悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



世界遺産のホイアンにある店




 ダナン・ホイアン( 写 真 )は、こちらから。


1.海のシルクロード

 この4年ほど、東から西へと順に並べていくと、旧イギリス領の海峡植民地だったペナンマラッカシンガポール、【 】、ポルトガルの植民地だったマカオ、イギリスの植民地だった香港を訪ねてきたが、遂に今回、【 】の位置に当たるベトナムの古い港町ホイアンを訪れることができた。これで、海のシルクロードの真珠の首飾りが完成したと、我ながら悦に入っている。

 今回のベトナム観光は2泊3日の予定で組んでいて、当初の予定では第1日は港町ホイアン、第2日は古都フエ、第3日はダナン近郊を訪れるつもりだった。ところが、出発直前に手を怪我したので、特に第2日に、片道2時間もかかるフエに行くのは無理かもしれないと思うようになって、代替案としてガイドに提案されたバーナ高原に行くことにした。


2.ダナンの繁栄ぶり

 さて、順調なフライトの後、ベトナムのダナン空港に到着した。ダナン市内のホテルを確保してから、車で45分の古い港町ホイアンに行った。私などは、ダナンといえば、ベトナム戦争中は極東最大の米軍基地があったところだという認識しかなかった。ところが、ホイアンに行く途中、クラウンプラザなどの世界的ブランドのホテルが立ち並ぶ海岸地区を通り、その繁盛ぶりに目を見張った。

 面白いことに、道路沿いに、大理石の彫刻を売っている会社がいくつもあり、通りすがりで一瞥したところ、定番の観音像あり、メタボのお爺さん像あり、ギリシャ彫刻のような像あり、そうかと思えば日展に出品されそうな現代彫刻ありと、それなりの名作が道路脇にたくさん並んでいた。いずれも手彫りだそうだが、技術はなかなか高度なものである。


道路沿いにある大理石の彫刻を売っている会社



3.世界遺産ホイアン

遣唐使船の模型


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


 ホイアンに近づくと、道路が狭くなって混雑してきた。やがて、歴史的地区にたどり着いたが、入るのに料金を払う。すると、日本から贈呈されたという遣唐使船の模型があって、その脇を通り過ぎると、まあごちゃごちゃした古い街並みが忽然と姿を現す。

世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアンのアオザイの店


 ホイアンは、ベトナムの中部にあるダナンから、車で45分のところにある古くからの港町で、世界遺産に登録されている。7世紀から15世紀にかけて、この地はダナンを中心に繁栄したチャンパ王国の重要な港であった。ところがチャンパ王国は、古都フエを根拠地とするフエ王朝(広南国)に押されて衰退し、ホイアンは広南国の版図に入った。そして、徳川幕府の朱印船貿易による日本人街、明・清との貿易に伴う中華街、オランダ商館などが設けられて繁栄していった。

世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


 ホイアン観光局のパンフレットによれば、「16世紀から17世紀にかけて、ホイアンは南ベトナムの国際貿易の中心地であった。毎年4ヶ月から6ヶ月間開かれる国際交易フェアに向けて各国の交易船がたくさん来航した。そして、まさにこの街に、日本人、中国人、オランダ人、インド人貿易商が市場を開いたり、地区を定めてそこに住むようになった。」という。

 17世紀の初頭にこの地ホイアン(會安)に渡った日本人としてよく知られているのは、角屋七郎兵衛と荒木宗太郎である。角屋七郎兵衛は、伊勢松坂の豪商の一族で、朱印船貿易に携わってベトナムに渡ったものの、その2年後に鎖国令が出てしまった。そこで、日本には帰らずに、そのままホイアンで生涯を終えたという。当時のホイアンの人口が4000人程度だったところ、そのうち日本人の数は200ないし300人だったと言われている。角屋七郎兵衛は、その日本人街の長だったそうだ。

 もう一人の荒木宗太郎は、もともとは肥後の武士だったが、長崎で商人となり、豊臣秀吉の下で朱印船貿易に携わって巨大な富を築いた。東南アジア一帯で活躍したが、ベトナムでの本拠地がホイアンだった。ベトナム阮王朝の王女(通称アニオー)を正妻として長崎に連れ帰ったという


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


 ところが、徳川幕府の鎖国令、清による海禁令、内乱などによってホイアンは衰退し、国際貿易も大型船が寄港できるダナンに移っていった。それから、ホイアンは歴史の表舞台から姿を消す。しかし、これがかえって功を奏し、ベトナム戦争にも巻き込まれずに今日に至っている。

世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアンの来遠橋(日本橋)の入口


 そういう歴史からして、日本、中国、西洋の文化が入り混じったエキゾチックな雰囲気を味わえる小さな街で、ファッション、土産物、ベトナム笠、ランタン屋などのお店を眺めながら、川風に吹かれてブラリブラリと歩けば、 歴史や場所を超越した気分になるから不思議である。17世紀に鎖国令が出るまで、ここに大きな日本街があったそうで、その時の名残りで来遠橋(日本橋)が残っている。これは今やホイアンのシンボルのような存在で、ベトナム通貨ドンにも描かれている。

世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


 現在の目で街を見ると、建物は、中華寺院風の華僑会館、日本の古民家、コロニアル式の洋館があり、商売もなかなか美しいアートギャラリー、色とりどりのランタン屋、ハンドバッグや靴の店があったかと思うと、どういうわけか仕立屋さんが目立って多い。

世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


世界遺産ホイアン


 また、狭い道の両脇と上に植物が植えてあって、そこにランタンがさりげなく飾ってあり、とっても鄙びて懐かしい思いがする。何だろうこの思いはと左右を眺めながら遠い記憶を辿っていくと、そうだ小さい頃の古い日本の街並みと同じだと納得したりした。カルチャーセンターのような建物で、ベトナム舞踊のような、少数民族のような、はたまた西洋の踊りを取り入れてミックスしたような変わった踊りを見た。

世界遺産ホイアンのカルチャーセンター


世界遺産ホイアンのカルチャーセンター


 本来なら、色とりどりのランタンが街の其処此処で彩られる夜のホイアンを散歩したかったのであるが、左手を怪我して手術したばかりなので、もう一度同じところを怪我すると直しようがないと言われていたことから、足元が危うい夜の散歩は自重することにした。


4.バーナ高原


バーナ高原ロープウェイ


 翌日は、バーナ高原への遠出である。ダナンから車で小1時間かかる。この高原は、1920年代のフランス統治時代からリゾート地として有名なところで、頂上まで3本のロープウェイが繋がっている。うち、2本は途中の中継駅で乗り換えるが、残る1本は山頂まで直行だ。これらは、世界最長かつ発着地の高低さも世界一というギネス記録があるそうだ。そのバーナ高原ロープウェイで登って行ったのだが、着いてみると、いやもうあらゆる文化のごった煮のようなもので、それにびっくりし、またいっぱい押し掛けてきている中国人団体客の傍若無人な振る舞いにもまた驚いた。昔の日本の農協さんのような旅を世界各地でやっているものとみえる。

フランスのワイン醸造所の手の込んだ模型


西洋風花壇


 ここは、約1,500mほどの高山に造られた一大遊園地である。元々あった中国寺院や、フランス植民地時代に作られた伝統的なフランス建築による石造りの街並みなどを基礎に、サンワールドという会社がテーマパークに仕立てたものらしい。私が、これは良いなと思ったのは、1923年に造られたというフランスのワイン醸造所で、文字通り穴蔵の中のその雰囲気と、所々に置かれた手の込んだ模型が素晴らしい。セイント・デニス教会も、こじんまりした良い教会である。ところが、次々と押し寄せる中国人団体客によってじっくり見る間もなく、押し出されてしまった。

リンウン寺パゴダ


リンウン寺パゴダ周囲の仏画のレリーフ


ゴールデンブリッジ


 この日は、ともかく霧と小雨が多い日で見通しが悪かったものの、気温は20度前後なので涼しくて過ごしやすかった。山の上であるだけに、霧、小雨、曇り、晴れとどんどん天気が変わる。ここのシンボルは、山の中腹の中継地バーナ駅にある「ゴールデンブリッジ」である。これは、二つの橋桁が人の手の掌と指のようになっていて、なかなか面白い造形美なのだが、どういうわけか苔むして薄汚れている。金色の橋桁とは、そぐわないので、もう少し何とかすればよいのにと思った。

リンウン寺パゴダ周囲の像


リンウン寺のお釈迦さま


ハイビスカス


ホグワーツ魔法学校のような建物


セイント・デニス教会


 頂上にはリンウン寺という中国式のお寺やパゴダがあるほか、伝統的なフランス建築による石造りの街並みがある。確かに、ハリーポッターに出てくるホグワーツ魔法学校のような建物があったが、残念ながらこの日は霧がかかっていてよく見えなかった。なお、この高原には、ハイビスカスなどお馴染みの熱帯の花のほか、エンジェルズ・トランペットが今頃咲いているし、日本の紫陽花のような花もあって、6月でもないのに咲いている。不思議な気がした。


5.ダナン市内


ハン川の夜景 ハン川橋


ハン川の夜景 ドラゴン橋


ハン川の夜景 地元で人気のコン・カフェ


ハン川の夜景 イルミネーションが明るい遊覧船


ハン川に架かるソンハン橋の夜景


 ダナン市内は、夜景が素晴らしい。特に、ハン川沿いの遊歩道から見るハン川橋、ドラゴン橋、行き交うイルミネーションが明るい遊覧船などがとても魅力的である。翌朝は、チャム彫刻博物館に行ったが、これは7世紀から15世紀にかけてこの地で繁栄したチャム王朝の彫刻を展示しているもので、ヒンドゥーの神々が飾られている。しかし、中には日本の百済観音を思い起こされる像もあった。

チャム彫刻博物館


チャム彫刻博物館


救賜安隆寺


救賜安隆寺


 この博物館の隣には、救賜安隆寺という中国寺院があって、その観音様は、なかなか美しいものであった。ちなみに、ガイドのお兄さんに、「ベトナムは大乗仏教か、それともタイのような小乗仏教か」と聞くと、「ベトナムは中国の影響を受けているので、大乗仏教だ」と教えてくれた。ついでに、「チャム人は、フエ王朝に滅ばされたその後は、どうなったのか」と聞くと、「山の方に行って、今は少数民族として残っている」という。次に、「今のベトナム人の祖先は、そもそもどこから来たのか?」と聞くと、「現在のブータン附近にいて、それが川沿いに進んで、中国が分裂して争っている隙に乗じてベトナムの地に住み着いたと習った」と答えた。この最後の答えついては本当かと疑問に思って調べたところ、確認はできなかった。

街の大理石屋さん


街の大理石屋さん


街の大理石屋さん


街の大理石屋さん


 街の大理石屋さんに連れて行ってもらった。するとまあ、どうだろう、この多種多様さといったらない。布袋さんなど七福神、モダンな女性像、丸い珠、アロワナまである。面白くて、ついつい時間を忘れてみて回った。

五行山(マーブル・マウンテン)


五行山(マーブル・マウンテン)


五行山(マーブル・マウンテン)


五行山(マーブル・マウンテン)


五行山(マーブル・マウンテン)


 ダナン市内の五行山(マーブル・マウンテン)は、全山が大理石でできている。麓から階段を延々と登っていくと、リンウン寺に着いた。大日如来像のような仏絵が素晴らしい。それを出て更に進む。洞窟に行くと、磨崖仏のある古い祭壇にたどり着く。この祭壇は、元々はチャム族が作ったものだそうだ。ちなみに、この洞窟の天井には穴が開いてそこから光が降り注いでいるが、これはベトナム戦争時に米軍の爆撃で開いたものだそうだ。


6.ベトナム雑感

(1) ベトナムで買い物をして支払うときに、まず感覚として馴染めないのがその通貨ドンである。たとえば、バーナ高原のロープウェイでは、650,000ドンである。一瞬、これはとてつもなく高いと思うのであるが、実は日本円で3,250円にすぎない。一々iPhoneで計算するのも面倒だ。そこで気がついたのが、ドンの価格からゼロを2つ取り、残った数字を2で割るというやり方である。これで買い物がとても楽になった。

(2) 次に馴染めないのが交通マナーの悪さである。たとえば、歩道を歩いていると、その上にバイクが乱雑に置かれていて、真っ直ぐに進めない。しばしば車道に出ないと、前進できない。それどころか歩道にどんどんバイクが入って来て、危険を感ずる。それが前から来るのはまだ良いとして、危ないのは後方から来るバイクで、これは対応のしようがない。


道路にはバイクが多く、交通マナーは最低


(3) そして、道を渡るのが、とても危険なのである。たとえそれが信号の付いた正規の歩道でも、大いに危険を感ずる。歩道を歩行者が歩いていると、日本なら必ず車は止まる。しかし、ベトナムでは、全く止まってくれない。車はもちろん、バイクは右や左から自由自在にやってくるから困る。正規の歩道でもそうなのだから、ましてや歩道のない所での横断は、もう自殺行為に近い。私などは、ガイドのお兄さんの後に、おそるおそる付いていくしかなかった。

(4) 交通標識も、世界の常識からいささかずれている。私がびっくりしたのは、ダナンからホイアンに向かう途中の二車線の道路を走っているとき、いきなり「車両進入禁止」の標識が現れた。例の、赤い丸に、横一文字の白い線が描かれているものだ。これは、日本だと一方通行の逆走を禁止する標識だ。ところが、運転手もガイドのお兄さんも、平然としている。聞いてみると、これは逆に真っ直ぐ進めという意味らしい。

(5) 夕方、デパートに行ってみようと、フロントに聞いたところ、パークソンがあるという。そこにタクシーで向かおうとしたが、いや試しに配車アプリの「グラブ」を使ってみようと思って呼んだところ、わずか数分で来てくれた。しかも、車はどこが現在地で、あとどれくらいで着く。しかも料金はいくらという明朗会計だ。だから、なかなか来ないとか、高い料金を吹っ掛けられるのではないかとか、わざわざ遠回りされるのではないかなどという途上国特有の心配をする必要がない。これはいいと思っていると、帰りに呼んだグラブの運転手が、下りるときに何か言いたげで、スマホに打ち込んでいる。それは、ベトナム語を英語に変換するソフトで、「もし明日、バーナ高原に行くのなら、案内しますよ。」ということだった。そこで私も、「残念ながら、もう英語ガイドを予約してあるので結構です。」と英語で打ち込むと、それがたちどころにベトナム語に翻訳されて相手に伝わった。私はびっくりして、これからは外国語の勉強が必要なくなる世界が来ると確信した。もっとも、運転手が必要なくなる時代も、もうすぐ、そこまで来ている。









(平成30年12月31日著)
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