悠々人生エッセイ



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 私は、大学卒業して国家公務員となって40年間余りを過ごした。これを第一の人生とすると、それに引き続き裁判官となって6年間を務め上げ、今年の9月26日に定年退官した。これが第二の人生ということになる。

 退官後どうしたかというと、まず10月初めに、かねてから行ってみたかった南米ペルーのマチュピチュ遺跡とナスカの地上絵を見に行った。帰国してからの感想だが、まだ体力があるうちに行っておいて良かった。というのは、地球の裏側でそこにたどり着くだけで28時間もかかったし、着いてからも最高3,800mの標高のところを通ったり、マチュピチュ遺跡自体が2,400mの所にあって登り降りに体力をかなり使ったりしたからである。

 そして帰ってきてから、友人、同僚、先輩、後輩の皆様に連日連夜のご苦労さん会を開いていただいて、本当に感激した。その一方、挨拶状をしたためて、それをお世話になった方々に送った。これが届くと、私宛にかなりの数の皆さまから、メール、手紙、葉書が送られてくるようになり、いずれの方からも、心に残る暖かい言葉をかけていただいた。それに一つ一つ返信を書きながら、「いわばこれが人生の総決算で、要するに『華の時期』なのだな。」と感じるという至福の時間を過ごしたのである。

 その一方、体力を付けるため、一日12,000歩を歩こうと考え、息子にプレゼントしてもらったアイウォッチに従ってエクササイズの目標を設定し、朝、昼、晩と1回30分以上の散歩に出掛けた。私は谷根千地区なので、いくつかコースがある。(1)根津神社から千駄木方面、(2)旧藍染川跡の通称「へび道」から谷中の夕焼けだんだん方面、(3)東京大学赤門方面、(4)不忍池から上野公園方面である。どのコースも、歩いていて飽きることはない。おかげで、11月は連日、目標を達成した。

 その一方、雨風の強い日や寒い日には、地下鉄に乗り、(5)大手町駅又は二重橋前駅から東京駅にかけての地下を歩き、あるいは(6)日比谷駅から東銀座駅にかけての地下を歩くという裏技を発見した。そうして平日に地下鉄に乗っていると、ゆったりと座れて、それだけで幸福な気がする。電車に座って揺られてうつらうつらしていると、頭の中で落語か何かで聞いた「世の中に寝るより楽はなかりけり。浮世の馬鹿は起きて働け。」という声が聞こえる。そうか、私は「浮世の馬鹿」を46年もやって来たのかということを、つくづく実感する。

 そうやってのんびりしていたある日のこと、散歩の途中で突然、名古屋市長から電話が掛かってきた。「あいちトリエンナーレについての名古屋市の検証委員会の座長になってほしい。」という要請である。表現の自由で議論をよんでいる件だが、この委員会は主に名古屋市からの交付金を議論するそうだ。火中の栗を拾う感があるが、お困りのようだし、市長は私の高校の1期先輩なので、先輩の頼みは無下に断われない。直ぐに依頼を受けた。それからインターネットで色々と調べ始めた。すると、県と市の間でまあ様々なやり取りがあったようだ。表現の自由の関係で本まで出版されている。これは容易でないが、引き受けた以上、一生懸命にやるしかない。家内が横で見ていて、「あなたはやっぱり、ウチにいるような人ではないわね。」などという。

 自分でも「やはり、そうか。」と納得し、のんびりして社会貢献でもするかというこれまでの方針を急遽転換して、積極的に仕事をすることにした。つまりは、浮世の馬鹿に逆戻りだ。幸い、弁護士として登録が終わっているので、どこか法律事務所に所属すればよい。私は今まで様々な分野を取り扱ってきたので、なるべく大きな法律事務所にすれば、多方面の分野の事件を扱える。いわゆる四大事務所は、千代田線の駅だと、大手町駅か二重橋前駅だ。

 そのうちのとある事務所には先輩がいて、中の雰囲気も非常に良いと聞いているし、自宅からだとドア・ツー・ドアで15分で行ける。そこで、先輩を通じて所属させてほしいとお願いに行ったら、面接の結果、ありがたいことに、「結構です。歓迎します。」ということになり、年が明けた1月1日から、アンダーソン・毛利・友常法律事務所に所属することになった。私で、同事務所の日本人弁護士の数は、480人となるようだ。

 12月中ばに同事務所でクリスマス会があり、まだ所属してはいない私にも声をかけていただいた。すると、立食パーティーなので入れ代わり立ち代わりやって来られて、「あなたのあの判決は、良かった。」とか、「先生のご著書で勉強したことがある。」とか、「日米欧の特許裁判のシンポジウムの冒頭で英語でスピーチしたでしょう。」とか、あれやこれやと言っていただく同僚(となる)先生方がおられて、「人は良く見ているものだな」と思った。

 当面は、事務所の中で研修や勉強会の講師を引き受けて、なるべく早く皆さんに馴染むようにし、それから徐々に個別案件の相談に乗るつもりである。また、5月から6月にかけては、お話があれば社外取締役や社外監査役となって、できれば会社経営にも参画していきたいと思っている。かねてからやってみたいことである。もっとも、普段の余計なときには口を出さないようにし、会社のために本当に必要なときだけ、しっかり自分の見解を述べるというつもりである。そうでないと、お互いにやりにくいだろうと思う。

 これが、私の第三の人生の始まりである。身体と意欲が続く限り、積極的にやってみようと思っている。では、その次の第四の人生はどうなるかって? そんなこと、私に聞いてくれるな・・・正月早々、縁起でもないかもしれないが、敢えて言えば、文字通り、死んで夜空の星を構成する物質になっていることだろう。

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【後日談】 新型コロナウイルス禍

 以上のように、年が明け、大いなる希望をもって法律事務所に所属し、さあこれから仕事に取り組もうと思っていたところ、新型コロナウイルス禍が国内外を直撃した。中国湖北省武漢市から始まり、日本に寄港したクルーズ船で集団感染が発生した。その波は、怒涛の如くヨーロッパからアメリカにかけて波及して感染者と死者が続出し、病院は医療崩壊、墓地もあふれるという異常事態となった。日本でも4月8日に緊急事態宣言が発出され、外出の自粛や施設の使用制限が行われた。当初は5月6日までの予定だったが、31日まで延長された。

 この新型コロナウイルスは、罹患しても80%の人が発症せずに周りに伝染するという厄介なところがあり、若い人の症状は比較的軽いものの、特に65歳以上では重症化することが多いと言われている。患者全体の死亡率は、3.5%程度であるが、70歳台のそれは11%、80歳代以上では20%という報告もある。そういうこともあって、こんな疫病で命を失ってもつまらないことから、家内とともになるべく外出しないで自宅に引きこもっている。外部との連絡はメール、電話、ZoomやSkypeということであるが、まさに隔靴掻痒の感がある。こういう状態では、新しく仕事を広げるというわけにはいかない。第三の人生は、まさに出鼻をくじかれたわけである。

 我々の父母の世代は、不幸なことに世界を揺るがす大きな戦争に明け暮れ、命のやり取りを迫られたわけである。それとは一変して、我々自身の世代では幸いなことに日本が直接巻き込まれる戦争はなかった。その代わり、まさかこの新型コロナウイルス禍のようなパンデミックが起こって、生命の危機に直面するとは、思いもしなかった。私も、これまでせっかく70年間も生きてきたわけであるから、この危機に当たっても、家内とともに、何とか生き延びたいと思っている。





(令和2年1月1日著。5月14日追記)
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