悠々人生エッセイ



熊野摩崖仏



 太宰府天満宮
別府地獄巡り
 国東半島巡り

 太宰府・別府・国東への旅( 写 真 )は、こちらから。


 前書き

 私は、九州の太宰府天満宮には、まだ参拝していない。新型コロナの第7波が収まってきたので、思い立って行ってみることにした。ついでに、別府に立ち寄って温泉地獄巡りをしてこよう。また、神社仏閣が多いと聞く国東半島も回ってみたい。特に、有名な磨崖仏なるものも見て来ようと思い、羽田から福岡に向けて翼上の人となった。


1.太宰府天満宮

(1)天満宮の思い出

 2時間もしないうちに福岡空港に到着して、地下鉄で博多に向かった。駅で荷物をコインロッカーに預けようとしたが、どこも一杯だ。仕方がない。今晩泊まるホテルに預けようとして、まずはキャナルシティのグランドハイアット福岡に向かう。

 迎えてくれたレセプショニストがフィリピン女性で、とても親切だった。話をしていて、楽しい。太宰府へ行くには、天神つまり西鉄福岡から乗って西鉄二日市で乗り換えれば二つ目だそうだ。もっとも、そんなことはiPhoneのアプリで簡単にわかることだが、そういう時代になってしまうと、逆に人とのコミュニケーションが楽しみとなる。

 太宰府天満宮は、そのHP(PDF)によると、「太宰府天満宮は、菅原道真公の御墓所の上にご社殿を造営し、その御神霊を永久にお祀りしている神社です。・・・道真公は、承和12年(845)に京都でお生まれになりました。

 幼少期より学問の才能を発揮され、努力を重ねられることで、一流の学者・政治家・文人としてご活躍なさいました。

 しかし、無実ながら政略により京都から大宰府に流され、延喜3年(903)2月25日、道真公はお住まいであった大宰府政庁の南館(現在の榎社)において、ご生涯を終えられました。

 門弟であった味酒安行(うまさけ やすゆき)が御亡骸を牛車に乗せて進んだところ、牛が伏して動かなくなり、これは道真公の御心によるものであろうと、その地に埋葬されることとなりました。 延喜5年(905)、御墓所の上に祀廟が創建され、延喜19年(919)には勅命により立派なご社殿が建立されました。

 その後、道真公の無実が証明され、『天満大自在天神(てんまだいじざいてんじん)』という神様の御位を贈られ、『天神さま』と崇められるようになりました」
とのこと。

 実は私は、幼少の頃、須磨の綱敷天満宮の近くに住んでいた。そして、境内の牛の像を撫でながら、母親から、菅原道真公の「東風吹かば にほひをこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」の歌を聞いて、育ったものである。だから、天満宮には、母親にも通じる「懐かしい」という格別な思いがある。

 加えて、道真公は、幼少の頃から神童の誉れ高かったその一方で、右大臣まで上りつめたにもかかわらず、無実の罪を着せられて都から遠くの地で亡くなったという悲劇の主人公であったことから、判官贔屓の日本人の琴線に触れる面があったのだろうと思う。


(2)大宰府天満宮にお参り



 西鉄の天神大牟田線から枝分かれしている太宰府大牟田線の終点が太宰府駅である。駅を出たら、参道は右手にある。まずは鳥居をくぐるのだが、見上げるといかにも古い石造りで、地震があったらひとたまりもない。こういうのは、さっさとくぐるに限る。


 参道の両脇には、例のとおりお土産屋が立ち並んでいる。その中で、「梅ヶ枝餅」という旗が、あちこちに翻っている。「何だろう」と思いながら、通り過ぎたが、つい気になり、参道の半ば辺りで、とうとう買い求めた。長い行列のある店は、人気がありそうだったが、そんなに待っておられない。その向かいの数人の行列のあるところにした。


 いざ、貰って手にすると、熱くて火傷しそうだ。なるほど、これは、お餅なのだ。しかも真ん中に餡子が入っている。それをぺちゃんこにして焼いているお餅だ。餅米というより白玉粉かもしれないが、そんなことはどうでもいい。口にすると、アツ、、アツツッと言いたくなるが、トロリとして、溶けるようだ。しかも、外はパリパリッとして、中のもっちりしたところとの対比が面白い。

 私は、衛生が気になるので露店ではほとんど買い食いしないほうだが、これは常置の店なので買ってみて、良かった。ちなみに、帰りがけにもう一ついただいたが、最初の梅ヶ枝餅の方が美味しかった。



 余談が多かったが、先を進もう。参道は直角に左手に曲がっている。その曲がり角の所に、御神牛があって、右手に東風吹かばの句碑がある。そこでひとしきり写真を撮った後、左手に向かう。すると、心字池と、それにかかる太鼓橋がある。池の中に季節柄、菊の花で飾りが浮かべてあり、なかなか美しい。それを越すと、右手に手水舎があり、正面が楼門だ。インドネシア人らしき若い女性たちが、浴衣姿で歩いてる。慣れない草履で、歩きにくそうだ。でも、日本の伝統衣装を身に付けてくれるのは、良い事だ。




 楼門をくぐると、正面が御本殿で、四列に並んでお参りをする。右手に、「飛梅」つまり道真公を慕って、都から一夜にして飛んできたと伝えられる梅の木があり、左手には橘の木があって、ちょうど黄色い実を付けている。その脇には、御守りやら御札やらを売っている。私も、ひとつ買い求めた。境内では、結婚式もやっている。良い記念になるだろう。七五三の親子連れがいる。こうして子供の成長を見守るのは、実に良い慣習である。






 御本殿の境内から出ると、たまたま菊花展の真っ最中である。新宿御苑の菊花壇で見慣れているとはいえ、美しい。大菊、管物菊、文字菊など、なかなかのものだ。でもよく見ると、同じ人がかなり出している。この人が、この辺りでは菊栽培の傑出した技術をお持ちのようだ。おやおや、同じ苗字の女性も出品されているから、奥様かもしれない。ご夫婦で、こうして楽しんでおられるのだろう。また、ジオラマのような盆栽もあって、なかなか良かった。






(3)キャナルシティ博多

 帰りは、再び天神に戻って、そこからタクシーでグランドハイアット福岡に戻ったが、到着してチェックインした。夕食のために出てきたところ、もう、日はとっぷりと暮れていた。外を見ていると、色とりどりの噴水が上がっている。ああ、これが売り物の音楽に合わせて踊る「噴水ショー」(ダンシングウォーター)か。なかなか良い。青や赤や紫などの色の変化と、噴水の高さを連動させて、見せる工夫をしているようだ。しかもこれ、グランドハイアットのホテルのロビーから見えると思ったら、反対側のキャナルシティ博多からも見下ろせる。むしろそちらの方がメインだ。なかなか良くできている。




 お腹が空いたな、お魚でも食べようかと思ったら、4階に平四郎という寿司屋がある。入ってみると、回転寿司だが、タブレットで注文して持ってくるスタイルだ。回転部分は、「本日のお薦め」などの宣伝に使われているに過ぎない。なるほど、これなら食品ロスは出ないし、お客も新鮮なネタを食べられる。良い考えだ。トロや何やらをひとしきり食べた後、お店の売りだという厚焼き玉子で締めくくった。美味しかった。


2.別府地獄巡り

(1)博多から別府へ

 翌朝、福岡・博多駅からJR特急ソニック号に乗って別府に向かった。その車両はブルーメタリック色で洒落たな感じだと思ったら、中に入ると頭を乗せるところがまるで蜂が羽根を広げたようなデザインとなっていた。「あれ、面白いな。これも水戸岡鋭治さんのデザインかな」と思いながら座った。


 ちなみにJR九州は、鉄道車両デザイナーの水戸岡さんに独創的な車両を作らせて外から鉄道ファンを呼び込み、また旅行、ホテル、不動産、船舶、飲食業などと事業の多角化を進めた。だから、国鉄分割民営化の時に大赤字が想定されていたのに、あれやこれやと稼ぐ力をつけて、東京証券取引所に上場するまでに至った南の雄である。

 同じ島会社でも、JR北海道のように大赤字と事故の続発で社長が相次いで自殺するような残念で可哀想な会社とは、大違いだ。風土の差か、経営力の違いか、それとも組合も含めた社の体質なのだろうか。


 電車は、2時間ほど走って、午前11時前に別府駅に着いた。駅を降りてびっくりした。両手を伸ばして空を飛んでいるようなお爺さんの銅像があったからである。しかも、マントには子供までぶら下げている(あとで聞くと、地獄めぐりの小鬼がしがみついている由)。これは、インパクトのある銅像だ。凄い!まずはこのデザインを考え出した人を大いに褒めたい。

 説明によると、この人は、油屋熊八という亀の井バスの創設者であり、別府観光の立役者で、地獄巡りを考え出し、日本で初めて女性のバスガイドを乗務させて定期観光バスを運行させたという。今で言えば「アイデアマン」だったのだ。



 せっかくだから、何か地元の料理を食べようかと思って駅前を歩いていると、「まやかしや」というお店があって、ちょうどお店の人がメニューの看板を出していた。それに「りゅうきゅう丼」とあるので聞いてみると、「昔からある地元の料理で、要するに『ブリの漬け丼』です」という。「それは、『琉球丼』と書くのですか?」と尋ねると、「多分、その辺から伝わったかもしれません」とのこと。



 それで興味が湧き、そこに入って注文して、出てきたものがこの写真である。正直言うと、特に取り立てて、美味しいというわけでもなかったが、それなりに食べられた。なるほど、地元の家庭料理である。


(2)7つの地獄巡り

 海岸の方から別府市内を振り返ってみると、なだらかな山々を背景に、市内のあちこちから蒸気の煙が上がっている。これすなわち温泉の蒸気で、温泉権付きのマンションも多いと聞く。

 何でも、千年以上も前から、別府には熱湯、蒸気、熱泥が噴出して、人々に忌み嫌われていたと解説書にあるが、それを逆手にとって、一般に公開しているのが、次の7つの地獄巡りである。

 「海地獄」
 「鬼石坊主地獄」
 「かまど地獄」
 「鬼山地獄」
 「白池地獄」
 「血の池地獄」
 「龍巻地獄」

 海地獄から白池地獄までは別府市北部の鉄輪(かんなわ)地区にある。残り二つの地獄は、やや離れた野田地区だ。これらを全部見て回るのには、別府駅前から出ている定期観光バスが便利である。ガイドさん付きで、午後2時から出発して5時には戻って来られる。

 私は、海地獄が美しいと思う。特にあのコバルト・ブルーは、見ていて心が休まる。次の坊主地獄も、地面から不規則に上がってくる丸い泥を見ていると不思議に心が落ち着く。血の池地獄も、赤い色が何ともいえずに魅力的である。他の地獄は、最後の龍巻地獄が間歇泉でやや面白いが、白池地獄にいたっては白いどころか池内に藻が繁茂して、緑池地獄になっているのには呆れた。緑池地獄に名称変更しても良いくらいだ。



 「海地獄」は、最初に訪れるところだ。温泉に硫酸鉄が溶解しているから、まるで青空のようなコバルト・ブルーになるという。私は、こういう淡い青色が好きだから、気に入っている。ところが、この日は白い蒸気がモクモクと上がっていて、肝心の青色がほとんど見えないではないか、、、。やっと、池の端の方で、青い湖面が目に入った。



 「ううーん、これでは写真にならないなぁ」と思いつつ、湖の背面の高いところに上がってみた。白い蒸気を上から見る形になり、全体像がわかるようになった。



 その他、海地獄が綺麗だなと感じるところは、入り口から通じる道の脇にある睡蓮池である。熱帯睡蓮で、今まさに開花中だ。青色、ピンク色、黄色と、もうそれは花盛りそのもの。その先には、オニバスまである。背の低い丸い桶のような葉は、人が乗れるくらいに成長するそうだ。実際に乗ってみるイベントもあるという。

 海地獄では、足湯があったが、残念ながら観光バスなので、通り過ぎた。また、「温泉たまご」と「地獄蒸し焼きプリン」も売っていたが、これらもじっくり見て買う暇がなかった。



 「鬼石坊主地獄」は、海地獄のすぐそばで、灰色の泥から、不定期かつ不規則な形で泥と泡が「ボコっ、ボコっ」と湧き上がってくる。地球の底を見ているようかな気がして、なかなか神秘的な光景だ。


 昔この地を訪れた時に聞いたところによると、数百年前にこの地にお寺があったが、高温の蒸気と泥が突然吹き上がって、お坊さんが焼け死んだから、この名がついたという。でも最近は、湧き上がる泥の泡がお坊さんの頭に似ているからという説も流布しているようだ。

 この坊主地獄には、食事処と温泉が、併設されている。つまり、実際に温泉に入れるというわけだ。帰りがけに見ると、「冠地どりまんじゅう」というのも、売っていた。



 「かまど地獄」は、そこから歩いてほんの数分の所にある。こちらは、あらゆる地獄のデパートのようなもので、例えば、二丁目はかまど地獄、三丁目は青い地獄、六丁目は赤い地獄、、などと書かれているが、何のことはない。これは海地獄と血の池地獄の小型版そのものである。こんな狭い場所にこれほど様々な温泉が湧き出ているなんて、地下はよほど複雑な構造をしているに違いない。




 「鬼山地獄」は、ワニを数十頭も飼っている。要は「ワニ地獄」である。大正時代から飼い始めたという老舗だそうだ。しかし、よほどワニ好きの人ならともかく、あまり興味のない私は、チラリと見ただけで、通り過ぎた。



 「白池地獄」は、インターネットに載っている解説によると、「国指定名勝にも指定されている白池地獄は、和風庭園の中に青白い池がたたずむ、ほかの地獄とは様相が異なる優雅な地獄です。熱水の噴出時は、透明なお湯が温度と圧力により青みを帯びた白色に変化し、この美しい光景が生み出されるのだとか」とある。



 ところが実際に行ってみると、どう見ても白くはなくて、白いどころか緑色なのである。見物客で知っていそうな人は、「藻のためにこうなっている」と話していたが、とても国指定名勝の名に値しない。


 面白いことに、ここでは温泉熱を利用して、「熱帯魚館」を設置している。中を覗くと、アマゾンの「ピラニア」や「ピラルク」、「アロワナ」その他20種類の大型熱帯魚がいる。中でもピラルクは、世界最大の淡水魚で、見応えがある。悠々と泳いでいた。

 「血の池地獄」も、もうもうと白い水蒸気が上がっているが、赤い池の水は、はっきりと見える。この赤い色は、「酸化鉄、酸化マグネシウム等を含んだ赤い熱泥」からくるそうだ。こんな温泉に入ると、鉄分でタオルが真っ赤になりそうだ。



 赤い色だが、「血の池」という名前ほど、おどろおどろしい感じはしない。むしろ煉瓦色と思えば、親しみも湧く。



 「龍巻地獄」は、血の池地獄から歩いてすぐの所にあるが、これは間歇泉なので見物に行くタイミングが難しい。でも、よくしたもので、スタッフは分かっていて、噴出しそうになると、表のランプで知らせてくれる。

 それを頼りに入って、まるで円形劇場のような座席に座ったとたん、温泉水が噴出し始めた。100度の温泉水というから、火傷するレベルだ。放っておくと、30メートルまで噴出するが、天井を設けてあるので、安全に見物できる。ビデオを撮ったから、その感じがわかる。これは、見にきて良かった。


(3)目利きの銀次

 別府駅に戻ってきたのは、午後5時を回っていた。再びあの油屋熊八像を見て感心した後、さてどこで夕食をとろうかと思った。ネットで検索してみると、真っ先に「目利きの銀次」というのが出てきた。「なんだ、居酒屋じゃないか」と思ったが、東京の虎ノ門にもあるチェーン店だ。ネット上の評価も悪くない。当たり外れはないだろうと思って、そこに行こうとしたら、何のことはない。すぐ目の前にあった。もう、笑い話の類いだ。

 サザエの壺焼き、宇和島じゃこ天、大阪いか焼き、刺身など、普段はほとんど食べないものばかりを注文した。美味しくいただいた。魚もサザエも新鮮だ。言うことがない。幸せだ。

 泊まったホテル「あまねく別府ゆらり」のチェックインでは、レセプションの女性と朝食の予約を巡ってやや不快な出来事があったが、結果オーライだったこともあり、それはそれとして、旅の幸福感に水を差すほどのものではなかった。


3.国東半島巡り

(1)宇佐神宮
(うさじんぐう)



 丸一日をかけて、別府から国東半島を巡るツアーに参加した。まず連れて行かれたのは、宇佐神宮である。私は知らなかったが、この宇佐神宮は、聖武天皇が725年(神亀2年)に創建され、全国4万社余りある八幡さまの総本社だそうだ。そのHP(PDF)によると、

 「御祭神である八幡大神さまは応神天皇のご神霊で、571年(欽明天皇の時代)に初めて宇佐の地にご示顕になったといわれます。応神天皇は大陸の文化と産業を輸入し、新しい国づくりをされた方です。725年(神亀2年)、現在の地に御殿を造立し、八幡神をお祀りされました。これが宇佐神宮の創建です。・・・八幡信仰とは、応神天皇のご聖徳を八幡神として称らえ奉るとともに、仏教文化と、我が国固有の神道を習合したものとも考えられています」とのこと。特に平安時代には、九州一円に強大な勢力を誇り、12世紀には、九州全土のおよそ三分の一が宇佐神宮の荘園だったそうな。



 バスから降りて、参道を進んでいく。イチイガシの並木だそうだ。鳥居を越えると、左手に、なんと蒸気機関車がある。右手に折れて寄藻川にかかる神橋を渡る。ちょうど伊勢神宮の五十鈴川を渡っているようなものだ。水が少ないのも、似ている。更に歩いて行くと、大鳥居がある。それにしても、広大な敷地だ。それから更に、今まで歩いてきたのと同じくらい歩かされて、突き当たりになり、左手に折れて更に歩くと、ようやく国宝の本殿に着いた。いやーぁ、長かった。この建物は、8世紀から9世紀にかけて建てられた由。


 そのHPによれば、「八幡造(はちまんづくり)とよばれています。この八幡造は、二棟の切妻造平入の建物が前後に接続した形で、両殿の間に一間の相の間(馬道)がつき、その上の両軒に接するところに大きな金の雨樋が渡されています。桧皮葺で白壁朱漆塗柱の華麗な建物が、横一列に並んでいます」とのこと。

 面白いのは、普通の神道の参拝形式は、二礼二拍手一礼であるのに対し、こちらでは二礼四拍手一礼でお参りすることになっているそうだ。しかもこのお参りを、左の一之御殿、中央の二之御殿、右の三之御殿と、順にしなければならない。その度にお賽銭を取り出して、、、まあその慌ただしいこと。その他は、あまり見るところもなく、そのまま引き上げた。

 国東半島は、ごく狭い地域にあるのに、寺院群が密集している。これを総称して「六郷満山(ろくごうまんざん)」というらしい。宇佐神宮の権力と財力を基盤として、育っていったらしい。


(2)富貴寺(ふきじ)

 富貴寺は、六郷満山を統括した西叡山高山寺の末寺のひとつで、養老2年(718年)仁聞菩薩が開祖といわれる。豊後高田市の公式HP(PDF)によると、「富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されています。



 本尊の阿弥陀如来像は970丈にも及ぶ一本の榧の巨木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩の手によって造られた、と伝えられています。大堂内には極楽浄土の世界を描いた壁画が施されており、風化が激しいが、極彩色で描かれていたという調査結果から県立歴史博物館に忠実に再現されています」とのこと。



 山門の左右にある阿形と吽形の二つの仁王像が、いやに無骨だなと思ったら、石像なのには驚いた。笠塔婆も石造り、国東塔もまた石造りだ。この辺は、そういう石仏文化なのか、、。ちなみに「国東塔」とは、先のHP(PDF)には(『宝塔』の塔身に蓮華座が備えられたものをいい、すらりと縦に長い姿が美しい・・・鎌倉時代後期からつくられるようになりました」とある。これも、地域文化なのだ。


 ところで、富貴寺大堂の中に入って、阿弥陀如来像を拝んできた。なるほど、こちらの大堂が宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三大阿弥陀堂であることには、間違いがない。もちろん、規模は相当に小さいが、ふくよかで優しい阿弥陀仏を抱えて、この地の四季折々の風景に長年溶け込んできたことには、間違いがない。本堂の中の周囲の壁などには、平等院鳳凰堂のような天女の姿が描かれているが、もうほとんど消えかけていて、修復もできなさそうなレベルだ。残念としか、言いようがない。


(3)榧の木(かやのき)

 富貴寺の前にある日本料理店だが、大分の地元料理のだんご汁(写真の右下)を食べさせてくれた。山梨のほうとうのような素朴な料理だが、それなりに美味しい。




 ここ田染(たしぶ)は、案山子のコンクールを開いているそうだ。確かに、なかなかユニークな案山子があった。


(4)真木大堂(まきおおどう)

 豊後高田市の公式HP(PDF)によると、「真木大堂は、六郷満山本山本寺馬城山伝乗寺の堂宇(建物)の一つで建立されたと伝えられています。収蔵庫に収められている9体の仏像は、昭和25年に国の重要文化財として指定されました。

 本尊は、東西南北に邪鬼を制する四天王を従えた阿弥陀如来坐像(像高約2.5m)です。藤原時代の作で、その表情は慈愛に満ちています。

 伝乗寺はかつて六郷満山の『本山八ヵ寺』中でも最大の規模を誇り、満山の中心的寺院として隆盛を極めたと言われているそうです。しかし、その創建については確たる文献もなく、『幻の寺』とされている寺院だそうです。今では地元の人々の厚い信仰を集めてこの地で大切に保存されています」
という。



 収められている仏像は、いずれも相当に高度なレベルだ。阿弥陀如来像は、富貴寺にも劣らないし、大威徳明王は、水牛に乗って憤怒の形相をしているお姿で、そのまま一流の密教寺院にあってもおかしくない。持国天、多聞天などの四天王も、法隆寺にあったと言われても、そうだと思ってしまうくらいに完成度が高い。いただいたパンフレットを見て、その理由がわかった。「現在の真木大堂は、伝乗寺の各寺坊が衰退したので本尊この一堂に集めたものである」とあったからである。


(5)熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)

 真木大堂のパンフレットによれば、「国東六郷満山の拠点の一つであった胎蔵寺から山道を300m登ると、鬼が一夜で築いたとされる自然石の乱積階段にかかり、この石段を登ると左方の巨岩壁に刻まれた日本一雄大な石仏」とある。


 実はそんな大変なところとは知らずに、バスが着いた駐車場から、磨崖仏案内所兼拝観料支払い所に上がっていき、そこで何の気なしに見ると、杖を無料で貸し出していた。そんなもの要るのかと思いながら、手に取ると、木の枝を乱雑に切ったものだが、意外と軽いし、真っ直ぐだ。では、話の種に借りることにした。しかし、これが良かった。

 磨崖仏に連なる道を登りはじめた。これがまた、歩きにくくて仕方がない。敷いてある石の大きさも置き方もまちまちで、足をどう運ぶか迷う。私は街歩きの普通の靴で来たが、せめてトレッキングシューズにすればよかった。先ほどの案内所では、350mと書いてあったが、杖を付きつつ100mほど登ったところで、一休みしたくなった。すると同行者から「行きましょう、行きましょう。こういうのは一気に登った方が良いですから」とハッパを掛けられ、仕方なくまた登り始めた。


 しばらく上がると、石の鳥居があり、自然石が乱雑に積み上げられている場所に来た。「ええっ、これを上がるのか」とすら思ったが、やむを得ない。足場の悪い中を杖を頼りに「よいしょ、よいしょ」とばかりに登って行った。すると、平らなところに出た。左手の崖を見ると、磨崖仏らしき姿が見えた。




 ああ、これなんだ。左手にあるのが12世紀頃(鎌倉時代前期)の作と言われる「不動明王(約8m)」、右手が11世紀頃(平安時代後期)の作と言われている「大日如来(約7m)」の磨崖仏である。不動明王の方は、何だか可愛いお顔をしている。大日如来の方は、頭の螺髪がハッキリと見えてやや厳粛なお顔である。

 ひとしきり写真を撮らせてもらった後、元来た道を下って行ったが、実は登りよりこちらの方が大変だった。何しろ自然石なので、いちいち足元を確かめないと、危なくて仕方がない。来た時以上に四苦八苦して、下って行った。麓に戻ると、バスのガイドさんと運転手さんが驚いていた。というのは、毎回、何人かの脱落者が出るのに、この日は、一人も出なかったのだからという。いやもう、笑い話だ。


(6)両子寺(ふたごじ)

 次は、国東半島の中心部にある両子寺に向かった。いただいたパンフレットによると、「718年(養老2年)に仁聞菩薩が開基。六郷満山の中では中山本寺、すなわち山岳修行の根本道場に当たり、江戸期より六郷満山の総持院として全山を統括してきました。しかしながら時代の趨勢、明治初期の神仏分離、第二次大戦等の荒廃、自然災害・人為災害などの遭遇により次第に堂宇は往時の姿を薄れかけてきましたが、歴代住職の懸命な精進と檀信徒の護持により、わずかながらも面目を保ちつつ今日に至ってます」とのこと。


 色々な時の流れに翻弄されていながら、それに抗するがごとく懸命な努力をされている様子がよくわかる、心を打たれる文章である。全国各地、このような神社仏閣が多いのだろうな、、、地方の人口減少はますます深刻になるから、あと百年後に今の姿を留めているというはは、かなり難しいかもしれない。同じパンフレットには、「両子山の七不思議」なるものが書かれている。

 「霊水走水観音」 霊水常に一定噴出し不滅不増、冬温夏冷なり
 「無明橋」 橋の下に観音を祀り、不信心者もこの橋を渡れば信仰心が湧き、牛馬が渡れば落橋すると云う
 「鬼 橋」 昔 千坊という大力僧が一枚の大石を引き下ろしてかけたと云う
 「しぐれ紅葉」 このもみじの下に立ち見上げると、晴天の日でも、しずくが顔に落ちるという。
 「針の耳」 岩が折り重なり、その穴を通るのが恰も針に糸を通すごとく難しい
 「鬼の背割」 昔 千徳坊が此の大岩を背で割って道を開けたと云う
 「鹿のツメ割」 大きな岩に親子鹿のツメの跡あり


 しかしながら、どれも「不思議」と思えるほどのものではない。山中に泉あれば年中温度は一定なのは当たり前だし、橋を牛馬が渡ればその重さで橋は落ちかねない。紅葉を見上げればしずくが落ちて来ると言うが、鳥の落とし物かもしれない。背割もツメ跡も、かなり無理がある。

 当寺を含めて周囲の寺にも文化財はたくさんあるのだから、これらを活用して、もっと現代の人の琴線に触れるように再構成したらどうだろうか。当寺は六郷満山の総持院だったのだから、その指導よろしく国東半島全体を例えばサンチィアゴ巡礼の道、四国八十八箇所のようにブランド化してはどうかと思うのである、



 また、「申子(もうしご)子授け祈願袋と趣旨」とあって、「子宝にあやかりたい人は、必ず夫婦同伴の上、牛の日に袋と供物を祈願料を添え参拝する習わしがある。祈願者は33枚のハギレ(8〜10cm四方)を集め、一針ごとに真心を込めて、裏地・底を付けた袋を作成し、米一升三合三勺(2.2kg)と12把の線香、12本のロウソク、御酒(一升)をお供えし、祈願を受ける」とあり、しかも、「願成就された方は、毎年必ず一度は子供と参拝する」となってある。またハギレの袋については、「子供を産んだ32人の女性からハギレをもらい、自分の1切れを加えて33切れの袋を作り、大きさは米が一升三合あまり入る程度、袋の裏地を付け、内側に祈願者の名前を書き入れる」とある。

 別に茶化すわけではないが、現代ではこれは相当に大変なことだ。いや不可能と言ってよい。というのは、32人の女性を回って、ハギレを集めなければならない。個人情報はダダ漏れだ。皆は雑巾ならあるが、ハギレなど持っていないのではないか。それに、今どき若い女性がそんな面倒な裁縫、できるのだろうか。これは、お寺の方からその袋を作って、充てがうしかないだろう。



 さて、肝心の両子寺の印象だが、仁王門の手前の阿形と吽形の二つの仁王像が、大きさといい、立ち姿といい、素晴らしい。階段をゆっくり上がっていって山門をくぐると、護摩堂(本堂)がある。ここは天台宗なので、山岳修行の根本道場になる。その本尊は大聖不動明王で、「衆生を見つめる厳しい顔相と対照的にふくよかな腰の曲線美は多くの人の心を動かす」とあるが、私は顔しか見ていなかった。不動明王を拝見して、「ふくよかな腰の曲線美」とは、恐れ入った。その他、大講堂内には、本尊阿弥陀如来像が安置されている。


(7)竹瓦温泉と亀の井ホテル

 ということで、無事に国東半島巡りは終わり、別府駅前に帰ってきた。もう夕方なので、少し散歩しようとして、竹瓦温泉(たけがわらおんせん)に行ってみた。まるで昔の新宿のガード下のようなごちゃごちゃした所を抜けると、立派な構えの竹瓦温泉があった。道後温泉の総湯のような佇まいである。ああ、これは旅好きにはたまらないだろうなと思う。



 それはともかく、お腹が空いたので、お湯より夕食だとばかりに、近くに亀の井ホテルがあったので、そこに入った。すると、その名も油屋熊八亭というレストランがある。このホテルの創業者にして別府駅前の銅像になっている人だ。郷土料理とある。とり天をまだ、食べていなかったので、それが入った料理を注文した。実に美味しかった。あとで、食べ過ぎてお腹をこわしてしまったほどだ。全くもう、笑うしかない。





(令和4年11月6日著)
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