今回のスイス旅行は、本当に楽しかった。このところ、家内の老人ホーム入り、母や親友の奥さんの急な逝去など、心が沈むことばかりが続いていたが、この旅行で久々に気持ちが晴れる感覚を味わった。そのハイライトを記録しておきたい。 1.ライン瀑布を見る チューリッヒに到着した最初の日は、直ぐに北へ1時間ほど走り、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンにあるライン瀑布を見に行った。ライン川本流の中で唯一の滝だという、その川の水の色も、ダークグリーンで惚れ惚れするほどに美しい。それが、ある所で大きな滝となる。それを手前から、脇から、上から、そして船から観られる趣向になっている。 私は前回のニュージーランドに続いて、今回もマレーシアで組まれた現地のツアーに参加しているのだが、同じツアーのー行の40歳代の華人女性に、「現地の人に日本語で話しかけられちゃった」という話をすると、彼女は、「ええっ、あなた日本語もわかるの?」というので、「そりゃぁ、日本語が母国語だからさ」と答えると、「ええっ、あなた日本人なの?」と二度びっくりされた。我ながら、「うーん、環境に完全に溶け込んでいる。これでよし」と思った。 リマト川に面したグロスミュンスター大聖堂に行く。こちらは15世紀に建てられたロマネスク様式のプロテスタント教会とのこと。内部に入り、カラフルなステンドグラスを眺めた。とても色鮮やかで美しい。それに信仰心が加わって徹底的に作り込むから、ヨーロッパの教会のステンドグラスは、非常に素晴らしい。地下室に行くと、恐ろしいほど力強い男性の像があり、これにはびっくりしてしまった。 ルツェルン名物の瀕死のライオン像に着いた。ガイドによると、「フランス革命の時に、王族一家を護衛していたスイス人の傭兵760人が惨殺され、350人が生き残った(最近の研究では殺されたのは300人余りという説もある)。たまたま休暇でフランスを離れていて難を逃れた将校がそれを悼んで募金を募り、それで建立した」そうな。写真左の十字がスイスを象徴し、その下がルイ王家のユリの紋章である。陰惨な歴史があったものだ。 土産物屋の二階には、鳩時計が並べられていて、なかなか可愛い。孫が来た時などに飾ろうと思って買った。ところが、包装が嵩張るので困る。包装を外して嵩を減らし、機内持ち込み手荷物の中に何とか入れた。 ルツェルンといえば、ウィリアム・テル伝説の本場である。ガイドの話によると、14世紀にこの地を統治していたハプスブルク家の代官ゲスラーは、道に自分の帽子をぶら下げて、通る人にお辞儀を強要したという。まあ、相当な悪代官だったのだろう。ところが、息子を連れたウィリアム・テルはお辞儀を断ったので逮捕された。 ゲスラーはテルに、「お前の息子の頭の上に載せた林檎を射抜いたら許す」と言ったので、テルはやむを得ず矢を放った。すると、見事に林檎に命中し、息子は無事だった。ところが、テルが2本目の矢を抜いていた。それは、もし息子に矢が当たったら、ゲスラーを射抜くつもりだったと知り、ゲスラーは激怒して、テルを投獄した。テルは、船で牢獄に送られる途中に脱出し、このエピソードはその後のスイスの独立の礎となったという。 ベルンに行く途中のルンゲルンでは、おとぎの国のような山と湖の写真を撮った。素晴らしい。それこそ、絵葉書のようだ。これは、百聞に一見にしかずで、次の写真の通りである。 ベルンの国会議事堂は、何の変哲もない普通のビルだから、前を通ってそれだと言われないと、気がつかない。そこから、旧市街に向けて、ダラダラと歩く。塔のようなものが二つもあったが、それぞれ、街を囲う城壁の名残りだそうだ。 5.インターラーケン インターラーケンというのは、ブリエンツ湖とトゥーン湖の間に位置する町である。着いて直ぐにスイスの民族音楽を聴きながらのディナーがあるというので、駅近くの川を渡った所にあるレストランまで歩いて行った。 パナマ帽の紳士は、バイオリン引きが本業だが、副業にカウベルを持ち出し、大小様々な大きさのカウベルを器用に扱って、エーデルワイスなどを演奏している。なかなか上手い。 そうかと思うと、アコーディオンのおじさんは、ノコギリを持ち出して「ウィーン、ボローン」などとやっている。しかし、あの音はやめてほしい。鳥肌が立つからだ。 ひと通りそれらが終わると、パナマ帽がアルペンホルンを持ち出し、器用に演奏した。それで、ツアーのメンバーから吹きたい人を募った。高校生の男の子が手を挙げてチャレンジした。結構大きな音を出して拍手喝采をもらった。次に20歳くらいの女の子がやってみたら、ほとんど音にならずに敗退。驚いたのがツアーコンダクターのおじさんで、音が出て、しかも音程になっている。何でも、若い頃、サキソホンを吹いていたからだというから、大いに納得した。 それを契機に、ほぼ半数の人を舞台に上げて、何やら楽器を持たせて演奏をし始めた。スイスやマレーシアの国旗まで用意し、演奏しない人にこれらを持たせて大騒ぎだ。これが結構、ツアー一行の心を掴んだようで、楽しい馬鹿騒ぎとなった。 6.イゼルトヴァルトを歩く インターラーケンをバスで出発し、しばらくしてイゼルトヴァルトに到着した。こちらは、ブリエンツ湖の南岸にある平和で美しい村で、「ブリエンツ湖の真珠」と言わているそうだ。それぞれの家が色とりどりの花を植えて、さりげなく飾っている。これも、言葉を尽くして説明するより、写真を並べた方が百聞は一見にしかずである。 グランデルバルトからロープウェイでアイガー・グレイシャー(2,320m)に到着した。そこまではわずか15分間で、ゆっくり景色を眺めている暇がないほどだ。直ぐにそこから鉄道に乗り換えて、頂上を目指す。ここまで、昔は鉄道だったが、それだと40分間はかかるそうだ。標高が上がるに連れて高山病の兆しが出てこないか気になるが、マチュピチュの時と同様に、私は全く問題がなかった。でも、同行の21人中、3人が目眩いがしたそうだ。 次にすぐユングフラウヨッホ峰(3,466m)の駅に着いて電車を降りた。ここは、ユングフラウ峰とメンヒ峰を結ぶ稜線の鞍部にある山である。ちょうどお昼前だったから直ちにスフィンクス展望台(3,571m)に上がり、そこで昼食となる。スープに骨付き鶏とポテトチップが出てくる。大量生産向きだ。時間のない時に何かお腹の中に入れておくような場合には、こういう方式しかないのだろうが、そうでない場合には、ごめん被りたいメニューだ。 ここスフィンクス展望台は、外に出られる。前回来た時は、外は嵐気味で周囲は真っ白だったが、今回は曇りではあるものの、一応、外が見える。目の前に見えるのは、ユングフラウ(4,150m)か、メンヒ(4,107m)か、それともアイガー(3,970m)か、、、形からして、ユングフラウ峰に間違いない。ツアー・ガイドもそう言っていた。 幸い怪我はないから良かったものの、そこから氷の上で立ち上がるのに往生した。つるつる滑って本当に立ち上がれない。スケートリンクで立ち上がるのが難しいのと同じだ。ほとほと困っていると、親切なことに、近くにいた大柄のインド人が助けてくれた。 8.グレイシャー3000に行く インターラーケン発、コルデュピロンでロープウェイ(1,546m)に乗り、カベーヌ(2,525m)で別のロープウェイに乗り替え、セ・ルージュ山頂駅(2,971m)に到着した。途中の下界の風景は、まるで繊細に作られたジオラマのような世界で、感激してしまった。 近くの人に、「どれがアイガーで、どれがユングフラウだ」と聞いたら、「自分もわからないが、あの望遠鏡を覗いてみたらわかる」と聞いて、覗いてみた。その方向にむけると、確かに文字が書いているではないか、、、ところが、光が反射する上に、文字が細かすぎてよくわからなかった。 これが、グレイシャー3000かと思いながら周りを見渡すと、先ほど吊り橋の向こうから見た風景とあまり変わりがない。当たり前だ。早々に退散して、階段を下ってきた。今度は下りだから、さっさと降りてこられた。 9.グシュタードを歩く グレイシャー3000から下ってきて、グシュタード(標高1,049m)に到着した。素朴で静かな雰囲気の町で、どこもかしこも綺麗にしつらえている。ロジャー・ムーアやエリザベス・テイラーなどの映画スターや各国のセレブに人気のある有名な土地ということである。日本でいうと、軽井沢といったところか。メイン通りの建物は、いずれも花また花に飾られていて、まるでおとぎの国のように美しい。丘の上には、古城のような外観の高級ホテルがある。 パノラミックトレイン(展望列車)というものに乗った。ルツェルンからモントレーまで行くもので、途中のグシュタードからの乗車である。左右の景色は、すこぶる良い。緑の斜面に家がポツポツとあり、いずれも申し合わせたように、スイス式の木造の家(シャレー)である。 同行の元教師の人が、「あの緑の芝生は、自然のままなのですかね。マレーシアだったら、放っておくと伸びていくんですけど、こちらは放っておいても伸びない草なのでしょうか」という。 私が「日本でも、夏場に草を刈らないと、1m以上の草ボウボウ状態になる。これは、地味が豊かな証拠だと思う。その点、スイスの山岳地帯は、土壌が貧しくて、こういう地味に合った背の低い芝生のような植物しか生えないのかもしれない」と言ったが、多分それで当たっているのではないかと思っている。 11.モントルーとヴヴェイで楽しむ レマン湖の東の端にやってきた。モントルーで、反対側の西の端にはジュネーブがある。 泊まったのは、モントルー郊外ヴヴェイのモダンタイムスホテルで、その名の通り、チャーリー・チャプリンの映画にちなんでいる。館内はもちろん全室に、この地ヴヴェイで亡くなったチャプリン由来のものが館内のあちこちに置かれている。 12.シオン城を見学 シオン城(Chillon Castle)は、レマン湖の南北通航を監視する防衛拠点として、12世紀に設けられ、それ以来改築を重ねてきた城である。その歴史は、次の3期に分けられるという。 サヴォア家領時代(12世紀から1536年まで) ベルン人所有時代(1536年から1798年まで) ヴォー州所有時代(1803年から現在まで) この城は、当地の豪族だったサヴォア家が所有し、サヴォア伯爵・公爵のものだったが、実際に住んでいたのは、城主と言われた代官だったようだ。 1536年にベルン地方のスイス人がこのヴォー地方とこの城を占領し、その後260年にわたり、城は要塞、武器庫、牢獄として使用された。1778年のヴォー州革命によってベルン人は去り、ヴォー州が成立した1803年からその所有となった。 中を見て回ると、まさに中世のお城そのもので、なかなか興味深い。それにしても思うのは、ここに住むのはさぞかし寒かっただろうなということだ。暖炉はあるが、何しろ石造りで、天井が高く、窓にガラスがないから吹きっさらしだ、、、。 宴会の間があった。中世の騎士たちが集まり、大きな暖炉で豚の丸焼きを作り、木製の頑丈なテーブルにそれをドーンと置き、ワイワイガヤガヤと飲み食いしている姿が目に浮かぶ。 寝室に入ると、ベッドの長さが短くて140cmから150cmしかない。これは、当時の人々の背が低かっただけでなく、背中にクッションを入れて半ば身を起こす形で寝る習慣があったのではないかと言われているそうだ。常在戦場という意識なのだろうか。 シオン城がイギリスのロンドン塔と同じだなと思ったのは、通行税を集める関所、いざという時の要塞、そして牢獄という3つの役割を果たしているので、外見以上の歴史があるからだ。ちなみに、イギリスの詩人バイロンが書いた詩のうちの「シオンの囚人」は、ここのことを言っているらしい。 入って、女性の薬剤師に、「咳が出るし、喉が痛い」というと、「dry or wet?」と聞くので< 「Well... It's rather dry.」と答えると、茶色の瓶を出してきた。咳止めのシロップだ。1日に3回、1回に15cc、最大4回飲めという。それに、日本で言えば「のど飴」に当たるものも添えてくれた。合計35CHF(約5,700円)である。これが良く効いて、1日半で咳は完全に治まった。のど飴もシュガーレスの「グミ」のようなものだったから、くどくなくて良かった。 13.チョコレートとチーズ工場を見学 今日はチョコレート工場とチーズ工場に行く日だ。ただし私は、チーズは食べるが、普通のチョコレートは甘すぎて、進んで食べようという気にはならない。もっとも、GODIVAは別格で、これは美味しく感じて好んで食べている。 スイスでは、人気の順にいうとミルクチョコが70%、普通のチョコが25%、ホワイトチョコが5%だという。ミルクチョコと、ホワイトチョコとはどう違うのかと聞いた。すると前者には牛乳が、後者にはカカオニブが使われているそうだ。 チーズ工場では、牛乳を大きな鍋でかき回している場面を見せてくれた。解説によると、85kgの草と100Lの水から25kgの牛乳がとれる。400Lの牛乳から35kgの丸い大きなチーズがとれる。12Lの牛乳から1kgのカットチーズがとれると書いてあった。ということは、1kgのカットチーズを作るためには、3.4kgの草と4Lの水が必要なのか、、、資源多消費型の製品なのだな、、、。 14.グリュイエールを見る グリュイエールは、ちょっとした高台にあるお城が、中世の面影を良く残している。この街のHPによれば、こういう歴史らしい。 「この村の名前は、この地で鶴(grue)を仕留め村の礎を築いたとの伝説が残る偉人グリュリウス(Grurius)に由来している。村の紋章に鶴が描かれているのは、そのためである。 グリュイエール公の名は11世紀の文献にすでに表れている。以後、グリュイエール家は広大な土地を支配し続け、サヴォワ公国の従属となりながらも独立を維持した。 しかしグリュイエール家最後の領主ミシェル公は、1544年に当時ベルン公国とフリブール公国との争いに巻き込まれる形で、領主権を売却せざるを得なくなってしまった。」 15.ローザンヌを歩く ローザンヌは、国際オリンピック委員会本部とオリンピック・ミュージアムがあることで有名だが、今日は朝から気温35度のところを歩いてきたので、疲れた。夕方にいったんホテルに着いてからは、とてもオリンピックミュージアムまで歩く気にはならなかった。 ローザンヌで大聖堂を見てから、バスに乗ってうとうとしていると、「国連です。あれが壊れた椅子です」という声が聞こえてきた。あれ、もうジュネーブに着いたようだ。まだ1時間余りしか寝ていない。 帰国の便に乗るためにジュネーブ空港でエティハド航空のカウンターで並んだ。私の番が来てパスポートと旅程表を見せると、「マレーシアのビザはあるか」と聞いてくるので、「3ヶ月の観光ビザを貰うつもりだ」というと、「いつ日本に帰国するのか」とまた聞くから、「8月28日のJALだ」と答えると、「その航空券を見せろ」と言う。「紙の旅程表は、この中だ」と預けるつもりの荷物を指さすと、「見せてくれ。これも規則でね」と言う。今から開けるのも面倒なので、「携帯の電子航空券で良いか」と言うと、「それでも良い」と言うから見せると、やっとそれで通った。このやり取りに時間がかかったし、同じカウンターで私の後方に並んでいた人には、迷惑をかけて申し訳なかった。ニュージーランドのツアーの時には、こんなことはなかったというのに、これは何としたことだろう。不法移民が多くて、ピリピリしているのかとしか思えない。 17.後書き (1) 円レートが146円にもなったせいか、海外旅行の料金が高騰している。スイスエアを使ったスイスへの旅が、エコノミークラスで81万円、ビジネスクラスで121万円とは、これは驚いた。確か8年前はビジネスクラスで70万円だったのに、、、 実は私は、先般のニュージーランド旅行でマレーシア中国人のツアーに入って楽しかったので、今回も同様にした。数ヶ月前に支払ったのは、エコノミーで53万円である。そんなものだろう。ただし、日本からだとマレーシアに渡航する費用が必要だが、私はコロナ禍の3年間の買い物でマイレージが貯まりに貯まっているから、それを使った。でも、燃料サーチャージとやらで、現金をかなり支払ったので、それを入れると57万円になる。それでも、日本発ツアーよりはお得である。 (2)なんでこうなっているのか、成田・クアラルンプール間の航空運賃を比較してみた(2023年12月6日搭乗、片道) バティックエア(直行) 57,360円 エアアジア(直行夜間便) 61,550円 マレーシア航空(直行) 103,960円 日本航空(直行) 243,060円 (3)新型コロナ禍が終わって減収分を取り戻そうとしているのか、日本航空なんて、出鱈目とか言いようがないほど高い。ナショナルフラッグという意味では同じだから、スイス航空も似たようなものなのだろう。 新聞によれば、「世界各地で国際航空券価格が高止まりしている。米国―アジア便は新型コロナウイルス禍前の2019年に比べ6割高い。管制官や地上職員の不足などによる減便に加え、ジェット燃料費の高騰が主因だ。コロナ禍前の水準にほぼ回復した国内線とは対照的に、航空各社は国境を越えた移動の需要に応えきれていない。(中略) 航空券価格上昇の要因のひとつが航空大手による減便だ。 ドイツ航空大手のルフトハンザは今夏のフライト数を計画比で10〜15%削減すると決めた。カールステン・シュポア最高経営責任者(CEO)は『本来はもっと航空券を売ることができたはずで、夏休みの旅行需要を逃している』と語る。 英格安航空会社(LCC)のイージージェットはロンドン発着便を中心に7月から9月に約1700便の欠航を発表した。 長引くコロナ禍で航空会社の就業者数は大幅に減少した。コロナ明け当初、世界的な問題となったパイロット不足は大幅な賃上げや定年延長で解消に向かいつつあるが、地上スタッフや管制官はまだ不足しており、運航便数を増やすことが難しい。(以下略)」とのこと。(日経新聞2023年8月23日付) (4)とまあ、旅行代金に対する不満から話をしているが、どうして今回のマレーシア発の旅行が安いのか、その理由がわかった。エティハド航空という聞いたことのない航空会社を使ったからだ。これは、アラブ首長国連邦の航空会社らしい。そのせいで、アブダビ乗換えになってしまった。 エティハド航空の座席はやや狭いが、機内サービスと座席の画面の使い勝手はごく普通だった。映画には、ミッションインポシブルシリーズのように、日本語吹替えのものもある充実ぶりである。 ただし、乗換え地のアブダビの飛行場はいただけない。乗り換えようとしたら、そもそもボーディングブリッジがない(もっとも、帰るときの乗換えにはあった)、一部の待合室のエアコンが壊れている、雨漏りすらしている、搭乗口の電子表示がついたり消えたりして見にくいなど、快適とはとても言えない。ここでの乗換えは、なるべく避けた方が良いだろう。エミレーツ航空の方が良かった。 (5)それにしても、今回のスイス旅行は暑かった。行く前は、スイスの気候は、例えば軽井沢のような高原の気候と考えて、厚さ対策など想像もせずに荷物を準備していた。ところがいざ行ってみると、前回は零下に近かったスフィンクス展望台はなんと摂氏8度もある。グレイシャー3000も同様で氷河が溶けている。こんな標高3000m地点でも、これは温かいと思って見て回った。それは良かった。ところが、ルツェルンのような平地に降りてみても、気温32度は普通で、もう熱帯並みの暑さでびっくりした。こちらだけかと思って他の都市に行ってみても、事情は同じだ。その中を歩き回らないといけなかったから、ほとほと疲れた。 18.同行者 (1)マレーシアの国旗 首都ベルンの街で、我々のガイドが、マレーシアの国旗を掲げて先導している。現地の紳士が、「あれ、、どこの国かな」と呟くので、傍らを歩いていた私が冗談で「アメリカですかね(Is it the United States flag?)」と言うと、「それにしては、何かが違っている、、、ああ、、星のところに月がある」と言うので、マレーシア人が大笑いした。 しばらく行くと、今度は相当年配の白人が、この旗を見て、何と敬礼をしたので、びっくりした。元軍人さんなのだろうか。 (2)アブダビ乗換え 私が、「今回のアブダビでの乗換えが最悪だった、ドバイ乗換えの方がマシなのではないか」と言うと、「いやいや、ドバイは別の意味で最悪だ」という人がいた。 その人は、ブダペストに行く途中、なんとまぁ、置いていかれたそうだ。「Final Callが聞こえなかったのか」と聞くと、「ドバイは、設備は最新だが、放送しない方針らしい。だから、搭乗口の近くにいたのに、つい寝てしまい、気がついたらもう出発していた。アブダビなら、椅子が固くて寝入ることはないのに、ドバイは変に設備が良いから、寝てしまった」というので、皆で笑ってしまった。 (3)バルマティ 前回のニュージーランド旅行の時は、私以外の全員がマレーシア中国人だったが、今回は一行の中にインド人が4人いる。だからガイドの説明が全て英語だったので助かった。 ところでそのインド人のうち、目がパッチリして鼻の高い美人がいる。アーシャーという名で、どうやらパンジャビ(シーク教徒ではなく通常のヒンズー教徒だという)らしい。肉は一切食べないせいか、背は低いものの、スタイルは抜群である。50歳だというが、長年ベジタリアンを続けると、こんな風になるのかと、思ってしまった。 この人が、時に面白いことを言って笑わせる。ある時、彼女の友達が入院したというので、病院へお見舞いに行った。ちなみにこちらでは、相手のファーストネーム(名)はもちろん知っているが、サーネーム(姓)を知らないことがしばしばある。 病院で、相手のファーストネームを看護師に言うと、「ああ、バルマティね」と言って、奥の方を指差した。ちなみに、マレー語で「バル」とは「新しい」とか「◯◯したばかり」を言い、「マティ」とは「死体」を言うから、見舞いに来たのにその人が「死んだばかり」と思って、ひどく動揺したという。 ところが実は、その病人のサーネームがたまたま「バルマティ」だとわかって、大笑いしたそうだ。多民族国家で人種と言葉が交錯するこの国らしい話である。 そういえば、前回のニュージーランド旅行でも、同行者の一人で太っている女性がいた。その名前のスペルが 「Hui Hui」というので、誰かに「あれは『フィフィ』と呼ぶのか」と聞いたら、「そんなことは言っちゃ駄目。それは広東語で『太っちょ』という意味なんだから」と言われて、びっくりして大笑いしたことがある。また今回も、似たような経験をした。これだから、海外旅行は止められない。 (4)あなたは55歳か インド人の二つのカップルのうちの若い方の男性が私に話しかけてきた。「あなた、何歳なの?」というわけだ。「当ててみたら?」というと、首をかしげながら、「ううーん、55歳かな」というので、「残念でした。もうすぐ74歳になる」と答えた。すると両手を上にあげて「ええっ、父親の世代だ。そんな風には見えない」とビックリしていた。 この旅行で、一番嬉しかったことだ。笑うしかない。 (令和5年8月26日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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