悠々人生エッセイ



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 ニュージーランドへの旅( 写 真 )は、こちらから。


【前書き】

 かねてから行きたかったニュージーランドに、ようやく行く機会に恵まれた。新型コロナの第8波が収まり、5月8日から普通のインフルエンザ並みの5類の伝染病に「格下げ」になるという時期である。もっとも、これからかなり猛威を振るいそうな第9波がまたすぐに来るというのが専門家の見立てであるが、いったん始まった経済や社会の正常化の動きは、もはや止められないだろう。何しろ外出自粛とか、人との距離をとれとか、常に手指消毒をせよとか、そんな規制もどきについて、私も含めて、人々はもう飽き飽きしているからだ。

 私は新型コロナ禍が始まる3年半前の2019年10月に、ペルーのマチュピチュ遺跡の観光に行ったが、こんな長距離の旅行はそれ以来だ。考えてみると南半球への旅行は、2000年の南アフリカアルゼンチンが最初だから、これが3回目となる。その時も南アフリカからシンガポール経由で日本に帰ってきた。今回もシンガポール経由である。しかも、後述するようにマレーシアで募集されたツアーに参加するという異例の形となった。では、旅行のハイライトを記しておこう。

【1日目】 クライストチャーチに向かう機中にて

 シンガポールからSQ297便でニュージーランドの南島の中心都市であるクライストチャーチに向かう。9時間45分の長いフライトだ。7時間が経過したところでフライトマップを見ると、ちょうどオーストラリアのシドニーを通過したところだった。

【2日目】 クライストチャーチは生憎の雨

(1)クライストチャーチに着いたが、あいにくの雨だ。市内観光をする段になったが、バスでカテドラル広場、リメンブランス橋、植物園を駆け抜けただけ。予定されていた平底ボートでエイボン川を下るという趣向も、雨で川が増水していて水位が上がっているから、橋にぶつかるおそれがあるというので中止となった。ああ、残念だ。リメンブランス橋というのは、第1次世界大戦に出征して戦没した兵士を追悼する施設らしいのだが、その近くのマーケットに入ると、なるほど賑やかだった。日本のほとんどの都市で消滅してしまった市内電車が走っていて、私には懐かしい気がしてたまらなかった。


 2011年に起こった大地震で、クライストチャーチの中心部では、建物の崩壊により日本人留学生を含むたくさんの人が亡くなった。その場所では、大教会が再建中である。それが完成する前の臨時の施設として、代わりに小さな三角形の教会の建物が作られていた。雨なので、ただ通り過ぎるだけで、その場で黙祷するほかなく、もどかしい。むろん写真も撮れなかった。

(2)泊まったクラウンプラザ・ホテルは、その直ぐ近くにある。まあ普通のホテルだが、室内に入ると寒い。室温が20度を切っていたようで、エアコンを付け、26度に設定したら、やっと25度まで上がったが、それが限界らしい。

 近くには、カジノがあるようで、以前ここに留学して日本語を学んだというロビンさんが、家族を引き連れて行ってくると言って出掛けた。翌朝、ことの次第を聞くと「まあ、よかった」というから、かなり当たったようだ。チップは5NZドルと掛けやすく、客の半分は現地の人、入場料は要らないとのこと。私はカジノはしないことにしているので、聞きおくだけだった。

【3日目】 テカポ湖とクック山

(1)翌日、バスで出発した。ひたすら、左右になだらかな丘陵が続き、羊や牛が見える。写真に撮りたいのだが、バスは高速で走るし、撮りたい風景が私と反対側の座席からの方だったので、残念ながら私の車窓の側からは使える写真は一つも撮れなかった。




 午前中は羊のファームに立ち寄り、木の葉が真っ赤に紅葉しているのに出会った。青空を背景に本当に綺麗な紅葉である。こちらは、南半球だからこれより冬を迎えるわけだ。加えて、ここにはイングリッシュ・ガーデンがあって、回ってみると色んな花があった。同行の皆さん、特に女性は蜂蜜、羊のショールなどを買い込むのに忙しいようだ。でも、常夏のマレーシアにこんなショールを持ち帰ってどうするのかという気がする。



(2)お昼は、テカポ湖(タカポが、正しい発音のようだ)の「湖畔レストラン」で、日本食のお弁当をいただく。刺身、海老と魚の天麩羅、シャケの焼き魚など、とっても美味しかった。強いて言えば、味噌汁の塩味が少し強かったとは思うが、これほどレベルの高い日本食をこんな山岳地帯でいただくと思わなかった。

テカポ湖


グッドシェパード教会


 テカポ湖は、標高710メートルに位置しており、そのターコイズ・ブルーの湖水の色といい、遠方するアルプスの峰々といい、また湖に突き出している半島状の地形といい、その景観は、もはや言葉を失うほどに美しい。まるで絵葉書を見ているようで、わざわざ来た甲斐があったというものだ。湖の中の、半島状の地形のところには、小さな教会がある。グッドシェパード教会と言って、ほんの小さな素朴な建物だが、日曜日にはミサが執り行われると書いてあった。

プカピ湖


 そこからほど近いプカピ湖(やはりマウントクック国立公園内)も美しいと評判らしいが、日本の摩周湖のように霧がかかって、ごく近くしか見られなかったので、ガッカリした。それ以降は、霧の中をひたすら走って、今晩の宿に到着した。

(3)登り坂をかなり上がって、ザ・ヘーミタージュという、ホテルというか、山岳ロッジに着いた。その正面が実に素晴らしい景色だった。目の前には白い氷河に抱かれて夕日に輝くマウントクックの雄峰が堂々とそびえている。別名アオラキ山、海抜3,724mで、ニュージーランドで最も高い高さを誇る山である。




 見ていると、右手の山の麓に白い霧の層がかかり、それが見る見る内に左手へ拡大していく。やがて10分もしないうちに、私のいるところまで霧に包まれた。なるほど、山の気候は変わりやすいというが、こうなるのかという見本のようなものだ。夕食まで時間があるので、ホテルの周りを散歩して思い切り写真を撮った。

【4日目】 クロムウェル

(1)早朝に希望者がヘリコプター遊覧をする予定だったが、強風とやらで直前になって中止となった。仕方がないので、1時間ほど、周囲を散策した。明け方の光に照らされて、青空を背景に白い山肌がますます白く光り、荘厳な雰囲気である。クック山は、残念ながら朝日が斜めに当たるために、このホテルからは白く見えるが、神々しいほど、白いという感じはしなかった。



(2)バスは、クロムウェルという田舎町に立ち寄った。公園に大きな赤や黄色のモニュメントがあるから何かと思ったら、リンゴなどのフルーツを模したものだ。ここはフルーツの町として有名らしい。歴史地区とその前を流れる美しい川に行った。アメリカ西部の開拓時代のような平家で木製のお店が並んでいた。各自で昼食というので、仲間と連れ立ってタイレストランに入り、パイナップルと牛肉焼きご飯を注文した。もの凄い量で、とても一人では食べ切れなかったが、ゴロリと入っているパイナップルはもちろん、牛肉もなかなか美味しかった。

高い銀杏並木道


ジョーンズフルーツ農場


 ジョーンズフルーツ農場に至る道の両脇には、高い銀杏並木道が延々と続いていて、それが全て黄葉していたから、雄大でとても素晴らしい風景だった。これには、北海道も負ける。この農場では、たくさんのフルーツが売られていたが、見た目が悪くて日本では売り物にならないものばかりだ。でも、現地の人は気にしない。私は、いちごのソフトクリームを食べてみたが、ちょっと大味だったのは期待外れだ。それからは何にもない荒野の道を延々と走り、テ・アナウに到着した。

【5日目】 アーリントン渓谷とフィヨルド・クルーズ

(1)テ・アナウでは、早朝に湖に立ち寄って、青い湖面の写真を撮る。本当に美しい。うっとりするほどだ。そこからバスで北に向かう途中で、アーリントン渓谷の景色の良いポイントで降ろしてもらい、湖畔の道を歩いた。雪を抱いた山々が鏡のように反射していると思ったら、ミラー湖と言うらしい。河口湖に反射して映る逆さ富士のようなものだ。バスに乗って更に進むが、滝の所でまた降りて、写真を撮る。素晴らしい。とっても絵になる風景だ。



 モンキークリークという場所があった。ガイドによると「ここの水を飲むと、10年若返る」というので、中国人の皆さんはこぞって水の中をボトルに詰めていたが、お腹を壊すのではないかな、、、しかし、中には冗談だろうが、それを売り付けようとする人もいたから、さすが中国人だと思わず笑ってしまった。



(2)ミルフォードサウンドに着き、これから2時間のクルーズだと言う。フィヨルドの谷の深く切り込んだ入り江をタスマニア海に向けて出航し、ちょうど海との境目で引き返してくるという。いざ出航してみると、見上げるようなフィヨルドの壁が左右に立ちはだかり、しかも滝が幾筋か流れているところがある。その中には、日が当たって小さな「虹」ができている。素晴らしい。しばらく行くと、舳先の方で誰かが騒いでいる。イルカだそうだ。しかし、私は残念ながら見られなかった。




 大きな滝が近づいてきた。アナウンスによると、「この滝の水に触れると、10年は長生きできる」そうな。あれれ、モンキークリークと同じ話だ。馬鹿馬鹿しいと思いながら滝を見に行くと、なかなか美しい。虹まで掛かっている。綺麗だ。夢中でビデオを撮っていたら、一陣の風が吹いてきて、何とまあ、私が被っていた帽子(ハット)が空中に飛ばされてしまった。

 しまったと思ったが、もう何ともならない。帽子の行方を目で追うと、上の階の方に消えてしまった。「ああ、なくなっちゃった、、、気に入っていた帽子なのに、残念」と思いながら、どういうわけか、ふと、上の階に行ってみようという気になった。コンコンと階段を上がっていくと、何とまあ、上り口のコーナーに、私の帽子が転がっていた。奇跡のようなもので、これは嬉しかった。

 同行の皆さんからも、「あなたはラッキーだ」と、繰り返し言われた。そして、「今日、宝くじを買うと良いよ」と言うのは、さすが中国人と、また思った。

 今日は、日本で言えば、あたかも、芦ノ湖、穂高連峰、逆さ富士、奥入瀬渓谷、海から見た知床半島半周を、一気に見たようなものだ。こんな雄大で変化に富んだ美しい風景は、他にあるのだろうか。

【6日目】 アロータウンからバンジージャンプ

(1)クイーンズタウンからアロータウンの中国人定住地を見物に行く。最初は19世紀のゴールドラッシュから始まったが、ブームが去ってからは中国人はコミュニティを作り、農作物の栽培で生計を立てていたそうだ。そのリーダーがリム・シュン(広東省出身)で、おりしも過剰人口、貧困、疾病、失業、政治的迫害の中、皆をよくまとめて定住させ、それが今日に至っているそうだ。ポプラや銀杏の木が黄葉して落ち葉が積もる中、そのセツルメントを散歩すると、いにしえの中国人入植者の苦労が思いやられる。




 アロータウンの繁華街、、、といってもたった一筋の道だが、そこを散歩してきた。まるで西部劇を思い出すような感じのストリートで、平屋建ての色んなお店が並んでいる。昭和30年代が思い出されて、とても懐かしい。


(2)それから、バンジージャンプの会場に向かった。渓谷を川が流れており、水が深緑で美しい。その渓谷に橋がかかっていて、その途中に箱のようなものがあり、それが待機場所だ。1回220NZドルだそうだ。並んで順番が来ると、綱を付けてもらい、ジャンプ台に引き出される。その背後には、係員がいて、「ワン・ツー・スリー」と声を掛けて本人が飛び降りる。



 飛ぶ前に両手を横に広げている人が多い。鳥のつもりにしては、悲しい。中には、胸の前で両手を硬く握りしめて、なかなか踏み切らず、係員に落とされるようにして転がり落ちる人もいる。失礼ながら面白いというか、そうなるともう悲惨そのものだ。私の一行の中の若い女性がチャレンジした。後から聞くと、飛ぶ直前には、血の気が引いたという。



(3)次は、ヘリコプター遊覧の会場に着いた。これはオプショナルツアーで、私のような年配者は、ほとんど乗らなかった。聞くと、「落ちるのが怖くて」とか、「船酔いに弱い」とか、色んな理由であった。私も同類だ。ここで落ちたりしたら、やっと退職後の人生を精一杯楽しみたいというのに、文字通りお終いだ。

(4)クイーンズタウンに帰ってきて、さて夕食となったとき、今夜は各自でレストランを探してくれという。そうは言っても、何かないのかとガイドに聞くと、「FERG BURGER」というのがあるらしい。何だ、ハンバーグかと思ったら、「世界でニュージーランドのここクインズランドに一軒しかないから、是非行ってみたら良い。その代わり人気なので並びますよ」というので、それなら話の種になるかもしれないと思って行ってみた。

 すると、はるか先から店の前までずーっと並んでいる。待ち番号を記した紙を受け取って、案外早く20分ほど待ったら、品物が出てきた。それがまあ、ニュージーランドサイズなのか、とっても大きいのである。しかも大味だ。中に入っていたビーフは確かに美味しいが、どこにでもある味だ。及第点は上げられるが、それ以上のものではない。口直しに中華料理を食べに行った。マダム・ウーというレストランだったが、海老入り炒飯が美味しかった。でも、食べ過ぎかと反省することしきりだ。いつも海外旅行をすると、こうなってしまう。

【7日目】 オークランド、ロトルアの土蛍

(1)二日間、クイーンズランドで同じホテルに泊まり、同じ朝食をとり、いい加減に飽きたところで、今日は早朝の飛行機に乗っていよいよ北島のオークランドに向かう。

 オークランドに到着してハイウェイを走っていて、気がついたことがある。南島では乗用車やキャンピングカーばかりだったが、この北ではトラックなどの産業用車両ばかりだ。南と北でこれほど違うとは思わなかった。

(2)南のロトルアに向かい、1時間後に昼食で一服した後、さらに2時間かけて南へ。ワイトモ洞窟という所に到着した。こちらは原住民のマオリ族が運営していて、想像するに、かつては彼らの聖地だったのかもしれない。

 中に入ると、階段を降りていって、鍾乳洞見物から始まる。石筍、石柱、フローストーンなどを見たり、上へ5m、下へ10mの洞窟を覗き込んでゾーッとしたりした。小さな石筍を親子の像に見立てて説明をしてるガイドのお兄さんも、やはりマオリである。ただ、日本の秋吉台のような荘厳な鍾乳洞に慣れていると、たったこれだけかという気になる。ちょうどその時、階段を下ったところにあるボートに乗れといわれた。


 暗い階段を降りてみると10人ほどが座れるボートがあり、その前から2番目の席に座る。真っ暗な中を動き出す。どうやって操っているのだろうと思ったら、空中にワイヤが張られていて、それで動かしているようだ。

 「わあ」という声が上がり、それにつられて上を見上げる。すると、白い小さな光るリングが天井に無数に見える。いや、無数というのは大袈裟で、ともかく怪しく白く輝くリングが天井にたくさん張り付いている。英語で「illuminationworm」あるいは「glowworm」日本語で「土螢」というらしい。



 ボートが動くに連れて、それだけたくさんのリングが見える。感嘆の声を上げながら見ていると、あっという間に出口に来た。そして「ここからは、写真を撮ってよい」というのでわずかにある土螢を撮ろうとしたが、残念ながらボートは動くし暗いしで、何も撮れなかった。仕方がないので、出口を撮った。マオリのお兄さんの脚が見えた。後から写真を見返すと、このうち出口近くの黒い部分にわずかに見える白いものが、その土蛍だった。

(3)ロトルアでは、街全体に硫黄の臭いがする。湖からも、白い温泉蒸気が出ているのがわかる。町全体が、うっすらと硫黄臭いのである。日本の温泉たまごの土地のようなものだ。ホテルでは、「sulfur city」という断り書きがあった。

【8日目】 アグロドームの羊、テ・プイヤ、マオリダンス

(1)ロトルアから、アグロドームに向かう。まあ、観光牧場だ。着くと、ドームの羊ショーで十数種類の羊を紹介してくれる。最も有名なのはメリーナ種で、それが真ん中の一番上に置かれて、あとは色んな羊を一覧できるという趣向である。黒いのもあれば、毛がモコモコのものもいるし、雄の角がグルグル巻きのもいる。イギリスのコメディ人形劇「羊のショーン」そっくりのものもいた。



 牧羊犬が3匹出てきて、羊たちを追い回す様子、、、を見せてくれるかと思ったら、羊ではなくて3羽の白い鵞鳥が出てきてそれらを追い回してまとめる様子だった(大笑)。でも、牧羊犬が全速力で走っているところといい、吠え声といい、いずれも相当の迫力があった。



目の前で羊の毛をバリカンで刈っている場面を見せてくれて、あっという間に刈ってしまった。しかも、こんなに毛を纏っているとは思わなかった。そしてその毛を会場に撒いて、自由に持ち帰って良いという。触ってみると、ふかふかだった。しかも、手でぎゅっと丸めても、手を離すと直ぐに元に戻るほど弾力性に富む。

 乳牛が出てきて、希望者を募って乳搾りもやらせてくれて、中には相当に上手い人がいた。そしてその搾った乳を子羊に飲ませることもやっていた。




 羊のショーが終わると、トラクターが引っ張る観覧車に乗って牧場を一周した。羊やアルパカがいる所では、トラクターから降りて、これらに餌をやるイベントもやっていた。餌は、日本の魚の餌のように緑色で円筒形。直径は1.5cmほどもある。ガイドからそれをもらってアルパカたちにあげようとすると、てんでにやってきてねだるという、まるで奈良の鹿状態になる。でも、面白かった。

(2)引き続きバスに乗り、テ・プイヤという所に着いた。早く言えば、マオリ族文化センターだ。まずは、キウイ鳥の保護センターに行く。4羽のキウイがいて、それぞれの保護部屋のビデオを見せてもらう。しかし、画像が白黒で見にくくて、そもそもそこにいるのかどうかも、さっぱりわからない。部屋に続く真っ暗な廊下を行ってその部屋を覗き込むが、暗すぎて容易には判別できない。でも、しばらくしていると目が慣れて、あの壁際のあれがキウイかと、ようやくわかる。それだけだ。ガイドに聞くと、夜行性だから仕方がないそうだ。



 次に間歇泉がある広い場所に連れて行かれ、地下活動の一端を垣間見る。同行者の一人が「北海道の登別でも見たなぁ」とつぶやく。ともかく、最大30mほどの高さへ、次から次へと湯水が噴き上がる。100度だそうだから、もし直接触れたら、火傷するレベルだ。その噴き上がる辺りは、鍾乳石で覆われていて、そのすぐ下には、鍾乳石の棚のようなものができている。リムストーンがまだ数段くらいしかないから、新しいのだろう。

 マオリ文化職業訓練所というものがあり、マオリの人たちに、マオリの伝統彫刻や織物に工芸などを教えていた。見れば見るほど、日本の縄文時代の紋様を思い出す。

 掲示を見ていたら、マオリの祖先がニュージーランドの地にやってきた時、あまりに寒いので、ハラケケという植物を見つけてそれを布代わりに使い始めたという。昔々の写真を見ると、それで作った衣装を身につけたマオリ女性がエリザベス女王を案内している様子があった。

 マオリの祖先はどこから来たのかと案内人のマオリに聞いたら、「おそらくポリネシア方面だろう」と言う。「それは勇気がある。その当時は海図も何もないのに、よく来られたものだ。ごく小規模の集団だったのだろうね」というと、「だから、いま、ニュージーランドには500部族がいる」とのこと。

(3)レッドウッドの森で、森の木の上にしつられている道を歩くことになった。ちょうど3階くらいの高さに、吊り橋のようなものが掛けられていて、一周すると40分だそうだ。時間もないから、半分の最高点までたどり着いて、元に戻ってきた。



 吊り橋だから、足元がゆらゆら揺れる。最初は歩きにくかったが、すぐに慣れた。テニスの待ち受けの時のように、両脚を膝の所で軽く曲げていると良い。そうするとどの方向に揺れても、大丈夫だ。なかなか良い運動になった。

(4)夜は、ホテルで楽しく食事をした後、マオリの民族ダンスがあった。女性4人、男性3人のダンサーが出てきて、披露してくれる。それから、観客参加のセッションがあった。



 まずは女性の番で、ポイという色鮮やかな玉をグルグル回す。それから男性の番で、例のハカダンスだという。ニュージーランドのラグビーチーム(オール・ブラックス)が、試合前によくやっている、あの目と舌を出す「戦いの前の」パフォーマンスのことだ。教え役の男性ダンサーから」「目をまん丸にし、舌をベローと出す。できるだけ醜く」と言われたやってみるが、どうなっているのか、自分ではわからない。でも、同行のミスター・リムは、もうそのままの顔でプロのダンサーより堂にいった「ハカ顔」になっていたので、皆で大笑いした。私も、笑いが止まらなくなって、これが「腹が捩れるというものか」という体験をした。

【9日目】 ロード・オブ・ザ・リングのホビット村

(1)ホビット村に来た。2001年公開の「ロード・オブ・ザ・リング」の撮影セットがそのまま観光施設となっている。身長1mのホビット族が住んでいたという設定なので、家もドアも小さく可愛らしい。



 アレクサンダーという牧場をセットに転用し、そこのなだらかな丘陵のあちこちに、ホビット族の可愛い家が並んでいる。青や赤や黄色の玄関ドアの両脇にはお花が植えられていて、まるでおとぎの国のイメージそのものだ。白雪姫を救った小人たちが、今にも出てきそうだ。まあ、幸せなおとぎの国である。





 帰国の便の機内ビデオで、たまたま「ロード・オブ・ザ・リング」を見つけた。改めて見てみたら、全くその通りのホビット村が出てきて、感激した。

(2)オークランド市内に3時間かけて戻ってきて、どこに泊まるのかと思ったら、スカイ・シティというカジノがあるホテルだった。

【10日目】 オークランド市内ツアーとワイナリー

(1)ようやく、旅の最後の日だ。この日は、オークランド市内ツアーである。バスはハーバー・ブリッジを走り、オークランド大学を通り過ぎ、戦没者記念碑まで来た。そこで降りて、正面の美術館らしき所の周囲を散策する。

 第一次大戦にイギリス連邦の一員として、ニュージーランドも参戦したのだろう。あの時は塹壕戦で、この国からは(もし聞き違いでなければ)8,700人もの兵士が犠牲になったと聞く。いずれにせよ、死んだら人生はそこで切れてお終いだ。今もロシアのウクライナ侵攻で毎日、千人単位の死者が出ているようだが、将来のある若者たちが死んでいくのは、実にたまらないことだ。

(2)マイケル・ジョセフ・サベージ記念公園に来た。サベージ(savage)というのは、「野蛮な、未開の」という意味である。一体どんな野蛮なことをやったのだろうと思って説明文を読むと、初めての労働党内閣の首相で、マオリ族との和解など、良いことをやったように書いてある。さっぱりわからない。

 そこで我々のバスのドライバーに、「あのサベージとはどういう意味か。何か悪いことをやったのか」と聞いた。すると笑いながら「いやいやあれは本名で、ナイスガイだったよ。名前が相応しくないんだ」と言っていたので、納得した。

(3)ソージャンズワイナリーでワインの話を聞いた後、昼食をとった。ワインのオーナー(76歳)が出てきて、お祖父さんの時代にクロアチアから移民してきて、3代で今の形にしたという。ブドウの圧縮器、ワインの樽、ワイン畑を見せてもらい、色々と話を聞かせてもらった。

 私が「ワインの値付けはどうやってするのか」と聞くと、「それが問題で、原価計算して市場の値段を踏まえて付けるのだが、60ドルで出しても市場では25ドルの時もある。その逆の時もある。難しい」とのこと。「でも、三代も続けて来られたのだから、それなりに上手くやってきたのだろう」と言うと、皺くちゃの顔で、ニヤリと笑った。

(4)スカイタワーに立ち寄った、、、のだが、今朝まで泊まっていたホテルに戻っただけだ。エレベーターで上がり、周りを見渡す。さほど高くはない。港には、たくさんのヨットがあった。相当な数だ。でも、それを除くと行き来している船の数はわずかだ。東京湾のラッシュを見ていると、のんびりしているのも無理はない。人が住むのは、これくらいがちょうどいいのかもしれない。

(5)それが終わったと思うと、ホラー映画のセットのようなところに連れて行かれた。おどろおどろしいモンスターやら、ラピュタの天空の城の如きものやら、まるで仏像のような神が出てきたりして、くだらなかった。疲れた。でも、写真の種にはなる。

(6)旅の最後は、空港近くの皇城飯店(Imperial Restaurant)での、豪華中華料理で締めくくられた。鮑(アバロン)、北京ダック、貝料理、鶏肉、鮭の蒸し煮など、これでもかと言うほどに出されたが、皆さん7割ぐらいしか食べられなかった。でも、この旅行社が頑張っていることは、よくわかった。感謝しかない。

(7)それやこれやで、4月末から5月初めにかけての楽しい旅は終わった。その余韻に浸りながら、連休の後半は、いましばらく、外国にいることにする。

 帰りは、オークランドからNZ280便でシンガポールに飛んだ。11時間もかかってしまった。




【旅の余談】

1.今回は、実はマレーシアで募集されたツアーに参加したものである。総勢25人中、私はただ1人の外国人で、残りは全てマレーシア国籍の中国人である。最初は、もちろん日本のツアーに参加するつもりだったが、(1)その当時の円が対ドルで150円台と極端に安くて、旅行代金が高騰していたことと(ちなみに、いまは130円前後)、(2)日本のツアーと行きたい時期のタイミングが合わなかったこと、(3)日本のツアーの日程がやや短くて行く観光地が少なかったことによる。(4)しかもマイレージを使えば、燃費サーチャージを除くとクアラルンプールまでタダで行けるし、そこからの出発なので、何の問題もない、、、というわけなのだが、マレーシア人(全て中国人)の中に私が一人、外国人として混じっていたので、本国人でないことに加えて旅先の気楽さもあってか、彼らの本音が聞けて、本当に面白かった。

2.Tさんは、70歳ほどの元国税査察部長。マレーシアではタブーと言われるロイヤルファミリー(各州のサルタン一族)の脱税を追求したそうで、なかなかの硬骨漢である。それで反撃されそうになり、上司に報告すると、「では、年末まで休暇ということにして、どこかへ行って来い」と言って、庇ってくれたという。

 ただ、中国人であるためにマレー人が幅をきかせている政府内では出世ができず、税務学校で教えた教え子が自分の上司になったりする悲哀を味わった由。加えて、退職の際に電話がかかってきて、「ダトーの称号を買わないか。 一時金50万リンギットに加えて毎年5万リンギット払ってほしい」と言われた。「一退職公務員がそんなに払えるか」といって断ったそうだ。その手の面白い話を止めどもなくしてくれて、興味が尽きない。

 なお、ダトー、その上のタンスリ、更に上のトゥンというのは、同国の勲章とそれに伴う称号で、日本で言えば現代の旭日小綬章・中綬章・大綬章に近く、戦前の男爵、子爵、伯爵と似ている。ただ、旭日章と違うのは、これをもらうと、英語のサーのように、単なるミスターではなく、称号として必ず「ダトー・リム」などとこれを付けて呼ばれるので、人々がお金を出してでも欲しがる。今回はそれを貰う裏話を聞かせてくれた。これだけでも、今回のツアーの価値があったというものだ。しかし、これでは現役時代に賄賂をもらって蓄財せよといっているようなものではないかと思うが、如何だろうか。

3.Fさんは、50代前半の会社経営の女性である。従業員数70人の非鉄金属のリサイクル業をやっていて、大声で喋り、誰彼となく話しかける。入国の時にちっとも出てこないと思ったら、生リンゴの不法持ち込みで、400NZドルの罰金を課せられたという。笑い飛ばしていたが、まあ、大雑把な人柄だが、馬力はすごい。もちろん独身だそうだ。

 じっくり話し込む機会があった。仕事はペトロナスのような石油プラントから出るスラッジから、銅鉛亜鉛、金銀などを回収しているそうだ。プラントは自分でアイデアを出し、もう20年も同じエンジニアリング会社とタッグを組んで教えられ、アイデアを出しつつ来たそうだ。シンガポール人が創業者で、その人の下で創業して最初は会計係にすぎなかったが、次第に営業からプラントまで勉強して会社を切り回すようになり、そのシンガポール人から「会社を買ってくれないか」と言われて、それ以来、経営者だそうだ。これは立派な出世物語である。

 彼女曰く「こういう事業をしていると、廃棄物処理や環境基準を守らないといけないが、必ずそうしろと社内を指導している。さもないと、事業が長続きしない」うーん、、、見事な考えだ。続けて「政府も、アイデアは良いのだが現場を知らないので、時々とても順守できそうな基準を押し付けてくるので、それが困る」とも言っていたが、それはどこの国も同じだ。

 ともかく、この人は、バイタリティの塊で、海外旅行と美味しいものを食べるのが趣味だという。だから、一見したところ、70キロは優に超えそうな堂々たる体躯をしている。名前を「Hui Hui」というので、誰かに「あれは『フィフィ』と呼ぶのか。昔、そんな名前の歌手がいた。欧陽菲菲だったかな」と聞いたら、「しいーっ、それは広東語で『太っちょ』という意味だから、本人の前では絶対に言っちゃいけないよ」と言われたので、笑い転げた。言葉って、本当に難しい。

 ボーイフレンドはいるのかと聞いたら、「いるわけがない。だから独身だが、10年前の40歳の時、人工授精を受けて母親になろうとしたことがある。両親は賛成だったが、妹が反対したので、やめた。今は、とても後悔している」などと、そんなこと、日本人だったら絶対に言わないようなことを気軽に話すのが、マレーシア流だ。誠にフランクでよろしい。

4.年配者が多い中で、まるで掃き溜めの鶴のような20代後半の美人女性が二人いる。お互いに大学の同級生だと言う。てっきりまだ学生だろうと思っていたら、なんとまあ、結婚してそれぞれ子供が二人いると言ったので、皆でズッコケた。「では子供はどうしているの」と誰かが聞いたら、「義母がみてくれている」と言うので、またビックリ。

 先ごろは二人でフィンランドにオーロラを見に行ったそうな。また誰かが、「旦那さんや子供と行かないの?」と尋ねたら、「旅行に行くタイプではないの」という。それにしても、T夫人が言っていたように、「子供がいるのなら、私なら心配で心配で旅行になんか行けない」というのが普通の人の感覚だと思うが、一体どうなっているのだろうか。

 「子供が電話をかけてくるんでしょう」と聞くと、「いや、そんなことはない」というから、どんな家庭なのか、ますますわからなくなった。大金持ちのお嬢さんによくあるように、子育ても家事も全部お手伝いさんに任せているのだろう。

5.RGさんは、50歳ほどの人当たりのよい男性である。昔々クライストチャーチで3年間、大学生として過ごし、第三外国語として日本語を勉強したそうな。だから私にも日本語で話しかけてきてくれる。留学後は帰国して松下電器に勤め、7年後にアメリカの会社に転職し、今に至っている。「松下は、本当に良い会社だった」と言う。

 ちなみに、マレーシアの人は、転職を繰り返して人生の階段を上っていく。転職しないと給料もポストも上がらないからだ。この点、日本の会社は終身雇用を前提に人事や給与の体系をこしらえているから、こうした人を引き留められないのが問題だ。もっとも、最近は、職務を中心に再構築して優秀な人材を年齢に関わりなく登用して高い給料を支給とようとしているそうだが、外資系企業に比べれば何十年も遅れている。

 そして今は、コーヒー豆を製造して中近東に販売しているようだ。立派な会社経営者になっている。松下電器から出発して、ホップ・ステップ・ジャンプの人生だ。

6.60歳ほどのベジタリアンの男性も、なかなか変わっている。すらりとした体型なのに、よく食べる。最初、彼にだけベジタリアン食を持ってきたから、私が思わず「ベジタリアンなのか」と聞いたら、「いやいや野菜愛好家だ(preferring vegetables only )」と言うので、訳がわからない。

 そして見ていると、行く先々でバナナを買い込んで、一日2本は食べている。それだけでなく、自分には専用の食事が出てくるのに、飽き足らないようで、皆の食事に野菜が出てくると、それをとってパクパク食べる。それでいてあのスリムな体型を保っているのだから、どうなっているのだろう。秘訣を聞き損ねた。

7.日本企業特に三井と取引があるという会社の経営者Rさんは、誰にでも話しかけるタイプで、親切だ。クイーズタウンの昼食会場であるホリデーインに行った時のことである。スープ、続いてワンプレートが出てきて、それが終わっても、コーヒーひとつ出てこない。これで終わりかと思って、半数がレストランを出てバスに乗り込んだ。

 すると、その後になって小さなケーキが出てくるではないか。レストランに残っている人達がそれを食べても、半数が余る。そこでRさんのとった行動は、大きな紙ナプキンをもらってきて、その余ったケーキを全部載せてバスまで持って行って、皆に食べてもらうことだった。まあ、親切というか、何と言うか、徹底している。

8.サラワクから来た母子がいる。母親は20台で、元気な男の子は7歳、小学1年生だという。英語が完璧だし、この時期に学校を休むというのは、インターナショナル・スクールに通っているのだろうと思って聞くと、やはりそうだった。

 最初、母子家庭かと思ったら、男の子が「パパに見せる」といっていたので、そうではないとわかった。色々と話しているうちに、「子供の頃から色んな経験をさせたい」というので、連れてきたそうだ。この子は、頭が良い。何か聞かれても、迷いなく答えて、間違っていない。将来は目端の効く立派な華僑になっていることだろう。日本の小学校に通っていたら、こんな子は絶対に出て来ない。

9.今回の旅行で感じたことは、海外での日本のプレゼンスがますます低下していることだ。今回の主な観光地でも、例えば4台のバスが停まったとして、うち2台が中国人グループ(日月観光のものが多かった)、1台が韓国人グループ、残る1台がマレーシア中国人グループということになっていた。

 日本人のグループを見かけたのは、クイーンズランドの中華料理店だけだ。しかも、我々の25人に対して、10人にも満たない寂しいグループだった。私ももし、日本出発のツアーに参加していたとしたら、この一員だったのだろう。

 そういうことで、観光地に行っても、表示は、英語、マオリ語、中国語(簡体字と繁体字)、韓国語である。ごく稀に日本語があると思ったら、かなり古くからある観光地だ。悲しい。もっとも、寿司屋は何処にもあるから、日本文化が浸透していないわけではない。ただ、「SUSHI」あるいは「MAKI」は、今や「TSUNAMI」並みの世界言語になってしまった。そのうち「『MAKI』って、カリフォルニアから来たのだよね」という若い世代が出てきてもおかしくない。

 また、驚いたのは日本と外国の給料の差だ。私がマレーシアにいた30年ほど前は、会社のマレーシア人管理職(課長クラス)の給料は日本の3分の1だった。ところが、日本の賃金がこの間ほとんど変わらずに横ばいだったのに、アメリカは2.6倍に増えた。手元に統計はないが、マレーシアは、それ以上なのではなかろうか。

 ツアーに参加していた人の話によると、今ではマレーシアの課長クラスの賃金は、日本の倍以上だし、部長クラスに至っては、3倍から4倍だ。これでは、日本企業に働いてくれる外国人は、次第に少なくなる。日本企業も、終身雇用と年功序列を廃して、職務に応じた待遇と賃金を用意しないと、ますますジリ貧になるばかりだ。







(令和4年5月5日著)
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