目 次 | ||
1 | 東京から法隆寺へ直行 | |
2 | 法隆寺の境内は広大 | |
3 | 中宮寺の弥勒菩薩像 | |
4 | 宝厳院の獅子吼の庭 | |
5 | 奈良から京都側へツアー | |
6 | 岩船寺の阿弥陀如来像 | |
7 | 浄瑠璃寺の浄土式庭園 | |
8 | 女人高野 室生寺 | |
9 | 多武峰の談山神社 | |
10 | 長谷寺は登廊を上がる | |
11 | 隨心院は小野小町ゆかり | |
12 | 醍醐寺のライトアップ | |
13 | 宇治平等院鳳凰は秀逸 | |
14 | 興聖宝林禅寺は曹洞宗 | |
15 | 久しぶりの奈良・京都 |
【11月21日】 1.東京から法隆寺へ直行 東京を朝8時半の新幹線で立ち、京都経由で法隆寺駅に着いたのが午後1時前だった。それから法隆寺参道行きバスに乗り、15分ほどで到着した。ところが、終点の法隆寺前停留所が不便なところにある。大きな通りから、いわば「U」字型を上下ひっくり返した形で左の縦棒を真っ直ぐ北へずーっと上がって行ってU字の底というかてっぺんにさしかかる。そこが法隆寺の南大門である。 当然そこが降り口かと思いきや、無情にも通り越してあれよあれよという間にぐるっと回って右の縦棒をまた戻っていってどんどん進み、事もあろうに元来た大きな通り近くでやっと止まった。何だ、ここが停留所なら、帰りはここまで戻って来なければならない。停留所の位置がなぜこういう馬鹿馬鹿しい場所にあるのか、大いに疑問である。これでは、とても観光客・参拝客フレンドリーな構造とはいえない。法隆寺が南大門の前に作るのを嫌ったか、それとも右の縦棒の脇にならんでいる土産物屋や飲食店が反対したのか、あるいはその両方なのかよくわからない。奈良には、観光客に対するホスピタリティというものがないのか。 2.法隆寺の境内は広大 (1)法隆寺は、ともかく大き過ぎて、回るだけでも大変だ。以前来たのは半世紀前の学生時代だから、その時は何とも感じなかったが、それから50年も経つと、寄る年並みのせいで、この巨大な伽藍を回ったあとはさすがに次の目的地が遠く感じる。しかし、余力を残してまだ回ることができたから、よしとしよう。 (2)大宝蔵院では、太子2歳の像、玉虫厨子などを見た。中学校の教科書そのものの世界で、感激した。また、百済観音のすらりとした八頭身の像は、優美でたおやかな印象を与える誠に現代的なお姿である。これも中学校の教科書に載っていたことを思い出した。 3.中宮寺の弥勒菩薩像 (1)中宮寺は、夢殿の隣にある。私は、半世紀前の学生時代に1回だけ来たことがある。もちろん、国宝の半跏思惟像(如意輪観音菩薩像)を拝見しに来たのであるが、その時に驚いたのが、この本尊を安置する本堂が実につつましやかで余計な装飾がなく、しかもそれが池の中に建っていたことである。それも、なかなかモダンな建物である。 この建物は、中宮寺の歴史と関係があるのかと調べてみたところ、どうもそうらしい。法隆寺は僧寺、中宮寺は尼寺として計画され、如意輪観音菩薩像のほか、例の天寿国曼荼羅繍帳が宝物だったようだ。ちなみにこの天寿国繍帳は、聖徳太子のお妃橘大郎女が宮中の采女に命じて、太子が往生されている天寿国のありさまを刺繍されたものだという。 (2)それで話を戻すと、そのように出発したものの、平安時代に寺運が衰退し、いただいたパンフレットによれば、「宝物の主なものは法隆寺に移され、僅かに草堂一宇を残して半跏思惟像のみ居ますといった状態」だったそうな。それが、「鎌倉時代に入って中興信女比丘尼の尽力により天寿国繍帳を法隆寺宝蔵内に発見して取り戻す」こともあったらしい。なかなかやるものだ。ところが、たびたび火災に遭うなどして往時の隆盛を取り戻すには至らず、慶長年間に皇孫尊智女王が住職となり、それ以来、尼門跡斑鳩御所となり、次第に形を整えてきたそうだ。 現代に至り、高松宮妃殿下が「寺に万一の事があったらと御心痛あそばされ、耐震耐火の御堂の建立を念願されこのお堂ができた・・・本堂と鞘堂と池とを組み合わせ、門跡寺院らしい優雅さ、尼寺らしいつつましやかさに昭和の新味を兼ね備えた御堂になった・・・桝組、蟇股等の組物を一切使わない簡素なつくりの中に、高い格調を狙ったことが特徴であり、また池の廻りに黄金色の八重一重の山吹を植え、周囲に四季折々の花木を配し、斑鳩の里にふさわしい女性の寺院としての雰囲気にして戴いております」とのこと(吉田五十八設計)。 (3)このお寺が素晴らしいと思うのは、参拝客に本堂に上がってもらい、半跏思惟像を見上げる形に座らせて、そこでテープではあるが、有難い講話を聞かせてくれたことである。私は京都と奈良のお寺を随分と参拝したが、ここまで手厚く遇してもらえるお寺は、他にない。確かに、尼寺としての優しい包容力がある。 ちなみに、京都の太秦にある広隆寺にも、宝冠弥勒菩薩像という半跏思惟像がある。こちらも素晴らしいが、私は中宮寺の半跏思惟像の方が好みである。 4.宝厳院の獅子吼の庭 (1)中宮寺から、また法隆寺参道にとって返し、京都でのライトアップに向かった。京都駅から嵯峨野線で嵯峨嵐山駅に着き、軽い食事の後、宝厳院へと歩いて行って、渡月橋に着いたのが午後5時半過ぎである。そこから桂川に沿って北へ歩き始めたら、目の前にものすごく長い行列がある。何だこれはと思って、その辺にいた若いお坊さんに聞くと、やはり宝厳院の獅子吼の庭に行く参拝者の列である。これは時間がかかると覚悟した。 (2)ちなみに、宝厳院のHPによれば「当院の庭園『獅子吼の庭』は、室町時代に中国に二度渡った禅僧、策彦周良禅師によって作庭され、嵐山の景観を匠に取り入れた借景回遊式庭園です。その名にある『獅子吼』とは『仏が説法する』の意味であり庭園内を散策し、鳥の声、風の音を聴く事によって、人生の心理、正道を肌で感じ、心が大変癒する庭です」とある。 (3)実は私は、宝厳院のこの獅子吼の庭には、これで3回目となる。第1回目は、2006年11月8日で、その時は碧岩の美しさに感動した。そこで一句。 秋深し 苔むす庭に 散る紅葉 【11月22日】 5.奈良から京都側へ 朝から篠突く雨だ。これは困った。そこで、早朝に予定していた奈良公園や東大寺の紅葉撮影は中止し 、ホテルでのんびりして英気を養った。雨の中、ホテルのすぐ近くから出る午前9時40分発の奈良交通のツアーに乗って、岩船寺と浄瑠璃寺に向かった。ネットで住所を見ると「京都府木津川市加茂町」とある。あれあれ、京都から来て奈良のお寺を拝観するつもりだったのに、逆に戻って京都のお寺なのかと驚いた。これらのお寺は、京都と奈良の府県境で京都側にある。 かつては南山城当尾(とうの)村と呼ばれたそうだが、その「当尾」は、ストゥーパ(卒塔婆)つまり仏舎利を安置した塔が立ち並んでいた場所だったことから、そういう和名がついた。というのは、この都から離れた地は、南都仏教の僧が都会の喧騒を離れて隠棲したり研鑽を積むために出入りしたところで、小田原別所と呼ばれていた場所だった。そこで隠棲する僧侶が数多く庵を結んでいたからなのだそうだ。住んでいる人には申し訳ないが、バスに乗って走っていると、今でも、どこか物寂しい感じがする土地である。 6.岩船寺の阿弥陀如来像 (1)最初に訪問したお寺は、岩船寺だ。小さなお寺にしては、実に立派な阿弥陀如来像と四天王像、そのほか普賢菩薩が象の上に乗っている像やら数々の立派な仏様がおられ、また三重塔もこれまた只者ではないという気がした。 なぜ岩船寺かというと、鎌倉時代にこの寺で修行する僧が、寺の前に置かれた岩をくり抜いた船のような形のところで、身を清める沐浴をしたからなのだそうだ。確かに今でも、寺の入口のところに湯船のような石が鎮座している。 (2)面白いのは、農産物無人直売所である。農家の方々が、その日の朝に採れた産物、柚子、菊芋、漬物、鷹の爪(唐辛子)、ほうじ茶などを吊るしておくと、それをお客が取って代金を備え付けの箱や瓶に入れるということで成り立っている。岩船寺に続く道の両脇に並んでいた。 (3)岩船寺に行く途中は、車のすれ違いも時々難しいような山道である。そうした中で、道のあちらこちらに野仏がひっそりと置かれてあり、それこそ平安時代、鎌倉時代、江戸時代と色々な時代にまたがっている。これらを見て回ることができるハイキングコースもあるそうだ。でも、よる年波に朽ちていく野仏も多いので、それらを公民館の脇に並べている所もある。 7.浄瑠璃寺の浄土式庭園 (1)いやまあ、このお寺には驚いた。宇治の平等院と同じで、中央の浄土の池を挟んで東の此岸から、池の向こう側の太陽が沈む西側の彼岸を望み、そこに阿弥陀如来像を祀る本堂が置かれていたからである。この本堂は、宇治の平等院では鳳凰堂に当たる。こんな山深いお寺に、こういう浄土形式の伽藍配置があるとは思わなかった。法隆寺や唐招提寺などの古い寺院の金堂(本堂)は南向きであるが、平安時代の中頃から京都を中心にこの形が現れてきたそうだ。 太陽が昇る東方の「浄瑠璃浄土」の教主が薬師如来で、その像が彼岸の三重塔に納められている。太陽が進んで沈みいく西方の「極楽浄土」の教主が阿弥陀如来だという。そこで人々は、浄土の池の岸(此岸)から、池越しに彼岸の阿弥陀仏に向かい、その来迎を願って礼拝したとのこと。 この浄瑠璃寺の本堂には、中央の阿弥陀仏の両脇に4体の如来、計9体の阿弥陀如来像を祀ってあり、本堂とともに国宝である。昔はとても許されなかったのであろうが、この本堂に入って九体阿弥陀如来像を眺めると、本堂には廊下がなく、しかも阿弥陀様の前に座ろうとするとスペースが細長い上に非常に狭い。それもそのはずで、元々は池の向こう側から眺めるように造られているから、そのようになっている。 ちなみに同じ仏でも、薬師如来、釈迦如来、阿弥陀如来があったり、千手観音があると、もうなんだか混乱してしまうが、この浄瑠璃寺のパンフレットを見て、少しは分かってきた。要は、過去世(かこせ)、現世、来世に分けて考えればよい。 薬師如来は、過去から送り出してくれる過去仏で、「遠く無限に続いている過去の因縁、無知で目覚めぬ暗黒無明の現世に光を当て、さらに苦悩をこえて進むための薬を与えて遺送してくれる仏」である。いや、知らなかった。てっきり、薬を与えて患者を救う仏様だと思っていた。我ながら無知とは恐ろしいものである。 釈迦如来は、現世の生き様を教えてくれる現在仏で、「苦悩の現実から立ち上がり、未来の理想を目指して進む菩薩の道を教えてくれる」のだが、それをかつてこの世に出現して教えてくれた。 弥勒菩薩は、同じく現世の生き様を教えてくれる現在仏で、「釈迦如来と同様の菩薩の道を教えてくれるのだが、それをやがて将来に出現して教えてくれる。」釈迦如来と弥勒菩薩は、現在仏である。 阿弥陀如来は、もともと「理想の未来にいて、すすんでくる衆生を受け入れ、迎えてくれる来世の仏」、未来仏または来迎の如来という。ちなみに千手観音は、阿弥陀の慈悲の象徴だそうだ。 (3)次に、如来(仏)と菩薩との違いが分からなかったが、「釈迦の教えに沿って進む人を菩薩と呼び、その道程を菩薩道という。その道の最終目標を、煩悩の河を渡ると考えて向こう岸、彼岸という。彼岸にまで到達し完成した偉大な人格を如来(仏)という」。 ちなみに、明王と天との違いも書かれている。「菩薩の道の途中にある障害や悪魔を乗り越え、たたかえるたくましい力と知恵の仏が怒りの明王であり、まわりでわれわれの前進をたすけ、まもり、はげましてくれる神々を天(多聞天、吉祥天など)という」そうだ。浄瑠璃寺からいただいたこれらの知識で、少しはすっきりした。誠にありがたい。来た甲斐があるというものだ。 8.女人高野 室生寺 まだ雨が降り続く中、近鉄線に乗って室生口大野駅で降り、そこからバスで20分近くもかかって、ようやく室生寺に着いた。太鼓橋の正面が室生寺の入口で、そこから右へと歩いていくと仁王門、それをくぐって左手の池を半周すると鐙坂だ。 自然石を積み上げただけの鐙坂は、滑りやすいから、登りにくい。こんな所で怪我でもしたらいけないと思い、ゆっくりと登ることにする。そうすると、道の脇にある紅葉が目に入る。雨のせいか、赤い紅葉がますます赤く見える。美しいので、つい写真に撮る。 【11月23日】 9.多武峰の談山神社 早朝出掛けたが、近鉄線の桜井駅からバスで30分近くもかかるものすごい山奥で驚いた。確かに、これくらい山奥でないと、蘇我氏の目を欺けなかったのかもしれない。この地は、藤の花の咲く頃、中大兄皇子(後の天智天皇)が中臣鎌子(後の藤原鎌足)と蘇我入鹿を討つ謀議をこらした場所である。それによって、皇極天皇4年(645年)に飛鳥板蓋宮で入鹿を倒し、後に大化の改新を成し遂げるきっかけとなった地とされている。 10.長谷寺は登廊を上がる (1)長谷寺駅に着いたらタクシーを拾おうと思ったが、居ない。そこで、駅に「17分歩けば着く」と書いてあったので、皆の歩く方向に向かって歩くことにした。すると、すぐに急な降り階段だ。しかもかなり長く続く。長谷寺は山の上だろうから、これは大変だ。案の定、川まで下ってそこで橋を渡り、それからずーっと緩やかな上りだ。左右に土産物屋や旅館、食堂が立ち並ぶ.それがとても狭い道だ。よりによってそこを後ろから車が来る。ああっ、前からも来る。もうめちゃくちゃだ。 車に気を使うのが面倒になったので、お昼近くなったことから、その辺の食堂に入る。山菜蕎麦と柿の葉寿司を注文した。水槽の大きなコメット3匹を見ながら待つ。やがて注文の品を持ってきてくれたので、食べてみた。山菜蕎麦は、出汁が効いてなかなか美味しい。柿の葉寿司は、あまり美味しいものではない。もともと、こんなものだ。 (2)さて、これからまたあの狭い参道に戻らなければならない。幸い、かなり歩いてきたので、長谷寺の仁王門までは、すぐ近くだった。知らない道を歩くと、どうも遠く感じる。 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける どうもこの歌には前段があると考えた方が良さそうで、解説によれば、「紀貫之が昔よく来たことがあるこの地を久しぶりに訪れたとき、地元の人から『久しぶりですね。もう長谷を忘れてしまったのかと思ってました』などと言われてしまったのだろう。すると紀貫之はその場を取り繕うように『人の心はさあどうだかわかりませんが、慣れ親しんだこの土地では、梅の花が昔とかわらずに良い香りで匂っていますね』などと返したのではないか」とされている。 (3)登廊はあと少しだ。ひと踏ん張りして登り、やがて長谷観音のお顔がある高さに到達して、やっと階段から出ることができた。ちょうどお昼なので、若いお坊さんが鐘楼の鐘を突いている。ガォーン、ゴーンと良い音色だ。実は、前回家内と来た時のように、駅からタクシーに乗れば、ここまで一気に登って来られるのだが、今日はタクシーがいなかったから、こういう仕儀となった。情けないことに、膝が笑っている。 それを宥めつつ、ゆっくりと本堂を一周することにする。眼下に見る山々と川そして登ってきた参道階段が美しい。紅葉は、さほどでもないが、木によっては真っ赤でこれも綺麗だ。本堂から見える紅葉を背景に幾つもの灯籠が下がっていて、非常にシンメトリックな写真が撮れた。できれば本尊十一面観音様の近くに行きたかったが、ものすごい人だかりで、新型コロナウイルスが気になってやめた。その代わり、本堂からお顔だけは拝見することができた。 それから本堂を半周して弘法大師御影堂の前を通り、五重塔に至った。周囲に少し紅葉があり、それを入れて撮ると、まあまあの写真になるが、ともかく今年の紅葉の色付きが悪くて、こんなものを作品として外に出せないので、いささか残念だ。 11.隨心院は小野小町ゆかり (1)奈良で談山神社と長谷寺を拝観した後、京都へとって返して、醍醐寺と隨心院のライトアップを巡る京阪バスのツアーに参加した。どちらも山科方面である。 まず訪れたのが、隨心院である。そのHPによれば、「真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正暦二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました」とのこと。 失礼ながら何だそれだけかと思いそうだが、いやいやここはむしろ、世界三大美女の一人と言われる「小野小町」が晩年を過した地とされるので有名なのだそうだ。ほか二人の美女は誰かと言えば、クレオパトラと楊貴妃だそうだ・・・本当かな。 (2)その小野小町の下に深草少将という人が百夜も通ったという。「小町に求愛した少将は、小町から百日間毎日通い続けたら受け入れると言われ、毎日欠かさず小町の元へ足を運び続けたが、九十九日目の夜に大雪のため願い叶わず凍死してしまったという伝説」である(HP)。 (3)もちろん、隨心院そのものは後堀河天皇より門跡の宣旨を賜ってから800年の由緒あるお寺であるから、この小野小町遺跡は参拝者へのサービスのようなもので、隨心院流小野講傳所を開所して隨心院流の事相教相を伝授するなど、門跡寺院としての役割を果たしておられる。 12.醍醐寺のライトアップ 醍醐寺には、2008年の春に、家内と枝垂れ桜を見に行ったことがある。霊宝館、三宝院などを回り、土牛の桜に感心して帰ってきた。これに対して今回はライトアップなので、外構を見た。山門から金堂のところをクランク状に進み、金堂を少し見てまた道に戻り、右手に五重塔を見ながら更に進んだ。 【11月24日】 13.宇治平等院鳳凰は秀逸 (1)今朝は快晴、その中を京都駅から宇治へ向かう。駅からGoogleマップを見ながら平等院に向けて歩く。数えてみればもう5回も歩いた道なので、自ずと足が覚えていて、難なく着いた。途中、そういえば宇治橋の袂に紫式部の像があったと思い出し、そちらの方に大回りをした。銅像は昔のままに置かれていたが、残念ながら朝の光で逆光だったために、上手く撮ることができなかった。宇治川は、相変わらずザアザアと音を立てて水量が多く流れていた。 いよいよ平等院に入る。幸い、今朝は空が青く澄み切っていて、紅葉も最盛期なので、絶好の撮影日和りだ。まだ朝も早いことから、あまり人がいないので、阿字池を入れて平等院を大きく撮ることができる。空の青と平等院の朱の色が相互に引き立てあって、実に美しい。しかも、屋根の上の左右にある金色の鳳凰が、朝日を浴びてキラキラと輝く。ああ、日本の国に生まれてきて良かったと思う瞬間である。 (2)代わりに、鳳翔館に入った。今回は新型コロナウイルス対策ということで、CGなどは見せてもらえなかったが、その他の展示、梵鐘、鳳凰の間、扉絵の間、雲中の間は前回そのままであった。しかし、以前とは違うことがある。今回は、常設展示品の解説という半ペらどころか四分の一ぺらの紙を渡され、そのQRコードをiPhoneなどで読み取ると、展示品の写真と解説が読めるという仕組みである。 なるほど、これは便利で、中で撮れなかった写真は出てくるし、そこにある解説は実際に展示品の脇に書かれた解説と全く同じだ。これで、薄暗いところに小さな字で書かれた解説文を読む必要がない。どの展示会も、これにしてくれればよい。ここで唯一不満なのは、写真ではなく展示品を一周して写してくれるビデオだと、まさに百点満点だったのにと思うところだ。しかしそうすると今度は、実際に現地に行くこともなく、行った気になって済ませてしまう横着者が出ないとも限らないので、この程度で良いのかもしれない。 (3)例えば、鳳凰の間にある鳳凰の解説はこうだ。「鳳凰堂の南北両端に据えられていた金銅製の鳳凰1対です。その姿は胸を張り、両翼を広げて直立し、一点を凝視するかのような鋭い目つきをしています。主体となる頭、胴体、翼、脚はそれぞれ別々に鋳造し、それに銅板製の風切羽(かざきりばね)、尾羽(おばね)を鋲で留めて組み立てています。頭部は大きく、鶏冠(とさか)を立て、肉垂(にくすい)をつけ、冠毛(かんもう)をなびかせ、太い眉、大きく見開いた目、鋭いくちばしを持ちます。胴の全身には魚鱗文を表し、頸には宝珠付きの首輪をはめています。風切羽は、厚目の銅板に鋤彫りで羽並を表し・・・」 本来ならこんな屋根の上にあって細部を見るなんてとても出来ないはずの国宝の鳳凰が目の前にある。まず感心するのは、細かいところまで手を抜かないその作り込みの素晴らしさである。今にも飛び立てそうな風切羽、鱗状の羽毛、そして何よりも鋭い目と嘴は、見る者を威嚇するかのようだ。これほどの作品が1200年前に作られていたとは、驚くべきことだ。 (4)前回に来た時には印象に残らなかったが、扉絵の間にある扉絵とその縁、また長押や柱などの堂内彩色は、実に鮮やかなものである。なかでも、山水風景画を背景に、その合間を縫うように描かれている九品来迎図(くほんらいこうず)は、白くて長い雲に乗って、阿弥陀如来が観音、勢至菩薩、そして楽器を手にした菩薩達などの諸尊を付き従えて臨終者のすぐそばまでお迎えにおいでになり、臨終者が金色の蓮に納められて極楽へ運ばれる様子が描かれている。なるほど、平安時代の人々は、かくのごとき極楽往生を想像していたのかと思える作品である。 その阿弥陀如来とともに来迎するのが、雲の中の菩薩(雲中供養菩薩)で、52躯ある。これらは鳳凰堂の長押の上部壁面に掲げられていたものであり、ご覧の通り、ごくごく細部に渡って表現されている。それらのうち約半数が楽器を演奏しており、その楽器は、琵琶、鉦鼓、琴から、ハープやアコーディオンの原型のようなものまで多岐にわたっている。見応えがあった。 14.興聖宝林禅寺は曹洞宗 (1)いやあ、このような曹洞宗のお寺があるとは、ついぞ知らなかった。曹洞宗といえば、大本山の永平寺、總持寺はよく知られているが、こちらの興聖宝林禅寺(通称:興聖寺)は、やはり道元禅師を開祖として、日本に14,000箇所もある曹洞宗の道場の中でも最古のものだという。 (2)女性写真家が、この興聖寺の修行中の日々を撮らせてもらっている。若いお坊さんの読経中の顔は、実に凛々しい。その写真を見ていて、清々しいほどだ。また、永平寺のお坊さんのように雪の中を托鉢に出掛けるようだ。母方が福井県出身なので、こういうところも、親近感を感じる。 それにしても、本日の主題の紅葉はどこだろう?本堂やお庭にはほとんど見当たらない。とすると、やって来た参道か?確かに、興聖寺のパンフレットの表紙は、この参道を覆う紅葉のトンネルだった。「紅葉の琴坂」というらしい。しかし、今年は外れ年なのだろう。赤と黄色と緑色が混在している。 15.久しぶりの奈良・京都 新型コロナウイルス騒ぎで、この2年間は外国旅行はもちろん国内旅行も控えざるを得ず、東京で鬱々とした日々を過ごしていた。とりわけ東京オリンピックが開かれた7月から始まった第5波は猖獗を極め、8月20日前後の1週間の1日当たりの感染者数は全国で21,247人と、かつてないほどの高止まりみせていた。もうこうなると、どこに出かけるにしても感染するのではないかと疑心暗鬼となり、外出が嫌になってきた。 ところが、ワクチン接種率が7割を超えた頃から状況は一気に変わり、11月1日の全国の感染者数は84人と激減してきた。そうすると、一時は関東に次いで流行がひどかった関西方面に行けるなと思い、俄然、旅ごころに火がついた。そこで今回の奈良・京都への旅となったというわけだ。今年の紅葉は、天候のせいでお世辞にも美しいとは言いがたかったが、それでも古都の旅の醍醐味を味わうことができた。これも元気でいるおかげと、自らの健康に自信を持つとともに、留守中に家内の面倒を見てくれた息子に感謝したい。 (令和3年11月21〜25日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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