1.蔵王の御釜
山形県と宮城県にまたがる蔵王連峰は、冬は樹氷、夏は火口湖の御釜で有名なので、一度は行ってみたいと思っていた。5月になってたまたま山形県に行く用があったので、ではこの際だからと出掛けることにした。当初の予定では日曜日に行くつもりだった。ところが、その日は蔵王ロープウェイが設備点検で休止中、山交バスも蔵王トレイルランのイベントのために運休と聞いて、急遽前日の土曜日に変えた。
当日の天候は晴れで、絶好の登山日和だった。山形駅前を出発したバスは、雪がまだ残る山道を順調に登り、午前11時過ぎには山頂の県営レストハウスに到着した。バスの乗客の半数弱は中国人である。観光すべきところを実によく、知っているのには感心する。バスを降りてみると風が強い。しかもそれが冷たい風なので、かなり冷える。気温はおそらく10度くらいだろうが、この風のために体感温度は低くなり、特に頬と手先がかじかんできた。その中を数分歩くと、御釜を展望する場所に着く。本当に近くて呆気ないくらいだ。蔵王ロープウェイに乗ると40分歩かないといけないので、そのつもりでトレッキングシューズを履いてきたというのに、これでは運動にならない。
眼前に広がる御釜の色は、まさにエメラルドグリーンそのもの。思わず「これは綺麗だ!」と口にしたくなる。周囲の火口壁が赤茶けたり黄色っぽかったりする土色なので、御釜のグリーン色がますます引き立つ。それにしても、「御釜」などという即物的な名前を付けるのではなくて、もっ詩情あふれる名称にすれば良かったのにと残念至極に思う。別名は「五色沼」だそうだが、まだそちらの方が詩や歌の題材になるかもしれない。
さて、同じところから写真を撮るのも芸がないので、御釜の周りを巡ることにした。柵があるので、それより出ないようにした。最初は向かって左回りにガレ場を歩いていった。遠くに見える高山特有の荒々しい風景に息をのむ思いだ。その中で、自家用車で上がってきたのか、家族連れが一列に並んで雪が積もる遠くの山を仲良く眺めている。その情景が、何かミスマッチのような気がして、可笑しかった。ところで、至る所に雪解け水が流れているし、足元は泥だらけになってくるしで、歩くのもなかなか大変だ。それでも数百メートルほど行ってみて、御釜を真下に見下ろす写真を撮ってきた。帰ろうとしたが、あまりにも足場が悪いものだから、途中で元きた道を引き返すのは止めて、垂直に階段を登っていって、レストハウスに戻った。
こんな山頂なのに、2階建ての建物の中にちゃんとしたレストランがある。そこに立ち寄ってメニューを見ると「蔵王御膳」なるものは、まるで旅館で出る食事のように豪華だ。こんなものを食べてしまうと、今晩の旅館の夕食が美味しくいただけない。ということで、シンプルなビーフカレーにした。外の山々が連なる景色を見ながら黙々と食べて、食堂の配膳のおじさんに「ご馳走さま」と声をかけて出てきたのが30分後である。
再び御釜が見えるところに行き、右手に向かい、午前中には行かなかった神社の建物を目指して上がっていった。そこを登り切ったところが刈田岳山頂で、刈田嶺神社がある。 刈田岳(かつただけ)は、1,758メートルの山だ。何だ、大したことのない山だと思われるかもしれないが、関東や中部地方に比べれば高緯度にあるので、実感としては、中部地方だったら、2,300メートル程度の山に相当するのではないかと思っている。山形は、桜やツツジが咲くのは東京より1ヶ月弱ほど遅いので、そんなところではないだろうか。
刈田岳山頂から見下ろす御釜は、よく観光絵葉書に出てくるあの構図である。ここからなら、確かに御釜の美しさを余すところなく撮ることができる。そこでしばらく写真を撮り、背後にある刈田嶺神社にお参りし、また振り返ると、白い霧が御釜を覆いつつある。そして、あれよあれよという間に、辺りを真っ白なミルク色にしてしまった。もう御釜は見えない。山の天気は変わりやすいとはいえ、これは極端だ。このままでは、山全体が霧に包まれてしまったりすると大事だ。ちょうどその頃に下山するバスに乗り込むことができた。
ところでレストランにあった説明では、蔵王の由来について「修験の開祖である役行者の叔父・願行は、自身も徳の高い修験者であり、道場にふさわしい山を求めて旅していたが、この地にそびえる雄大な山々を目の当たりにするに及び、ついにこの地を道場とすることを決意さ、山頂に吉野金峯山蔵王堂の祭神である蔵王大権現を分祀した。そして、この山の麓に僧坊を構えて、修行三昧の日々を過した、やがて、多くの修験者が集う一大道場へと発展し、願行の死後、その僧坊の跡地に願行寺と号する大寺院が建立された。願行寺を中心に多くの寺院・僧坊が築かれ、『願行寺四十八坊』と称されるまでになった。願行寺の修験者たちが道場とした山は、願行が蔵王大権現を祀ったことから『蔵王山』と呼ばれるようになったと言われています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とあり、
御釜については、「蔵王刈田岳・熊野岳・五色岳の3峰に抱かれた円形の火口湖で、釜状なので『御釜』という名前がついています。湖面はエメラルドグリーンの水をたたえ、荒々しい火口壁と対比して神秘的な雰囲気をもち、冬の樹氷とともに蔵王の象徴となっています。今までに26回の噴火を繰り返し、最近では明治28年2月15日に噴火しました。昭和14年測深した当時は、深さが63メートルありましたが、 五色岳断崖の崩落により年々埋まり、昭和43年測深時では、最大深度27.6メートル、平均深度17.8メートル、周囲1,080メートル、東西径325メートル、南北径335メートルでした。湖水は強酸性のため生物は生息できません。水温は表面から10数メートルの深度で摂氏2度まで下がり、それより深度を増すと温度が高くなる特殊双温層で、世界でも例がない湖です。太陽光線の当たり方でさまざまに色を変えるため『五色沼』とも呼ばれています。南西から流れ出て濁り川となり、賽の磧の北側を迂回して太平洋へ流れ出ています。」(蔵王町歴史と文化財公式HPより)とある。
2.山寺(立石寺)
山形県に行ったついでに、宝珠山立石寺、通称、「山寺」に行けるかどうか調べたところ、山形駅から仙山線で3つ目の山寺駅に行けばよいことがわかった。20分もかからないので、行ってみることにした。午前10時過ぎに山寺駅に着いた。赤い欄干に金色擬宝珠のある橋を渡った正面には、唐破風屋根を備えた古い建物がある。旅館だそうだ。そこを右手に曲がってすぐに、「登山道」とある。ああ、これだ。これから千段もの階段を登らなければならない。
立石寺(りっしゃくじ)のHPによると、「当山は宝珠山立石寺といい通称『山寺』と呼ばれています。天台宗に属し、創建は貞観二年(860年)。天台座主第3世慈覚大師円仁によって建立されました。当時、この地を訪れた慈覚大師は土地の主より砂金千両・麻布三千反をもって周囲十里四方を買い上げ寺領とし、堂塔三百余をもってこの地の布教に勤められました。開山の際には本山延暦寺より伝教大師が灯された不滅の法灯を分けられ、また開祖慈覚大師の霊位に捧げるために香を絶やさず、大師が当山に伝えた四年を一区切りとした不断の写経行を護る寺院となりました。」とある。「砂金千両・麻布三千反」という表現が、なんとも生々しいが、よくそれほどの資金があったものだ。それだけ寄進してくれる人々がいたのだろう。
立石寺は、言うまでもなく松尾芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という有名な句を詠んだ舞台である。麓の根本中堂の脇に芭蕉の句碑がある。そこから日枝神社の脇を通って山門(鎌倉時代作)からいよいよ階段が続く。登山開始だ。両脇には、日光のような大きな杉の木々が並び、暑い日光が遮られてなかなか涼しい。森林浴のような気分で快調に登っていく。立石寺のHPにあった模式図の通り、笠岩、姥堂、慈覚大師お手掛け岩と登っていくうち、いささか疲れてきた。すると、せみ塚というものがあって、うまいことに休める台がある。ここは、芭蕉の句をしたためた短冊が納めてあるという。リュックの中の水を飲む。周りには、白人や中国人などが日本人よりも多く、各国語が飛び交う。開祖の慈覚大師が1100年後にはこうなっていると知ったら、驚くだろう。
さて、登山を再開だ。しばらく登ると、右手に弥陀洞がある。かつては、ここでかなりの宗教行事が行われたようだ。更に進むと、大きな建物が見えてきた。これが仁王門だ。嘉永元年(1848年)に再建された美しい門で、左右の仁王尊像は運慶の弟子達の作らしい。その辺りから登るにつれて建物があり、性相院、金乗院の次に最上義光御霊屋というものまであった。義光は、山形地方の人々に今なお尊敬されている英雄だ。中性院、納骨堂、三重塔とあって、ようやく奥の院までたどり着いた。
開山堂・納経堂まではすぐで、これらは「立石寺を開いた慈覚大師円仁を祀るお堂で、大師の木造の尊像が安置されて居り朝夕食飯と香を供えている。 向かって左の岩の上の赤い小さな堂は写経を納める納経堂で山内一古い建物である。」とのこと。その脇に小道があり、五大堂につながる。これは「開山30年後に建立された五大明王を祀る道場。断崖に突き出すようお堂が立ち山寺を一望。山中随一の絶景。」とされる。まさに絶景で、いま登ってきた疲れが一気に吹き飛ぶほどの爽快感が味わえる。今は新緑の季節なので、青葉がしたたるほどの美しさだが、秋の紅葉の時季も、さぞかし綺麗だろう。
その絶景を眺めることができたので、さっさと降ることにした。登りには1時間ほどかかったが、降りは写真を撮ることもなかったので30分ほどで出発地点の山寺駅まで帰り着いた。お昼前だったが、蕎麦屋に入り、山形名物の板そばと芋煮を注文した。そばはいま一つだったが、当地の名物の芋煮が美味しかった。
3.文翔館
山形市内に戻ってきて、帰りの新幹線まで時間があったので、文翔館に行った。県のHPによると、「『文翔館』(旧県庁舎及び県会議事堂)は、大正5年に建てられた英国近世復興様式のレンガ造りの建物です。大正初期の洋風建築を代表する貴重な遺構として、昭和59年、国の重要文化財に指定されました。昭和61年から10年の歳月をかけて保存修復工事が行われ、現在は、山形県郷土館『文翔館』として一般に無料公開されています。創建当時の工法をもとに忠実に復原された建物や豪華な内装は、大正の古き良き時代の薫りを今に伝え、館内には、復原の記録とともに山形の歴史・文化を紹介する展示室も設けられています。」とのこと。
私は家内と平成20年にここ文翔館へ来たことがある。その時、外観はイギリス・ルネサンス様式のモダンな形だし、知事室や客間はロココ風でものすごく豪華なのにびっくりしたものだが、なるほど、当時の明治政府の為政者はこういう新たな舞台装置で時代が変わったと県民を納得させて行政を進めていったのかと思ったものである。
ところが、前回と比べて、山形の歴史・文化を紹介する展示室が一新されたようで、非常に見やすくなっていた。明治政府の政策、大正時代の繁栄、昭和初期の贅沢禁止、戦争中の赤紙や慰問袋の現物、終戦後の復興などの様子がよくわかる。東京などは戦争末期に一面の焼け野原になってしまって何も残っていないが、戦争による物的被害が最小限に抑えられた山形だから、残っているのだろう。
4.酒 田
(1)酒田とは
あまり時間がなかったが、酒田にも少し立ち寄ったので、その印象を記しておきたい。まず、酒田の位置を語る前に、山形県の地理を見てみよう。山形県が長四角だとすると、縦に二分し、右側がその北から南へと最上地方(新庄市、最上郡)、村山地方(山形市、村山市、天童市、寒河江市等)、置賜(おきたま)地方(米沢市、南陽市等)である。これに対し、左側は少し小さくて北に偏っているが、全体が庄内地方で、日本海に面している。その南の中心が鶴岡藩の根拠地だった鶴岡市で、北にある港町がかつての豪商の町酒田である
酒田は最上川の河口に位置し、16世紀に源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏の家臣36人が藤原氏の姫君を奉じてこの地に移り住んだのが始まりとされる。中世から貿易の中継地だったが、江戸時代には北前船で栄え、西の堺に対して東は酒田と称されるほどだったといわれる。廻船問屋の鐙屋(あぶみや)をはじめ、貿易で稼いだ資金で土地を買い集めて日本一の地主となった本間家など、数々の豪商をうみ、堺のように町は三十六人衆という自治組織によって運営されていた。ちなみに、鐙屋と本間家は、現存している。「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と言われたそうだから、お殿様よりも上とは、もう笑うほかない。
(2)相馬樓
相馬樓は、そのHPによると、「江戸時代より料亭『相馬屋』として賑わっていました。現在残る木造の主屋は、明治27年の庄内大震災の大火で焼失した直後、残った土蔵を取り囲んで建てられたもので、平成8年11月、国の登録文化財建造物に指定されました。伝統に新しい息吹を加えて修復した相馬樓は、1階の20畳部屋を『茶房くつろぎ処』とし、2階の大広間は舞娘さんの踊りとお食事を楽しむ演舞場に、かつての厨房は相馬樓酒田舞娘のけいこ場となっています。2008年には館内に『竹久夢二美術館』を設置しました。酒田にゆかりのある夢二が相馬屋を訪れた際に贈ったという『からふねや』をはじめ肉筆画10点を中心に版画や写真、カメラや年譜など夢二の品を展示しています。また樓内の土蔵には雛人形や樓主・新田嘉一所有の書画や古美術等を展示しています。」という。
確かに、これは豪華な料亭である。玄関に入ると、金箔の松竹梅と扇が迎えてくれる。くつろぎ処という部屋では、中庭を眺められるようになっている。そこに大きな一木のテーブルがあり、座布団が扇形をしているから可愛い。壁は緋色だ。この壁の風景、とこかで見たことがあると思ったら、金沢のひがし茶屋街だ。すると、この改装を手掛けたのが泉椿魚氏で、金沢の懐華樓も手掛けたことがあるというので、納得した。その前は、普通の色の壁だったらしい。
2階に上がっていくと、商人どうしの密談にも使われたのではないかと思える小部屋もあったりして、ますます面白い。また、泉椿魚さんの詩が描かれている襖があって、それが誠に魅力的なのである。曰く、
あなたは雨ですか 風ですか それとも雪ですか
雨ならば雨の如く 風ならば風の如く 雪ならば雪の如く
人生 素直に 朗らかに 自然のままに 生きられれば
それが一番 倖せなのかも しれませんね
戯遊詩画人 椿魚
2階の大広間は、敷いてある畳が赤っぽいと思ったら、最上地方の特産の紅花で染め上げているという。そこで、5人いる酒田舞妓さんが地元の踊りを踊ってくれるそうだ。その他、蔵座敷、竹久夢二美術館があった。なお、NHKの大河ドラマ「おしん」の舞台として、鐙屋、山居倉庫とともに、この相馬樓もロケに使われたとのこと。
私は法律を専門としているので、昔、酒田で相馬屋事件という椿事があったと聞いたことがある。その舞台が、まさにこの相馬樓2階の大広間だったので、思い出しておかしかった。ちなみにこの事件は、県会議員大泉長治郎と骨董屋丸山卯吉が幹事となり、酒田の豪商10数名が新年会を宮廷風にやろうとして、京都から衣装や小物を取り寄せ、明治26年1月28日に秘密裏に開いたことがきっかけだった。天皇役には大泉長治郎、皇后役には相馬樓の娘という役どころだったのだが、どこから漏れたのか新聞にすっば抜かれた。すると、不敬罪で全員が警察に逮捕拘留されてしまった。酒田の名士が全て捕まったために町をあげての大騒ぎとなった。そこで、東京から凄腕の弁護士を招き、「あれはひな祭りの余興だった」ということにして、無事に釈放にこぎ着けたというものである。
かくして、それほど有名な相馬屋ではあったが、時代の流れもあって、平成7年に廃業してしまった。そこに救いの手を差し伸べたのが地元の有力企業である平田牧場の新田社長で、平成12年3月に現在の形で再開したという。おかげで、我々も重要文化財を拝見できるというわけだ。ちなみに、お昼頃に来ると、仕出しのお弁当をいただきながら酒田舞妓さんの踊りが観られるそうだ。
(3)日和山公園と鳥海山
酒田在住の友人に酒田市内を車で案内してもらった。まず、高台の日和山公園から、六角灯台越しには酒田港や最上川河口を一望できた。奥の細道をたどる松尾芭蕉が元禄2年にこの地を訪れたそうで、その銅像が建てられている。「五月雨を集めて早し最上川」と詠んだ最上川はこれかと納得した。なるほど、川幅が実に広い。これならば、梅雨時には濁流が勢いよく流れるに違いない。
ちなみに、山形県の中央にあって出羽山脈の南部に位置する月山(がっさん)は、標高1,974メートルの山である。飛行機の上から見たら、もう5月中旬だというのにたくさんの積雪があり、まだスキーを楽しめるそうだ。庄内平野の南部では、この山がいわばシンボルだと聞いている。それに対して、庄内平野の北に位置する酒田では、むしろ秋田との県境にある鳥海山(ちょうかいさん)の方に、親しみを感じている人が多いという。こちらは、標高2,236メートルである。酒田市内を走っていると、確かに、町の至るところから鳥海山を眺めることができる。
(4)山居倉庫
川岸の山居(さんきょ)倉庫に行った。いただいたパンフレットによると、「明治26年(1893年)に建造された米の保管倉庫で、現在も農業倉庫として活躍しています。土蔵作りの12棟からなる倉庫の屋根は断熱を考慮した二重構造で内部の土間にはにがりを練り固めるなどした湿気防止構造になっています。背後を囲むケヤキ並木は日よけ・風よけの役目を果たし、自然を利用した低温管理が行われているなどの工夫を随所に見ることができます。」となっていて、現存する12の棟のうち、1号棟は庄内米歴史資料館、12・13号棟は観光物産館になっているほかは、現役の倉庫として活用されているそうだ。周りを歩いたが、もう150歳を超えるケヤキ並木が、十分に歴史を感じさせる。
(5)南州神社
友人が南州神社というところに連れて行ってくれた。南州といえば鹿児島の西郷隆盛なのに、なぜ酒田にあるのだろうという疑問が当然浮かぶ。これについては、酒田市のHPによると「南洲神社は、南洲翁(西郷隆盛)を祀る神社です。鹿児島市、沖永良部島和泊町、宮崎県都城市、そして山形県酒田市です。九州以外では、酒田市にしかありません。なぜ遠く離れた酒田市へ南洲神社があるのか・・・。そこには、南洲翁と庄内藩の交わり、そして先達たちの『後世に南洲翁の遺徳を伝えよう』という思いがありました。」・・・いや、まださっぱりわからない。続いて書いてあるのが
「明治元年の戊辰戦争で、庄内藩は幕府側として官軍に激しく抵抗した末、帰順降伏しました。厳しい処分を覚悟してた庄内藩でしたが、南洲翁の指示により、公明正大で極めて寛大な降伏条件の言い渡しを受けたのでした。この公明正大な処分に感銘を受けたことから、明治3年から8年にかけ、庄内藩は藩主酒井忠篤公を先頭に鹿児島を訪れ、南洲翁の学びを得ました。また、明治8年には旧庄内藩の中老、臥牛翁(菅実秀)が、鹿児島の武屋敷を訪れ、南洲翁とお互いに親睦を深め、『徳の交わり』を誓い合っています。」ということだが、要は、庄内の人々は、極めて義理に篤いということなのだろう。
(6)土門拳記念館
また、写真家の土門拳もこの酒田の出身らしくて、土門拳記念館というものがあった。酒田市名誉市民の第1号で、その全作品7万点を寄贈したそうだ。池のほとりにその記念館が建っている。なかなかの良い佇まいの建物であるが、残念ながら閉館が早くて、見学はできなかった。
(令和元年5月19日著)
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