが加わって、37か国となった。70歳代のまだまだ元気なうちに、添乗員付きのツアーで50か国まで持っていきたいと願っている。

 狙い目は、やはりヨーロッパ各国で、ポルトガル、バルト三国、スカンジナビア三国である。これらに全て行くとしても、47か国だ。それと、、、ギリシャ、トルコ、アドリア海沿岸のクロアチアとスロベニアに行くとすれば、48か国になる。

 あとふたつか、、、手軽なのはモンゴル、遠くて危ないがブラジルのカーニバルという選択肢があるが、どちらもあまり気が進まない。かつてはモロッコに行って砂漠をラクダで歩こうかとも思っていたが、地震が起こって間もないから、やめておいた方が無難だ。

(5)私がもう少し年をとって海外ツアーの参加に疲れを覚えるようになったら、もう国の数はどうでもよい。出来れば親しい人同士で往復の航空券とホテルを確保し、1か所滞在型にしよう。そうすると、身体が楽だし、異国の都会生活を楽しめる。お互いの見守りもできる。

 候補地としては、ロンドン、パリ、ニューヨーク、ボストン、サンフランシスコ、バンクーバー、ミュンヘン、ウィーン、プラハなどを考えている。

 中国の九寨溝やシーサバンナにも行ってみたいが、前者は地震が起こったばかりだし、そもそも中国だと景色にカメラを向けているのに、昨今の習近平体制の下ではスパイだと言われて突然拘束されたりしそうだ。もちろんそんなとんでもない事態は避けたいので、全然行く気がしない。

(6)やがて、海外に行くのが体力的に難しくなる日が来るかもしれない。とりわけ、時差が身体に響くだろう。そうなると、国内に回帰して、京都、名古屋などの土地勘のある懐かしい都市や、津和野、白馬、安比高原、富良野・美瑛など自然豊かなリゾート地に長期滞在するのも良いだろう、、、ということで、旅を楽しんで、ここしばらくは過ごしたいと思っている。

(7)また例の通り、海外での日本のプレゼンスの低下を嘆くことになるのだが、私がハンガリーに到着して、スロバキア→チェコ→ポーランドと移動する先で日本人に会ったことがない。出会うのは中国人と韓国人の団体客ばかりだ。ポーランドのアウシュヴィッツでは、英語とドイツ語にまざって中国語と韓国語の解説文はあるものの、日本語はない。こういう所にこそ日本人がやって来て、広島長崎に落とされた原爆による被害に思いを馳せ、戦争と残虐非道を感じなければいけないのにと思うのだけど、全く残念に思う。

 日本人に出会ったのは、オーストリアのザルツブルクで、それも黒い制服を着たカラスのような男の子達の一団だ。ミラベル宮殿とモーツァルトの生家で鉢合わせした。聞いてみると、名古屋の東海中学の修学旅行らしい。実は私も、高校入試で旭丘と東海に合格していたから、もしかするとこの子たちの先輩になっていたかと思うと、世の中は面白いものである。

 しかし、中学の修学旅行が欧州とは、なかなか裕福な家庭のご子息たちである。私の家は、下に妹が二人もいたから、大学卒業時にも、海外旅行に行かせてほしいとは、親にとても言い出せなかった。

 次に日本人と出会ったのは、ウィーン空港である。10数人の女性がぞろぞろ歩いてくる。中には、バイオリンを担いでいる人も何人かいる。年齢はまちまちだ。遠くから、これは日本人の団体客に違いないとすぐに分かった。というのは、女性の多くがいずれも背が低くガリガリに痩せていて、顔付きが幼いのである。日本の旅行社の旗を持った添乗員がいたから、間違いない。

 それにしても、我が同胞はなぜこんなに、、、ハッキリ言うと、体格も見た目も貧相な人が多いのかと残念に思う。しかも、内に秘めた溢れるような生活力がほとんど感じられないのである。例えて言えば、小学生がそのまま大人になったようなものだ。

 ダイエットのせいか、勉強しすぎたのか、日頃苦労というものをしないせいか、あるいは過保護に育てられすぎたのか、何が原因なのかさっぱり分からない。この東欧の国々で、背丈が高くて体格も良くて、さあ何でもドーンと来いという感じの女性ばかりを見てきたから、尚更そう思うのかもしれない。

 日本も、昭和の高度経済成長期には、男性も女性もそういう底知れない生活力のある人ばかりだったと思うのだけど、これが平成から令和へと天下泰平の状況下で進んだそのなれの果てである。それはそれで平和で良いのだけど、その一方、こんな調子では、GNPがドイツに抜かれて今や世界第4位に落ちたというのも、致し方のない事だと納得するしかない。

(8)今回の中東欧の旅を振り返って嫌だったことを挙げておくと、次のようなことだ。

 (ア) 喫煙者が多い。もちろん建物の中では吸わないが、ホテルに入ろうとすると入口の脇で吸っていたり、あるいは公園では綺麗な空気の代わりにタバコの煙が漂ってくる。タバコの煙を避けたい私としては、本当に困る。

 ちなみに、世界の喫煙率(WHO公表 2023年5月19日)は、ハンガリー31.8%、スロバキア31.5%、チェコ30.7%、オーストラリア26.4%、ポーランド24.0%である。これに対して日本は20.1%だから、これらの国はそう高い方ではないけれども、それにしても老若男女を問わず、他人に気を使わずに堂々と吸っているからなおさら目立つ。

 (イ) 観光地では、物乞いがよく目に留まる。チェコのプラハ城やオーストリアのウィーン歴史地区などには必ずいて、せっかくの浮き浮きした観光気分が台無しだ。なんとかならないものか。社会福祉政策が行き届いていないからか、それともこれを職業としているせいなのか、よく分からない。

 (ウ) 落書きが、特にウィーンには、もう耐え難いほどあちこちに見受けられる。景観が台無しだ。それでもさすがに日常使われている建築物にはあまりないが、例えば立体交差道路で両脇がコンクリートの壁には、必ずと言ってよいほど、赤や黒のペンキで美観を損なう落書きがされている。こういうものは直ちに消して、かつ徹底的に取り締まるべきだろう。





(令和6年4月2日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生エッセイ





悠々人生エッセイ

(c) Yama san 2024, All rights reserved