悠々人生エッセイ



01.jpg




1.同期の小川洋君(前福岡県知事)の訃報

 先日、高校の同級生伊藤鎭樹君が病気で亡くなったという知らせに驚いたものだが、今度は大学の同級生で入省同期の小川洋君の訃報に接して、愕然とした。

 小川洋君は、2019年4月の福岡県知事選挙で、麻生太郎元首相が推す候補を抑えて見事3選を果たした。それ以降、その真面目な人柄にふさわしく着実に県政を進めていたと聞いていたのであるが、年末に体調を崩して、聞くところによると、肺腺がんと診断されたそうだ。年が明けて、咳のために話すことも難しくなったということで、入院したとの報道があった。その頃、私は次のようなSNSを送った(2020年2月14日)。

 「小川君 山本です。御闘病中とのことで同期の皆様を代表してお見舞い申し上げます。せっかく再々選されたので頑張って下さい。」すると、直ちに返信が返ってきた。

 「おはようございます。有難うございます。頑張ります。小川洋」

 このやり取りの後、同期の一人が小川君と連絡を取ったところ、まあ順調のようだと聞いて安心していた。その矢先の訃報であり、全く不意をつかれた。せめて葬儀に参列したいと思って福岡県庁の秘書課に尋ねたところ、家族葬を希望されて献花も香典も辞退ということなので、それらもかなわなかった。そこで、お香付きの弔電を送っておいた。


2.小川洋君の口癖「忙しい、忙しい」

 振り返ってみると、小川君と私は同じ大学の法学部に通い、クラスは違ったが、顔見知りだった。それが同じ年に通産省に入省して同期となり、親しくなった。しかも、入省当時は同じ下宿に住んでいた。ところが、新入生の頃は毎日の帰宅が明け方になるほどの激務だったからお互いに多忙で、ようやく日曜日に一緒に食事に行って話し込んだりしたのが、青春の思い出である。

 新入生の時は、私は立地公害局の公害防止企画課に配属され、小川君はすぐ隣の立地指導課だった。彼の口癖は、「忙しい、忙しい」で、いつも小走りで省内を走り回っていた。そうこうしているうちに、彼はハーバード大学の客員研究員として留学してしまった。帰ってくると、ベルギー駐在のOECD代表部一等書記官から参事官になり、すっかり欧米をまたぐ国際派となっていた。ちなみにその間、私などは東南アジアに少しだけ駐在させてもらった程度で、あとは法律案のチェックに呻吟する典型的な国内派の毎日であった。

 欧州から帰ってきた小川君の活躍は目覚ましい。消費経済課長、鉄鋼業務課長と立て続けに枢要な課長を続けた後、通産大臣官房企画室長という栄誉あるポストに就いた。それからは資源エネルギー庁総務課長となり、エネルギー政策の総元締めとなった。どのポストでも、彼のエネルギッシュな活躍は変わらず、いつ寝ているのだろうと不思議に思ったものである。中でも消費経済課長のときは、当時は参事官だった私のところに製造物責任法案を持ってきて、大いに議論したものだが、それも今やよい思い出である。

 その頃、「桜を見る会」に家内とともに出ていたところ、小川君ご夫妻にばったり出会って、奥様から、「ウチの人は仕事人間で困る」という愚痴をこぼされたほどである。隣にいた小川君は、それを聞いて頭をかいていたので、おかしかった。しかし、それくらいでないと、経産省では上には行けないのも事実である。

 小川君は、内閣に一時出ていたが、経済産業省に帰ってくると、産業技術環境局長を務めた後、特許庁長官となった。そこで退官したのであるが、その活躍ぶりを見ていた人がいたらしく、安倍晋三内閣の時に内閣広報官に抜擢されて話題を呼んだ。


3.県知事への華麗な転身

 それから3年ほどして、小川君は福岡県知事選挙に出馬した。前任の麻生渡知事の跡を継いでの立候補であったが、見事に当選し、第17代の公選福岡県知事となった。

 ところで、私は海外出張の折に、小川知事とばったり出会ったことがある。私がマレーシアの最高裁判所を公式訪問していたとき、日本大使公邸の行事に招かれた。その時たまたま、福岡県の産品、例えば八女茶、苺のあまおう等を福岡県がキャラバンを組んで東南アジア諸国に売り込みに来ていた。そこで、マレーシア現地の人たちが大勢招かれていたわけであるが、そのミッションを率いていたのが、何とまあ小川知事だった。私が「やあ、こんな所で」と挨拶をしたら、驚いたのなんのって。ところが、十分に話さない内に、小川知事がスピーチをする段になった。そこで彼は、ハーバード仕込みの流暢な英語で話をしたものだから、その場が和んだことを思い出す。

在マレーシア駐在日本大使館で小川洋君が英語でスピーチ


 その他、宮中での行事でも顔を合わす機会がしばしばあり、昔の「忙しい、忙しい」時代の小川君と、何ら変わりがなかった。それが、こういうことになってしまうとは・・・72歳か・・・これから第二の楽しい人生がすぐそこに待っていたというのに、早すぎる別れである。

小川洋君のご冥福を心からお祈り致します。







    小川洋君の経歴

 昭和48年 4月 通産省(当時)入省
 平成 2年 1月 OECD代表部参事官
 平成10年 6月 資源エネルギー庁総務課長
 平成11年 9月 近畿通商産業局長
 平成15年 7月 産業技術環境局長
 平成16年 6月 特許庁長官
 平成17年 9月 退官
 平成19年11月 内閣広報官
 平成23年 4月 福岡県知事当選
 平成31年 4月 福岡県知事3選
 令和 3年 3月 福岡県知事辞職
 令和 3年11月 逝去(2日)






(令和3年11月10日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生エッセイ





悠々人生エッセイ

(c) Yama san 2021, All rights reserved