悠々人生エッセイ



九份の阿妹茶酒樓




 
目 次 
 ツアーに乗る
   台湾の地理は
   台湾の歴史は
   台中を観光
   台中から台南
   新幹線で台北
   台北を観光
   台湾旅行感想


 台湾への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.ツアーに乗る

 昨2019年の秋、旅行会社から送られてきたパンフレットの中に、旧正月の終わりに台湾で催される「ランタン祭り」を見物に行くツアーがあった。そういえば、私は台湾で飛行機を乗り換えたことはあるが、まだ泊まったことはない。では、外国訪問34ヶ国目として行ってみるかという気になった。

 たった4日間という短い日程であるが、1月末から中国の武漢で始まった新型コロナ・ウィルスがどんどんと拡がりをみせ、中国本土では武漢のある湖北省を中心にかつてのSARSを上回る患者数と死者数を出し、世界各地にもそれが伝播しつつある。こんな時に行くのもどうかと思わないわけではなかったが、台湾は日本と同じ程度の10人にも満たないわずかな患者数だったので、感染の拡大はまだかなり限定的だと思って、行くことにした。

 羽田空港を朝8時頃に出発し、11時に台北に到着した。時差は1時間なので、4時間のフライトだ。初めて中華航空に乗ったが、座席がやや狭く、ビデオの画面も小さいこと以外は、まあ普通のフライトである。出発前に、搭乗口の脇で機長がクルー全員を集めて訓示をしている。なかなか微笑ましくてよろしい。信頼できる気がする。

 台北に到着したのは、桃園空港ではなく、松山空港だった。そこから台中まで、いきなり2時間半のバスの旅である。バスは2階建の仕様で、とっても眺めが良い。しかもゆったりしている。一行の人数は19人だから、ますます余裕がある。どこに座っても良いというので、先頭の席に座った。ガイドは、邱勝鶴という現地の人で、キュウさんと呼んでくれという。なかなか、親切な人で、好感を持った。


2.台湾の地理

 ガイドさんの受け売りであるが、まずは台湾の地理を紐解きたい。アジアプレートとフィリピン海プレートがぶつかって海底が隆起したのが台湾である。そのせいで、3000m級の山が100もある。一番高い山が、3,952mの新高山(ニイタカヤマ)である。真珠湾攻撃の暗号に使われた。今は、名前が変わって「玉山」という。台湾の人口は、2,300万人(中国は、14億人)で、出生率1.2%と、一人っ子が多い。少数民族は、16族いて、中には、アローハと挨拶する民族もある。ハワイと同じだ。だから、この人たちがポリネシア系であるのは間違いないが、昔むかしの人類がアフリカから発して台湾に渡り、それがハワイやポリネシアに渡って行ったのか、それとも戻ってきたのか、未だ解明されていない。

 先日、NHKのイースター島の番組を観ていたら、イースター島の開祖は海を渡ってきた人々で、それもアウトリガーという小舟の片側や両側に取り付けてこれを安定させる装置を備えていた。それと同じアウトリガーを持つ太平洋の種族を追跡すると、まずフィリピンに見つかった。次に、台湾の原住民にもいた。だから、これらの種族とご先祖が繋がっているのではないかということを説明していた。


3.台湾の歴史

 12世紀までに既に台湾に住んでいた原住民はポリネシア系の民族であることがわかっていて、現在の少数民族の一つである。そのうち、17世紀にオランダ人がやってきてこの地に城を築き、長崎や平戸を通じて日本と交易を行った。このオランダ統治時代は、38年間で終わった。というのは、広東省から鄭成功がやってきてオランダ人を追い払ったからである。

 鄭成功の母親は、平戸出身の田川姓の人で、父親は福建省出身の海賊である。鄭成功は幼名を福松といい、7歳まで日本で育ったが、母親と福建省の父親の下に移り住んだ。当時、清朝が明朝を滅ぼそうとしていた頃で、鄭成功は実力があったので若くして将軍となり、明朝を自ら復興するという夢を抱いて台湾に渡り、そこで当時の支配者だったオランダと一戦を交えて勝ち、その勢力を駆逐したというわけである。ところが、鄭成功は台湾に来て間もなく、疫病に罹って39歳で亡くなった。その息子は清朝と戦ってあえなく負けたので、台湾における鄭一家の支配は、わずか21年間で終了した。

 それからは、台湾は清朝の支配の下に長く置かれたが、清朝にとって台湾の住民は、あくまでも「化外の民」に過ぎなかった。1895年の日清戦争終結時の下関条約で、台湾は日本に割譲された。それから50年間の日本統治時代が始まる。1945年の太平洋戦争の終結後、国共内戦に敗れた蒋介石が台湾に逃れて来た。孫文が1912年(大正元年)に中華民国を建て、蒋介石はそれを引き継いだ形で、中華民国は、今年で109年目となる。


4.台中を観光(第1日目)

(1)宝覚禅寺

 そういうわけで、空港から台中まで2時間半も長いの道のりである。朝が早かったから途中でぐっすりと寝入ってしまった。気がついてみると、バスには誰もいない。宝覚禅寺(バオジュエスィ)に全員が行ってしまって置いてきぼりという情けない状態だ。慌てて追いかけると、建物の前でガイドさんが説明をしている。


宝覚禅寺


 こちらは、日本統治時代に建立された臨済宗の妙心寺派のお寺で、本堂の隣には、高さ33mの黄金色の・・・これは、どなたかな・・・仏様というよりは、大黒天・布袋様のように見受けられる。それが、いかにも柔和な表情をして座っておられる。青空と金色と楽しげな表情の組み合わせがとても良い。しかも、台座には「皆大歓喜」と書いてある。何だかわからないが、ともかくめでたい仏像だ。

 その他、境内には、この地で亡くなった日本人の墓碑があり、更には太平洋戦争で亡くなった台湾の若者の記念碑がある。聞き違いでなければ、この戦争で亡くなった台湾の若者の数は、3,000人だという。この戦争がなければ、散るはずのない命だった。深く哀悼の意を表したい。


(2)彩虹眷村

 次の彩虹眷村(ツァイホン ヂュェンツン)は、広大な荒れ地の脇にひっそりとある平凡な軍人宿舎が、「虹の村」として生まれ変わったものである。昔々、国共内戦で敗退してきた蒋介石将軍に、20歳で従ってきた軍人の若者、黄永阜さんが、退役後にこの村の宿舎で日々を過ごした。あまりに暇なので、ペンキを使って色鮮やかな素人絵を描き出した。それが評判に評判を呼んで、今では観光客が押し寄せる一大観光地となった由。ご本人は、御年98歳となったが、健在だそうだ。


彩虹眷村


彩虹眷村



(3)台中ランタン祭り

 それから、台中ランタン祭りに向かう。この開催地は毎年変わり、審査の結果で決定されるという。今年は台中市で、過去5年間で2回目、今回は「光り輝く台中」をテーマにしている。2月初旬から約2週間にわたって開催される。

 現地に着いてみると、暗い中を、后里花博会場まで延々と20分も歩かされた。そしてようやく、「光の樹」と会場のメイン・ステージに到着した。ステージでは、次々とバンドが出てきて、歌を披露する。結構盛り上がっていて、それは誠に結構なことだ。中には日本の歌謡曲もあり、そういう歌は懐かしいには懐かしいが、こんな暑いところで「津軽海峡 冬景色」とやられると、いささか場違いな感がしないわけでもない。


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 今回の台中ランタンフェスティバルのシンボルとなっている「光の樹」というのは、太い幹のある大きな木で、上には葉のような花のようなものがたくさん付いており、それらが色とりどりに光っては、消え、また光る。時には、ショーと称して音楽に合わせて色が変わったり、グラデーションになったり、あるいは一斉に消えたりと、何やらそれらしくやっている。今はやりのコンピューター制御のエレクトリック・ショーなのだろうが、面白いかといえば、なかなか面白い。でも、制作者の意図がどこまで観客に伝わっているかは、よくわからない。愛知万博のときの、モリゾーくんのごとくである。

台中ランタン祭り「光の樹」


台中ランタン祭り「光の樹」


台中ランタン祭りの舞台


 もらったパンフレットによると、「『森生守護(森林の生態系保護)〜光の樹は、一粒の種子から大きく成長した大木です。種子の精霊が満月・朝日と化し、台湾のエネルギーの年輪の上を廻ります。22本の光の幹は県や市、368個のつぼみは郷や鎭、2359枚の木の葉は人々を表し、チョウが飛び交い、台湾固有種のミミジロチメドリも枝の上で囀り合います。『森生守護(森林の生態系保護)〜光の樹には台湾が団結し、円満に、豊かになっていくよう願いが込められています。」という。うーん、いかにも官の文章で、しかも意味づけに苦労している様子が伝わってくる。

台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 そのほか、舞台と光の樹の周りには、数多くの光るランタンが展示されている。例えば、白くて丸い大きな球体は、先ほどの官製パンフレットでは、「長い昼の心」つまり「開花の音に耳を澄ます永晝之心」ときた・・・意味がさっぱりで、よく分からない。まあ、それはともかく、虚心坦懐に眺めると、丸い球体の表面には白い光がキラキラ流れて星空のようで、美しい。次の伝統的なサブランタン「爵士好鼠喜迎親(ジャズ音楽とネズミの嫁入り)は、子供心あふれる奇想天外な発想で・・・」とあるが、これまた不可思議だ。まあ、これらは、要するに近代的な中国漫画である。昼間に文武廟を見た目には、ああいう三国志的な青森ねぶた風の展示を期待していたのに、すっかりディズニー風のものばかりなので、いささか拍子抜けした。

台中ランタン祭り


台中ランタン祭り


 なお、会場を丹念に見て行くと、何と、日本の都市の観光宣伝のコーナーがあった。例えば、名古屋城がドーンとあってその勇姿を見せているし、熊本のくまモンもいたし。北海道はもちろん。ああ佐賀もある。その脇には、なんとまぁ、弘前ねぷたの現物まである。確かにこれは、格好の宣伝の場なのかもしれない。日本の地方自治体も、観光客の誘致になかなか積極的になったもので、大いに結構なことである。


5.台中から台南へ(第2日目)

(1)日 月 譚

 日月譚(リーユエタン)は、海抜700mにある最深部30mの湖で、地図を見ると、上半分が丸くて、下半分が三日月のように見えることから、このように名付けられたという。日と月を合わせて、別名「明譚」とも言われる。行ってみると、なるほどこれは風光明媚な地である。とりわけこの日は、曇天だったために、突き出した半島が南画を思わせる風景画のようだった。晴天だったら、また別の風景が現れることだろう。


日月譚(リーユエタン)


日月譚(リーユエタン)


 この湖の近くに日本統治時代の1932年に烏山頭ダムという水利ダムが完成し、台湾の水利に大いに貢献した。このダムを設計したのは、石川県出身の八田與一(よいち)という若い技師で、青春の30年間を台湾で過ごした。嘉南平原を潤して米作ができるようにと、この水利計画を発案してダムを設計し、その工事を監督した。今でも、台湾では恩人と称えられている。ところが、1942年の戦争中、日本からフィリピンの灌漑調査のために現地へ派遣されることになり、宇品港から船に乗った。ところがその船は五島列島沖でアメリカの潜水艦に撃沈され、乗客800人中300人が亡くなった。その一人が八田與一である。その3年後、台湾からの邦人引き揚げが命じられた八田夫人は、精神の支えを失い、このダムで自殺したという悲劇があったそうだ。

 1999年9月21日の深夜2時、マグニチュード7.2という台湾大地震が起こった。日月譚の近くの「集集」が震源地である。湖畔北部にある観光スポットの「文武廟」も大きな揺れで倒壊し、通路には大きなヒビが入った。行ってみると、現在は美しく再建されていた。

(2)文 武 廟


日月譚の湖に面する廟門


 その文武廟(ウンウーミャオ)は、1932年の建立、1975年の再建、台湾大地震の後の再度の再建に係る巨大な建造物で、まるで日月潭を睥睨するように建っている。まず、湖に面して廟門があり、階段を登ってそれをくぐると、正面には前殿、その両脇には赤色に塗られた巨大な獅子が置かれている。いわば、日本の神社の狛犬、沖縄のシーサーのようなものだが、その大きさといい、迫力といい、とってもその比ではない。前殿には文武廟の「文」つまり文人の神様である孔子が祀ってあり、中殿には「武」の武人の神様である岳飛や関羽が祀ってある。前殿と中殿との間には、見事な九頭の龍の彫刻が置かれている。更にその先には、後殿がある。

文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


 うわぁ、これは何だ。青だ、青だ。それも文字通り真っ青な仏様が座っている。しかも、胸には、白い「卍」のマークが光っている。神々しいを通り越して、いささか不気味な色感覚である。これには、驚いたとしか言いようがない。その次に見た、アイボリー色の仙人の像の方が、はるかにしっくりくる。

文武廟(ウンウーミャオ)


文武廟(ウンウーミャオ)


 文武廟から出て階段を降りてきて、改めて日月潭全体の眺望を楽しもうと展望台に立ったが、あいにくこの日は曇天で、遠くまで見渡すことが出来なかった。その近くで、少数民族が民族衣装を着て、歌を歌い、音楽を奏でていた。時間があれば、それを聴いて何がしかのドネーションをしようかと思っていたが、何しろ時間に追われるツアーなので、それもかなわなかった。

文武廟で少数民族が民族衣装を着て、歌を歌い、音楽を奏でていた


(3)蒸し料理の店「捕里四季蒸宴」と土産物屋

 文武廟を出発し、台中市内へと向かう。お昼は、「捕里四季蒸宴」(「捕」は手偏)という店の蒸し料理である。丸テーブルの真ん中に大きな三角錐のような容器が鎮座していて、その真ん中から盛んに蒸気が吹き出している。その中に、目指す食べ物があるらしいが、全く想像もつかない。そもそも、この大きな容器をどうやって持ち上げるのかと疑問に思うところだ。


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


捕里四季蒸宴


 やがて、係員がステンレスの棒を持ってやってきて、疑問が解消した。その棒の真ん中の穴を蒸気の吹き出し口の溝に当て、それをグルグルと回して固定して、容器を持ち上げるということだ。開けてみると、そこには色々な食べ物が蒸された状態で現れた。食べてみると、こんな美味しいものはない。パクパクと平らげた。ちなみに、デザートはパッションフルーツのチアシードだった。

 ガイドさんが、盛んに「日本統治時代に岡本洋八郎という偉い先生がいて、台湾全土をくまなく調査して、地質図を作成した。そのとき、北斗温泉ラジウムを発見し、北斗石なるものを見つけた。これは、日本では秋田県の玉川温泉でしか見つかっていない貴重なもので、身につけると血行促進、冷え性や貧血の解消その他もろもろの健康増進効果がある。」などという。

 それから、土産物屋に連れて行かれて、同じ売り口上を聞かされるものだから、ツアー客のおばさま方が群がって、5万円とか10万円という高額のネックレスやらプレスレットを買わされている。こんな売り方は、日本では薬事法違反だと思うのだが、こういう販売方法に慣れていない日本人は、コロリと騙される。(なお、薬事法は名前が変わって「医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律」となっている。)

(4)赤 嵌 楼


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


 午後は、台南市へ行った。まずは、赤嵌楼(チーカンロウ)で、台湾最古の歴史的建造物である。オランダが統治していた1652年に、「プロデンティア城」として築かれた。これは、オランダ語で永遠を意味するそうだ。当時のものは、煉瓦造りの基礎の一部としてしか残っていないが、入ってみると、前庭の美しい芝生は大きく掘り起こされて、文化財発掘の最中だった。

赤嵌楼(チーカンロウ)


赤嵌楼(チーカンロウ)


 確かに、お城のような土台の上に、中国風のきらびやかな建物と屋根が載っているという落ち着いたレトロな空間である。土台の前には、幾つかのほそ長い石板が並んでいると思ったら、清朝の時代に功績を称えた記念碑のようだ。でも、表に刻まれた文字は、既に風化して読めなくなっている。

(5)延平郡王祠

 次は、延平郡王祠に行った。これは、上記3.で述べた鄭成功を祀る祠で、台湾の実質的な開祖として今でも人々から尊敬されている。庭の一画に、馬に乗った鄭成功の大きな白い像がある。まさに、勇士の勇姿である。庭の木は綺麗に刈り込まれていて、龍が金の玉に向けて噴水を出している。


延平郡王祠


延平郡王祠


延平郡王祠


馬に乗った鄭成功の大きな白い像


 正殿は、緑色の屋根に朱色の柱が続く回廊に囲まれ、その正面上部の扁額には「明延平王」という文字の書かれている。奥には、鄭成功の像があるらしい。延平郡王祠の隣には、媽祖を祀った中国式お寺があった。

(6)六合夜市


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


 高雄市に、六合夜市(リオフーイエシー)というものがある。昼間は普通の道路であるが、夜になると通行止めになって、道路の両脇に屋台が出る夜市(よいち)つまりナイト・マーケットである。道路の上に中国風のボンボリが飾られ、雰囲気は良い。8割方が食べ物屋さんで、例えば、臭豆腐、海鮮粥、水餃子、酸辣湯(サンラータン)、焼きトウモロコシなどと、美味しそうなものが並ぶ。実は私は、屋台では絶対に食べないことにしている。食中毒になっても文句の言いようがないし、とりわけB型肝炎になるのを警戒しているからだ。とは言え、よい香りを嗅ぎながら傍らを過ぎるのも、なかなか辛いものがある。

六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


六合夜市(リオフーイエシー)


 ガイドさんは、「夜市で買わない方がいいよ。食べ物なんてどこでいつ誰が作ったか、何にも書いてない。また、衣料は直ぐに色落ちする。赤いTシャツを買ったつもりが、一回洗うとピンクになる。もう一回洗うと、白くなる。ラコステの鰐なんて、一回洗うと、顔がどちらを向いているのか分からなくなる。」などと笑いをとっていた。

(7)一口知識

 一口知識であるが、中国語で「酒店」も「飯店」もホテルのことだが、「酒店」は華僑系、「飯店」は、台湾資本のものをいう。また、最近の預金利子は年1.2%と聞いて、「良いなぁ」という声が上がる。

 また、市内によく植えられている普通の椰子は、高いところに椰子の実が生って、それが落下して人の頭に当たったら危険である。だから、椰子の木を街路樹にするときは、その実を予め除去するか、あるいはあのような硬くて大きい実を付けない「徳利椰子」を植えるかしているそうだ。徳利椰子は、幹が太いので、一見して直ぐにわかる。


6.新幹線で台北へ(第3日目)

(1)「乳」か「精」か

 台南市のホテルに泊まった。バスルームに入って、さあ身体を洗おうとしてシャンプーを探すと「洗髪乳」というのがある。これは「shampoo」かなと思ったら、やはりそうだった。その隣に「潤髪乳」というのがある。これって「treatment」かと思って見ると、その通りだ。それでは「身体を洗う石鹸」はというと、「沐浴乳」とある。なるほど、「body shampoo」の中国語訳だ。日本と同じ漢字圏だから、わからないわけではないが、感覚が微妙に違って、とても面白い。それにしても、トロリと出てくる白っぽい液体を「乳」とは、言い得て妙ではある。


洗髪乳、調髪乳、沐浴乳


 ところで、翌日泊まったホテルでは、「乳」の代わりに「精」の字が使われていて、「洗髪精」、「沐浴精」とあった。そういえば、前日のホテルではいずれも液体は白っぽいものだったが、こちらは緑色だったり、青色だったりしたから、それで「乳」とは言えなかったのだろうと推察する。

(2)寿山公園

 寿山国家自然公園は高台にある景勝地である。そこから見下ろすと、高雄港や高雄市内を一望の下に収めることができて、素晴らしい。ここにも忠烈祠(ジョンリエツー)がある。これは、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る施設である。


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


寿山国家自然公園


(3)蓮 池 譚

 蓮池譚(レンチンタン)は、要は蓮池であるが、「龍虎塔」という二つの中国式の塔とその入口である龍と虎のカラフルな像には驚かされる。いや、いかにも中国だと思って自然に笑えてくるから、楽しい。


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


 まず、龍の口から入って、塔から塔へと移り、そして虎の口から出てくるようにと言われる。郷に入っては郷に従えだ。まず龍の口からその体内に入って左の塔の階段を登っていく。徐々に高さがあがり、それにつれて眺めがよくなる。最上階の6階にたどり着くと、不忍池の弁天堂を想起させる池の真ん中の堂「五里亭」がなかなかよろしい。

蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


蓮池譚(レンチンタン)


(4)台湾新幹線

 台湾新幹線は、李登輝総統のとき、日本の新幹線を導入した。「台湾高鉄」で、北にある首都の台北(人口360万人)と、南にある台湾の古都の高雄(同300万人)の左営駅を短いと1時間45分、長いと2時間25分で結ぶ。車両は日本の新幹線そのものだが、外見は白地にオレンジ色の線が引かれている。駅には日本式の駅弁まである。だから、日本人には馴染みがある。


台湾高鉄


台湾高鉄


台湾高鉄


(5)十分で天燈上げ

 十分(シーフェン)に着いた。バスを降りて川を渡り、坂を登っていく。ここまでは、日本の白川郷に入るのと同じだ。すると、両脇に商店街が立ち並ぶ狭い通りに出る。驚いたことに、その狭い通りの真ん中に線路が走っているではないか。奇妙なことに、その線路に大勢の人が群れて、赤色や白地のビニール袋を囲んで記念撮影をしている。一体全体、何だこれはと思っているうちに、警笛が鳴って人々が一斉に線路から待避をする。そうすると、電車が結構なスピードで走り抜けて行った。


十分(シーフェン)


十分(シーフェン)


十分(シーフェン)


 我々のガイドは、それには一切構わずに、ある一軒の店に入って行った。それには、「天燈上げ」と書かれていた。どんどん奥に進むと、向かいは川、その向こうは山というロケーションで、1.5mX1mの赤色のビニール袋に、何か願い事を書けと言われる。例えば、「家内安全、全員健康、氏名祈願」などと書くと、それを持って記念写真を撮る。そうすると、ビニール袋の口に火が付けられ、手を離すとそれが熱気球となって大空に飛ぶという仕掛けである。我々のは、まあ、店の裏口から河原に向けて天燈を放つというものだったが、これを線路に面している店だと、その線路の中に入って、嬉々として上げるという風景は、これはかなりシュールである。その線路から上げている中に、日本人の女の子2人組がいた。その書いている内容たるや、「元気が一番」、「好きな人と一緒に」、「今よりもっと金が欲しい」などと、かなり現実的で、笑ってしまった。

十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


十分(天燈上げ)


 ガイドさんによれば、元々は春節(旧正月)だけの行事だったものが、観光として定着して、年がら年中やっているらしい。天燈は、おそよ千メートルまで上がった後、燃料が尽きるから落ちてくるとのこと。丸い金属製の枠と、周りの竹ひごを回収してまわる専門の業者がいるとのこと。ただし、最近は天燈が民家に落下して、火災を起こすという事故が起きているとのこと。

(6)九份の阿妹茶酒樓



九份


九份


九份


九份


九份?


 九份は、元々9軒の家しかなくて、はるか麓の村へ買い出しに行ったものを持って帰って分けるというので、「九分割」という意味の名前が付いた。それが日本統治時代に金鉱山として栄えたものの、戦後しばらくして閉山になった。その後、忘れられた町となっていたが、1989年に映画『悲情城市』のロケ地となってから、日本統治時代のまま時間が止まったようなレトロな街並みが評判になり、大勢観光客が押し寄せることになった。また、日本のアニメである「千と千尋の神隠し」の湯婆ばの湯屋のヒントにもなったとの噂が立ち、以来、日本人観光客の間にも有名になったという(ただし、スタジオジブリは否定している由)。

九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


 九份へは、まだ明るい午後5時半ごろに着いた。細い登り階段を延々と登っていく。そのときは、まるで大山詣での参道だと思った。登り道の途中には、よく絵葉書に描かれている阿妹茶酒樓があるが、明るい時には、眺めてもさほどの感慨はなかったものの、午後6時を過ぎた頃に改めて眺めると、暗い中に中国風の赤いぼんぼりが灯って素晴らしく美しい。これまで見た夜景の中で、一番綺麗だと感激してしまった。また、海の方(おそらく、基隆港)を観ると、夕闇に霞がたなびき、その間に灯りが瞬いて、これまた天下の景勝である。

九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓


九份の阿妹茶酒樓




7.台北を観光(第4日目)

(1)忠 烈 祠

 忠烈祠(ジョンリエツー)は、日本の靖国神社に相当するもので、辛亥革命や抗日戦争などで殉難した33万人の英霊を祀る国の施設である。


圓山大飯店


忠烈祠(ジョンリエツー)


忠烈祠(ジョンリエツー)


 朝一番の衛兵交代に合わせて行ってみた。まずは正面玄関の両脇に立つ衛兵が交代した後、そこから正面のお堂に向けて、指揮官が先頭に雁行型で7人が行進をしていく。そして、お堂の入口の両脇に立つ衛兵を置いて、また戻ってくる。衛兵は皆、背が高く、まるで機械仕掛けのロボットのような独特の動きで歩き、儀礼銃を操り、向かい合って所定の動作を繰り返す。一糸乱れず、見事な動きである。感心した。なお、半年ごとに陸海空軍が交代して行うようで、今回は制服が青色なので、空軍だそうだ。ちなみに、陸軍は濃緑、海軍は夏は白色、冬は黒色だという。

忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(衛兵交代)


忠烈祠(ジョンリエツー)


忠烈祠(ジョンリエツー)


(2)故宮博物院

故宮博物院


 いよいよ、期待していた故宮博物院である。蒋介石が国共内戦下で何とか台湾に持ち出した、中国歴代王朝の69万点にも及ぶ至宝が展示されている。先ずは「翠玉白菜」をめざしたものの、これは他に貸し出し中ということで、残念ながら見られなかった。これは、上は緑色、下は白色の翡翠を白菜に模して加工したもので、葉の部分にはキリギリスとイナゴが彫られ、多産と子孫繁栄を願うという。清の光緒帝の后の嫁入道具として持ち込まれたとのこと。

故宮博物院・翠玉白菜


故宮博物院・肉形石


 次に目指したのが「肉形石」である。これは、まるで客家料理の豚肉の角煮「東坡肉」と驚く程にそっくりで、いやもう、これは凄いと呆れるばかりだ。清の雍正帝の寝宮に置かれていたものだという。皮や脂身など、本物そっくりで、よくもまあこんな造形を考えつくものだと感心する。

<故宮博物院・象牙透彫雲龍文套球


 清の「象牙透彫雲龍文套球」には、これまたびっくりした。親子三代にわたる職人が百年の長きに渡って営々と1本の象牙から彫り上げた多層から成る球体である。握り拳第の球の表層には精巧な9匹の龍の彫刻が彫られている。しかもその中には透かし彫りの文様が施された24層の球体があり、各層それぞれ自由に回転させることができるという。現代の3Dの技術をもってしても、再現はできないだろう。

故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


故宮博物院


(3)中正紀念堂

 中正紀念堂は、中華民国の初代総統である「蒋介石」を偲ぶために建てられた。建物の入口を入ると、直ぐに蒋介石の巨大な座像がある。その脇から中に入ると、蒋介石と夫人の宋美齢(宋家三姉妹の三女)に関する写真や車のキャデラックなどが並べられている。また、蒋介石の執務室をそのまま再現した部屋まであり、その中に蒋介石の実物大の人形まであるのには、驚かされる。しかもこの人形は、じつによくできていて、横から見ると、微かな微笑みまで見受けられる。


中正紀念堂


中正紀念堂


中正紀念堂


 総統府の前をバスで通り過ぎたが、さすがにここは外観だけで、中までは見学できないそうだ。

(4)龍 山 寺


龍 山 寺


 龍山寺は、庶民のお寺という感じで、関羽などの武将をはじめ、媽祖神、縁結びの神様など、なんでもござれである。少し前までは、こういう中国式のお寺には、線香の煙がもうもうと立ち込めていて閉口したが、最近は環境汚染を気にして、あまり線香を置かなくなってきたという。また、お供え物も、持って帰るということにしたらしい。


8.台湾旅行の感想

 鄭成功が中国人と日本人の間の子であること、八田與一技師の業績、李登輝元総統、日本の新幹線の導入など、台湾の人たちの日本に対する親しみは、予想以上のものがあり、それを感じたことが、今回の旅の最大の収穫だったのかなという気がする。

 ところで、私の出発した頃は、まだ新型コロナウイルス問題は始まったばかりで、台湾はそのとき日本と同じく10人程度の患者数だったのに、既に厳戒態勢が引かれていた。マスクの着用は当然のことで、それだけでなくホテルやレストランに入るときには必ず消毒用アルコールをたっぷりと吹き付けられ、いちいち体温測定までされたのには驚いた。かつてのSARSのときに抑え込みに失敗して批判されただけに、鉄壁の構えだったといえる。それだけでなく、私が日本に帰り着いた数日後、台湾は日本とシンガポールを感染拡大国に指定して、日本人やシンガポールからの渡航者に対する検疫を強化するなど、徹底的にやっていた。

 それに比べて日本は、社会全体に心配する人は増えてはいるものの、手洗いを呼びかける程度で緊張感がほとんどなく、まともな対策が全く講じられていない。こんなに緩い雰囲気で大丈夫かと心配になるほどだ。これでは、感染の急拡大でパンデミックの事態になるのは時間の問題だという気がする。





(令和2年2月8日著)
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