悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



風流太閤記




 日立風流物と桜( 写 真 )は、こちらから。


 私は、2年前の桜の季節に初めて「日立風流物」を見に行った。その様子は後述するが、その時、「江戸や京都ではなく、関東の奥座敷とも言えるこの地方に、こういう素晴らしい文化があって、もう300年以上も続いているのか。日本の文化にも、なかなか厚みがあるではないか。」などと思ったものである。

 「日本三大曳山祭り」と言えば、京都の祇園祭り飛騨の高山祭り秩父の夜祭りであるが、これを「日本五大曳山祭り」に広げてみると、高岡の御車山祭りと、この日立風流物が加わる。このうち京都は別格としても、飛騨は木材、秩父は絹織物、高岡は商業と伝統産業で栄えた地で、それぞれかつての豪商たちによってお祭りの基礎ができて、それが数百年に渡り今日まで連綿と続けれてきたのはよく知られている。ところが、この日立風流物に限っては、農民などの地元の氏子たちが、それこそ手作りで知恵を絞って生み出してきた工夫が今につながっている。


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 それがまた、なかなかの工夫なのである。昔は道路が狭かったので人形劇の舞台をより広いものにするため、
 (1) 普段は折りたたみの舞台で動かすが、本番の公演の時には両脇へと舞台を拡張したり
 (2) それでは足らずに立体化して五層建にしたり、あるいは
 (3) 早返り(例えば、武士が一瞬にして腰元になる「どんでん返し」)をして観る人を驚かせたり、更には
 (4) 表舞台「表山」の高層化のために余裕ができた山車の裏側を第二の舞台である「裏山」として用意し、なおかつ
 (5) 山車を上下分離してそれを回転させた上で観客に見せる
などの諸々の工夫には感心する。現代日本人の物作りにも相通じる知恵と工夫である。


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 日立風流物は、神峰神社の氏子である4つの町内がそれぞれ一基の山車を持っていて、毎年一つずつ奉納するが、7年に一度の大祭禮の折には4基が勢ぞろいする。実は今年がその年で、5月の連休の間に行われるそうだ。それとは別に、今回、私が訪れた日立さくら祭りでは、例年通り一基の山車が出て、今年は本北町だという。演目は、表山が「風流太閤記」裏山が「風流花咲爺」である。

 日立風流物に先立って、山車の前で「佐々羅(ささら)」が演じられる。これは、茨城県指定無形民俗文化財となっていて、市内各地の神社の出社祭禮の際に露払いの役目をする3匹から成る獅子舞だという。なかなか、おどろおどろしい格好をしている。


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 本日は日曜日のため、午後1時からと3時からの二度の公演である。午後1時からの公演は、出来るだけ山車の真正面にいることにした。12時半頃に行くと、正面には既に人だかりがあって、山車の前では、もう佐々羅が演じられている。私は山車の真正面の3列目くらいにいることになった。佐々羅が終わったら、「北町子ども鳴物」という横断幕が掛かり、今度は山車を出している本北町の子供たちが笛と太鼓で祭り囃子を演奏する。大きな子から小さな子まで、なかなかの熱演である。

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 いよいよ、日立風流物の始まりである。拍子木が鳴らされる。先ずは、表山だ。15mの高さの真ん中ほどにある緑色の窓の下半分がちょうどライティングデスクの蓋のように前に降りてきて、水平になって止まる。次に、5層建の各層が順にせり上がってくる。各層には数人の人形を操る人が乗っているから、それを持ち上げなければならない。「カグラサン」という梃子の原理を利用した装置で行うそうだ。各層が全てせり上がると、屋根が左右に分かれて舞台が広がり、グーンと華やかになる。

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 各層に3体ほどの人形が出てきて、それぞれに動きがある。山車の最上層の5層目から見ていくと、真ん中にいるのは白い寝衣姿だから本能寺の変のときの織田信長だ。「二」の字のような二つ引両の旗があるから間違いない。槍を振り回している。その両脇に両刀を抜いた武者姿が二人いて、信長を襲っているのだろう。このうちのどちらかが、明智光秀か。それにしては、水色桔梗紋がないなぁと思うが、よくわからない。背景の安土城らしき天守閣がスルスルと伸びてきて、右が五階建て、左が三階建てになった。これは、面白い。

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 その下の4層目にも三人いて、そのうち真ん中と左手は兜を被った武者で、右は槍を持った足軽のようだ。これも、本能寺の変らしい。次に更に下の3層目と2層目は、山崎の合戦とある。やや、3層目には豊田秀吉の印である千成り瓢箪があるし、真ん中の馬に乗って弓矢を持った武者がなかなか偉そうな雰囲気を醸し出している。すると、これが秀吉か。太閤記と書かれている幟があるから、間違いないだろう。2層目は、左から槍を振り回す雑兵、兜の武者、鉄砲を持った雑兵である。最下層は、決戦桶狭間とあり、二人の武士が戦っているかのようだ。見物人が「ああっ、おおうっ」とどよめく。3段層の馬に乗った武者から矢が放たれて、見物人の中に着地したのである。なるほど、これは見せ場である。その後、何本か放たれ、見物人が競って採ろうとする。家に持ち帰って、縁起物にするそうだ。

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 さて、拍子木が鳴らされる。何が起こるのかと思って一人の武士を観察していると、あれれ・・・その武士の首が後ろに消えた・・・まさか討ち取られたのではあるまいかという考えも一瞬浮かんだ。ところが他の武士に目をやると、さすがに馬上の武者だけは早返りは無理だったようだが、それ以外の全員が美人の腰元に変身しているではないか。1秒もかからない早技である。しかもそれまで振っていた刀が、和傘やお花に代わっている・・・これは実に見事なものだ。

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 ちなみに、午後1時からの公演ではカメラとスマホをいじくっていて、残念ながら早返りの瞬間を撮ることができなかった。そこで3時からの二度目の公演でようやくスマホのビデオに撮ることができた。以下はそのビデオから取った5枚の画像だが、特に左上の人形に注目されたい。(1) 武士の姿から、(2) 身体が仰向くようになり、(3) 一瞬にしてひっくり返って、(4) 腰元の衣装に早変わりし、(5) 刀に替えて赤い和傘を振っている。その他の人形も同様だが、その変化はまさに一瞬のことで、ビデオでもなかなか上手くとらえきれなかったほどである。

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 さて表山が終わり、今度は全員が総出で山車を回転させ、裏山が表に出てきた。題目は花咲爺だから、わかりやすい。見物人がどよめく。カメラのファインダーから目を離して山車を見ると、てっぺん近くに一匹の猿が出てきたと思ったら、その両脇下にも、それぞれ猿が出現した。

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 続いて舞台には、犬のポチが現れて左右に軽やかに走り回る。真ん中から花咲爺さんが登場し、犬が「ここを掘れ」とばかりに指したところを鍬で掘り出した。お爺さんの右手にはお婆さん、若い女と馬に乗った人物、左手にはお隣の強欲爺さんらしき男がやはり鍬を振るう。花咲爺さんが小判を掘り出したようで、金色に光る杵で臼をつきだした。そのうち、花咲爺さんの分身が現れて桜の木の枝の上に立ち、灰を撒き出した。そうすると、枯れ木に次々と桜の花が咲いていく。次の瞬間、今度は小判が観客席に向けて撒き散らされた。山車の下で待っていた子供達が喜んで拾う・・・というところで、芝居は最高潮に達するという次第である。

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風流花咲爺

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 そういう具合で、日立風流物の山車を舞台にした熱演が終わった。この公演が行われた平和通りは、日立駅につながる広い大通りで1kmの長さがあり、両脇の染井吉野の桜の木が大きく育って、桜のトンネルを作っている。これは、素晴らしい。たくさんの屋台も出て、とても賑やかな日立市「さくらまつり」だった。

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 このお祭りは、日立製作所グループが支援している。それ自体は企業城下町によくあるパターンなのだけれども、それがいかにも日立らしいのである。例えば、平和通りの中ほどで、道端に卓球台が置かれて、見物人と若い選手が卓球をしている。何かと思ったら、「日立化成卓球部」とある。お金を使わないし、お祭りのアトラクションとしては、確かに面白いが、もうまるで大学の体育祭のノリだ。質実な日立らしい。

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 そうかと思うと、トラック・ステージなるものがあった。公園に日立物流のトラックを横付けしてトラックの横の壁面を全開し、荷物室を即席の舞台にして、そこで楽器を演奏したり、和服姿の女性歌手に演歌を歌わせたりしているのである。なるほど、これは考えたものだ。お祭りが終われば、トラックを動かすだけで直ぐに撤収できる。合理的と言えばその通りなのだが、ただ舞台に当たるトラックの荷物室の内側の壁面はそのままで何の手も加えていないから、灰色のモノトーンが剥き出しで殺風景なものである。そこでよさこいを踊ったり、女性演歌歌手が歌ったりするものだから、ますます「すさまじきこと」になる。せめて、色が付いた「さくらまつり」のポスターでも背景に貼ってあげればと思ったりした。まあ、これも剛健な日立らしさとでも言おうか。



 日立風流物と桜(写 真)







 なお、私が2年前に初めて日立風流物の見物に行ったときのエッセイを、その説明を兼ねて、以下に掲げておきたい。

 日立市に、国指定重要有形・無形文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録されている「日立風流物」という山車があり、それが桜の季節に演じられるということを聞いた。そこで、4月8日、東京駅からスーパーひたちに乗って、日立市に行ってみた。上野東京ラインが2年前の3月に出来てから、私は今日初めて、東京駅より常磐方面に乗る。行ってみると、同じ8番線から東海道方面の列車が出ていたりして、少し戸惑った。これがもう少し歳をとったりしたら、うっかりすると、逆方向へ乗るかもしれないので、気を付けよう。

 さて、約1時間半の電車による快適な旅が終わり、日立駅に到着した。ここも、最近の地方都市のご多聞にもれず、駅前はすっきりと整備されているが、建物は鉄パイプとガラスでできているから、地方の駅の個性がなくなってしまっているのは残念だ。ただ唯一、駅前ロータリーに大きな歯車のモニュメントがあったのが特徴といえば特徴で、これは、日立製作所の企業城下町らしくて、とても良い。駅の出口で、さくら祭りや、日立市の由来に関するパンフレットを配布中だ。「日立風流物の仕組みがわかるものは、ありませんか。」と聞くと、わざわざ探してくれて、それをいただいた。よしよしと、これで少しは足しになると思ったら、それどころか、後述するように、とても参考になった。

 それによると「日本各地に残る山車カラクリの系統は、大きく2つの方向に発展してきました。1つは飛騨高山の高山祭に象徴される方向です。専門の人形師の手による人形カラクリを配し、山車の装飾に贅を尽くして山車を豪華絢爛な美術品まで昇華させました。一方で氏子たち自らが道具を握り仕掛けの技を工夫してカラクリを操る楽しさを見出した日立の風流物があります。優れた匠や豪商がいなくても、観てくれる人たちの喜びを糧として素人技ながら創意工夫をしてきたのです。その意気込みが人形カラクリの技を磨かせるとともに山車を大型化させる原動力となったのです。」ということだそうだ。それにしても、この説明は、簡にして要を得ている名文である。感心した。

 駅前ロータリーからクランク状に折れて進むと、そこが平和通りで、広い道の両側に樹齢30年から60年の染井吉野の並木があり、空も覆うほどの桜のトンネルになっている。数百メートルを進むと、大きな交差点に、山車が見えてきた。家のような形が五層にもなっている。非常に高くて、驚くほどだ。15メートル、重さ5トンだという。それにしても、幅が狭くて細長い。写真で見たのとは、かなり違う。この疑問は、演技が始まって、やっと分かった。それは後で説明することにして、どこで写真を撮ろうか、真正面だと道の真ん中に山車があり、両脇に桜の木が配置されるから、構図としては理想的だ。しかし、真正面にはもう多くのカメラマンがいて、立錐の余地もない。仕方がないので、脇に回ろうと思って適当な場所を探し、斜め横から撮ることにした。この方が近いし、細長い山車を撮るには良い。気が付いてみると、三脚を担いだビデオカメラマンが隣にいた。なぜこの位置を選んだのかと聞いたら、「人形の表情が良く撮れるから」という答えだった。

 さて、山車の前でお囃子が演奏され、それが終わると、山車の中から聞こえてくる。それが最高潮に達した頃、いよいよ山車の舞台が始まった。まず、山車の前の部分が前方へ倒れ、棚のようになる。人形の顔が見える。すると、家のような形が左右に割れて、それが舞台になる。つまり、元の舞台の幅が3倍になる。それが、一番下の層から始まって順次上の層に伝わり、最後の5層目が開き終わると、鳥が羽を広げたようになる。なるほど、この写真は、見たことがある。その舞台は、忠臣蔵を演じていて、下の層には大石内蔵助が討ち入りの太鼓を叩いている。あちこちで赤穂浪士と吉良邸の武士たちの死闘が繰り広げられている。層の最上部では、吉良上野介らしき寝間着姿のお殿様が、自ら刃を振るって赤穂浪士と渡り合っている。

 なぜ、こんな5層もの「開き」ができたかというと、こういうことらしい。複数の人形を使った物語性のある演目をするには、ある程度の舞台の幅が必要なのだが、当時の狭い道路では、山車としてはこの幅が限界だった。そこで舞台で演ずるときには、開いて大きな舞台にしようとした。それと同時に、もっと大きな舞台がほしいということになり、高層化に進み、ついに大正時代になって今の5層の「開き」のスタイルになった。それと同時に、山車の内部では人形の操作者もエレベーターのように上部にせり上がるようになっていて、その機構を「カグラサン」という。もちろんこれは人力である。

 さて、人形の舞台を見ていたところ、吉良上野介の人形がひっくり返ったと思ったら、あっという間に御殿女中になってしまった。顔まで若い女性になったのには、驚いた。これは「早変わり」というもので、先に演じている役のところにあるフックを引っ張ると、くるりを別の顔と衣装になる。見ると、15体の人形が一斉にひっくり返って、数分で全員が女性になってしまった。しかも、それまで持っていた刀が、いつの間にか蛇の目傘になっていて、それがぐるぐると回されている。どうなっているのだろう。

 それを眺めていると、舞台はどうやら終わったみたいで、皆さんが一息ついている。そこで、20人ほどが、山車の土台を動かそうとし始めた。でも、なかなか動かない。何回かやって、ようやく動き、山車の前後が逆になった。すると、正面の観客に向けられた崖のようになっている部分の真ん中が前方へ倒れ、また棚のようになった。崖の中から2人の武士たちが現れ、矢をつがえて空に撃ち始めた。棚の上には、農民夫婦が出てきて鍬を振るったり、仙人のような老人が出てくる。大蛇まで出てきて、棚の上に移動した。そこに大きなガマガエルが出現して、争っている。どうも、筋が分からないので隔靴掻痒の感があるが、表の舞台がいわばお能のようなものだとすると、こちらは狂言のようなものらしい。

 パンフレットによれば「山車の大型化に伴い、山車の裏側の利用価値が高まる。『まだ人形を載せる余地がある。しかし、大観客を裏側に移動させるわけにはいかない。』この矛盾は、土台を上下2層化し、上部のみを観客に向けて回転させることで解決した。」という。それまで演じていたのが表山(おもてやま)で、「物語は忠臣蔵や源平争乱など歴史物、武者物が多い。」。これに対してひっくり返った裏山(うしろやま)は、「八岐の大蛇や加藤清正虎退治など、動物版勧善懲悪ものが多い」という。

 この日立風流物の沿革は、パンフレットでは「昔は宮田風流物といわれ、その起源は定かではありませんが、元禄8年(1695年)徳川光圀公の命により、神峰神社が宮田、助川、会瀬3村の鎮守になったときに、氏子たちが作った山車を祭礼に繰り出したのがはじまりだといわれています。この山車に人形芝居を組み合わせるようになったのは、享保年間(1716ー1735)からと伝えられています。壮大な山車とともに日立風流物の特徴を成すからくり人形の由来も確かな記録は残っていませんが、風流物が起こった江戸中期は人形浄瑠璃が一世を風靡した時代であり、その影響を受けた村人達が農作業の傍ら工夫を重ね、人形作りの技術を自分達のものとしていったと考えられます。4町(東町、北町、本町、西町)4台の風流物は村人達の大きな娯楽となり、町内の競い合いもあいまって、明治中期から大正初期にかけて改造を重ね大型化されました。その風流物も昭和20年7月、米軍の焼夷弾攻撃により2台が全焼1台が半焼、また人形の首も約7割を焼失してしまいました。しかし、郷土有志の努力により、昭和33年5月には1台だけながら念願の復元を果たしました・・・昭和41年5月までには残りの3台も復元された」とのことで、かなりの苦難の道を歩んだようで、その結果の国指定重要有形・無形文化財、ユネスコの無形文化遺産への登録だったというから、地元関係者のご努力に、頭が下がる思いである。


(参考)日立風流物パンフレット日立市郷土博物館





(平成31年4月7日著)
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