1.旅の概要 (写 真)
京都で、大学入学50周年記念のクラス会のパーティが時計塔内のレストラン「ラトゥール」であり、それが楽しみで出掛けて行った。実は、5年前にも同様に45周年のクラス会、また10年前にも40周年のクラス会があり、更に30周年もやはり京都祇園の「いもぼう」で開かれた。
入学後50周年といえば、もう半世紀も経っているという驚くべきことなのだけれど、その様子は、別途、「大学入学50周年記念」というエッセイにまとめたので、ご覧いただければ幸いである。まあ、同級生はこの間、色々な道を歩んで来たが、まるで自分の分身のようにいとおしく感じる。
時計台の後は、私は金戒光明寺と真如堂に行き、紅葉の景色を写真に収めてから、先斗町に行った。先斗町のお茶屋さんでは、もちろん舞妓さんや芸妓さんの踊りを堪能したことはもちろんだが、それより、同年代の女将さんと昔の京都の大学紛争のときの話が弾んで面白かった。
それから翌日の2日目は、洛北を中心に、蓮華寺→大原三千院→貴船神社→鞍馬寺という順に周り、夕方は東寺のライトアップに行ってきた。このうち、大原三千院の燃えるような紅葉としっとりとした緑色の苔の組合せが最も素晴らしく、次に美しいと思ったのが東寺のライトアップであった。ところが洛北の地でたどった貴船神社から鞍馬寺への道は、何の面白味のないひどい山道で、これはお勧めしない。ただ、運動にはなった。
次の3日目は、京都から在来線のJR琵琶湖線で滋賀県の近江八幡市に行った。とりわけ、大坂商人、伊勢商人と並ぶ日本三大商人の一つである近江商人について知りたかったからだ。その資料館など市内を見物した後に、「教林坊」という紅葉の名所に行ってきた。安土駅からタクシーで行くしかない辺鄙な寺だが、京都にも負けない素晴らしい紅葉であった。これは、わざわざ見物に行く価値がある。それから、米原駅から新幹線で帰京した。
2.金戒光明寺 (写 真)
通称「くろ谷さん」の金戒光明寺は、浄土宗で法然上人を開祖とし、本尊は阿弥陀如来、唱える言葉は南無阿弥陀仏である。いただいたパンフレットによれば、「法然上人43歳の承安5年(1175)、比叡山での修行を終えてこの地で念仏された時、紫雲全山にたなびき光明が当たりを照らしたことから、浄土宗最初の念仏道場が開かれた場所」とある。
正面の二層の堂々たる山門には、その正面に後小松天皇の御宸筆で「浄土真宗最初門」の勅額が、遥か仰ぎ見る位置に掲げられている。宝珠を頂いた納骨堂には、阿弥陀如来が祀られている。重厚な三重の塔(重要文化財)は、徳川秀忠の菩提を弔うために建立されたもので、真っ赤な紅葉との対比が実に美しい。
阿弥陀堂は、慶長10(1605)年、豊臣秀頼により再建され、本尊阿弥陀如来は、「恵心僧都最終の作で『ノミおさめの如来』」と言われているそうだ。御影堂の内陣には、法然上人の75歳の坐像があり、その右には吉備観音(1200年前に遣唐使の吉備真備の難を救った観音様)、左には中山文殊(運慶作と伝えられ、いまなは無き中山宝?寺にあった)が置かれている。」という。
さて、お庭を拝見ということで、まず「方丈北庭」に向かう。池に大きな紅葉の木が差し掛かっていて非常に見事だ。「ご縁の庭」は、真ん中の丸い石に向かって石畳が双方から伸びているという意匠で、その向こうの開いた空間には紅葉が見えるという独特のもの。「紫雲の庭」は、先程の「紫雲全山にたなびき」から取った名前と思うが、「法然上人の生涯と浄土宗の広がりを枯山水で表現したもので、白川砂と杉苔を敷き詰めた中に、法然上人や上人をとりまく人々を大小の石で表し、法然上人の『幼少時代 美作国』、『修業時代 比叡山延暦寺』、『浄土宗開祖 金戒光明寺の興隆』の三つの部分に分けて構成されている。」とのこと。枯山水は禅寺特有のものだと思い込んでいたが、このように浄土宗の、しかも本山にもあるとは知らなかった。
ところで、このくろ谷には、幕末の激動期に会津藩の本陣が置かれ、京都守護職の松平容保が居を構えたところとしても有名である。一時は、新撰組の屯所もあった。その関係で境内には、幕末の戦乱で亡くなった会津藩士の墓地もある。
3.真 如 堂 (写 真)
真如堂は、京都大学の近くであることから、学生時代の思い出がいっぱい詰まったところである。「正式には鈴聲山真正極楽寺といい、比叡山延暦寺を本山とする天台宗のお寺」だというが、実は今から50年前は、ほとんど人影を見ず、ひっそりとしたお寺だった。だから、のんびりするには絶好のお寺だったのだが、それがまあ、特に紅葉の季節にはこれほど多くの人々が押しかけるようになるとは、想像もしなかった。
そのHPには、「庭園には「池庭」「枯山水」「露地」があり、真如堂の2つの庭は水の流れを白砂で表現した枯山水です。」とある。ああ、またこれは枯山水である。でも、私にとって、この季節の真如堂は、黒い五重の塔や本堂と赤い紅葉が対照的で、それを見ていれば、心休まる気がするのは、半世紀前と変わらない。
4.円山公園 (写 真)
朝早く起きたので、泊まっている四条河原町に近い円山公園に歩いていった。四条大橋を過ぎると、右手には歌舞伎の南座だ。最近、改修された。四条通りが東大路通りに突きあたるところが八坂神社の楼門で、緋色の柱や門構えがいかにも京都らしい。その階段を昇っていき、境内に入る。その中に、常磐神社、大国主社、北向蛭子社など社(やしろ)がいっぱいあって、歴史の古さを感じる。
八坂神社本殿と舞殿の間を通り抜け、しばらく行くと「祇園枝垂れ桜」がある。我々が学生の頃は、これがいかにも美しくて可憐な桜花を咲かせていたものだ。それが今はかなり樹勢が衰えてしまったようで、痛々しい姿になっている。残念至極である。
更に行くと、円山公園ひょうたん池に出た。周囲に木々があまりない、さっぱりした池である。だから、これという被写体もない。そこをひと回りして、いもぼう平野屋の前を通って本殿のところに戻ってきた。すると、黒人の夫婦から、話しかけられた。「鳥居があるか?」という。私が「どんな鳥居か?」と聞くと、スマホの写真を見せてくれた。それは、伏見稲荷の千本鳥居だった。
そこで、「これは、伏見稲荷と言って、京阪電車で行ける。そこの祇園四条駅から乗るといい。私もちょうど京阪電車の反対方向に乗るところだから、駅まで案内しよう。」と言うと、喜んで付いてきた。奥さんの英語は聞きやすかったが、旦那さんの方は英語は話さないようだ。二人の間で話される言葉は、全く見当もつかない。
道すがら、「日本は初めてなの?」と聞くと、「いや2回目だ。」という。「最近、どんなところを旅行したの?」と尋ねると、「南欧とエジプト」という。「あ、私もたまたまその辺りに行きたいと思っている。」と言って、その詳しい話になりかけたときに、もう祇園四条駅に着いてしまった。てっきり、切符を買うのかと思って切符売り場に誘導しようとしたら、Suicaを持っていた。そこで別れたのだが、どこの国の人かを聞きそびれた。でも、まだ30代後半だと思うが、世界各地に旅行する余裕があるとは、誠に結構なことである。
5.蓮 華 寺 (写 真)
その黒人夫婦と別れた後、私は京阪電車で祇園四条駅から出町柳駅に向かい、宝ヶ池駅で乗り換えて三宅八幡駅下車し、6分ほど歩いて「蓮華寺」に着いた。
そこでいただいたお札によれば、「蓮華寺は、元西八条塩小路附近(今の京都駅附近)にあった浄土宗系の古寺で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文2年(1662年)加賀前田藩の老臣今枝民部近義が祖父今枝重直の菩提の為にこの地に移し再興したものである。再興の際に石川丈山、狩野探幽、木下順庵、黄檗の隠元禅師木庵禅師等当時の著名文化人が強力している。尚本堂、鐘楼堂、井戸屋形、庭園は創建当時のままであり、小規模であるがいずらも文人の残した貴重な文化遺産である。」とある。
入らせていただいたが、なるほど本堂から、紅葉が真っ盛りの庭園を眺めることができる。座敷の奥の方から見れば、天井と畳に囲まれて、それらがまるで額縁のように見える。小ぶりの庭園の眺めも素晴らしい。古いお堂、池、苔に覆われた石と庭園、その周辺の赤と黄色の紅葉、まさにここが京都という観がある。新緑の季節はどうだろうか。また、訪れてみたい。
6.大原三千院 (写 真)
蓮華寺を見終わり、また三宅八幡駅に戻って宝ヶ池駅から岩倉駅に行き、岩倉実相院に行くつもりだった。ところが、たまたまタクシーを掴まえることができたので、大原三千院に向かった。学生時代に数回訪ねたことがあるが、もうそれから半世紀も経っている。円山公園の枝垂れ桜のように、がっかりしなければ良いなと思っていた。
ところが、結論から先に言うと、1960年代後半にデューク・エイセスが「京都、大原三千院、恋に疲れた女がひとり」と歌っていた頃の三千院と変わらず、真っ赤で燃え上がるような紅葉、目に染み入るような緑の苔、すっくと伸びた杉木立が本当に美しかった。
いただいたバンフレットによれば、「大原の地は、千有百年前より魚山と呼ばれ、仏教音楽(声明)の発祥の地であり、念仏聖による浄土信仰の聖地として今日に至ります。創建は伝教大師最澄上人が比叡山延暦寺建立の際、草庵を結ばれたのに始まります。別名、梶井門跡、梨本門跡とも呼ばれる天台宗五箇門跡の一つで、当院は皇子皇族が住職を勤めた宮門跡です。現在の名称は、明治4年法親王還俗にともない、梶井御殿内の持仏堂に掲げられていた霊元天皇宸筆の勅額により三千院と公称されるようになりました。」とある。宮門跡だから、これだけ立派なのだと納得した。
階段を上がって御殿門を入ると客殿で、そこから聚碧園を眺められる。客殿は、「平安時代、龍禅院と呼ばれ、大原寺の政所で、豊臣秀吉が禁裏修復の余材をもって修復されました。」とあり、聚碧園は、「池泉観賞式庭園で江戸時代の茶人・金森宗和の修築と伝えられます。」とある。
この庭園は、非常に面白い。手前に池、正面の坂には丸く整えた木が幾つもあり、その背景には真っ赤な紅葉がある。両脇に「ハの字型」の壁のように木が切り揃えられていて、ちょっとしたアクセントになっている。縁側からじーっと眺めていて、飽きない。
客殿から本堂の宸殿に至り、そこから有清園を観て、往生極楽院に行く。宸殿は、「後白河法皇により始められた宮中御せん法講(声明による法要)を今に伝える道場」であり、有清園は、「中国後晋(西晋)の詩人、左思の『山水有清音』により命名された池泉観賞式庭園で、杉木立の中、苔の大海原と紅葉が有名」とある。往生極楽院には、阿弥陀三尊(国宝)が安置されていて、「寛和2年(986)に『往生要集』の著者で天台浄土教の大成者である恵心僧都源信が父母の菩提のため姉の安養尼と共に建立した」という。
往生極楽院から、わらべ地蔵、弁財天の順でそれらの脇を通り抜けて紫陽花苑内の金色不動堂に行く。これは、「智証大師作と伝えられる秘仏金色不動明王を本尊とし、平成元年に建立されたご祈願の根本道場」である由。途中、青々とした苔がある庭の上に、紅葉の落ち葉が並んで、実に美しかった。
大原三千院を出てきた頃にはお昼になっていて、川沿いに下る途中のお蕎麦屋さんに入り、にしん蕎麦を食べた。その店内にあった大原女の人形が、なかなか可愛いものだった。
7.貴船神社 (写 真)
いったん宝ヶ池駅に戻り、改めてそこから叡山電車で貴船口駅に行った。途中で「紅葉のトンネル」を通った。確かにその名の通りだったが、運転手の後ろにいたので、あまり良く撮れなかった。その電車を降り、バスに乗って貴船神社に向かった。神社の赤い鳥居と赤い木灯篭の列を見て、半世紀前にここに来たことを昨日のように思い出した。自分の頭の中に、こんな記憶が眠っていたとは、我ながら驚く。
そこからこの階段を上がっていくと正面に馬の像があったはずだと思ったら、やはりあった。すると、左手が社務所だなと思い出したら、その通りだった。「変わっていないなぁ、何もかも。」と思うと、これが京都の良さなのだと気づく。
かつて私は、右も左もわからない紅顔の少年だったのに、この地から出発して大志を抱いて上京し、中央省庁に勤めて40年間、そのうち特に最初の15年間ほどは、本当にひどい勤務だった。自宅に帰るのが午前2時、3時の日々が続いた。病気にならなかったのは、奇跡に近い。ただ、この時の豊富な経験がその後に実を結び、構想力、交渉力、突破力、適応力の基礎となったのは事実である。だから、その後の人生に十分に役に立ち、裁判官となっても真実の究明と公平な判断に寄与することができたと信じている。
8.鞍 馬 寺 (写 真)
貴船神社は本宮だけにお参りして、「紅葉はあまりないなぁ」と思いつつ、坂道を下って行こうとしたその時、左手に「鞍馬寺西門」という表示があり、誰かいる。そこへ行ってみると、「鞍馬山案内図」を渡されて、鞍馬寺に行けるという。このままバスを待ってまた叡山電車に乗るのも芸がないと思って、山中だが、歩いてみようという気になった。
行程は、貴船神社 →(573m)→ 魔王殿 →(461m)→ 背くらべ石 →(403m)→ 本殿金堂 →(456m)→ 多宝塔 →(ケーブル200m)→ 仁王門・鞍馬駅。
これは、山の中のほぼ登りの道で、本殿金堂まではあまり整備もされていないから、とても大変だった、しかも、最近、台風が襲来したようで、あちらこちらに大きな杉の木が倒れていて、まだ手をつけていないところも多い。さすがに山道を塞ぐような木は道の脇に動かしているものの、中には丸太のように切ってあって道から外してあるが、地震でも起こってそれらが転がり落ちたら大怪我をしそうだ。ともかく、この道はお勧めしない。
なお、西門から入って全行程の4分の3を踏破し、小一時間ほど経ったとき、反対方向から来る年配の女性たちに会った。そのうちの一人は、杖をついている。「後、どれくらいですか?」と聞かれた。私は「まあ、1時間もあれば貴船神社に着くでしょうが、下りでひどい道です。あまりお勧めしません。」と言ったのに、前の方だけ聞いて「あと、1時間だって。」と言ってそのまま行ってしまった。人の話は最後まで聞くものだ。
いただいたパンフレットによれば、なかなか魅力的なことが書いてある。曰く「鞍馬山は、太古より尊天のお力が満ちあふれています。この地に宝亀元年(796)鑑真和上の高弟・鑑禎上人(思託律師)が毘沙門天をお祀りし、延暦15年(796)には藤原伊勢人が堂塔伽藍を整え千手観世音も祀って鞍馬山が生まれました。以来、幅広い信仰を集めてきましたが、昭和22年に古神道、密教、浄土教、修験道など多様な信仰の流れを統一し、鞍馬弘教と名付け、鞍馬寺はその総本山となっています。」これを読んで、驚いた。これだけ多種多様な宗教を能く一緒にできたものだと。実に日本らしいではないか。
それはともかく、庶民としては、源義経(幼名:牛若丸)がこの鞍馬の地で幼少期を過ごしたことに関心があるので、数々の名所旧跡が用意されている。例えば、鬼一法眼社(牛若丸に兵法を授けたという陰陽師鬼一法眼を祀る)、義経公供養塔(牛若丸が7歳から10歳まで過ごした東光坊跡地に建立)、霊宝殿(牛若丸はこの中の国宝の毘沙門天三尊を眺めて寂しさを紛らわせていた)、息つぎの水(牛若丸が東光坊から奥の院に兵法修行に向かう際、この清水を飲んだ)、背くらべ石(牛若丸16歳、奥州に下る時に名残りを惜しんで背比べをした石)、義経堂などである。
9.東寺のライトアップ (写 真)
いったん京都の都心部に戻り、四条通りや河原町通り、祇園や先斗町辺りを散歩して、四条河原町のホテルに戻ったら、もう夕方になっていた。ひと休みして、午後7時近くから、東寺のライトアップに出掛けた。
東寺に着くと、ライトアップされた国宝の五重塔が夜空に浮かび上がっていた。大宮通りに面した東門から入ると、すぐ左手奥に五重塔が光って輝いており、目の前の池面にその姿が鏡のように写っている。その両脇には紅葉の木々があり、こちらも水面に反射して綺麗だ。それから瓢箪池に向かって歩き、五重塔まで到達する。
いただいたバンフレットによれば、「この五重塔は、天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まり、雷火によって焼失すること3回に及んだ。現在の塔は正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。」とある。
ライトアップされた紅葉は独特で、光の色の加減にもよるのだろうが、オレンジ色が強くなって赤みが増す。それが瓢箪池に写って、上も下も紅葉となる。拝観者は、「わー、綺麗ね。」などと、ため息をつくほどだ。私も感嘆し、次いで写真を撮ろうとしたが、三脚は持って来てない。当然、禁止されているのだろうと思って荷物の中に入れて来なかったのだ。ところが、周りのカメラマンたちは、ちゃんと三脚で撮っていた。
まあ、仕方がない。私の前のカメラであるキヤノンEOS70Dは、三脚がない場合には数枚連続して撮ってカメラ内で自動的に合成して夜間撮影の手ブレをなくすという優れた機能があった。ところが、いまのソニーα7IIIには見当たらない。ISO感度を最大まで上げてやってみようとしたが、ザラザラ感がでてしまう。色々とやってみようにも、混雑しているから試してみる暇がない。仕方がないのでお手軽だが「シーンモード(夜間)」にして、2秒後のタイマーで撮ってみた。すると、細部までしっかりと写っていて、かなり良い写真となった。
五重塔と紅葉を堪能して帰ろうとして歩き出したら、金堂(国宝)に入れてもらえるらしい。入ってみると、暗い中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩があって、坐像の周りに十二神将が立ち並ぶ。ライトアップされているから、顔の彫りが深く見え、昼間に拝見するのとはまた違った趣きがある。すべての衆生に安らぎと癒しをもたらす薬師如来ならではの表情である。
10.近江八幡 (写 真)
翌日は、京都の紅葉に別れを告げて、一挙に滋賀県近江八幡市に行った。といっても、JR琵琶湖線の新快速でわずか35分ほどである、ここは、近江商人発祥の地ということで、一度は訪れてみたかった所だ。さて、駅に降り立った。観光案内所に飛び込む。そこで相談して作ったルートが次のようなものだ。
近江八幡駅前 → 八幡小学校 → 池田町洋風住宅街 → 郷土博物館 → 歴史民俗資料館 → 旧西川家住宅 → 旧伴家住宅 → 八幡堀 → 明治橋 → 日牟禮八幡宮 → 八幡山ロープウェイ → 村雲御所瑞龍寺 → 白雲館 → (近江牛のすき焼き)→ 近江八幡駅
ずいぶんと回ったようにみえるが、町並みがコンパクトだから一挙に回れるので、実はそうでもないのである。八幡堀の遊覧船に乗るつもりだったが、この日は気温が極端に低くなって日中でも10度を切っていたので、風邪をひくといけないと思って、止めた。私のような年代になると、「風邪をひくな」、「転けるな」、「ボケるな」は、もう合言葉と言ってよい。
さて、近江八幡観光案内所でいただいたパンフレットによると、「まちの中には洋風建築が数多くあります。それらの建築の設計を手掛けたのがウィリアム・メレル・ヴォーリズです。彼は明治38年、滋賀県立商業学校に英語教師として来日しました。来日後、熱心なキリスト教伝道活動を行うとともに、『建物の風格は、人間と同じくその外見よりもむしろその内容にある。』との信念で、全国で約1,600にも及ぶ建築設計に携わりました。
メンソレータムを日本に輸入した人物であり、当時不知の病として恐れられていた結核治療を目的とした近江療養院の建設、さらには市内の子供たちの教育の場として図書館や近江兄弟社学園の設立など、多岐にわたる社会貢献事業を展開しました。」とあり、
「ヴォーリズ夫人の満喜子は、播州小野藩の藩主であった一柳末徳(その後、子爵)の三女として東京で生まれました。神戸女学院音楽部ピアノ専攻を卒業後、9年間の留学の間に教育者であるアリス・ベーコンに師事し、近代女性にふさわしい主体的な生き方を身につけて帰国しました。ヴォーリズとの出会いは、現在の大同生命の創業にかかわった広岡家に養子入りした実兄の恵三とヴォーリズとの通訳を務めたことがきっかけでした。」とある。
ということで、じっくりとヴォーリズ建築を見たかったのだが、池田町の洋風住宅街をさっと見た程度であるから、あまり語る資格がない。いずれも、暖炉の煙突がすっくと立っているのが特徴である。それにしても、このヴォーリズさんが近江八幡に残した財産は多岐にわたり、しかもとっても大きい。また、ご本人の人柄に触れるために、アンドリュース記念館、ウォーターハウス記念館、ヴォーリズ学園のハイド記念館・教育記念館にも行ってみたかったが、また今度にしよう。
「八幡商人のまちなみ」ということで、近江八幡市立資料館(郷土資料館、歴史民俗資料館、旧西川家住宅)があった。そうそう、こういう展示を見たかったので、早速入ってみた。郷土資料館は、なかなかすっきりした洋風建築だと思ったら、これももちろんヴォーリズ設計事務所がかかわっている。長年、近江八幡警察署として使われていたそうだ。
近江八幡には、縄文時代から人が住み着いていたが、町の形になったのは、戦国時代末期で、まず織田信長が安土に城と城下町を築いた。信長が明智光秀に討ち取られた後、豊臣秀次によって八幡山に城と城下町が造られて安土の城下町から町人か移り住んだ。ところが秀次が切腹させられ、京極高次が後を継いだが、長続きせずに開城後わずか10年で廃城になってしまった。それからは、在郷町として、八幡商人の町となった。それ以来、独立覇気の精神に昔の八幡城の跡には、村雲御所瑞龍寺が建っている。
「歴史民俗資料館」は、もともと江戸時代末期が八幡商人の豪商であった森五郎兵衛の控え宅で、元近江八幡警察署長官舎だったものを市が譲り受けたという。中に入ると、豪商の屋敷そのもので、台所はそのまま、生活用具も見られる。なかでも、陶器でできた湯たんぽには、感心した。
パンフレットによれば、「『近江商人』とは、江戸時代近江国に本店を置き、全国で商活動をした商人達のことで、近江八幡『八幡商人』は近江商人発祥の一つとされる。天秤棒一つで日本全国を商売して回り、江戸日本橋をはじめ当時の主要都市に出店を構えて活躍した八幡商人は、質素倹約、質実剛健のもとに信用を第一とした。」
近江商人といえば、「売り手よし、買い手よし、世間よし」の「三方よし」の精神で知られている。これは、流通業に携わる皆さんの人口に膾炙している言葉で、今で言えば、前半の2つはWin−Win関係、後半はCSR(企業の社会的責任:cooperate sociel responsibility )の考えにも通じている。商売をしていれば、ともすれば自らの目先の利益ばかりを考えて強欲に走りがちだが、それでは長続きしないことを戒めている。近江商人の流れをくむ伊藤忠商事の創設者、初代伊藤忠兵衛も、「商売は菩薩の業(行)、商売道の尊さは、売り買い何れをも益し、世の不足をうずめ、御仏の心にかなうもの」という言葉を残している。どこか、プロテスタンティズムと資本主義の精神を思い出す。
旧西川家住宅は、「西川利右衛門家住宅は、江戸時代初めの天保3年(1706)に建てられた京風の建物で、質素な中にも洗練された意匠を残している、蚊帳や畳表などを扱って財をなした西川家は、11代約300年続いた近江八幡市を代表する近江商人で、屋号を『大文字屋』と称していた」という。
それから、「旧伴家住宅 」を訪れた。こちらは、「江戸時代初期の豪商『伴庄右衛門』が本家として建てた商家です。屋号は扇屋といい、商号として『地紙一』を使用、畳表、蚊帳、扇子、麻織物を主力に商売に励み、大阪、京都に出店を持ち、やがて江戸日本橋にも大店を構えるようになり、為替業務や大名貸しもしていました。・・・隆盛を誇った伴家でしたが、江戸時代の末期から急速に家運が衰え、明治期には商家をたたみ、現在は子孫も途絶えています。」という。
300年にわたって続いた商家でも、やはり、時代の趨勢には勝てなかったということか。明治になって大名貸しなどあるはずもないし、全て貸倒れだろう。また、畳表、蚊帳、扇子、麻織物という扱い品目も、時代遅れとしか言いようがない。特に明治に入って近代的な織機が輸入されて大量生産され、庶民の衣類は朝から綿に変わっていったから、時代の流れに乗れなかったのだと思う。建物の1階の大きな吹抜けの土間には、左義長の屋台がある。3月らしいので、今度見に来て写真を撮りたい。
そういった豪商の家が立ち並ぶ新町通り(近江商人の町並み)を北に歩くと、八幡堀に出る。桜並木がトンネルのように堀を覆い、桜の季節には、さぞかし美しい風景だろうと思う。そこを遊覧船がゆらゆらと行くが、残念ながらこの日はとても寒くて、乗る気が失せた。
白雲橋で八幡堀を渡り、日牟禮八幡宮という大きなお社の前を通って、八幡山ロープウェイに乗った。八幡山の標高はわずか271mだ、「丘」といってもよいくらいの山だが、ここに豊臣秀次が城を築いたほどだから、とても眺めが良い。ロープウェイを降りたところで、村雲御所瑞龍寺に向かう。ちょっとした石の階段が続くが、前日に貴船神社から鞍馬寺への山道を踏破したのだから、何ということもなく、瑞龍寺に着いた。途中、もう少しで瑞龍寺というところで、階段の石の隙間に落ちていたスマートフォンを拾った。カバーからして女性のものだ。瑞龍寺には人影が見当たらなかったが、落とし主は困っていると思い、帰りに立ち寄るロープウェイの駅で係員に渡した。すると、「今乗っていた団体さんかもしれないので、麓の駅に連絡しておきます。」ということだった。
近江八幡市内に降りてきて、鳥居をくぐって白雲館に立ち寄った。観光案内所になっている。もう昼をとっくに過ぎているので、近江牛を食べたいと思って聞くと、その近くに適当なレストランがあった。そこで、近江牛のすき焼きを食べた。なかなか美味しかった。
11.教 林 坊 (写 真)
それから、いよいよ本日のハイライトである安土の教林坊に行こうとしてJRに乗ったら、隣の駅だった。安土駅にも観光案内所があって教林坊への行き方を聞いたら、「バスは数時間に1本しかなくて、とても不便だからタクシーで行くしかない。それも、安土駅にあるタクシーはたった2台だ。」と聞いて、力が抜けた。そこで、タクシーのアプリで呼ぼうとしたら、ご親切にもその案内所の人が「私が呼んであげる」と言って呼んでくれた。待つこと20分でようやくやって来て、それに乗り込んだ。教林坊に着いた。わずか10分、料金にして2,000円だったから、歩いてもそんなに遠くなかったのかもしれない。
教林坊は、そのHPによると、「推古13(605)年に聖徳太子によって創建されました。寺名の『教林』とは太子が林の中で教えを説かれたことに由来し、境内には「太子の説法岩」と呼ばれる大きな岩とご本尊を祀る霊窟が残され、『石の寺』と呼ばれています。」とあり、特にその書院と庭園については、「江戸時代前期の茅葺き書院は里坊建築の古様式を伝える貴重な指定文化財です。また書院西面の名勝庭園は小堀遠州作と伝えられ枯れ滝・鶴島・亀島など巨石を用いて豪快に表現された桃山時代を象徴する池泉回遊式庭園です。書院南面にも室町時代と考えられる庭園があり小さいながら良くまとまった枯庭となっています。」とある。
入ってみると、いやこれは素晴らしい。いかにも歳月を感じさせる、味のある大岩が並び、しかもしっとりとした苔に覆われている。その周りはもちろん、紅葉の木々がびっしりと並び、天まで覆っている。まるで赤い紅葉のドームであり、こんな所は初めてだ。書院から庭を眺めてその絶景にため息をつき、庭に出てみて丘の上から庭園と書院を眺めて絶句するといったたぐいだ。また、紅葉の木々の背景に緑が滴るような竹林があるのも良い。なんとまあ、美しいのだろうと思って、あっという間に時間が過ぎた。本日中に米原駅から東海道新幹線で東京に帰らないといけない。タクシーを呼び、やはり20分後にやって来た。
教林坊から安土駅への道すがら、タクシーの運転手さんの話は面白かった。私が、安土城の再建の話はないのかと聞いた。すると、「いや、それがあるんですよ。長い話だけどね、まあ聞いてください。バブルの頃、そういう話があって、その時の安土町長が、安土城を再興しようとした。でも、どういう姿をしていたか、資料が全然ない。そこで目をつけたのが、かつて信長が狩野派の絵師に描かせた安土城の絵図で、当時はそれを宣教師に託してローマ法王に贈ったものだ。時はバブルの頃で、これがあると国から補助金が出るという。町長はバチカンに乗り込んで探したが、残念ながら発見できずに今日に至っている。それで、この話は終わりかと思ったら、最近は滋賀県が、力を入れ始めて、今年はその絵図の発見をするための400万円の予算を組んだそうですよ。」
また、教林坊については、「住職が代わり、坊内のごちゃごちゃしたものを片付けて綺麗にして、春と秋に公開を始めたんですよ。最初は、かなりお客さんを集めたけれども、そのうちお客さんの数が減ったために、春は土日だけの公開になった。秋はまだ、平日もやっています。最近はまたブームで、ライトアップまで始めた。なんでですかねぇ。」と言う。私が「いや、首都圏では大々的な宣伝をやっていて、例えばクラブツーリズムの秋刊号の表紙は、この教林坊ですよ。」と言うと、「へぇー」と絶句していた。それからJR安土駅に戻り、近江八幡駅に預けていた荷物をとって米原駅に行き、19:10の東京行きひかり号に乗ることができた。なかなか、実り多き旅だった。
(令和元年11月26日著)
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