目 次 | |
1 | ツアーに乗る |
2 | 台湾の地理は |
3 | 台湾の歴史は |
4 | 台中を観光 |
5 | 台中から台南 |
6 | 新幹線で台北 |
7 | 台北を観光 |
8 | 台湾旅行感想 |
1.ツアーに乗る 昨2019年の秋、旅行会社から送られてきたパンフレットの中に、旧正月の終わりに台湾で催される「ランタン祭り」を見物に行くツアーがあった。そういえば、私は台湾で飛行機を乗り換えたことはあるが、まだ泊まったことはない。では、外国訪問34ヶ国目として行ってみるかという気になった。 たった4日間という短い日程であるが、1月末から中国の武漢で始まった新型コロナ・ウィルスがどんどんと拡がりをみせ、中国本土では武漢のある湖北省を中心にかつてのSARSを上回る患者数と死者数を出し、世界各地にもそれが伝播しつつある。こんな時に行くのもどうかと思わないわけではなかったが、台湾は日本と同じ程度の10人にも満たないわずかな患者数だったので、感染の拡大はまだかなり限定的だと思って、行くことにした。 羽田空港を朝8時頃に出発し、11時に台北に到着した。時差は1時間なので、4時間のフライトだ。初めて中華航空に乗ったが、座席がやや狭く、ビデオの画面も小さいこと以外は、まあ普通のフライトである。出発前に、搭乗口の脇で機長がクルー全員を集めて訓示をしている。なかなか微笑ましくてよろしい。信頼できる気がする。 台北に到着したのは、桃園空港ではなく、松山空港だった。そこから台中まで、いきなり2時間半のバスの旅である。バスは2階建の仕様で、とっても眺めが良い。しかもゆったりしている。一行の人数は19人だから、ますます余裕がある。どこに座っても良いというので、先頭の席に座った。ガイドは、邱勝鶴という現地の人で、キュウさんと呼んでくれという。なかなか、親切な人で、好感を持った。 2.台湾の地理 ガイドさんの受け売りであるが、まずは台湾の地理を紐解きたい。アジアプレートとフィリピン海プレートがぶつかって海底が隆起したのが台湾である。そのせいで、3000m級の山が100もある。一番高い山が、3,952mの新高山(ニイタカヤマ)である。真珠湾攻撃の暗号に使われた。今は、名前が変わって「玉山」という。台湾の人口は、2,300万人(中国は、14億人)で、出生率1.2%と、一人っ子が多い。少数民族は、16族いて、中には、アローハと挨拶する民族もある。ハワイと同じだ。だから、この人たちがポリネシア系であるのは間違いないが、昔むかしの人類がアフリカから発して台湾に渡り、それがハワイやポリネシアに渡って行ったのか、それとも戻ってきたのか、未だ解明されていない。 先日、NHKのイースター島の番組を観ていたら、イースター島の開祖は海を渡ってきた人々で、それもアウトリガーという小舟の片側や両側に取り付けてこれを安定させる装置を備えていた。それと同じアウトリガーを持つ太平洋の種族を追跡すると、まずフィリピンに見つかった。次に、台湾の原住民にもいた。だから、これらの種族とご先祖が繋がっているのではないかということを説明していた。 3.台湾の歴史 12世紀までに既に台湾に住んでいた原住民はポリネシア系の民族であることがわかっていて、現在の少数民族の一つである。そのうち、17世紀にオランダ人がやってきてこの地に城を築き、長崎や平戸を通じて日本と交易を行った。このオランダ統治時代は、38年間で終わった。というのは、広東省から鄭成功がやってきてオランダ人を追い払ったからである。 鄭成功の母親は、平戸出身の田川姓の人で、父親は福建省出身の海賊である。鄭成功は幼名を福松といい、7歳まで日本で育ったが、母親と福建省の父親の下に移り住んだ。当時、清朝が明朝を滅ぼそうとしていた頃で、鄭成功は実力があったので若くして将軍となり、明朝を自ら復興するという夢を抱いて台湾に渡り、そこで当時の支配者だったオランダと一戦を交えて勝ち、その勢力を駆逐したというわけである。ところが、鄭成功は台湾に来て間もなく、疫病に罹って39歳で亡くなった。その息子は清朝と戦ってあえなく負けたので、台湾における鄭一家の支配は、わずか21年間で終了した。 それからは、台湾は清朝の支配の下に長く置かれたが、清朝にとって台湾の住民は、あくまでも「化外の民」に過ぎなかった。1895年の日清戦争終結時の下関条約で、台湾は日本に割譲された。それから50年間の日本統治時代が始まる。1945年の太平洋戦争の終結後、国共内戦に敗れた蒋介石が台湾に逃れて来た。孫文が1912年(大正元年)に中華民国を建て、蒋介石はそれを引き継いだ形で、中華民国は、今年で109年目となる。 4.台中を観光(第1日目) (1)宝覚禅寺 そういうわけで、空港から台中まで2時間半も長いの道のりである。朝が早かったから途中でぐっすりと寝入ってしまった。気がついてみると、バスには誰もいない。宝覚禅寺(バオジュエスィ)に全員が行ってしまって置いてきぼりという情けない状態だ。慌てて追いかけると、建物の前でガイドさんが説明をしている。 その他、境内には、この地で亡くなった日本人の墓碑があり、更には太平洋戦争で亡くなった台湾の若者の記念碑がある。聞き違いでなければ、この戦争で亡くなった台湾の若者の数は、3,000人だという。この戦争がなければ、散るはずのない命だった。深く哀悼の意を表したい。 (2)彩虹眷村 次の彩虹眷村(ツァイホン ヂュェンツン)は、広大な荒れ地の脇にひっそりとある平凡な軍人宿舎が、「虹の村」として生まれ変わったものである。昔々、国共内戦で敗退してきた蒋介石将軍に、20歳で従ってきた軍人の若者、黄永阜さんが、退役後にこの村の宿舎で日々を過ごした。あまりに暇なので、ペンキを使って色鮮やかな素人絵を描き出した。それが評判に評判を呼んで、今では観光客が押し寄せる一大観光地となった由。ご本人は、御年98歳となったが、健在だそうだ。 (3)台中ランタン祭り それから、台中ランタン祭りに向かう。この開催地は毎年変わり、審査の結果で決定されるという。今年は台中市で、過去5年間で2回目、今回は「光り輝く台中」をテーマにしている。2月初旬から約2週間にわたって開催される。 現地に着いてみると、暗い中を、后里花博会場まで延々と20分も歩かされた。そしてようやく、「光の樹」と会場のメイン・ステージに到着した。ステージでは、次々とバンドが出てきて、歌を披露する。結構盛り上がっていて、それは誠に結構なことだ。中には日本の歌謡曲もあり、そういう歌は懐かしいには懐かしいが、こんな暑いところで「津軽海峡 冬景色」とやられると、いささか場違いな感がしないわけでもない。 5.台中から台南へ(第2日目) (1)日 月 譚 日月譚(リーユエタン)は、海抜700mにある最深部30mの湖で、地図を見ると、上半分が丸くて、下半分が三日月のように見えることから、このように名付けられたという。日と月を合わせて、別名「明譚」とも言われる。行ってみると、なるほどこれは風光明媚な地である。とりわけこの日は、曇天だったために、突き出した半島が南画を思わせる風景画のようだった。晴天だったら、また別の風景が現れることだろう。 1999年9月21日の深夜2時、マグニチュード7.2という台湾大地震が起こった。日月譚の近くの「集集」が震源地である。湖畔北部にある観光スポットの「文武廟」も大きな揺れで倒壊し、通路には大きなヒビが入った。行ってみると、現在は美しく再建されていた。 (2)文 武 廟 文武廟を出発し、台中市内へと向かう。お昼は、「捕里四季蒸宴」(「捕」は手偏)という店の蒸し料理である。丸テーブルの真ん中に大きな三角錐のような容器が鎮座していて、その真ん中から盛んに蒸気が吹き出している。その中に、目指す食べ物があるらしいが、全く想像もつかない。そもそも、この大きな容器をどうやって持ち上げるのかと疑問に思うところだ。 ガイドさんが、盛んに「日本統治時代に岡本洋八郎という偉い先生がいて、台湾全土をくまなく調査して、地質図を作成した。そのとき、北斗温泉ラジウムを発見し、北斗石なるものを見つけた。これは、日本では秋田県の玉川温泉でしか見つかっていない貴重なもので、身につけると血行促進、冷え性や貧血の解消その他もろもろの健康増進効果がある。」などという。 それから、土産物屋に連れて行かれて、同じ売り口上を聞かされるものだから、ツアー客のおばさま方が群がって、5万円とか10万円という高額のネックレスやらプレスレットを買わされている。こんな売り方は、日本では薬事法違反だと思うのだが、こういう販売方法に慣れていない日本人は、コロリと騙される。(なお、薬事法は名前が変わって「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」となっている。) (4)赤 嵌 楼 (5)延平郡王祠 次は、延平郡王祠に行った。これは、上記3.で述べた鄭成功を祀る祠で、台湾の実質的な開祖として今でも人々から尊敬されている。庭の一画に、馬に乗った鄭成功の大きな白い像がある。まさに、勇士の勇姿である。庭の木は綺麗に刈り込まれていて、龍が金の玉に向けて噴水を出している。 (6)六合夜市 (7)一口知識 一口知識であるが、中国語で「酒店」も「飯店」もホテルのことだが、「酒店」は華僑系、「飯店」は、台湾資本のものをいう。また、最近の預金利子は年1.2%と聞いて、「良いなぁ」という声が上がる。 また、市内によく植えられている普通の椰子は、高いところに椰子の実が生って、それが落下して人の頭に当たったら危険である。だから、椰子の木を街路樹にするときは、その実を予め除去するか、あるいはあのような硬くて大きい実を付けない「徳利椰子」を植えるかしているそうだ。徳利椰子は、幹が太いので、一見して直ぐにわかる。 6.新幹線で台北へ(第3日目) (1)「乳」か「精」か 台南市のホテルに泊まった。バスルームに入って、さあ身体を洗おうとしてシャンプーを探すと「洗髪乳」というのがある。これは「shampoo」かなと思ったら、やはりそうだった。その隣に「潤髪乳」というのがある。これって「treatment」かと思って見ると、その通りだ。それでは「身体を洗う石鹸」はというと、「沐浴乳」とある。なるほど、「body shampoo」の中国語訳だ。日本と同じ漢字圏だから、わからないわけではないが、感覚が微妙に違って、とても面白い。それにしても、トロリと出てくる白っぽい液体を「乳」とは、言い得て妙ではある。 (2)寿山公園 寿山国家自然公園は高台にある景勝地である。そこから見下ろすと、高雄港や高雄市内を一望の下に収めることができて、素晴らしい。ここにも忠烈祠(ジョンリエツー)がある。これは、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る施設である。 蓮池譚(レンチンタン)は、要は蓮池であるが、「龍虎塔」という二つの中国式の塔とその入口である龍と虎のカラフルな像には驚かされる。いや、いかにも中国だと思って自然に笑えてくるから、楽しい。 台湾新幹線は、李登輝総統のとき、日本の新幹線を導入した。「台湾高鉄」で、北にある首都の台北(人口360万人)と、南にある台湾の古都の高雄(同300万人)の左営駅を短いと1時間45分、長いと2時間25分で結ぶ。車両は日本の新幹線そのものだが、外見は白地にオレンジ色の線が引かれている。駅には日本式の駅弁まである。だから、日本人には馴染みがある。 十分(シーフェン)に着いた。バスを降りて川を渡り、坂を登っていく。ここまでは、日本の白川郷に入るのと同じだ。すると、両脇に商店街が立ち並ぶ狭い通りに出る。驚いたことに、その狭い通りの真ん中に線路が走っているではないか。奇妙なことに、その線路に大勢の人が群れて、赤色や白地のビニール袋を囲んで記念撮影をしている。一体全体、何だこれはと思っているうちに、警笛が鳴って人々が一斉に線路から待避をする。そうすると、電車が結構なスピードで走り抜けて行った。 (6)九份の阿妹茶酒樓 7.台北を観光(第4日目) (1)忠 烈 祠 忠烈祠(ジョンリエツー)は、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る国の施設である。 < 中正紀念堂は、中華民国の初代総統である「蒋介石」を偲ぶために建てられた。建物の入口を入ると、直ぐに蒋介石の巨大な座像がある。その脇から中に入ると、蒋介石と夫人の宋美齢(宋家三姉妹の三女)に関する写真や車のキャデラックなどが並べられている。また、蒋介石の執務室をそのまま再現した部屋まであり、その中に蒋介石の実物大の人形まであるのには、驚かされる。しかもこの人形は、じつによくできていて、横から見ると、微かな微笑みまで見受けられる。 (4)龍 山 寺 8.台湾旅行の感想 鄭成功が中国人と日本人の間の子であること、八田與一技師の業績、李登輝元総統、日本の新幹線の導入など、台湾の人たちの日本に対する親しみは、予想以上のものがあり、それを感じたことが、今回の旅の最大の収穫だったのかなという気がする。 ところで、私の出発した頃は、まだ新型コロナウイルス問題は始まったばかりで、台湾はそのとき日本と同じく10人程度の患者数だったのに、既に厳戒態勢が引かれていた。マスクの着用は当然のことで、それだけでなくホテルやレストランに入るときには必ず消毒用アルコールをたっぷりと吹き付けられ、いちいち体温測定までされたのには驚いた。かつてのSARSのときに抑え込みに失敗して批判されただけに、鉄壁の構えだったといえる。それだけでなく、私が日本に帰り着いた数日後、台湾は日本とシンガポールを感染拡大国に指定して、日本人やシンガポールからの渡航者に対する検疫を強化するなど、徹底的にやっていた。 それに比べて日本は、社会全体に心配する人は増えてはいるものの、手洗いを呼びかける程度で緊張感がほとんどなく、まともな対策が全く講じられていない。こんなに緩い雰囲気で大丈夫かと心配になるほどだ。これでは、感染の急拡大でパンデミックの事態になるのは時間の問題だという気がする。 (令和2年2月8日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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