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1.前書き エジプトに一人で行くには今ひとつ自信がないので、安全のためにクラブツーリズムのツアーに参加した。成田空港からトルコ航空機(TK51)でイスタンブールまで13時間半飛んだ。フライトマップを見ていると、北京上空から真西東の方向に飛ぶのだが、中国上空で微妙にジグザグ飛行をしている。地上に軍事基地でもあるのか、それともウクライナ戦争のせいでロシア上空を飛べないのか、そのどちらかだろう。 イスタンブールからカイロに向かう(TK692)のだけれども、何とまあ、乗り継ぎの間隔が7時間も空いている。これは非効率だ、、、仕方がないので、ラウンジのリクライニング・シートで5時間近くじっくりと寝た。ちなみに、来る途中の機内でも、3席を独占して寝ていたから、睡眠は十分で、かつ腰も全然痛くならなかったのは、幸いだった。 なお、この旅行の後の9月28日に、成田からカイロへの直行便(エジプト航空)が就航したそうだ。最初の便は、全300席が満席だったという。 明け方近くにカイロのホテルにようやく到着し、ホテルでひと休憩して朝食後、国内便でルクソールへ向かった。 2.エジプトの歴史 エジプトは、国土の縦の長さが1024キロメートルの細長い国で、ナイル河流域は概して海抜0メートル地帯が広がっている。 古代エジプトの歴史について、今はやりのチャットGPTに聞いてみたら、次の通りである。なお、別の角度からいくつか質問して、その回答を組み合わせてある。 (1) 上下エジプトの統合 紀元前3100年頃、つまり今から5100年も前に、それまで別れていた上エジプト(南部)と下エジプト(北部)が統一され、古代エジプト文明が始まった。 両エジプトを統一したのは、古代エジプトの最初のファラオである「メネス」又は「ナルメル」(Narmer)という王とされている。彼は上エジプトの王冠と下エジプトの王冠を組み合わせた「二重冠」を使用し、統一を象徴した。この出来事は古代エジプト文明の成立と発展の基盤となり、エジプトの歴史の始まりとされている。 エジプトはナイル河の豊かな流域に位置し、この河が生活の中心だった。毎年のその氾濫が肥沃な土壌を提供し、古代の農業を支えた。 古代エジプト人はヒエログリフと呼ばれる文字を使用した。フランスの学者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、19世紀初頭にロゼッタ・ストーンを元にこれを解読する業績を残したのは、有名な話である。 古代エジプト人は多神教を信仰し、多くの神々を崇拝した。有名な神々には、ラー、イシス、オシリス、ホルスなどがある。 ファラオは死後も信仰され、彼らの霊魂はアフターライフで永遠の生活を楽しむと信じられていた。そのため、ピラミッドには棺のほか、貴重な宝物や食品が埋葬された。 古代エジプトは、芸術、建築、宗教、科学などの面で多くの重要な貢献をした。その影響は世界中に広がり、今日でもその遺産は素晴らしいものである。 (2) 古王国(紀元前2686年から紀元前2181年まで) 古王国は、エジプトの歴史の初期に位置し、有名なピラミッドが建設された時代である。最初の王朝である第3王朝から第6王朝までがこの時期に存在した。 ギザのピラミッド(クフ、カフラ、メンカウラ王のもの)などが建設され、ファラオの権力が最も強かった時期でもある。 (3) 中王国(紀元前2040年から紀元前1640年まで) 中王国は、古王国の後に続く時代で、文学、詩、宗教の発展など、安定と文化の発展が特徴である。 インテフ家から始まった第11王朝と、テーベのメンフト家によって統一された第12王朝が含まれる。 (4) 新王国(紀元前1550年から紀元前1070年まで) 新王国は、エジプトの歴史の中で最も栄えた時代で、次のような多くの著名なファラオが登場した。彼らの治世はエジプトの影響力が最も高かった時期である。 ・ アーメンホテプ4世(アクエンアテン)は、太陽神アテンへの信仰を推進し、アマルナ時代として知られている。 ・ ツタンカーメン王(クィング・タトシ)の時代にアマルナ宗教が終わり、再び伝統的な宗教が復活した。 ・ ラムセス2世の時代は、カルナック神殿の拡張やアブシンベル神殿の建設があり、ヒッタイトとのカデシュの戦いの後に平和協定を締結した。 (5) グレコローマン時代(紀元前332年から紀元7世紀まで) アレクサンダー大王によるエジプト征服(紀元前332年)から始まり、その死後、エジプトはプトレマイオス王朝に統治された。これは紀元前4世紀から紀元前1世紀まで続いた。その最大の功績は、アレクサンドリアという新しい都市を建設したことで、これが古代世界の重要な文化的中心となった。 プトレマイオス朝最後のファラオは、クレオパトラ7世で、有名な女性ファラオだった。彼女はローマの将軍ユリウス・シーザ、後にマルクス・アントニウスと関係を持ち、ローマとエジプトの関係の政治的な糸口を握った。 ところが、アントニウスは、クレオパトラ7世とともにオクタヴィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗れ、エジプトは紀元前30年にその支配下に入り、プトレマイオス朝は終焉した。 グレコローマン時代には、エジプトの伝統的な神々とギリシャ・ローマの神々が融合し、新しい宗教的信仰が形成され、エジプト固有の宗教と神話も一部は維持された。古代エジプトとクラシックなギリシャ・ローマ文化の影響が融合した興味深い時代である。 (6) イスラム化(紀元7世紀以降) イスラム教は7世紀初頭にアラビア半島で創始された。エジプトにおいても、イスラム教の布教活動が行われた。 イスラム教の指導者であるカリフ・ウマル・イブン・アル=ハッターブにより、エジプトは紀元642年に征服された。このアラブ征服により、エジプトはイスラム世界の一部となった。 これ以降、エジプトにおいては、アラビア語とイスラム教が広まり、多くのエジプト人がイスラム教に改宗した。イスラム文化や法律が導入され、アラビア語が広まったことから、エジプトの文化や社会はイスラムの影響を強く受けた。 バグダードがイスラム世界の中心だったが、エジプトはアッバース朝の支配下に入り、この時期、エジプトは知識と文化の中心地として栄え、バグダードと並ぶ重要な都市の一つだった。 今回の私のエジプト訪問の地には、ファラオ時代だけでなく、グレコローマン時代(プトレマイオス朝)の遺産が多い。 3.ルクソール到着 カイロからルクソールへ行くのに国内線(Air Cairo 60)に乗った。カイロ空港で、3回も手荷物検査があったのには参った。これはターミナル1だったが、ターミナル2の手荷物検査は2回だというけれども、なぜそうなっているのかよくわからない。1997年にルクソール事件を引き起こしたイスラム過激派が、ターミナル1に向かうとでも思っているのか、、、。 ちなみにルクソールとは、古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベのことである。 このルクソールで、ナイル河遊覧船の「アルハンブラ号」に乗船し、チェックインをした。4階建てのクルーズ船で、屋上にはプールがある。欧州からの客だと思うが、日本の縄文のヴィーナスを思い起こさせる豊かな肢体にまるで裸のような水着を着て、泳いだりのんびりとベンチに横たわったりしていた。目のやり場に困る。 遊覧船の中で、ツタンカーメンのお墓の発見者のお孫さん(ヌービーさん)の話を聞く機会があった。彼はナイル西岸の有力な部族であるアブドラスーニー家の一族だという。やってきた本人は、あまり話が上手でなく、USBメモリーで発見時の様子や一族の写真を見せてくれた。 祖父は、発掘現場の監督だった。なかなか発掘が上手くいかずに難航している中、祖父は、作業員に水を飲まそうとして、ロバに水瓶を積んでナイル川に水を汲みに行った。帰ってきたところで、ロバが転けて、水瓶が割れた。するとその水が土に染み込んで行ったので、ここに空洞があると分かり、そこでカーター博士を呼んだのが発見のきっかけだったという。 4.ルクソール神殿 古代エジプトの中王朝から新王朝にかけて首都が置かれたテーベ(今のルクソール)にあるルクソール神殿は、まさに街の真ん中、それも街一番繁盛している市場のすぐ脇から入場する。夜の訪問となったが、昼間のように暑くなくて、ちょうどいい。ライトアップされているから、景色に深みが出て素晴らしい。 5.ベリーダンスショー ベリーダンスは、(身も蓋もない言い方をして申し訳ないのだが、はっきり言うと)太鼓腹のベリーダンサーが、この日の主役である。本人も踊るが、お客さんの中から適当な女性を引き出してきて、一緒に演技させるという趣向だ。 その次は、ぐるぐる回る男性が出てきた。カラフルな二つの輪形の布を纏って、ぐるぐると回る。我々なら、数分踊っているだけで倒れそうなのだが、一向に平気な顔をしている。「すごい」のひと言である。 6.王家の谷 (1)3つのお墓を見学 朝早く午前5時45分にクルーズ船を出発して、王家の谷の観光に出かける。船は午後2時が出航の予定だから、それまでに戻らなければならない。早朝の観光だから、観光客の数は多くないし、上空の雲で影ができているから、とても快適である。気温も、30度は超えていないはずだ。 王家の谷の全体像は「砂岩の山の谷」のような地形で、ビジターセンターにはその地表と地下の模型があった。王家の谷では、墓が62箇所も発見されている。保存のために、順番にいくつかの墓に限って一般に公開される。今回は、ラムセス4世の墓(KV 2)とその息子のメレンヴィタハの墓(KV 8)、そして幸運なことにツタンカーメンのお墓(KV62)を見ることができた。 ちなみに、墓の意味は、生まれ変わりができるように、その人のミイラを保存する場所である。 ガイドのアムロさんによると、古代エジプト人は、太陽が毎日沈んでいって朝にまた出てくるのは、太陽が毎日なくなって復活するものだと考えた。そしてナイル川が毎年氾濫してまた元の流れに戻るのも、やはり復活を繰り返すものだと考えていた。だから人間も、いったんは死んでも、また魂が戻ってきて復活すると信じていた。 だから、生前と同じ形つまりミイラを作り、復活に備えた。ミイラの作成過程は必ずしも全容がわかってはいないが、基本的には塩と太陽光線で乾燥させて、あとはタールと蝋を塗って作成したと考えられている。 (2)ラムセス4世の墓 「これは、生前にしなかったり、やるべきことをやらなかったりしたことを書き連ねる死者の告白だ。 あれは空の神の姿 → 女性がブリッジしている形 → ヌートリ神 → 空の神様が太陽を食べて、一晩でまた出てくる。 空からお墓に向かって死者の魂が降りてきて、蛇がそれを邪魔をし、魂が勝ったら引き続き降り、再び別の蛇に邪魔をされているということを現している」などと、実に詳しい。 (3)ツタンカーメンの墓 最後に発見されたのが新王朝のツタンカーメンのお墓である。1922年のことで、アメリカ人ハワード・カーター博士による。 ちなみにツタンカーメンのミイラは、カイロの博物館ではなく、まさにこの玄室のすぐそばに安置されていた。もっとも、あの有名なお面は、後述のとおりカイロの博物館にあった。 (4)メレンヴィタハの墓 メレンヴィタハは、ラムセス2世の長男である。その墓は、浮き彫りのレリーフが美しい。 7.ハトシェプスト女王葬祭殿 (1)ハトシェプスト女王 18王朝のハトシェプスト女王は、初の女性ファラオとして有名であるが、後継のトトメス3世との仲違いのために、その作った建造物は全て破壊されたという特異な背景がある。 (2)メムノンの巨像 ハトシェプスト女王葬祭殿にほど近いところに、新王国時代に建てられたメムノンの巨像がある。これは、18メートルの高さの2体の巨大な石像で、ファラオであるアメンホテプ3世の像とされる。 8.ネフェルタリの墓 王妃の谷にあるネフェルタリ(美人の中の美人)の墓には、その保存の良さに驚くとともに、美しい色彩に感動した。 彼女は、ラムセス2世の最愛の妃で、この墓は1908年に発見された。海水にいったんは水没し、そのために絵画が塩で覆われてしまった。しかしながら逆にそれが幸いして、普通のお墓より絵や色彩が保存されたそうだ。その塩を除去して修復したら、これほど美しいレリーフや絵が出て来たという。 9.カルナック神殿 テーベ(今のルクソール)の中心的な神殿であるカルナック神殿は、4000年前から2000年かけて作られた。何代ものファラオがアムン神への信仰の証として増改築を繰り返した巨大な神殿である。 ちなみにこちらの参道にあるものは普通のスフィンクスではなくて、羊の頭をしたスフィンクスである。それが参道の両脇にズラリと並んでいるから、思わず感動する。 カルナック神殿観光は、午前中だからまだ気温は35度程度だった。ところが、午後3時頃になると41度になるという。実に広大な敷地で、歴代のファラオが作っていったので、奥になるほど古いものがある。いやもう暑くて暑くて、見ていると熱中症で倒れる観光客もいたほどだ。 134本の列柱が立ち並ぶ大列柱室の規模に圧倒された。かと思うと、スカラベ(黄金虫)の像その周りをぐるぐると回っている人々がいる。何かの願い事をしているのだろう。 内部の壁にしても列柱にしても、今は色がすっかり褪せてしまっているが、本来はもっと彩り豊かだったようで、その名残りがあちこちに残っている。顔料は原則として石で、薄青い色はトルコ色、濃い青はラピスラズリ、白は石灰岩、赤は鉄のサビ、黒は墨、緑はマラカイトだという。レリーフの彫りを深く掘って顔料を入れ、最後は卵の白身を使うようだ。それも、ダチョウの卵などの大きな卵らしい。 10.エスナの水門 本日の夕食は遅くて午後8時からだ。その途中でエスナの水門をこの船が通るという。たまたま食事中に通ることになったので、コース料理の半ばで食べるのを中断して見に行った。 屋上から見渡すと、水門に向かってたくさんの船が並んで水門通過待ちをしている。左隣の船と並んで停船していると、その船が先に出航して行った。続いて我々の船だ。水門には横に2隻、縦に2隻が入る。手漕ぎボートが、水先案内人として先導してくれる。船の両脇には、船員が大声を出して進路を調整中である。壁との間は、僅か数十センチほどしかない。そんな狭い空間に、あんな大きな船が、よく入るものだ。 11.ホルス神殿 ナイル河西岸に位置するエドムのホルス神殿は、グレコローマン時代の遺跡である。長年、砂漠に埋まっていたことから、エジプトで最も保存状態の良い神殿だという。 12.コム・オンボ神殿 コム・オンボ神殿は、プトレマイオス朝の時代(紀元前332-32年)に作られた世にも珍しい二重神殿である。つまり、二つの祭神、セベクとハロエリス(大ホルス)が祀られているので、神殿の構造も左右対称に作られている。 ナイル河を北から南へと遡上して、この神殿前の船着場に到着した。神殿は、そこから歩いて数分の所にある。 コム・オンボ神殿の見学は、午後4時頃に下船して行ったのだが、もう船を降りた瞬間、もの凄い暑さに出くわした。後から聞くと摂氏42度だというから、私の経験したことのない暑さだ。それは、肌がチクチク刺されるような感覚で、素肌を露出すると、痛い。 持っていたタオルを鼻や口にあてると、その嫌な感じはなくなる。考えてみると、アラブ女性のあの全身黒ずくめのカラスのような格好は、宗教上の理由だけでなく、この気候に合っている服装なのかもしれない。 あるいは、別の壁画を指さして「古代エジプトは、種蒔きや収穫の時期を知るため、独自の暦を発達させた。それは、今のような1週間に相当するのが10日単位で、ここにそれが、ずーっと書かれている」と説明してくれる。 余りに精緻な説明なので、私が「アムロさんは、ただのガイドではないですね。古代エジプトの専門家でしょう?」と聞くと、「2年間留学して古代エジプト史のディプローマを持ってます。早稲田の吉村作治先生はよく存じ上げていて、一緒に仕事をしたことがあります」という話だった。これは素晴らしいガイドに当たったものだ。 ワニの剥製が並んでいる建物があった。意味がよくわからなかったが、当時はワニも、人々から畏れられ、かつ敬われる「聖獣」だったらしい。 13.イシス神殿 3日間過ごしたクルーザーを下船し、ナイル河を航行する帆船ファルーカに乗った。周囲の河岸には、椰子の木などの緑が生えていて、その向こうには砂岩の岩山があり、よく見ると連続して横に穴が空いている。貴族の墓だそうだ。 イシス神殿(フィラエ神殿)は、豊穣の神であるイシス神を祀っている。現存する神殿はプトレマイオス朝時代に建設され、その後ローマ時代にかけて増築が繰り返された。 ホルス神は天空と太陽の神であり、猛禽類の隼の頭をした男性神として現れる。エジプトの王朝の初期においては、王はホルス神の化身とされ、ホルスとは即ち王を意味する存在であった。イシス神殿のあるフィラエ島は、女神イシスがホルス神を生んだ聖地であり、それを崇拝するために神殿が築かれた」とのこと。 太陽は、朝は丸い形で、昼はハヤブサ、夜はスカラベ(黄金虫)の形になる。確かに、それを示した壁画があった。 14.未完のオベリスク アラビア語で、オベリスクというのは布団用の大きな針という意味。なぜこんなものを作ったかというと、ピラミッドの代わりなのだそうだ。 ピラミッドは盗掘されてしまうので、色々と試行錯誤の上、先端がピラミッドと同じ三角形(エジプト人にとって、聖なる形)のオベリスクになった。これは宗教的なものなので、ただ立てられているだけである。もちろんオベリスクの下には、別にミイラなどの埋葬物はない。 掘り方は、一枚岩に穴を開けて、その隙間に乾いた木片を詰める。それが水を吸って隙間を広げていき、やがて空間が広がるということらしい。現に、古代の木片が刺さっている場所があった。 例えばこの未完のオベリスクは、高さ41m、重量が1,160tもある。運ぶのは、大変だ。ナイル河の渇水の時に筏を用意し、その上に載せ、季節が過ぎるのを待って水位が上がると、水に浮かぶ。そうやって下流に向けて航行して運んだという。 15.アスワンハイダム アブシンベルに向かう途中、アスワンハイダムに立ち寄った。軍隊が守る重要施設である。ダムの上流は細長い流れで、ダムの下流には、見渡す限りの広大な水面が広がっている。なるほど、これなら、相当広範な地域が水没したはずである。ブーゲンビリアの可憐な花が美しかった。 更にバスが進むと、緑が少し見えてきた。脇から合流してくる道路に沿って、椰子の木がポツポツと生えている。その脇にはアパート群があるが、誰も住んでいないようだ。こんな厳しい自然条件の中で、どんな人たちが住むというのだろう。 地形に起伏が出てきたところで、道路を横断する「運河」があった。しかも、滔々と水をたたえている。そこから水を引いているのだろうか、丸くて広大な緑があちこちにある。作物はトウモロコシらしい。丸の真ん中から長い棒が突き出ていて、ゆっくりと回って水を撒いている。ガイドによれば、ダムの余剰水に地下水を足して、こうした灌漑農地を作っているそうな。 道がガタガタになってきた。バスは、ゆっくり走り、穴を避けて左右へと車体を揺らす。やがて、またちゃんとした舗装道路に戻った。ラクダを乗せたトラックを追い越した。アムシンベルの街に、ラクダの検査場があり、健康なものだけを選別するそうだ。 やっとこの日の宿泊施設である「セティ・アブシンベル・レイクリゾート・ホテル」に到着した。ナセル湖に面し、屋外プールを二段に配置した、趣きのあるホテルである。 16.アムシンベル神殿 この壮大なアムシンベル神殿は、ラムセス2世が作った。全部が一つの岩山から成り、それを水平に51mまでくり抜いて作ったもの。3300年前の建造である。 なぜこの地にこんな大規模な神殿を作ったのかというと、次の4つの理由がある。 (1)10月と2月の22日に、太陽が差し込んでくるように作ってある。ちなみに10月22日はラムセス2世の誕生日、2月22日は、戴冠記念日である。 (2)愛妃ネフェルタリの出身地である。 (3)金山がこの地に数多くあった。 (4)まだ南方のヌビア人と争っていたので、エジプト王朝の権威を示すためでもあった。 なお、(1)で22日と記したが、元々の場所は、10月21日と2月21日なのだそうだ。アスワンハイダムに沈むから、60m上で場所も動いたため、1日ずれてしまったようだ。それとも、3000年の間に、暦がズレてしまったのかもしれない。 暗い中、始まった。おそらく遺跡を傷つけないようにとの配慮からか、投影される光の量が少ないので、最初は画像がよくわからなかった。しかもこの晩は満月に近かったから外が明るく、それもあって肉眼ではあまりよく見えない。そこで、iPhoneでビデオを撮ろうとしたら、これはすごい。何が映っているのか、よく見えるではないか。もはや目の力を超えている。内容は、 (1)ユネスコの協力で水没から免れたこと。 (2)ヒッタイトとの度重なる戦争の末に和平条約を結んだこと。 (3)愛妃ネフェルタリのこと。 (4)ラムセス2世の治世の素晴らしさなどである。 アスワン空港から、プロペラ機に乗って、一路カイロに向けて出発した。これは、エジプト航空のLCC子会社であるエア・カイロなのだが、機内に空調がないのには、参った。暑くて暑くてかなわない。機内の送風口からも、生暖かい風しか出てこない。カイロからルクソールに行った時は、同じエア・カイロのプロペラ機でもちゃんと空調が効いていたのに、これは何としたことか、、、早くカイロ空港に着いてほしい。そうでないと、屋外では熱中症にならなかったのに、機内でなりそうだ。 ようやくカイロ国際空港に到着した。機内で水が配られたので、ひと息ついたのと、座席の背面にある航空機搭乗のしおりがたまたまプラスチック製だったので、皆がそれをうちわ代わりにバタバタやり出したので、私も倣った。すると、少しは涼しくなった。 カイロに着いたのだが、またまた不合理なことに直面する。同じターンテーブルに、何と4機分が集中するので、その場がまるで豊洲市場の競り市のようになっている。だから、なかなか出て来ない。かなり待ってやっと出て来たので、荷物を引っ張っていってバスに乗った。すると、同じ駐車場にバスが5〜6台停まっているのに、ポリスが「全部のバスが揃わないと出させない」などとめちゃくちゃなことを言う。そのせいで、更に40分近く待つ羽目になった。こういう融通の効かないところが、なかなか発展できない理由なのだろうか。 パピルス屋さんでは、ピラミッドその他のお墓の中の絵をモチーフに、人物、命の鍵、太陽、スカラベ(黄金虫=糞転がし)など色々な芸術的な絵が描かれている。 17.ギザのピラミッド 「ギザ」というのは、「入口」という意味で、砂漠の入口となる地域を現しているらしい。大小9つのピラミッドが見える展望レストランがある。 中でも大きな3つのピラミッドの被葬者はクフ王、カフラー王、メンカウラー王である。それぞれのピラミッドには王妃たちのピラミッドや参道があり、カフラー王のピラミッドの参道入り口には、ギザの大スフィンクスが聳え立つ。 クフ王のピラミッドが建造されたのは4600年前で、240万個の石でできている。14階建の建物に相当する。かつては上部が金色で、よく目立っていたと思われる。 また、アムロ情報によると、「ピラミッドの建設方法は、下から3分の1までは、コム・オンボ神殿で述べたように、日干し煉瓦を斜めに積み上げて坂を作ってそこの上を運ぶやり方である。残る3分の2は、螺旋階段のような構造を作って積み上げていくやり方だというのが有力とのこと。いずれも、木でソリのようなものを作ってそれを引っ張るのだという。そのソリも出土しているとのこと。石の大きさは、上に行くほど小さくなる」由。 18.スフィンクス 古代は、スフィンクスの前が船着場だったようで、そこに河岸神殿があった。王の遺体を乗せた船が横付けされ、細い登り坂を運ばれて、ピラミッドの脇でミイラにされたようだ。 このギザの大スフィンクスを作らせたのは、クフ王という説もあるが、紀元前2500年頃に第四王朝カフラーの命により、第2ピラミッドとともに作られたという説が有力である。 19.エジプト考古学博物館 エジプト考古学博物館(通称:カイロ博物館)は1901年の建築であまりに古いので、新しく博物館を作って移転中とのこと。例えば、ミイラは既に新しい大エジプト博物館(2023年12月開館予定)に移されている。そういうことで、この古い博物館には冷房がないので、ひどく暑かった。 ツタンカーメン王の展示室だけエアコンが効いていることもあり、外はあまりに暑いから、ここに入り浸り状態である。有名な黄金のマスクがあり、金色を基調に、髪の青い線は高価なラピスラズリ、その他、赤やら黒やらが使われている。ただ、残念なことに、この部屋だけ写真撮影は許されていなかった。仕方がないので、黄金のマスクは、外のお土産屋さんで撮った。 20.後書き (1)私は、先進国の首都や大きな都市なら、往復の飛行機と泊まる宿を確保して、自分で行く自信はある。ところが、論理も社会も生活習慣も違う上に交通が不便なエジプトのような国になると、やはりツアーに乗るのが安全である。 (2)私が、日本で初めて発売されたカラーノートパソコンを購入したのは、1991年のことだったが、それからほどなくウィンドウズ3.1というソフトが発売されて、それ以降、マイクロソフトの現在の隆盛に繋がった。 ところで、その3.1を開いてみると、壁紙にペルーのマチュピチュ遺跡と、エジプトのピラミッドが載っていた。それをつくづく見ていると、まあその魅力的なことといったらない。だから、この2箇所には、いつかは行ってみたいと、かねてから思っていた。既にマチュピチュについては行ったので、残るはピラミッドだけである。 (3)ということで、クラブツーリズムのツアーに参加することにした。当日、成田空港に着いてみると、二つびっくりしたことがある。その一つは、添乗員が突然変更になったことである。何でも、身内に不幸があったらしい。 代わりに来てくれたのが、前日の午後10時に急遽代わってくれと言われたという添乗員さんで、前々日にカンボジアから帰ったばかりだという。こんなこともあるんだ、、、。それにしても、タフでなければ務まらない職業だ。 次は、ツアーといっても参加者はわずか5人で、しかも添乗員を含めて私以外は全員女性だ。お客さんは、母と娘が2組と、私という有様。何でも、出発直前に何人かが脱落したということで、それでも中止にならないのは、「出発確定」とアナウンスしたからだという。日本の旅行社らしい生真面目さだ。その新しい添乗員の山崎さんによると、過去、参加者が僅か3名ということがあったらしい。 (4)エジプトに行くということで、事前に友達に聞いてみたら、お腹を壊したという人が何人かいたので、生ものは食べず、かつ日本からペットボトルの水を10本と、食べ物が合わない時に備えて食料を幾つか持っていくことにした。加えて、旅行会社からもらった冊子には、「エジプトでは、ホテルにはシャンプーとコンディショナー、ボディーソープと歯ブラシのないところが多いので、これらは持参してください」などと書かれている。これらを買い込んだせいで、大きなトランクの重量は22キロと、制限の23キロギリギリである。 それで、どうなったかというと、クルーズ船も含めて、さすがに歯ブラシはなかったが、それ以外のものは揃っていた。また、水もホテルで1本、バスでも1本もらった。だから、心配することもなかった。もっとも、大汗をかいたので、持参した日本のペットボトルも1日1本飲んでいたから、ちょうど良かったといえる。ただし、エジプトのペットボトルの水は硬水のようだから、これに弱い人はいわゆる「水が合わない」ということになるので、飲まない方が無難である。 生ものは、最初は食べないようにと思って、一泊目のホテルでは、サラダや果物は食べなかったが、やはりこういうものは身体が欲する。二泊目のクルーザーからは、思い切って食べ始めた。サラダといっても、トマト、レタス、きゅうり、デーツ程度だけど、美味しいし、特に問題はなかった。その調子で、生ジュースにも挑戦してみた。マンゴーとストロベリーのダブルである。いや、実に美味しくいただいた。もう一杯、注文したほどだ。 レストランの飲み物の支払いは、全て米ドルで事足りる。あらかじめ八重洲口の両替屋で、1ドル札と10ドル札ばかりに両替しておいたから、助かった。ちなみに、観光地で物売りが寄ってきて、「ワンダラー、ワンダラー」と叫んでいる。本当にワンダラーかと思って聞くと、「これは、ツウェンティダラー」と言う。ではあの「ワンダラー」は何かというと、ただ「いらっしゃい、いらっしゃい」と言ってるのと同じことだと分かった。笑い話だ。 (令和5年9月30日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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