悠々人生エッセイ



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 事の起こりは、東京モーターショーに行った時のこと、まず2017年秋のモーターショーでの不思議な記憶がある。確かドイツのメーカーだったと思うが、四角いバンの座席がスライド形式で横開きになっていて、中の空間にはソファーがあるだけ、他には何もない。運転席はもちろん、ハンドルやブレーキの類いすらない。「これは一体、何だ?」と思ったが、これが私が初めてAI自動運転車を見た衝撃的な場面である。しかしその時は、そういう「歴史的瞬間」だったとは露知らず、「まるでソファーのある部屋が動くようなものだな。」と思って、写真も撮らずにそのまま通り過ぎた。

 それからである。各国で行われている自動運転車の公道走行実験が知られるようになった。日本でも2019年5月に「道路交通法の一部を改正する法律」が成立して「自動運行装置を使用する運転者の義務や作動状態記録装置による記録に関する規定の整備等」が盛り込まれた。これにより、いわゆるレベル3の自動運転が可能となった。


自動運行装置を使用する運転者の義務や作動状態記録装置による記録に関する規定の整備等(警察庁HPより)


 その年の2019年10月の東京モーターショーでは、外国メーカーの出展はほとんどなかったものの、スズキのコーナーに、AI自動運転車らしき車があった。中に自転車が鎮座している。それが冒頭の写真である。その説明によると、

 誰もが自由に移動時間と、ほどよい空間を有効活用できるモバイルルーム自動運転車「HANARE(ハナレ)」
 @ AI、ロボットによる超効率化社会の中でも、「人のつながり」や「人のこだわり」など、人間らしい欲求を大切にし、クルマを所有する新たな喜びを提案する自動運転車。
 A 家の「離れ」のようなほどよい大きさの室内空間が移動することで、運転以外の楽しさ、ワクワクを提案。
 B ライフスタイルが更に多様化する未来において、様々な使い方や利用シーンに対応し、一人ひとりのワクワクにスイッチ。


 これは、良いなあ。レベル5だと、運転免許も要らないだろう。iPhoneのSiriに対して喋るように「名古屋の栄に行きたい」というと、東京の自宅から東名高速道路を通って連れて行ってくれる。何なら、「HANARE(ハナレ)」の中にベッドを持ち込むと、寝ているうちに着いてしまう。もっとも、途中で事故に巻き込まれてそのまま昇天するという可能性もないではないが、そうなったら仕方がない。蓼科に行って高山植物を撮りたいというときも、自分で運転する必要がなくて、これは便利だ。途中は寝て行って、目的地の高原で降りて写真を撮ることに集中することができる。あと10年後にはそうなるかもしれない。それまで、自動運転車を買えるくらいのお金を貯め、かつ健康でいよう。

 などと思っていたところに、その年の春に先輩から「今度、ウチの法律雑誌でAI特集をやるから、ちょっと巻頭言を書いてよ。あなた、その方面に明るいから。」と言われたことを思い出した。すっかり忘れていたが、もう秋になってしまったので、年明けには原稿を渡さないといけない。

 それにしても、その法律雑誌には、どういう内容の記事が掲載されるのかは、目次程度しかわからない。その中で巻頭言を書くというのも、なかなか辛いものがある。後に続く記事と全く無関係の頓珍漢なことを巻頭に書くのははばかられるし、さりとて、後に続く記事の内容と重複するのも、嘲笑の種になりかねない。法律の分野でAIは、大きく体系を変える可能性を秘めているけれど、現在のところはまだまだ各法分野別のちょっとした話題に留まっている。いや困ったな・・・ああ困った。はて、どうするかと考えあぐねて・・・そうだ。そういうときの取っておきの策は、近未来の世界を描くことだと思い付いた。というわけで、冒頭の自動運転車の話題から始めて、次の一文を一気に書き上げた。

 その雑誌が出来上がって、記念に何冊か送られてきた。私の巻頭言の後に続く記事を読んでみたが、幸いにも齟齬がなく、ひとまず安心した。しかし考えてみたら当然のことで、法律家は目前の、あるいは数年先の課題解決の理論を作るのが得意だけれども、数十年先の課題など眼中にあるはずがない。ところが、ことAIに限っては、数十年先、百年先のことまで念頭に置く必要があると思うのである・・・という前置きで、次の巻頭言をお読みいただければ幸いである。





        巻頭言 AI三原則    


 私は、自動車と最新の技術に興味があるので、東京モーターショーがあるときには、カメラを抱えて必ず行くことにしている。会場のあちこちでは、自動車の最新モデルの脇に、可愛いお嬢さんがにっこりと微笑んで立つという風景が見られるのだけれど、2017年から普通の自動車に混じって、妙な「コンセプト・モデル」が展示されるようになってきた。

 それは、窓のついた長四角の箱で、四隅にタイヤはある。ところが箱の中には、ハンドルはおろか運転席もパネルもなく、ソファーがあるだけだ。そこであたかも居間にいるようにして家族と話し込んでいると、いつの間にか目的地に連れて行ってくれるという車だ。運転する必要がないから、これは楽だと思う反面、完全自動運転だからハンドルもブレーキも要らないというのはやり過ぎではないか、事故が起きそうになったらどうやって防ぐのかなどと思った記憶がある。

 ところが、その頃から、カリフォルニアでアップルやアルファベット傘下のウェイモなどが自動運転車の大々的な公道実験に乗り出し、膨大なデータを集め始めた。この自動運転には、最近急速に発展したAI(人工知能)の深層学習(ディープ・ラーニング)が使われている。この技術は日々急速に進歩しつつあって、今や自動運転はレベル3の段階(特定の場所でシステムが全て操作するが、緊急の場合には運転者が操作する)にあるが、レベル5の段階(全ての場所でシステムが操作する)に達する日も、ほど近いと言われている。

 刑法の責任主義の観点からすれば、事故が起こった時、レベル3の段階だと適切なハンドル操作をしなかった、緊急停止ボタンを押さなかったなどと運転者の責任を問うことになるから、今と同じ法体系でよい。ところが、レベル5の段階になったら、運転者の責任はもはや問えないことから、瑕疵のあるシステムを作ったとして自動運転開発者の責任を問うことになるのか・・・そうなるとそれは道路交通法の問題というよりは、民事上の不法行為責任の問題で対処するのかあるいは製造物責任法に刑事責任を新設する問題になるのかなど、法体系が大きく変わる可能性を秘めている。もっとも、自動車の場合には自動車損害賠償責任法の運行供用者責任があるから、問題はあまり顕在化しないかもしれないが、これがない鉄道、航空機、船舶などは同様の制度を考える必要があるだろう。

 弁護士や医師や会計士という専門職の仕事も、AIで抜本的に代わる可能性がある。弁護士なら貸金返還請求訴訟などの定型的訴訟から使いはじめて、交通事故、特許事件の先行文献調査などの補助業務なら結構使い出がある。そのうち良質なデータの蓄積があれば、あらゆる訴状や答弁書の原案を作成できるかもしれない。医師の仕事も同様で、エックス画像を見てガンがあるかどうかを判定する分野ではAIが専門医を上回る好成績を上げることも珍しくなくなったから、その種の業務からはじめて、やがては患者とやり取りをする診察までこなすAIが出てくるのは必然だろう。ただ、AIが専門職の補助的仕事をしている分には現在の法制度でよいが、近い将来それが一人前の仕事をするようになると、そもそも専門職制度はこのまま維持できるのかという問題に直面するのは避けられない気がする。

 かくして、AIの深層学習技術は、自動運転にとどまらず、有用な技術として社会のあらゆる分野で使われ始めている。先ほどの医療分野での病気の判定、街角を歩く人混みの中からの指名手配犯の発見、プロを打ち負かす囲碁や将棋、定型的な新聞や雑誌記事の執筆、俳句詠み等々である。まさに、万能の力を発揮している。それは良いことだと思う。

 ところが問題は、深層学習といっても、そもそもどういうアルゴリズムなのか、特にいかなる因果関係があってその結果が出ているのか、よく分からないのが現在のAIの特徴である。そうすると、出た結果を不審に思って検証しようとしても、それができないことが多い。例えば、犯罪発生地点の予測ならまだしも、特定の個人を犯罪者予備軍などと推測するのは、何の根拠でそう判定するのか、人権侵害も甚だしいということになる。また、AIに放り込んだデータが間違っていたり、質の悪いものだったりすると、出てくる結果もまた見当違いのものになるのは、言うまでもないことだろう。

 世の中は、AI元年が到来したといって大歓迎のムードであるが、私に言わせれば、コンピュータとソフトウェアである以上、検証不可能な結果をそのまま受け入れるのはどうかと思うし、元となるデータ自体がおかしなものであれば、一体どうするのだろうという疑念がぬぐいきれない。しかし、考えてみれば、どんな新技術も導入直後には色々と問題が生じるものである。そうした問題も、そのうちに何とか克服される。そしていったんその便利さに慣れてしまえば、これに異を唱えるのはあたかも風車に立ち向かうドン・キホーテのようなものかもしれない。

 AIも、その深層学習の度合いを深め、個人情報保護と適度な折り合いをつけて良いデータを常に供給してやれば、まさに日常の生活や健全な社会の構築に使える実用的なものになるだろうし、またそう願いたい。そうして赫赫たる成果が上がるにつれて、人々の頭に疑念が浮かんだとしてもいつの間にか駆逐されていき、AIが活躍する領域が徐々に増えていくというのが、これからの世界だろう。

 しかし、AIが人間の補助的業務にとどまっている分にはまだ良い。それが完成度を高め、そのうちあらゆる分野で人間の能力を超えるシンギュラリティー(技術的特異点)に到達するかもしれない。それでも更に膨張に膨張を遂げていき、やがてはジョージ・オーウェルの小説「1984」のビッグ・ブラザーのようなものが出てきて、気が付いたら人間がそれに支配されていたということにならないか、心の片隅で私は心配している。AIに対して「全知全能の存在はいるのでしょうか。」と聞き、「はい、あなたの目の前にいます。」という答えが返ってきたら、もう手遅れだ。

 この点、かつてSF作家のアイザック・アシモフが提唱したロボット三原則、すなわち(1)人間に危害を加えないこと、(2)人間の命令に服従すること、(3)これらに反しない限り自己を防衛することの、現代的意味を再検討する必要があると思う。かつてのロボットは、それ自体が単体で動いて周りに影響力を与える存在にすぎなかったから、この程度で済んでいた。

 ところが、やがてAIは、シンギュラリティーを越えるあたりから、社会全体を統率するほどの影響力を行使する存在になるのは、間違いない。そこで私は、今のうちから新たにAI三原則として、
(1)人間を個人として尊重すること、
(2)人間の自由と平等を保障すること、
(3)人間の多様な価値観を前提とすること
を提唱したい。

 これからのAIの開発者は、この三原則を常に念頭に置いていただきたいと思う。





(令和2年5月1日著)
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