1 | 太宰府天満宮 |
2 | 別府地獄巡り |
3 | 国東半島巡り |
前書き 私は、九州の太宰府天満宮には、まだ参拝していない。新型コロナの第7波が収まってきたので、思い立って行ってみることにした。ついでに、別府に立ち寄って温泉地獄巡りをしてこよう。また、神社仏閣が多いと聞く国東半島も回ってみたい。特に、有名な磨崖仏なるものも見て来ようと思い、羽田から福岡に向けて翼上の人となった。 1.太宰府天満宮 (1)天満宮の思い出 2時間もしないうちに福岡空港に到着して、地下鉄で博多に向かった。駅で荷物をコインロッカーに預けようとしたが、どこも一杯だ。仕方がない。今晩泊まるホテルに預けようとして、まずはキャナルシティのグランドハイアット福岡に向かう。 迎えてくれたレセプショニストがフィリピン女性で、とても親切だった。話をしていて、楽しい。太宰府へ行くには、天神つまり西鉄福岡から乗って西鉄二日市で乗り換えれば二つ目だそうだ。もっとも、そんなことはiPhoneのアプリで簡単にわかることだが、そういう時代になってしまうと、逆に人とのコミュニケーションが楽しみとなる。 太宰府天満宮は、そのHP(PDF)によると、「太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上にご社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社です。・・・道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。 幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。 門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。 延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。 その後、道真公の無実が証明され、『天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)』という神様の御位を贈られ、『天神さま』と崇められるようになりました」とのこと。 実は私は、幼少の頃、須磨の綱敷天満宮の近くに住んでいた。そして、境内の牛の像を撫でながら、母親から、菅原道真公の「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌を聞いて、育ったものである。だから、天満宮には、母親にも通じる「懐かしい」という格別な思いがある。 加えて、道真公は、幼少の頃から神童の誉れ高かったその一方で、右大臣まで上りつめたにもかかわらず、無実の罪を着せられて都から遠くの地で亡くなったという悲劇の主人公であったことから、判官贔屓の日本人の琴線に触れる面があったのだろうと思う。 (2)大宰府天満宮にお参り 私は、衛生が気になるので露店ではほとんど買い食いしないほうだが、これは常置の店なので買ってみて、良かった。ちなみに、帰りがけにもう一ついただいたが、最初の梅ヶ枝餅の方が美味しかった。 帰りは、再び天神に戻って、そこからタクシーでグランドハイアット福岡に戻ったが、到着してチェックインした。夕食のために出てきたところ、もう、日はとっぷりと暮れていた。外を見ていると、色とりどりの噴水が上がっている。ああ、これが売り物の音楽に合わせて踊る「噴水ショー」(ダンシングウォーター)か。なかなか良い。青や赤や紫などの色の変化と、噴水の高さを連動させて、見せる工夫をしているようだ。しかもこれ、グランドハイアットのホテルのロビーから見えると思ったら、反対側のキャナルシティ博多からも見下ろせる。むしろそちらの方がメインだ。なかなか良くできている。 2.別府地獄巡り (1)博多から別府へ 翌朝、福岡・博多駅からJR特急ソニック号に乗って別府に向かった。その車両はブルーメタリック色で洒落たな感じだと思ったら、中に入ると頭を乗せるところがまるで蜂が羽根を広げたようなデザインとなっていた。「あれ、面白いな。これも水戸岡鋭治さんのデザインかな」と思いながら座った。 同じ島会社でも、JR北海道のように大赤字と事故の続発で社長が相次いで自殺するような残念で可哀想な会社とは、大違いだ。風土の差か、経営力の違いか、それとも組合も含めた社の体質なのだろうか。 説明によると、この人は、油屋熊八という亀の井バスの創設者であり、別府観光の立役者で、地獄巡りを考え出し、日本で初めて女性のバスガイドを乗務させて定期観光バスを運行させたという。今で言えば「アイデアマン」だったのだ。 (2)7つの地獄巡り 海岸の方から別府市内を振り返ってみると、なだらかな山々を背景に、市内のあちこちから蒸気の煙が上がっている。これすなわち温泉の蒸気で、温泉権付きのマンションも多いと聞く。 何でも、千年以上も前から、別府には熱湯、蒸気、熱泥が噴出して、人々に忌み嫌われていたと解説書にあるが、それを逆手にとって、一般に公開しているのが、次の7つの地獄巡りである。 「海地獄」 「鬼石坊主地獄」 「かまど地獄」 「鬼山地獄」 「白池地獄」 「血の池地獄」 「龍巻地獄」 海地獄から白池地獄までは別府市北部の鉄輪(かんなわ)地区にある。残り二つの地獄は、やや離れた野田地区だ。これらを全部見て回るのには、別府駅前から出ている定期観光バスが便利である。ガイドさん付きで、午後2時から出発して5時には戻って来られる。 私は、海地獄が美しいと思う。特にあのコバルト・ブルーは、見ていて心が休まる。次の坊主地獄も、地面から不規則に上がってくる丸い泥を見ていると不思議に心が落ち着く。血の池地獄も、赤い色が何ともいえずに魅力的である。他の地獄は、最後の龍巻地獄が間歇泉でやや面白いが、白池地獄にいたっては白いどころか池内に藻が繁茂して、緑池地獄になっているのには呆れた。緑池地獄に名称変更しても良いくらいだ。 海地獄では、足湯があったが、残念ながら観光バスなので、通り過ぎた。また、「温泉たまご」と「地獄蒸し焼きプリン」も売っていたが、これらもじっくり見て買う暇がなかった。 この坊主地獄には、食事処と温泉が、併設されている。つまり、実際に温泉に入れるというわけだ。帰りがけに見ると、「冠地どりまんじゅう」というのも、売っていた。 「血の池地獄」も、もうもうと白い水蒸気が上がっているが、赤い池の水は、はっきりと見える。この赤い色は、「酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥」からくるそうだ。こんな温泉に入ると、鉄分でタオルが真っ赤になりそうだ。 それを頼りに入って、まるで円形劇場のような座席に座ったとたん、温泉水が噴出し始めた。100度の温泉水というから、火傷するレベルだ。放っておくと、30メートルまで噴出するが、天井を設けてあるので、安全に見物できる。ビデオを撮ったから、その感じがわかる。これは、見にきて良かった。 (3)目利きの銀次 別府駅に戻ってきたのは、午後5時を回っていた。再びあの油屋熊八像を見て感心した後、さてどこで夕食をとろうかと思った。ネットで検索してみると、真っ先に「目利きの銀次」というのが出てきた。「なんだ、居酒屋じゃないか」と思ったが、東京の虎ノ門にもあるチェーン店だ。ネット上の評価も悪くない。当たり外れはないだろうと思って、そこに行こうとしたら、何のことはない。すぐ目の前にあった。もう、笑い話の類いだ。 サザエの壺焼き、宇和島じゃこ天、大阪いか焼き、刺身など、普段はほとんど食べないものばかりを注文した。美味しくいただいた。魚もサザエも新鮮だ。言うことがない。幸せだ。 泊まったホテル「あまねく別府ゆらり」のチェックインでは、レセプションの女性と朝食の予約を巡ってやや不快な出来事があったが、結果オーライだったこともあり、それはそれとして、旅の幸福感に水を差すほどのものではなかった。 3.国東半島巡り (1)宇佐神宮(うさじんぐう) 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。・・・八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称らえ奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています」とのこと。特に平安時代には、九州一円に強大な勢力を誇り、12世紀には、九州全土のおよそ三分の一が宇佐神宮の荘園だったそうな。 面白いのは、普通の神道の参拝形式は、二礼二拍手一礼であるのに対し、こちらでは二礼四拍手一礼でお参りすることになっているそうだ。しかもこのお参りを、左の一之御殿、中央の二之御殿、右の三之御殿と、順にしなければならない。その度にお賽銭を取り出して、、、まあその慌ただしいこと。その他は、あまり見るところもなく、そのまま引き上げた。 国東半島は、ごく狭い地域にあるのに、寺院群が密集している。これを総称して「六郷満山(ろくごうまんざん)」というらしい。宇佐神宮の権力と財力を基盤として、育っていったらしい。 (2)富貴寺(ふきじ) 富貴寺は、六郷満山を統括した西叡山高山寺の末寺のひとつで、養老2年(718年)仁聞菩薩が開祖といわれる。豊後高田市の公式HP(PDF)によると、「富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されています。 (3)榧の木(かやのき) 富貴寺の前にある日本料理店だが、大分の地元料理のだんご汁(写真の右下)を食べさせてくれた。山梨のほうとうのような素朴な料理だが、それなりに美味しい。 (4)真木大堂(まきおおどう) 豊後高田市の公式HP(PDF)によると、「真木大堂は、六郷満山本山本寺馬城山伝乗寺の堂宇(建物)の一つで建立されたと伝えられています。収蔵庫に収められている9体の仏像は、昭和25年に国の重要文化財として指定されました。 本尊は、東西南北に邪鬼を制する四天王を従えた阿弥陀如来坐像(像高約2.5m)です。藤原時代の作で、その表情は慈愛に満ちています。 伝乗寺はかつて六郷満山の『本山八ヵ寺』中でも最大の規模を誇り、満山の中心的寺院として隆盛を極めたと言われているそうです。しかし、その創建については確たる文献もなく、『幻の寺』とされている寺院だそうです。今では地元の人々の厚い信仰を集めてこの地で大切に保存されています」という。 (5)熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ) 真木大堂のパンフレットによれば、「国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を300m登ると、鬼が一夜で築いたとされる自然石の乱積階段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏」とある。 磨崖仏に連なる道を登りはじめた。これがまた、歩きにくくて仕方がない。敷いてある石の大きさも置き方もまちまちで、足をどう運ぶか迷う。私は街歩きの普通の靴で来たが、せめてトレッキングシューズにすればよかった。先ほどの案内所では、350mと書いてあったが、杖を付きつつ100mほど登ったところで、一休みしたくなった。すると同行者から「行きましょう、行きましょう。こういうのは一気に登った方が良いですから」とハッパを掛けられ、仕方なくまた登り始めた。 ひとしきり写真を撮らせてもらった後、元来た道を下って行ったが、実は登りよりこちらの方が大変だった。何しろ自然石なので、いちいち足元を確かめないと、危なくて仕方がない。来た時以上に四苦八苦して、下って行った。麓に戻ると、バスのガイドさんと運転手さんが驚いていた。というのは、毎回、何人かの脱落者が出るのに、この日は、一人も出なかったのだからという。いやもう、笑い話だ。 (6)両子寺(ふたごじ) 次は、国東半島の中心部にある両子寺に向かった。いただいたパンフレットによると、「718年(養老2年)に仁聞菩薩が開基。六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場に当たり、江戸期より六郷満山の総持院として全山を統括してきました。しかしながら時代の趨勢、明治初期の神仏分離、第二次大戦等の荒廃、自然災害・人為災害などの遭遇により次第に堂宇は往時の姿を薄れかけてきましたが、歴代住職の懸命な精進と檀信徒の護持により、わずかながらも面目を保ちつつ今日に至ってます」とのこと。 「霊水走水観音」 霊水常に一定噴出し不滅不増、冬温夏冷なり 「無明橋」 橋の下に観音を祀り、不信心者もこの橋を渡れば信仰心が湧き、牛馬が渡れば落橋すると云う 「鬼 橋」 昔 千坊という大力僧が一枚の大石を引き下ろしてかけたと云う 「しぐれ紅葉」 このもみじの下に立ち見上げると、晴天の日でも、しずくが顔に落ちるという。 「針の耳」 岩が折り重なり、その穴を通るのが恰も針に糸を通すごとく難しい 「鬼の背割」 昔 千徳坊が此の大岩を背で割って道を開けたと云う 「鹿のツメ割」 大きな岩に親子鹿のツメの跡あり しかしながら、どれも「不思議」と思えるほどのものではない。山中に泉あれば年中温度は一定なのは当たり前だし、橋を牛馬が渡ればその重さで橋は落ちかねない。紅葉を見上げればしずくが落ちて来ると言うが、鳥の落とし物かもしれない。背割もツメ跡も、かなり無理がある。 当寺を含めて周囲の寺にも文化財はたくさんあるのだから、これらを活用して、もっと現代の人の琴線に触れるように再構成したらどうだろうか。当寺は六郷満山の総持院だったのだから、その指導よろしく国東半島全体を例えばサンチィアゴ巡礼の道、四国八十八箇所のようにブランド化してはどうかと思うのである、 別に茶化すわけではないが、現代ではこれは相当に大変なことだ。いや不可能と言ってよい。というのは、32人の女性を回って、ハギレを集めなければならない。個人情報はダダ漏れだ。皆は雑巾ならあるが、ハギレなど持っていないのではないか。それに、今どき若い女性がそんな面倒な裁縫、できるのだろうか。これは、お寺の方からその袋を作って、充てがうしかないだろう。 (7)竹瓦温泉と亀の井ホテル ということで、無事に国東半島巡りは終わり、別府駅前に帰ってきた。もう夕方なので、少し散歩しようとして、竹瓦温泉(たけがわらおんせん)に行ってみた。まるで昔の新宿のガード下のようなごちゃごちゃした所を抜けると、立派な構えの竹瓦温泉があった。道後温泉の総湯のような佇まいである。ああ、これは旅好きにはたまらないだろうなと思う。 (令和4年11月6日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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