目 次 | |
第1 | マチュピチュ遺跡 |
第2 | ナスカの地上絵 |
第3 | リマ市内を観光 |
第4 | ペルーの一口知識 |
第5 | その他ペルー補遺 |
第1 マチュピチュ遺跡 1−1 そうだマチュピチュに行こう 退官記念に、なかなか行けそうもないところに行こうと考えた。それにつけても思い出したのが、私が1997年に2代目のパソコンを買ったときのことである。壁紙としてパソコンの画面に映し出されたのが、マチュピチュ遺跡とエジプトのピラミッドである。どちらも神秘的な存在であるが、特にマチュピチュは、何百年ぶりに発見されたインカの遺跡として、脚光を浴びていた頃だ。一度、見てみたいものだと思っていた、今回、退官に際して真っ先に思ったのは、「京都」ならぬ「そうだ、マチュピチュに行こう」だった。 私は、英語を話すのに不自由しないから、国内と同様、海外でも英語圏なら往復の航空券とホテルを予約して一人で行ってしまう方だ。ところが、南米のペルーというスペイン語圏で、しかも行くのに非常に面倒だと思えるマチュピチュ遺跡やナスカの地上絵に一人で行く自信は全くない。そこで、ツアーを探したところ、ちょうど手頃なのが見つかった。しかもナスカの地上絵も見ることができるというので、申し込んだのがこの旅の始まりである。 1−2 現地クスコまで28時間 南米はそもそも地球の反対側にあるから、まず日本航空便でニューヨークに飛び(12時間55分)、そこでラタム航空便に乗り換えて、ペルーの首都リマへ行く(7時間40分)。リマからラタムの国内線でクスコに飛ぶ(1時間23分)。ここまで、乗換時間を入れるとおよそ28時間もの長旅である。 途中、ニューヨークでは保安検査がますます厳しくなっていて、予め取得したESTAを持って有人の窓口に並ぶと、全ての指の指紋を取られた。それだけでなく、靴も脱がされて検査をされた。また、皆で検査待ちのときに、麻薬探知犬がやってきて、荷物の間を嗅ぎまわっていた。それを同行のツアー客で、かなりの年配の人がペットみたいに触って、係員に注意されていた。まあ、注意を受ける程度で収まって良かった。 リマ空港でクスコ行きのラタム航空便に乗り継ぎをしようとしたら、これも一筋縄ではいかないことがよくわかった。例えば、出発まであと1時間というのに、搭乗口がクルクルと3回も変わる。4番から12番、その次は8番という具合である。中には搭乗直前に20分ほど列を作って待っているというのに、何もアナウンスなしで変更されることすらあった。後ろの方の人は、先頭の人たちが落胆した表情で列を離れていくから、そうとわかる。いやはや、こんな調子では、一人で来なくてよかったと思う。添乗員さんによれば、ラテンアメリカでは、こんなことは日常茶飯事とのこと。 1−3 クスコ市内観光 そうこうしながら、何とか無事にクスコ(Cusco)にたどり着き、空港に降り立った。クスコの現在の人口は45万人、13世紀から16世紀にかけて栄えたインカ帝国の首都で、1533年にスペイン人によって滅ぼされて以降は、スペインの植民地支配の拠点となった。そのため、石垣はインカ時代のもので、上に建つ教会などの建造物はスペイン支配時代のものと、両者が混ざり合って独特の雰囲気がある街となっている。もちろん、インカ時代の石垣はぴったり組み合わされているのに対して、その上のスペイン時代は石ころが雑に積み上げられているから、一見して違いがわかる。 そのうち、身体に少し異変を感じた。尿意は覚えるが、いざトイレに行くと尿がほとんど出ないのである。しかし、クスコを離れて標高が20mと低いリマに行くと、普通に戻った。これは私の推測だが、標高の高いところでは体内の膀胱も拡張する。これを頭が膀胱が満タンだと勘違いしてトイレに行きなさいという信号を送るから、そういうことになるのだろう。気圧が身体の中の臓器にまで直接影響を及ぼしているようだ。 1−4 富士山より高いチンチェーロ展望台 クスコは、マチュピチュ(Machu Picchu)に至る中継地点に過ぎない。これから更に延々と1時間ほど、山中の曲がりくねった山道の悪路を、小型バスで、オリャンタイタンボ(Ollantaytambo)に向かわなければならない。その途中で標高3,800mの峠を越える。事前にそれを聞いて、富士山(3,776m)をも越えるそんな高い所で高山病にならないだろうかと、いささか心配だった。 1−5 オリャンタイタンボの町 小型バスは、そのチンチェーロ展望台を過ぎ、木々の緑がほとんどない荒れ果てた平原を進んでいく。周りは高山ばかりだ。すると、峠を越えたところでようやく、オリャンタイタンボの町(2,800m)に到着した。手作りの日干しレンガで建てた粗末な家々が建ち並ぶ。道路には、昔の日本で言えばバタバタ、現代のタイのトゥクトゥク、つまり小型三輪タクシーが走り回っている。ちなみにこの町には、侵略者ピサロが率いるスペイン軍に対して、インカ帝国が最後の抵抗を試みた遺跡があるそうだ。 1−6 マチュピチュ村 マチュピチュ村は、これまた山中の寒村かと思いきや、とんでもない。あちこちにホテル、土産物屋、レストランが立ち並ぶ一大観光地の様相を呈している。例えていうなら、マッターホルン観光の始点の町ツェルマットのようである。そこへ、マチュピチュ鉄道で20分おきに観光客が送り込まれてれてくるから、村全体が繁盛しているわけだ。 1−7 いよいよマチュピチュ遺跡へ その日は深い眠りにつき、翌朝は7時半頃にホテルを出発した。歩いてすぐのマチュピチュ川岸まで行って、その様子に驚いた。対岸の川沿いに、長い長い列を作って並んでいる大勢の人達がいる。マチュピチュ遺跡行きの小型バスを待っている登山客だ。我々もその中に入らないといけない。これは時間がかかるので大変だと思ったが、そうでもなく、意外と早く乗ることが出来た。 1−8 展望台から見た遺跡は絶景 まず、この遺跡の発見の秘話である。この遺跡は、ペルー人の農園主リサラガが、1902年に発見してそれを遺跡の窓に書き付けた。その後、1911年にアメリカ人のイェール大学のハイラム・ビンガムが再発見した(一般にはビンガムが発見者とされているが、彼はリサラガの署名を消している。功名心が強かったのか、いささかずるい。)。元々ビンガムは、別の遺跡を探索する途中に、たまたま土地のインカ族に聞いて発見したという。その成果は、1913年にナショナル・ジオグラフィック誌に発表し、一般の知るところとなった。 この遺跡は、1440年に作り始め、80年ほど生活が営まれたが、完成する前に放り出されたようで、現に動かす途中の大きな石が広場に放置されている。それにしても気になるのは、この空中の楼閣のような都市は、何のために作られたのかということである。征服者スペイン人に抵抗する最後の砦だったという説もあるが、そうではなくて、どうやら王や貴族の別荘を兼ねて、太陽を崇める宗教目的で作られたという説が有力のようである。 居住地区には、600人から700人が住んでいたといわれる。今では屋根の木々やそれを葺いていた葉は失われて、単に壁だけが残っている。それでも、家の形はよくわかる。インカ式の強固な石積みだからこそ、これまで風雪に耐えてきたものと思われる。壁を見ると、外側に3個ほど石が突き出しており、ここに屋根材を固定していたようだ。壁の中には10センチほど引っ込んでいる空間があり、そこに蝋燭や土器などを置いたといわれている。 1−9 モルモットの丸焼きが名物料理 マチュピチュ遺跡を小型バスで出たのは午後2時頃で、帰り着いたのは2時半過ぎとなり、それからお土産物屋を冷やかしたり、家内へのお土産としてペルーならではのTシャツを買ったりした。ホテルの部屋からはWiFiが通じたので、日本へメールを送ったりし、のんびりと過ごした。こういう時間も大事である。その夜は、添乗員さんが案内してくれたレストランで夕食をとった。まあ、なんというか、店に入った瞬間、壁という壁に名刺が貼ってある。炭火焼きの鶏肉、レモンソースの鱒などが美味しかった。看板メニューは、モルモットの丸焼きだった。パリパリして美味しいよと言われたが、さすがにそれは断った。 ホテルに帰り、さあ寝付こうとしたら、まるで滝の中にいるのかと思うくらいの大雨が降った。なるほど、これは山の中ならではの天候である。急変すると、こんな風になるようだ。その中を、早朝に出発していくパーティがいた。大変だなぁと思う反面、昨日の我々は本当に天候に恵まれたと、感謝しなければならない。その幸運の続きかもしれないが、我々がホテルを出る時間になると、もう雨は上がっていた。ホテルの玄関を出てみれば、あれだけの大雨だったのに、朝鮮朝顔の花がしっかりと咲いていて、芳香まで漂わせているから、驚いた。でも、この花には毒があるそうだ。 さて、ホテルを早朝出た我々は、来た道を逆にたどり、マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻り、そこから小型バスでクスコへ、クスコから国内線の飛行機でリマに向かった。それから我々は、次の目的地、ナスカに、大型バスで向かった。このバスには、USBで充電できる端末があったので、助かった。 1−10 インカ道を歩く人々 マチュピチュ鉄道でオリャンタイタンボに戻る途中、列車は川の急流の傍を通っていく。とあるところで、紺色の同じ制服を着た大勢のポーターらしい人々が荷物を担いで、一列となって細い道を歩いていくのを見た。やがて列車は駅に停車した。ピスカクチョというところらしい。そこに、登山者らしい外国人が何人か集まっている。 1−11 リマのマヨール広場 その日は夕方にリマ(Lima)市内に入り、時間があったので、大統領と議会が対立して閉鎖中というマヨール広場に行ってみた。警官隊が規制して、広場の中には入ることはできなかったものの、周囲から大統領官邸、大聖堂などを眺めることができた。厳戒体制にあるといっても、緩い規制線である。大聖堂の中のキリストやマリア像は、非常に美しかった。また、周囲の商店街は、なかなか賑わっていた。 第2 ナスカの地上絵 2−1 早起きしてイカ飛行場へ向かう 前日、マチュピチュから夕刻にリマ市内に入り、シェラトン・ホテルに泊まった。翌朝、ナスカの地上絵を見るために飛行場に向けて出発するのだが、それが早朝4時半だという。これは早いなと思ったら、ナスカの地上絵を見るには、3つの飛行場のどれかに行かなければならないという。リマ飛行場、イカ飛行場、ピスコ飛行場である。 2−2 ナスカの地上絵とは ナスカは、亜熱帯の砂漠地帯にある。ナスカの地上絵の数は、確かなもので700を越え、おそらく800以上、いやいや最近でも新たに発見されているから1000ぐらいはあるのではないかと言われている。いずれも、一筆書きである。つい90年前ほどまでは、そんなものがあるとは誰も知らなかった。ところが、1930年代から商業航空便が飛ぶようになると、飛行機のパイロットの間で話題になり、そこで初めて知られるようになった。 地上では、30cmから80cmほどの幅を15cmほど掘って表面の黒くなった小石を取り除き、それで溝を作って絵が描かれる。1世紀から7世紀にかけて描かれたと推定されているが、日本だと弥生時代の晩期から邪馬台国時代を経て古墳時代に描かれたということになる。つまり、およそ2000年前から1300年前に描かれたものなのに、年間降水量が僅か1mmという土地なので、現代まで残った。 数年前に、NHKの番組で、地上絵を実物の半分の大きさで描く実験をした。それによると、道具として、木の棒に紐、小さな鋤を使う。表面の黒い土をどけると、下に風化していない白い土が現れる。これが、絵を描く作業となる。その前にまず、小さな下絵を描く。それを同じ倍率、例えば30倍で伸ばしていく。小さな紐でそれを何回か繰り返し、同じ点を横に結ぶ。その点同士を結ぶように鋤で地面を掘り返して線を引く。ナスカは気温40度にもなる極暑の地であるが、僅か4時間で本物の半分の地上絵を描くことが出来た。 実際に描かれた地上絵のうち、今回の飛行で見られる可能性のあるものは、クジラ、コンパス、宇宙飛行士、三角形、猿、犬、ハチドリ、コンドル、蜘蛛、トカゲ、フラミンゴ、鸚鵡、木、手、花、渦である。これらを描いたのは、古代ナスカ人で、砂漠にトウモロコシを栽培した農耕民族である。砂しかない全くの不毛の地のように見えるが、どうやら地下水を使っていたようだ。 次に、何のためにこの数多くの地上絵を描いたのかが、最大の謎となっている。気球をあげてその上から見るためだという気球説もあれば、この地に根を下ろして60年以上にもわたってこれを研究し、かつ保存運動を主導したドイツ人のマリア・ライヒェ(Maria Reiche)さんが唱える天文カレンダー説、山形大学が言うところの天の川説、つまり天の川の動物を地上に写し取り豊作を祈願する説など、様々な説がある。地元に言い伝えでもあれば別だが、現代の住民は古代ナスカ人とは全く関係がないので、当てにすることはできない。現に、火星人が描いたとか、宇宙と交信するためだとかいう人もいるくらいだ。 では、何が正解なのだろうか。一つは、農業用水の確保が関係しているのではないかと言われている。元々、「ナスカ」の語源である「ナナスカ」は、辛く過酷な土地という意味だ。2000年前に描かれた大三角形の地上絵は、先端が、白い火山 (セロブランコ)の方向を指している。反対方向の長辺には奇妙な穴ぼこがいくつもあるが、これらは一連の井戸である。しかもこれらは相互に結ぶ地下トンネルで横に繋がっている。ということは、水源と地下水脈がどう繋がっているのかを示しているのが、この大三角形地上絵の意味だと推定される。 この地方では、コンドルが水源の山から飛んできて、反対方向の海の方に行くと雨が降って井戸に水がたまるという言い伝えがある。同様に、ハチドリは、山に雨が降ると姿を現わす。普段は海にいるペリカンが出ると雨が降るなどと信じられている。だから、こうした水のないところでは、ともかく水を得ることが大事であるから、そのために天空にいる神々に捧げられたのが地上絵ではないかと考えられる。もっとも、渦巻き模様や人間の生首のように何のために描かれたか想像もつかないものもある。 2−3 小型機に乗り込んで飛び立つ さて、我々は予定通り、午前9時前にイカ飛行場に到着した。粗末な掘っ建て小屋を想像していたが、それどころか結構立派な建物である。メガネをかけた年配の知的な女性の肖像画が壁一面に描かれていると思ったら、それが、マリア・ライヒェさんである。地上絵を研究し、その保護活動をする傍ら、これを見るために30mの鉄製のタワーを建てたそうだ。 セスナ機のバランス調整のため、予め、手荷物を含めた搭乗者の体重測定があった。私は、80kgと出た。カメラなどの機材や衣服、靴や水も含むから、こんなものかと思ったが、他のツアーメンバーを見回すと、おそらく一番重かったのではあるまいか。だから、私の座席位置は前の方だと思われた。 いよいよ出発だ。その30分前に、酔い止めの薬を飲んだ。私は、予想通り最前列の左側の1番、つまり主パイロットの真後ろの席だ。飛んでいる途中のコックピットの画面がよく見える。地面との傾きなどが、ビジュアルで良くわかる。ナスカの地上絵は、上空250mで見るそうだ。 更に行くと、機体が左手にローリングする。困った。少し気持ち悪くなる。パイロットが突然、「ココ、ココー」と鶏のように叫ぶ。一体何のことだと思ったら、日本語の「ここ」だった。思わず笑えてくる。その地上絵を撮ろうとし、下を向いてカメラのファインダーを覗き込む。クジラの絵だ。おや、参った。気持ちが悪い。ミラーレスだからファインダーをのぞき込む必要はなくで、画面を見るだけでよい。しかし画面だけを見ることにしても、同じように気分が悪くてかなわない。飛行機酔いだ。仕方がない。カメラを覗き込むのはやめて、顔を上げて前を向き、レンズを地上に向けて盲滅法に連写する。静音モードにし忘れたので、ダダダッ、ダダダッ、ダダダダッと、まるでマシンガンの連射だ。撮れているかどうかも、確かめる余裕もない。私の真後ろの人も、同じような連写をしている。 おっとまたローリング、今度は右手だ。またパイロットの鶏の叫び声がする。それに応じてまたカメラを連写する。ああ、あちらの向こうに見えるのは、猿だ。おお、ハチドリだ。コンドルだ。目に見える限り、カメラをそちらの方向に向けてまた連写をする。一体全体、こんな調子で撮れているのかどうか、さっぱりわからない。これは、帰ってからのお楽しみだ。それより、飛行機に酔ってしまわないように、しなければならない。ひたすら前方の遠いところを見る。ああ、ローリングがやっと終わり、地上絵エリアを離脱するようだ。よかった。何とか耐えられた。やがて飛行機は、無事に着陸した。 第3 リマ市内を観光 3−1 リマ旧市街 ペルーの旧市街にあるシェラトン・ホテルに泊まった。大きな道を隔ててその向かいにある立派な建物は、ペルー最高裁判所である。ところが、治安が良くないので、写真を撮るのならホテル側からにして、絶対に道は渡るなとガイドさんに言われたので、ホテルからの遠景を撮るにとどまった。 3−2 マリア・ライヒェ公園 マリア・ライヒェとは、ナスカ空港待合室に描かれていたドイツ人の女性で、60年以上にもわたってナスカの地上絵を研究し、その保護に務めたた人物である。この公園は、その功績を称えて海岸沿いに作られたものである。もちろん、公園のあちらこちらには、ナスカの地上絵、猿、コンドル、ハチドリ、花などが大きく描かれている。これらを道路から見下ろすと、全体の形がよくわかる。ところが階段を下りていって、その地上絵近くに行くと、全体像があまりよくわからないというのも、本物によく似ていて、何だか可笑しい。 3−3 愛の公園 次いで、愛の公園なるものに行った。公園の一角に、男女が抱き合っている像があり、なるほど、こういう像の展示は、日本では難しいだろうなと思うのが率直な感想である。 3−4 旧日本大使公邸跡 さて、今日はオプショナル・ツアーの開始である。旧日本大使公邸跡に立ち寄った。1996年12月17日にMRTA(トゥパク・アマル革命運動)のテロリストによる人質事件の舞台である。高級住宅街の一角にある。事件解決に4ヶ月ほどかかったので連日報道され、この玄関や白い塀は私の記憶に鮮明に残っている。あの悲劇の舞台である。 3−5 ラルコ博物館 頭蓋骨の穿孔手術は、古代アンデスの様々な社会において行われていた。頭蓋骨穿孔は、儀礼の戦いや戦闘の際に起こった内出血、骨折した頭蓋骨の破損部分を取り除くための外科手術だったほか、頭痛を和らげるために行われることもあった。穿孔手術には、黒曜石のナイフや金属製(銅や銅合金)のナイフが使われた。このほかにも、頭蓋骨の変形が行われていた。独特の形に変形された頭蓋骨は、社会的身分を示していた。 この写真の左側は成人女性の頭蓋骨で、頭頂部の穿孔には再生形跡がない。すなわち、この手術によって死んでしまったことを示している。ところがこの写真の右側は成人男性の頭蓋骨で、顔面や頭部には骨折が治癒した跡が多数存在している。これらの骨折は鈍器による戦いで生じたものである。なかでも頭頂部右側の頭蓋穿孔は再生していることから、この男性は穿孔手術後も生き長らえたことを示している。 出口近くには、ミイラが身に付けていた黄金の飾りが展示されている。これは、世界的に人気があって、しばしば貸し出されているが、本日は戻ってきて、本物だそうだ。 古代アンデスの冶金技術はチムー文化において最盛期を迎えた。この装身具は泥の都市チャンチャンに埋葬された位の高い人物のもので、王冠と胸当ての縁には羽毛があり、これは鳥、つまり太陽に最も近づくことができる存在を意味する。耳飾りには、チムーの為政者の顔が正面向きで繰り返し表現されている。肩当てには、為政者が斬首した首を持ち、正面を向いて立ちあがった姿が表現される。王冠と胸当ての羽毛部分は、ネコ科動物の顔と半月状の額飾りを持つ人物の顔が側面を向いて行進する様子が表現されている。 3−6 遺跡内のレストラン その日の夕食は、リマ市内にある「ワカプクジャーナ」というプレ・インカ(1,500年前)の遺跡の中にあるレストランに行った。台形のピラミッドで、その周りに日干しレンガの壁のようなものが縦横に走っている。それを見ながら食事をするのである。まあ、何というか、大胆な発想である。ちなみに、この遺跡では、まだ発掘が続いているという。日本では、およそ考えられない。 第4 ペルーの一口知識 ガイドの皆さんから聞きかじった一口知識を記録しておきたい。 1.リマは雨が降らない。降っても夜中の霧雨。傘を持っていると奇異の目で見られる。傘は売っていない。 2.インティライムという太陽の祭りがあり、6月24日である。 3.アルパカには種類があり、お勧めはベイビーアルパカ、チクチクしない。 4.ペルーの国旗にある動物ビクーニャは、4000m以上の高地に住む。マフラーは10万円もする。凄く乱暴でツバを吐かれたり、蹴られたりする。 5.じゃがいもは、ペルーのアンデス山地が原産で、当地には3000種類以上ある 。日本では、最近は「インカの目覚め」という種類が売られている。 6.コカ茶は、高山病対策に効く。ただし、その名の通りコカインの元なので、国外に持ち出さないこと。アメリカでは麻薬として扱われる。 7.コーヒー は、トゥンキというブランドがお勧め。 8.ワインも有名で、中でもイカ県産が良い。 9.ピスコというのは、トウモロコシから作る蒸留酒で、アルコール度数は47%の地酒 である。これでは飲みにくいので、度数が14%に抑えたのが「ピスコサワー」である。 10.地元ビールには、ピスケーニャなどがあり、中でもクスケーニャはマチュピチュ産である。 11.アンデス山地の塩は、有名である。 12.「グイチャッカード」とは、モルモットが丸焼きで出てくる料理である。 13.フルーツの「チリモヤ」は、アンデス産である。白くて柔らかくて美味しい。ペルーでしか採れない。「ルクマ」も、ペルーでしか採れない。オレンジ色のアイスクリームなどとなって出てくることもある。「インカバナナ」もある。「カムカム」というのは、ピタミンC がオレンジの50倍もある。「マカ 」元気がでるので、「アンデスのパイアグラ」と言われる。「アスパラ」もペルー原産である。 14.「エケコ人形 」とは、願いを叶えてくれると信じられており、口が空いているのは、タバコが好きだから。色んなものをぶら下げている。 15.「トリトデブカラ 」とは、ブカラ村の子牛で、あたかも沖縄のシーサーのようなもので、家々の玄関口に置かれている。 16.「マチュピチュ」とは「古い山」を、「ワイナピチュ」は「若い山」を意味する。今では一日400人しか登れない。 17.「チチカカ湖 」は、クスコより標高が高くて4,000mもある。 18.アマゾン川の源流はペルーにあり、クルーズがある。 19.「ワカチナ湖 」は、オアシスの意味で、ボリビアとの国境にある。スポーツとして、サンドバギー、サンドボードができる。 20.インカ帝国時代に話されていた言葉は、「ケチャ語」で、地方によっては、今でも話している。 21.ペルーの国土は、60%がアマゾン、30%が山地、残る10%が砂漠である。 第5 その他ペルー補遺 ペルーの人口3,200万人のうち、日系人は10万人だという。その多くは沖縄の出身で、そのせいで沖縄の姓を名乗る人が多い。 マチュピチュを案内してくれたウィリアムズくんは、曽祖父が沖縄からの移民で、4世だという。小さい頃、両親が日本へ出稼ぎに行って働いたときに一緒に来日し、日本語を覚えた由。それからペルーに帰国して、高卒資格をとったと話していた。 ナスカを案内してくれた熱川さんは、やはり日系4世で、祖父母も父母も日系人同士で結婚したから、外見は日本人そのものである。 マチュピチュ村の初代村長は、野内与吉さん(福島県出身)という日系一世である。21歳でペルーへ移民し、マチュピチュ鉄道の敷設工事で働いたことを契機に村に定住した。水道を引き、水力発電所を作ったりして、村の発展に大いに貢献したそうだ。10人の子供をもうけたが、そのうちの孫世代の中には日本で働いている人もいる。 今回の旅で、マチュピチュ村を歩いていると、チロルハットを被った格好良いおじさんから、いきなり日本語で話しかけられた。やはり日系人で、日本語のガイドでお金を稼いだ後、今はマチュピチュでレストランを経営しているそうだ。フジモリ元大統領はよく知られているが、その他こうして名もない日系人が活躍している姿を見るのは、嬉しいものだ。 話は変わるが、クスコやマチュピチュ村の街中には、犬が多い。一見するとおとなしいが、万が一噛まれたりすると、大事になるかもしれない。だから、予め狂犬病の注射をしてくるべきだったと思った。 (令和元年10月8日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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