悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



神戸の夜景




 母と神戸なつかしの旅( 写 真 )は、こちらから。


0.プロローグ

 今年の夏、もうそろそろ90歳になる母に「どこか、行きたいところがある?」と聞いたところ、「生まれ故郷を見てみたい。」というので、つい2ヶ月前に福井県の山深い町に行ってきたところである。そして、自宅に戻ってきた途端、母が「次は、新婚時代を過ごした神戸に是非行ってみたい。」という。年齢を考えると、いつ何時どうなるかわからないので、早速、企画した。そして、故郷から母と妹2人、東京から私たち夫婦の、合計5人による珍道中が始まったというわけである。神戸は坂が多い街なので、折りたためる車椅子を持ってきてもらった。

 なお、私や両親や息子は、神戸には、平成19年平成20年平成28年に行っている。



1.第1日目〜熊内神社、布引ハーブ園、夜景

(1)熊内神社

 三宮のホテルにチェックインした後、直ぐに、昔々住んでいた中央区の熊内町の、かつての家の近くにある熊内神社(くもちじんじゃ)へ行った。神戸らしく、けっこう急な坂の途中に、神社の鳥居があった。神社本殿へは、その鳥居をくぐって更に上の坂を上がっていかなければならない。そこに車椅子を置いて、私と妹で母の両腕を支えつつ、母に歩いてもらい、登って行った。すると社務所があり、たまたまそこに神社の方がおられたので、来意を告げて本殿の前まで行った。そこはいわば急坂の踊り場で、本殿の隣は私が半世紀以上も前に通った幼稚園である。まだあるとは、感激ものだ。もちろん、建物は近代的になっているが、この踊り場のような境内兼園庭と、そこから眼下に見える神戸の景色、それに大きな銀杏の木は昔と変わらない。ただ、もう一つ大きな木があったが、それはもう幹の途中で切られてなくなっている。


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 そこで、皆で参拝をした。母が「懐かしい。懐かしい前回来たときのお父さんを思い出すね。」と言いながら、お賽銭をかなり奮発している。そして昔、幼稚園児だった私が、この急坂を登るのが嫌だと駄々をこねたというエピソードを、妹たちや家内に語る。穴があったら入りたいくらいだ。もっとも、「この急坂を幼稚園児が登るのは、そりゃあ、嫌がるわね」と同情された。うちの一家は、皆優しい。

 さて、帰る段になり、登って来た脇道とは別の本道を降りようとしたら、なんとまあ、これも急階段である。子供の頃の私が、ストをしたのも無理はない。でも、これを降りるのが昔の思い出にもなる。行かざるを得ない。そこで思い出したのが、石川啄木の詩である。

 「たはむれに 母を背負ひて そのあまり軽きに泣きて 三歩あゆまず」

 それなら、私にもできるだろうと思い、母をおぶってその階段を下りようとした。腰を下ろして母を背中に乗せて持ち上げようとしたが、とんでもなく重い。そもそも、両足すら上がらないではないか。家内が、啄木の詩をもじって、

 「やむを得ず 母を背負はんとして そのあまりの重さに驚きて 一歩もあゆめず」

 というようなことを口にするので、大笑いとなった。そこで、母の両脇を2人で支えて下りていき、もう1人は車椅子を折りたたんで別に持ってきてもらうことにした。これは上手くいって、無事に降りられたし、母も歩いたという気がしたという。

 階段を下りきった後、昔、住んでいた家に行ってみようとした。ところが、予め中央区役所に問い合わせてみたものの、かつての町名の何丁目というものが昭和49年に3つに分かれたということだけはわかるが、個々の番地が新しくどの番地になったのかは記録がないのでわからないということだった。せめて現場に行けば何か分かるかと思ったが、母の記憶にある貯水池と観光ホテルのいずれもが現存せず、ついに分からず仕舞いであった。


(2)布引ハーブ園


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 それから車椅子をコトコト押しながら、新神戸駅を通り過ぎて、布引ハーブ園山麓駅からロープウェイに乗った。登るにつれ標高が高くなっていったせいか、次第に寒くなってきた。気温は7度から8度くらいではなかったかと思う。ゴンドラから下りてみると、展望台から遠望する神戸港と神戸の街並みが素晴らしい。ちょうどクリスマスの前哨戦らしく、ドイツフェアを開催中で、ドイツワインやドイツの食べ物を売っている。家内が「グリューワイン」を見つけてくれた。これは暖かいワインなので、寒い時にはちょうど良い。何種類かのソーセージをつまみ、そろそろ暗くなりかけの異国情緒を味わった。

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 建物とその飾りを見ていると、今はドイツにいると言われても、そうかもしれないと思うくらいだ。そうこうするうちに日が沈み、辺りが暗くなりかけ、電飾が美しく輝く。すると、思いがけず、3人の女性がまるで妖精のごとく、舞台上に登場した。まず行ったのが、クリスマスのイルミネーションの点灯だ。1、2、3の掛け声ととも、一斉に灯った。建物から放射状に広がるイルミネーションが実に美しいし、また周りの木が真っ赤に照らされているのも本当に綺麗だ。そこに流れてくる3人の女性のコーラスも、素晴らしいもので、思わず聞き行ってしまった。母も「良いわね。良いわね。」と何回も言う。旅行の良い記念になった。

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 帰りがけに見た神戸港と神戸市の夜景は、これまた非常に美しいもので、しかもそれが下りのロープウェイから見ると、刻々に変化するから面白い。私は今年5月に函館山からの夜景も見たが、それは両側から海がUの字型に入り込んでいる中で真ん中に挟まれた市街地が光り、港に元青函連絡船の灯火やイカ漁の舟の漁り火が見えるという美しさである。それに対して、神戸の夜景には動きやストーリー性がないと思っていたが、こうしてロープウェイに乗って、変化する夜景を見るという楽しみがあるとは知らなかった。さて景色とドイツ気分を堪能して、ロープウェイで降りてきたら、もう夕食時になっていた。それで、山麓駅近くにあるANAクラウンプラザ・ホテル神戸の中華料理店に入り、広東料理を堪能した。母をはじめ、皆さんが良く食べること、食べること。元気で良かった。


(3)神戸港の夜景

 さて、母をホテルに送り届けた後、私と妹たちは、神戸港の夜景を撮りに行った。まずモザイクに行き、そこから対岸のメリケンパークにある神戸ポートタワー、神戸海洋博物館、神戸メリケンパーク・オリエンタルホテル の3つを撮る。私のカメラ、EOS70Dは、光を集めすぎて、赤いポートタワーがまるで赤い蝋燭のように見え、緑の博物館が緑の凧のように写ってしまう。性能が良すぎるのもよろしくない。考えた末、露出を絞って暗くして撮ったら、ポートタワーや博物館を構成する線材が浮き出て見えるように撮ることができた。妹たちは、盛んに風景を褒める。連れて来た甲斐があった。


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 モザイクの観覧車に乗った。これだと、メリケンパークのポートタワー、博物館、ホテルの3セットを立体的に見ることができるし、地上からは見えない遠方の夜景を楽しむことができる。でも、たった15分間しかないのが欠点だ。降りてみると、隣にアンパンマン・ミュージアムがあった。孫たちを連れてくれば喜ぶのにと思ったが、今回は平均年齢が70歳近い5人組なので、さすがに孫の世話までは無理だった。


2.第2日目〜網敷天満宮と須磨寺


(4)綱敷天幡宮

 朝早く三宮のホテルを出発し、JR神戸線で、かつて神戸で住んでいた二番目の家がある須磨に向かった。まず、近所だった綱敷天幡宮を訪れた。平安時代の創建なので、もう1,100年以上の歴史があるらしい。学問の神様である菅原道真を祀る。境内を歩くと、面白いものが多い。同神社のHPによれば、


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 (a)願いをかなえる「なすの腰かけ」・・・何でも願いが叶うというなすの腰掛け 「なす」の花は一つの無駄もなく実を結び また「成す」と語呂が同じ処より努力はむくわれ願いが叶えられるという縁起をふくみます。 願いを込めて「なす」に腰かければどんな願いも叶えられます。ということでそれぞれ願いを込めて実際に座ってみたが、はてさて、どうなることだろうか。

 (b)「綱敷の円座」の敷物・・・道真公がお休みになられたとされる漁網の円座を模した縁起物。道真公は九州太宰府に左遷された際、須磨の浦で波が高くなり航海を中断されました。その時、漁師達が網の大綱で円座を作り、お休みになられた事にちなんで創建されたのが綱敷天満宮です。こう表現しては不謹慎かもしれないが、我が家の食卓上にある鍋敷きそっくりなので、親しみが持てた。


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 (c)「波乗り祈願像」サーフボードを持たれた菅公さん・・・「波乗り祈願」とは、成功を収めるために、うまく時流の波に乗ることを祈願するものです。決して自分本位な行動をとるのではなく、時を読み、流れに逆らわず、自らの平衡感覚によって状況に適応していくことが、人間が生きていく上で大切だと思います。綱敷天満宮の近くには、古くから風光明媚な景勝地として親しまれている須磨の浦があります。 今も、夏になれば、須磨海岸には、多くの若者や家族が訪れ、賑わいます。この像は、時代の荒波に乗り、一人でも多くの方々が幸せになることを願い、須磨の海でサーフボードを抱える幼少時代の菅原道真公をモチーフに制作、建立しました。最初にこれを目にしたとき、平安時代の衣装を着けて、どう見てもサーフボードらしきものを持っているから、まさかあの時代にあるわけがないと思って、頭が混乱した。須磨海岸に来ているサーファーに来てもらおうというのだろうが、それを神社が考えるなんて、いかにも関西らしい。

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 (d)「牛」・・・ 「菅原道真公の出生年は丑年である」「大宰府への左遷時牛が道真公を泣いて見送った」「道真公は牛に乗り大宰府へ下った」「牛が刺客から道真公を守った」「道真公の墓所(太宰府天満宮)の位置は牛が決めた」など菅原道真公と牛にまつわる言伝えや縁起が数多くあります。これにより牛は天満宮では、牛は御祭神の使者とされ、縁起がいいとされてます。この像は、私も小さい頃に触った覚えがある。

 このうち(d)「牛」は、いずれの天神さまにもあるが、(b)はともかく、(a)や(c)などは一体どうやって考えついたのか想像もできない。このほか、(e)5歳の菅原道真公、(f)菅公母子像 、(g)北海道の名付け親のプレートなどがあり、まるでテーマパークのようだ。いやむしろ実際にそうだったのかもしれない。これらを見て回っていると、時間が経つのを忘れるほどである。ちなみに、綱敷天満宮は、平成7年の阪神大震災の際に相当の被害を受けたが、見事に復興した。しかし、それで境内の雰囲気がガラリと変わってしまっていて、私にとって昔を思い出すよすがは、(d)「牛」くらいしかないのは誠に残念である。


(5)天 神 町

 綱敷天満宮を脇の道から出た後、昔、住んでいた家に向かう。私の記憶の通りで、場所はすぐにわかった。前回11年前に来た時と相も変わらず、私の姓と同じ姓の方が住んでおられた。そこから少しのところに、私が通った小学校がある。その正門へと歩いて行った。実は私は、1982年にここに来たことがあるが、その時の正門と校舎はまだ昔の面影を残していた。ところが、今回見た校舎は既に建て替えられて、見違えるように非常に立派になっていた。


(6)須 磨 寺


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 小学校前から須磨寺に向かった。山陽電鉄の踏切を過ぎて、商店街を通り抜けたところにある。ここは、源平合戦の折に源氏の大将源義経の陣地だったことで有名なお寺である。そのHPに書かれていたことを要約すると、「源義経は、海側に陣を構えた平家の裏をかいて、山から崖を馬で駆け下り逆落としの奇襲をかけ、平家を打ち破った。その時、源氏の武将である熊谷次郎直実が、波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を発見し、一騎打ちでこれを倒した。首を取ろうと兜を取ると、自分の息子と同じ年の頃16ないし17歳と見える紅顔の美少年、平敦盛だった。見逃そうと思ったが、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきていて、それもできない。やむなく首を取ったが、腰に一本の笛が差してある。今朝、平家の陣から聞こえてきた美しい音色を出した人物だと知って、ますます後悔の念に駆られる。やがて熊谷次郎直実は、殺しあわねばならない戦の世に無常を感じ、法然上人の元で出家した。」とのことである。ちなみに、熊谷次郎直実が熊谷蓮生法師として、平敦盛を弔って念仏一筋に暮らした念仏三味院が、長岡京の光明寺の前身である。ちなみに、山門の両脇にある仁王像つまり「金剛力士像」は、非常に力強くて立派だと思ったら、それもそのはずで、運慶と湛慶の作だった。


(7)鉄人28号


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 再びJR須磨駅まで戻り、新長田駅で降りた。そこにある、鉄人28号(横山正輝原作)の像を見物する。地元商店街を中心に、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託して作られたものだが、塗料が剥げたりしたため、大きな修理がされて、つい最近、それが完了したそうだ。だから、前回2年前に来たときに比べて、まるで見違えてしまった。車椅子の母を先頭に、おじいさんの私、おばあさんの家内や妹たちが一斉にそれを見上げる。側から見るとすれば、おかしな風景だと思って可笑しくなった。そのあたりでお昼になる。鉄人28号の前のビルに、たまたま「たこ焼き」屋さんがあったので、大阪風たこ焼きと、明石風の玉子焼きをいただいた。いわゆるB級グルメだが、皆には、おつゆのある玉子焼きが好評だった。


(8)神戸どうぶつ王国

 JRで三ノ宮駅に戻り、そこから神戸ポートライナーに乗って、京コンピュータ前駅で降りた。その駅のすぐ前が神戸どうぶつ王国である。目玉は、鷹や梟を飛ばすショーであり、これを母や妹たちに見てもらうつもりだった。三連休最後の日なので、親子連れが多い。入ると、まずは室内で、たくさんのフラワーポッドが天井からぶら下がっている。右手に進んで、色とりどりの睡蓮が数多く咲いている2つの大きな池に出た。そのうちの一方の池を大勢の人が座って取り囲んでいる。我々は行くのが遅れたので、2つの大きな池を挟む通路に位置どりをするしかなかった。ところが、これが幸いする。


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 バードショーの時間になった。人が取り囲んでいない方の池の端から、猛禽類の鷹が大きな羽を広げていきなり飛んでくる。我々の真上だ。バタバタという音で、思わず、首をすくめるほどだ。母も、車椅子に座っているのに、皆と同じく首をすくめる。「そんなこと、しなくても大丈夫だよ。」と言うと、「あら、そうかい。」と答える。それがバードショーの始まりで、睡蓮の池の反対側にいる係のお姉さんを目掛けて、睡蓮の池の上を鷹や梟、果ては青、赤、緑と黄色の派手な熱帯の鳥まで、バタバタと飛び交う。その度に、観客が「おおう!」、「キャー!」と大騒ぎの興奮が巻き起こる。中には、飛び方の下手な鳥がいて、睡蓮池スレスレに飛んで落ちそうになるから、ヒヤヒヤする。母も「すごいねえ。やっぱり都会は面白いねえ。」と、ショーが終わってからも、興奮冷めやらぬ様子である。

 それから、母や妹たちと、我々夫婦の二手に分かれて、自由に見て回った。我々は足が疲れたので、まず喫茶コーナーに行って座り、アイスクリームを食べながら休んだ。そして腰を上げてペリカンフライトや、動かない鳥ハシビロコウなどを見物した。母たちは、それに加えて、カピバラなどをじっくり見たらしい。


(9)神戸牛レストラン

 三宮のホテルに戻って、しばし休憩の後、夕食の時間となった。せっかく神戸に来たのだから、少し張込んで神戸牛のステーキを食べてもらおうと考えた。インターネットで調べ、良さそうなところに電話をして予約し、車椅子を押しながら出かけた。5人もいるので、要所要所で地下街の地図を解析したり、斥候を放ったりして、三宮駅の地下街をどこをどうやって歩いたかは二度と説明できないくらいに複雑な経路を辿って、ようやく到着した。

 その神戸牛レストランでは、コースを頼み、母の分についてはサイコロステーキ状に小さくカットしてもらうことにした。なかなか充実したコースで、前菜のサラダ、ビーフシチューから始まり、スープ、メインのビーフステーキが出てきた。ビーフステーキについては、「まず何も付けないでビーフそのものの味を味わってください。少し甘く感じるのが神戸牛です。それからお好みで、当店特製ソースや、岩塩、わさびを付けてお召し上がりください。」と言われた。それぞれ試した結果、私は、わさびに特製ソースの組み合わせが美味しいと思った。それから、デザートとして、色とりどりのケーキ、アイスクリーム、フルーツの盛り合わせが出て、最後にコーヒー・紅茶が給仕された。驚いたことに、母が全てのプレートを平らげてしまった。これには妹たちもびっくりして、「家ではあまり食べないのに、こんなに食べるなんて、珍しいわ。」という。妹たちに、母の近況を聞くと、デイサービスに行き始めてもう5年目で、古株になって、すっかり取り仕切っているそうだ。まだ頭もしっかりしているし、口もそれなりに達者なので、さもありなんという気がする。


(10)神戸市役所展望ロビーの夜景

 食事の後、そろそろ暗くなってきたので、花時計の前を通って、神戸市役所1号館24階の展望ロビーに行った。地上からおよそ100mの高さからの夜景が楽しめる。神戸市のHPによると、「展望ロビーからは主に南側の眺望が楽しめます。ここからは、東は六甲アイランドやHAT神戸の街並みが、南は東遊園地からポートアイランド、晴れていれば対岸の紀伊半島まで見渡すことができます。西はハーバーランドの街並みなどが見ることができます。」ということである。昨夜見たモザイクからの眺めを反対側から見ていることになるが、残念ながら神戸ポートタワーと神戸海洋博物館は、ビルの谷間から顔を出しているような感じである。北側には、市街地が広がり、その暗い背景になっている背後の山肌の市章山、錨山、堂徳山に電飾の灯りが点いている。市章山には文字通り神戸市の市章、錨山には港町の神戸らしく錨マーク、堂徳山には20分ごとに「KOBE」「北前船(正面)」「北前船(側面)」のイルミネーションが現れる。なかなか美しい。それを見て、皆満足してホテルに帰った。


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3.第3日目〜神戸異人館と京都


(11)風見鶏の館

 神戸の異人館街といえば、必ず取り上げられるのが風見鶏の館である。振り返ってみると、私は、8年前に訪れたことがある。こちらは、ドイツ人貿易商ゴットフリート・トーマス氏の自邸として、明治42年(1909年)頃に建てられた。外観は非常に美しく、1階から2階にかけて赤いレンガを多用していかにも重厚な感じを出しながら、その上には軽やかな白い壁の2階が乗り、更にその上には尖塔があって、しかもそのてっぺんには風見鶏が乗っている。よくできているものだ。背景は緑の山なので、まるでおとぎの国にでもあるような邸宅である。


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 ところで、この風見鶏の館が有名になったのは、昭和52年にNHKの朝のドラマ「風見鶏」の舞台になったからである。主演は、新井春美さんで、ドイツ人のパン職人のブルックマイヤー(蟇目良)と結婚して、本格的なヨーロッパ風のパン作りに情熱を傾けるという話だった。私はこの番組をかすかに覚えているが、妹たちは、まだ小さかったことから、全く知らないという。

 他の異人館の開始時間が9時からであるのに対して、この館は8時半からなので、それに間に合うように三宮のホテルから直行した。真っ先の入場者として入ったところ、車椅子の母がいるせいか、係の人にとても親切にしていただいた。クリスマス・ツリーの前で家族全員の写真を撮っていただいたり、母にサンタさんの帽子を被せて長椅子の前に座ってもらって記念撮影をしたりと、サービス満点で、非常に有り難かった。


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 1階には、玄関ホール、応接間、居間、食堂、書斎があり、調度品も豪華で、なかなか見ごたえがある。ちょうどシーズンのクリスマスの飾り付けもきらびやかで楽しい。2階には夫婦の寝室、子供部屋、客用寝室、朝食の間があるが、1階ほどには丁寧には作られていない。ベッドなどは、むしろ簡素なものである。子供部屋の遊び道具は、今と変わらない。

 ここからは、展示品の中にあった記述なので、いささかうろ覚えではあるが、敢えて記録しておきたい。この風見鶏の館の主であるトーマス氏は、娘のエルザを伴って夫婦で一時的にドイツに帰っていた時に、たまたま第一次世界大戦が起こり、日本は1914年8月、ドイツに対して宣戦布告をした。それに伴い、この館をはじめとするトーマス氏の財産は、敵性資産として没収されてしまったそうだ。財産を全て失ったトーマス氏は、ドイツ本国で困窮したという。その消息は長い間、不明であったが、ようやく娘さんのエルザが生存していることがわかった。そこで、30年ほど前に88歳のときに招待されて、自分の部屋を見て感激していたという写真と記録がある。


(12)萌黄の館

 萌黄(もえぎ)の館は、風見鶏の館のすぐ近くにあって、淡いグリーン色でコロニアル様式の外観の、これまた軽やかで美しい建物である。明治36年に、アメリカ総領事のハンター・シャープ氏の自宅として建てられた。1階には、ホール、応接室、書斎、食堂など、2階には居間、寝室、化粧室、子供部屋があり、それぞれに壁紙が違っている。また、大きな窓が付いた2階のベランダは、とても広くて気持ちがいい。裏に回ってみると、庭の片隅にレンガの大きな塊が転がっている。阪神淡路大震災のときに、屋根の上の暖炉の煙突が落ちてきて、女中部屋の天井を突き破ったそうで、その現物である。


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 ちなみに、この萌黄の館の入り口の右にある公園のベンチに、サックスを吹いているおじさんの等身大の像がある。ちょっと見る分には面白い像なのだが、その左に車椅子に乗ってニコニコ顔の母がいると、お互いにとっても似合っていて、皆で大笑いをしてしまった。


(13)ウロコの家

 前回11年前に訪れたとき、私はこう書いた。「うろこの館というのも、入口に天灯鬼、竜灯鬼がいたり、建物の中にはドンキホーテとサンチョパンサの像があったり、ガンダーラの仏があったりで、統一性がなく何が何だかわからない趣味であるが、どうやら像一般を見境なく集めるのが性癖だったらしい人の館である。こんなものを見て頭が混乱したあと、緑豊かな庭に出て、一瞬ほっとしたが、ふと横を見るとアンコールワットにある仏頭があったし、反対側を見ると、19世紀ロンドンで使われていた赤い電話ボックスがあった。」


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 では、今回はどうだったかというと、まず右の尖塔にはサンタクロースなどのクリスマスの飾り付けがあって、なかなか見ごたえがあり、楽しい。しかも左の尖塔との間の屋根の上には、よく見るとアメリカのトランプ大統領が北朝鮮の金正恩と握手している人形が乗っていて、思わず笑ってしまう。

 ウロコの家の中に入ると、前回驚いた数々の像がほとんどなくなっていた。併設の「うろこ美術館」に移してしまったようだ。でも、建物の外側にある大きな仏様の顔、ギリシャ風の女性像、猪の像、赤い電話ボックスはそのままで健在だった。

 ところで、このウロコの家は、大変急な坂の上にあるのである。車椅子には大敵で、バリアフリーどころかバリアフルである。車も通れない細い道だ。それでも行くときはさほどの高低差がなかったので良かったが、下り坂を車椅子で普通に行くと、転げ落ちてしまうのは必定だ。そこで、車椅子を逆に向けて、私の身体をブレーキ役にし、ゆっくりと坂下まで降りていった。


(14)ベンの家

 そうして降りて行って着いたところが、ベンの家の近くである。こちらも、11年前にウロコの家とともに訪れている。その時の感想は、「家の中は、シロクマ、バッファロー、ガゼル、トラなど、剥製の山である。何でも、貿易商だったベン氏は、商売を番頭に任せて、もっぱら趣味の狩猟に打ち込んだという。人生の理想というか………、とんでもないというか………、現代ではありえない生き方である。」


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 ウロコの家と異なり、こちらは、全くと言ってよいほど、前回と変わっていない。よく保存されている。ただし、現代では動物保護の風潮がますます強まっているから、仮にこれがヨーロッパにあったとしたら、今頃は焼き打ちに遭っていたかもしれない。それにしても、ベン氏は根っからのハンターだったのだろう。前回は気が付かなかったが、ベン氏の寝室にはベッドがなく、粗末なハンモックとキャンプ用具があっただけである。


(15)神戸北野美術館

 そろそろお昼になったので、どこかよいレストランはないかと思ってiPhoneを触りかけたら、ベンの家の向かいに神戸北野美術館というものがあって、そこで食事をすることができるらしい。階段があるから、母には車椅子を降りて歩いてもらったが、中に入ってその家庭的な雰囲気が気に入った。こちらは、明治31年(1898年)に建てられたアメリカ領事館官舎の建物である。

 現在、「モンマルトルの丘の画家たち」と題する展示がされている。「モンマルトルの丘地区を愛した画家たちの作品ポスター、テルトル広場で描く画家たちの作品、ムーランルージュの紹介、モンマルトル地区の紹介、ロートレックの作品のポスター」というところで、食事を待つ間、それらを見て回り、特にロートレックについては何も知識がなかったので、そういう人物だったのかと初めて知った。つまり、1984年に名門の伯爵家に生まれたが、生まれながらの遺伝病で脚が発達せず、成人した時の身長は152cmに過ぎなかった。父からも疎まれたので、パリに出て絵画を学ぶとともに、自分のような恵まれない境遇の娼婦、踊り子のような夜の世界の女たちに共感を覚えてデカダンな生活を送った。そして恵まれない彼女たちの様子を、愛情を持って描いたという。

 我々が案内されたのは、絵やロートレックを紹介するビデオが流されている部屋で、そこにあるのは我々のテーブルだけという、まるでどこかの家庭のダイニングルームにいるような雰囲気だったので、とてもリラックスできた。出てきた料理も、ホタテかサーモンがメインで、そこにワッフルが添えられていて、これが実に美味しいものだった。

 北野地区からタクシーに分乗して三宮に戻り、預けておいた荷物を取ってきて、そこから大阪に向かった。母と妹たちはそこから特急サンダーバードに乗って北陸方面へと帰っていった。「こんな楽しい、そして美味しいものを食べ、珍しいものを見た旅行はなかった。」ということで、喜んでもらえて良かった。


(16)鯖寿司いずう


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 我々夫婦は大阪からJRで京都に向かった。程なくして着いたので、京都駅近くのホテルにチェックインして一休み。どういうわけか、ホテルの前に警察のパレード隊が通った。交通安全のためのようだが、先頭を行く旗を持った女性の一隊が、命令調の掛け声で旗の持ち方の一斉切り替えをやっているところは、いかにも警察官らしいと思った次第である。その後、宿を出て四条烏丸の交差点に行き、四条通を河原町まで、久しぶりに夫婦で散歩した。ところが、通行人がひどく多くて、新宿駅の通勤時とあまり変わらないほどの混雑で参った。それでも、何とか鴨川を渡って、祇園地区に行こうとすると、新装なった南座が目に入って、その歌舞伎の看板をしばし眺めた。寿曽我対面、鈴ヶ森、封印切、連獅子などの歌舞伎の演目の看板が掛かっていて、その上にはずらりと歌舞伎俳優の名前が書かれた招き看板が掲げられている。全部で50枚あるそうだ。

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 鯖寿司をいただくために、祇園の「いずう」に行った。昔ながらの変わらぬ店構えを残している。席に着くと、家内が「この席は、以前来たときにも座ったところよね。」という。そういえば、その通りだ。前回来たのは10年も前のことなのに、よく覚えているものだと感心した。注文したのは、「鯖姿寿司」と「香子巻寿司」である。特に、鯖姿寿司の方はボリュームが多いので、1人一つは、とても多過ぎて無理だ。そこで、これらを一つずつ注文し、分け合うことにした。

 鯖姿寿司が運ばれてきた。昆布に巻かれていて、それを取ると、鯖の身が分厚い寿司が現れた。いや、実に濃厚な味ながら、魚特有の臭みがなく、するりと食べられて、口の中に旨味がふわりと広がる。美味しい。来て良かった。「香子巻寿司」の方は、香子つまりお新香の河童巻きである。こちらも箸休めのように食べると、あっさりして良い味である。食べながら店の様子を見ていると、次から次へとお客さんがやって来た、しかもその7割ほどは、持ち帰りの客である。よく流行っているらしい。結構なことだ。すっかり満足して、店を出た。家内は疲れたというので一人で京都駅近くのホテルに帰り、私は永観堂の紅葉のライトアップを見に行くことにした。


(17)永観堂のライトアップ

 永観堂は、正式には「浄土宗西山禅林寺派総本山禅林寺」といい、空海の高弟の真紹僧都を開基とし、本尊は阿弥陀如来である。古くより「秋はもみじの永観堂」と讃えられるほど紅葉の名所として知られる。最近のインターネット検索でも京都の紅葉ランキングで第1位である。


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 おそらくそのためであろうか、タクシーで永観堂に着いてみると、ものすごい数の人が並んでいる。事前に購入した拝観券のない当日券の人、つまり私のような気まぐれ観光客が並ばなければいけないらしい。「いやはや、ほんの数年前まではこんなことはなかったのに。まるで上野動物園でパンダのシャンシャンを見る時のようだ。」と思いながら、その長い列に並ぶ。暗い中を、列がうねうねと続く。ある時は入り口に近づいたと思ったらまた離れということを繰り返してようやく拝観券売り場にたどり着いた。ここに至るまで45分もかかり、身も心もああ疲れた。あまり、人には薦められない。

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 ライトアップされた永観堂の紅葉が暗い空にくっきりと浮かぶ。確かに、これは綺麗だ。あちこちにレンズを向けて、夜景モード(5枚の写真を連写し、それらを自動的に合成して手ブレを修正するモード)で撮る。放生池の寿橋を渡っていると、対岸の紅葉が水面に写って本物よりも本物らしくて美しい。ところが、危ないから、橋の上からは撮ってはいけないという。橋を渡り切って撮ろうとすると、今度は岸辺の樹木が邪魔して、水に写る紅葉が上手く撮れない。なかなか思い通りにはいかないものだ。それでも、あれやこれやとかなりの写真を撮って、満足して家内の待つホテルに戻った。


4.第4日目〜京都


(18)東 福 寺

 翌朝、早くに起きて2人で朝食を摂ったが、和風で、しかも美味しい料理ばかりが並んでいて、大いに満足した。これは良いホテルだ。ダイエットの観点からしても、朝食にたくさん食べることは、理にかなっている。「朝食は貴族のように、昼食は平民のように、夕食は乞食のように」と言われる所以だ。もっとも、夕刻に会食が予定されていて貴族の食事のようになってしまう日もないではないが、そういう時でも朝はいつも通り豪華に、しかし昼はごくシンプルな食事にするよう心掛けている。


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 タクシーで近くの東福寺(臨済宗東福寺派大本山)に向かった。日本最古にしてかつ最大級の伽藍だという。8時半の開門の20分前に着いたが、既に長蛇の列だ。最近の京都は観光客が激増したせいか、どこへ行ってもこのような様子だという。困ったものだ。タクシー運転手さんによると、「例年は秋の紅葉と春の桜、それに夏休みのシーズンは混雑しますんですが、それでもさすがに1月から2月にかけては観光客が非常に少なくなって、京都は落ち着きを取り戻すんですけれども、なんですなあ、近頃はそういう時期でも外国人観光客がどんどん来てしまいますねん。」ということらしい。

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 開門時間になって列は動き出し、まずは通天橋を見に行く。ここは、まず谷底に下る途中で谷川の両脇から張り出す紅葉の木々を見る。谷川と崖を覆う苔の緑の絨毯と、色とりどりの紅葉の葉の対比が言葉を失うほどに美しい。それから宙に浮いている通天橋を見上げてその造型の美を感じ、次に橋の上から下界に広がる赤と黄色の雲のような紅葉を見下ろし、更にその橋と同じ高さで橋を取り巻く紅の雲のような紅葉に感動するという、単に平面的だけでなく、立体的にこれでもかというほどに紅葉を堪能することができる。私は、この東福寺が京都で一番の紅葉の名所ではないかと思う。

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 次に、東福寺の方丈(禅宗寺院の僧侶の住まい)を拝観させていただいた。東西南北にそれぞれ一つずつ、4庭が配され、「八相成道(釈迦の生涯に起こった八つの重要な出来事)」にちなんで「八相の庭」と称されている。正式には「東福寺本坊庭園」という。これは、あの著名な作庭家である重森三玲(1896-1975年)によって昭和14年(1939年)の手によるものである。非常にモダンで、これが70年前のものとは思えないほどである。

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 まず目に入るのが、峻険な山々を想像させる大小様々な岩が林立する石庭の「南庭」である。白い砂に水が渦を巻くような雲状の溝が描かれており、それぞれ、八相成道にちなんで、蓬莱、方丈、八海、五山など八つを表すそうだ。それらをしばし眺めていると、雑念か何かは知らないが、色々な思いが心に浮かぶ。流石に禅寺である。「西庭」には、井田市松といって、白い砂地にサツキを刈り込んだ大きな市松模様が置かれている。「北庭」には、その市松模様がもっと小さくなって、緑主体のように見え、その背景には赤い紅葉と黄色い紅葉が美しい。なんとモダンな庭なのだろう。「東庭」は、やはり雲状の溝が刻まれた白い砂地の上に、北斗七星を模して円柱形の柱が立てられ、その向こうには天の川を模した緑の生垣が配されていて、誠に素晴らしい。


(19)圓 光 寺


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 東福寺をタクシーで出て、岡崎と京都大学を経由して一乗寺に至り、右折して詩仙堂のところを左手に曲がって「圓光寺」に着いた。「臨済宗南禅寺派 瑞厳山圓光寺」が正式な名称という。実は私はこのお寺を訪ねるのは初めてで、その縁起によれば、徳川家康が1601年に、足利学校の学頭を招いて伏見に圓光寺を設立して学校とし、それが相国寺山内を経て60数年経って現在の地に移転したということらしい。こちらには、山門をくぐってすぐに、「奔龍庭」という実に特色のあるお庭が広がる。白い砂による石庭なのだが、全体を龍に見立てて、頭部に当たる所に迫力ある石を置き、龍の身体を表すように瓦を埋めて、力強い線を描き出している。一度見たら、二度と忘れないほどの庭である。

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 「十牛の庭」は、牛を追う牧童が描かれた十牛図を題材にして近世に造られた池泉回遊式庭園で、紅葉が真っ盛りである。南側には栖龍池があって、なかなか風情がある。この庭園を室内から眺めると、まるで一幅の絵画のごとくに思える。庭の片隅には、水琴窟がある。その前を通りかかると、何とも言えない優しい音が聞こえる。竹の棒が交差するように無造作に2本、設えてあって、それに耳を近づけると、埋められた甕の中で水滴が落ちて砕ける、はっきりとした音を聞くことができる。心が洗われるようだ。これを聞くだけでも、拝観した値打ちがある。「淡桜庭」には十一面観音様がいて、春になると周りの桜が美しいらしい。そこから竹林の脇の道を登って山に登ってみると、開基徳川家康を祀ったお墓がある。やはりこれも、東照宮という由。

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(20)詩 仙 堂


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 私は、詩仙堂へは学生時代を含めて、何度も訪ねたことがある。昔は、こんな鄙びた地区までやって来るような参拝客など、あまりいなかったものだ。でも今では、紅葉の季節のせいかもしれないが、ひどい混雑なのを目にして、少し驚いてしまった。こちら詩仙堂は、現在は曹洞宗永平寺の末寺で、徳川家康に仕えた石川丈山が33歳で隠退後、朱子学を修め、禅寺の和尚に禅を学んだ後に、59歳で造営し、没するまでの30余年を過ごしたところである。HPによると、丈山は、「清貧の中に聖賢の教えを自分の勤めとし、詩や書や作庭に寝食を忘れてこれを楽しんだ風雅な文化人」であったとのこと。嘯月楼は、普通の屋根に小さな望楼のような屋根付き展望階が乗っている建物であるが、そこから紅葉の庭を眺めると、まさに絶景としか言いようがない。ときどき、竹を叩くような音が聞こえると思ったら、「鹿おどし」の音だった。

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 詩仙堂の紅葉を十分に見たので満足をして、そこから叡山電鉄の一乗寺駅の方へと2人で歩いて行った。僅か10分ほどの距離だが、私は昨夜の永観堂で疲れたので、ちょうどお昼時だし、どこかよいレストランか喫茶店がないかと思っていた。すると、京都中央信用金庫の建物を過ぎてしばらく行った辺りで、右手にピザ屋さん(Doppio Zero:ドッピオ・ゼロ)があった。覗いてみると、竃を備えた本格的なもののようだ。失礼ながらなぜこんな鄙びた場所にという気がしたものの、それだからこそ、きっと美味しいに違いないと思って入った。メニューを見ると、結構な値段だったので、これなら良いかもしれないと、最も高い生ハムとルーコラのピザを頼んだ。大きいので、2人で一つを分け合うことができる。そうするとこの値段でも、リーズナブルなものかもしれない。

 さて、熱々のピザが来た。家内と分け合って半分ずついただいた。ううーむ。これはとっても美味しい。このレストランに入って良かった。見ていると、シェフはイタリア人のようだ。その方と2人の女性とでやっているお店らしい。どうか、この調子で美味しいピザを地域の皆さんや私たちのような京都を訪れる観光客に提供していってほしいものだ。


(21)渉成園(枳殻邸)

 ピザ屋さんで大いに満足した後は、叡山電鉄で出町柳を経由して、京阪電車で七条駅まで行って、渉成園(枳殻邸)に歩いていった。渉成園には、私はかなり前に、家内は2011年に来たことがあり、非常にバランスのとれた美しい庭園だという記憶があったからだ。ちなみに渉成園とは、真宗大谷派の本山東本願寺の飛地境内地であり、国の名勝にも指定されている池泉回遊式庭園である。


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 入り口で参観料をお支払いすると、パンフレットを2種類もいただいた。こういう気前の良いところは、さすがに宗教団体の施設である。正面の「高石垣」が面白い。長い板のような石が斜めに配置され、石臼のようなものもあれば、色味が違う石もあって、これらが組み合わされて不思議な存在感がある。

 中に入って印月池を見に行ったのであるが、周囲を少し回っただけで、ガッカリしてしまった。記憶とはかなり違っていたからである。何というか、庭木にしても、池にしても、昔の手入れの方が、はるかに良かったと思う。それであちらこちらの写真を少し撮ってはみたものの、途中で続ける気が失せて、そのまま出てきてしまった。なぜなのだろう。かつてのお東さん騒動で、いったん売り払われて買い戻された影響が、なお残っているのだろうか。せっかくの文化財なのにと、残念に思えてならない。敢えて言うと「外れ」だったが、ここに至るまでは全て「当たり」だったので、画竜点睛を欠く思いだ。しかし、まあこういう時もあるだろう。


5.エピローグ

 夕方、京都から東京行きの新幹線に乗り、無事に帰京することができた。一家5人、平均年齢が70歳近くの面白い旅だった。それにしても、母をはじめとして皆、元気に帰って来ることができたので、何よりだった。思い返すと、まさに珍道中だった。その中でも面白かったエピソードを二つ、ご紹介しよう。

 その一つは、神戸に到着した日のことである。ホテルを出てすぐに気がついたのは、気温が低くて、かなり寒いということだ。車椅子に座る母には、妹たちが膝掛けは用意してくれていたが、手が冷たかろうと、上の妹が自分の手袋を渡そうとした。ところが、どこかで片方を落としたか置き忘れたかで、一つしかない。そこで、私が近くのコンビニで毛糸の手袋を買い求めて、母に渡した。母は「あったかい。ありがとうねぇ」と言ってはめてくれていたが、財布を出そうとして手袋を外したらそのまま置き忘れたりするので、その度に誰かが注意してみておくことになった。

 そうして、綱敷天満宮で綱敷の円座やなすの腰掛けなどを見物し、それから小学校に向けて歩いているとき、「あっ、手袋がない」と、誰かが気がついた。下の妹が天満宮に探しに行ったものの、しばらくして「なかったわぁ」と言って帰ってきた。「それは、残念。ご苦労様でした。また、その辺で買うからいいよ。」と言って歩き出したところ、「ああっ、そこにあるわ。ほれ、お兄ちゃんのポケット」と誰かの声。「どこに?」と言って振り返った途端、私のコートがふわりと翻り、ポケットのマジックテープにくっついているものが見えた。外してみると、母が置き忘れたと思いこんでいた手袋そのものだったので、5人でそれこそもう大笑いをして、お腹が痛くほどだった。

 そういえば、天満宮で私は暑く感じたので、コートを脱ぎ、綱敷の円座の上に置いておいた。その時に、母もたまたま手袋を外して私のコートの上に置いたのだろう。それで、お参りが終わった後、私は手袋に気がつかないままコートを着たから、こうなってしまったのに違いない。何はともあれ、丸く収まってよかった。それにしても、笑い過ぎで、まだ胸とお腹が痛い。これは文字通りの珍道中だ。

 第二は、神戸の中華料理店での出来事である。入って丸いテーブルに着いた途端、もうすぐ90歳になる母をはじめとして、60歳と59歳の妹たちが、方言丸出しで喋る。それも、まるで関西の漫才のようで、母はボケ役(もしかして、本物かもしれない)、長女はツッコミ役、次女はとりなし役と、役割分担までして、まあそのかしましいことといったらない。

「あれ、そんなことするんがけ。」
「ほやほや、そうするがやちゃ。」
「なーん、そんなこと、ないっちゃー。」
「ほな、そうしられ。」


 という調子である。北陸各地の方言で、しかもそれらが入り交じって高速で話されるものだから、男の私が口を挟む隙間もないし、こういうときに標準語で喋っても文字通り弾き飛ばされて、全く役に立たない。注文を取りに来たレストランの人は唖然として「これはどこの外国語だろう」という顔で見回していた。私が標準語で注文しだすと、ほっとしたような顔で、メニューの説明をしてくれた。








 母と生まれ故郷を訪問










(平成30年11月26日著)
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