1.プロローグ
いま、私のアルバム33冊をデジタル化しようと毎日、写真をスキャナーで取り込んでいる。ちなみにこれらは、私が生まれてから1997年までのもので、それ以後はデジタルカメラのおかげで、既にデジタル化がされている。 この33冊(+8冊のネガフィルム)のアルバムは、横1メートルを優に越す大きな保管スペースをとり、かつまた非常に重いから、本棚がたわむほどである。仮に私がこの世から去る日が来るとしたら、子供たちに捨てられるのは目に見えている。それがデジタル化してしまうと、たった10センチ四方もない1個のハードディスクに収まるから、大きな違いである。これなら、私も常時見られるし、子供達も迷惑がらずに取っておいてくれるだろう。 実はこれらのアルバムには、写真のほかに、旅行日程やら、出版した自著の宣伝パンフとか、その折おりに旅先から出した絵葉書、新聞などに掲載された私の記事などが織り込まれている。ここでは、そのうち、繊維関係の業界新聞に掲載された私のエッセイを3つ紹介したい。 2.ベランダのコイびと もう八年前のことになるが、近所の神社で開かれた秋祭りの夜店で、当時小学生だった二人の子供のねだりに負けて、幼鯉を買わされた。わずか五センチほどのメザシのような鯉だった。あまりの細さから、育つかどうかバケツに入れておいて様子を見た。ところが、ひと月たってもピンピンしていたので、とうとうデパートで上部濾過装置付きの水槽を買ってきた。これが長い付き合いの始まりである。 ある冬の寒い夜、勤めから帰って水槽に目をやると、水が大量に減っていた。手が切れそうな冷たい水をかき分けてやっと調べた結果が、水槽のひび割れ。翌朝取り寄せた新しい水槽に暴れる鯉を入れる時にびしょ濡れになってしまった。 夏になり、西瓜をひと切れやってみた。真ん中の美味しい所である。ササーッと寄ってきて、パクリと飲み込んだ。しばらくして、今度は食べ残しの西瓜の端切れを入れてみた。同じように飲み込んだが、目をギョロリとさせて、すぐ吐き出した。何と、味がわかる。 とある日曜日の朝、鯉と目が合って餌をくれと催促されたが、どうにも眠たいので目をそらし、後ろを向いて新聞を読み始めた。とたんにバシャーンと音がして、頭からずぶ濡れになってしまった。 それ以来、家内から「ベランダのコイびとの世話をしたの?」と聞かれるのが日課になってしまった。 この間、錦鯉の本場である新潟県小千谷市を訪れ、高価な錦鯉の群れ泳ぐ様を見学した後、あるパネルの前でびっくりして立ち止まった。それには、「錦鯉の寿命は、七十年です」とあった。これから、そんなに長く付き合うのか、、、(1994年10月3日) 3.四十路の手習い 四十五歳というのは、まさに人生の折り返し点である。だからというわけでもないが、この数年の間に、新たな趣味を次々に開拓した。 一つは、テニスである。もともと私は運動神経が鈍いものと自覚しており、つい最近まで、ラケットなど握る気もしなかった。一方で家内は、近所の奥さん方と定期的にテニスを続けていた。それがある日、それぞれ旦那方と組んでダブルスの試合をしようという話になったようで、これに参加するよう言い渡されてしまった。 しぶしぶ出てみると、いずれも素人衆の旦那方は、それぞれベテランの奥様方に完膚なきまでにやられてしまった。ボールが来る方に、つい釣られていってガラ空きになった脇を抜かれたり、あるいは頭の上を越されたボールを追いかけているうちに転んだりと、全く散々な目に遭ったのである。 それ以来、私、大学の先生、建築家の三人は、ひたすらテニスに燃えるようになった。奥様方にコテンパンにやられながらも、いつか追いつき、できれば追い越したいと、互いに腕を褒め合い、時にはけなし合いの日々が始まった。 テニスは、上達するのは難しいし、なかなか奥が深い。他の人には内緒でテニススクールに通ったり、早朝の特打などそれぞれ涙ぐましい努力を重ねて、ようやく二年半が経過した。その結果、当初はおしゃもじボレーの私、カエル飛びの先生、ハエ叩きサーブの建築家との、ののしりに耐えたわれわれも、何とか奥様方と張り合えるようになりつつある。この年で、日々進歩することを実感できるのも、なかなか楽しいものである。(1994年11月7日) 4.出身地 初対面の人から「どちらのご出身ですか」と聞かれるたびに、何と答えてよいか迷ってしまう。父が銀行員だったために、全国各地へ引越しを繰り返した。私は福井県で生まれ、ほんの数ヶ月で富山県に転居し、またすぐに兵庫県に移り、そこで幼年時代を過ごした。 小学校低学年で福井県に戻り、中学校の途中で今度は愛知県に転勤になった。そこで高校を卒業後、京都府の大学を卒業して上京。爾来一度だけ外国に三年間勤務したものの、一貫して東京に暮らしている。一方、私が巣立った後の両親は、さらに石川県、北海道に転居して現在では富山県に定住している。 引越しを繰り返すと何が困るかといえば、まずは方言である。例えば名古屋に転居したその翌日に、隣のお婆さんから「おみゃーさよー、XXにゃーきゃーも」と言われた時には、心底驚いた。しかし、方言がわからずして生活ができないので、家族全員で必死になって覚えたものである。特に母は慣れるのが早く、皆で頼りにしたものである。 こうして言葉や生活習慣の違いに常時慣らされていたものだから、長じて外国生活をしても何の違和感もなく、すぐに現地の事情に慣れたのは、思わぬ副産物だった。また、私は繊維産業を担当しているが、これまで住んできた地域の相当部分は、有名な繊維産地であることから、産地の皆さんと話すたびに故郷の訛りがとても懐かしい。ただ、これだけ転々としていると、小中学校以来の友人がほとんどいないのが残念である。その中でも数少ない例外は、中学から大学まで一緒で私と同じ国家公務員となった友達と、私が就職した時に同じ職場で劇的に再会した小学校三年時の友達に限られる。 こうした経験があるものだから、大学卒業時に就職する際、いまの勤務先を選んだ一つの動機が「転勤が少ない」だった。いまのところ当たっているが、しかし、一、二年おきに「省内転勤」を繰り返している。(1994年12月5日) 5.ミュンヘンのホーフブロイハウス 今回デジタル化した写真は、家族や身の回りのものから、国内外を旅行した折のものまで、様々である。今は、第26巻1988年の写真をスキャナーで取り込んでいる。この年は、ドイツのミュンヘンに長期出張して、日米欧の特許制度の整合を図ろうとした時である。連日、英語での厳しい討論が続いて、さしもの私も息抜きしたいと思った。そこで、会議の終わったある夜、有名なビヤホールのホーフブロイハウスに1人で行ってみた。その時の様子を、私はエッセイで次のように書いている。 「ここは、かつてアドルフ・ヒットラーがアジ演説を行ったことで知られる。ドアを開けると、そこはまさに飲み屋で、10人ほどが向かい合って座れる細長い木製の重厚なテーブルがたくさん並んでいて、ビールのジョッキを手に手に持った大勢の酔っ払いが談笑し、肩を組み、歌を歌っている。うるさくて声も聞き取れないほどだ。 席に案内されて、細長いテーブルの端に座らせてもらった。そのテーブルは、労働者風の人達で既に一杯だ。申し合わせたように似たような鳥打ち帽を被り、真っ赤な顔になって、もう出来上がっている。私は、小麦のビールをジョッキで1杯と、白いソーセージ(ヴァイス・ヴルスト)を頼んだ。これは、ドイツ・バイエルン州の伝統的なソーセージで、とても美味しい。 私がそれをつまみにしてゆっくりと静かにビールを飲んでいると、向かいの鳥打ち帽が話し掛けて来た。かなりの年配の人である。『ヤパーナー?』つまり日本人かと聞いてきたので、そうだと答えると、片言の英語で『今度、戦争するときは、イタリア抜きでやろう。あんないい加減な連中と組んだから負けちゃったんだ。』などと、物騒なことを言う。私は苦笑するしかなかった。かつてヒットラーがこのミュンヘンの地で一揆を起こしたそうだが、その策謀の舞台だけのことはあると思った。 」 ということなのだが、その時にもう一つ驚いたことがある。それは、席に案内されて座っていると、通りかかるウェイトレスさんが何人も見える。いずれもあの赤いチロリアン・ハットを被りフリルの付いたブラウスを着て、赤いロング・スカートをはいている。それがいずれも、満々とビールが満たされたジョッキを片手に4つも、つまり両手で8つも持って、軽々と歩いているのである。1つのジョッキは1リットル入りだから、ビールとジョッキ本体を合わせて1.5kgはあるだろうから、つまり合計12kgも持ってテーブルまで配り歩いているわけだ。「ドイツの女性は、力持ちだなぁ」と思った次第である。このたび、その様子を描写したトラベル・ラベルを、アルバムの中に見つけた。冒頭の写真がそれだが、懐かしい限りだ。 (令和4年12月20日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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