1.栃木への旅
栃木秋祭りに行ってきた。私は栃木県といえば、日光や那須には良く行ったり、たまには泊まったりするが、栃木市はその途中にあるいわば通過地であるため、これまで電車を降りたこともなかった。ところが今回は、2年に1度開催されるお祭りで、人形を乗せた絢爛豪華な山車が出るという。そこで、その最終日である11月11日(日)に写真を撮りに行った。北千住駅から東武鉄道の特急スペーシアに乗り、わずか1時間という近さである。
特急の中で、「そういえば、栃木県の県庁所在地は宇都宮市で、なぜ栃木市ではないのだろう。」ということが気になり、インターネットで調べた。そうすると、山形県令から福島県令を経由して栃木県令となった三島通庸(その後、警視総監で亡くなる)が、その当時、自由民権運動が盛んだった栃木市を敬遠して、宇都宮市に県庁を持っていったということがわかった。なんともはや、明治の初期らしい強引なやり方である。でも「そのおかげで」などというと語弊があるかもしれないが、近代化とは一線を画した江戸情緒あふれるしっとりとした街並みが残ったようだ。この話を聞いて、山口県の萩の街を思い出した。あそこも、明治以後は山口市に県庁が置かれて、維新の英雄を輩出した萩は置いてきぼりにされたが、そのおかげで、維新に活躍した英雄の家がそのまま残っている。何が幸いするかわからない。
2.絢爛豪華な山車
栃木駅に降り立つと、祭りのパンフレット(
表紙、
会場周辺図、
会場案内図、
山車等案内、
主なみどころ、
秋まつり日程
)を配っていた。それを見て、お祭り会場の「蔵の街大通り」へと歩いて行く。大きな江戸型人形山車が林立しているのが見えてきた。栃木市のHPによると、
「このまつりは、見事な彫刻と金糸銀糸の刺繍をほどこした絢爛豪華な江戸型人形山車が蔵の街を巡行するもので、明治7年より、慶事や祝典にあわせて行われ、市制施行を境に概ね5年ごとに開催されてきました。神社の祭りではなく、江戸との舟運で栄えた『小江戸とちぎ』の当時の商人たちの心意気と財力で作り上げてきたこの祭りの伝統は、蔵の街並みとともに受け継がれ、現在では隔年開催となっております。江戸末期から明治時代にかけて作られた9台の山車は、江戸山王祭に参加していた静御前の山車を筆頭に、3代目原舟月などの名工の手による人形を載せており、6台が栃木県指定有形民俗文化財になっています。」とのこと。
そのおかげで、こうして見物させてもらっているというわけだ。江戸の山王祭は、今でこそ、このような豪華な山車は一つも見当たらなくなっているが、かつては、こういう立派なものだったのかと、感慨深いものがあり、江戸期の文化水準の高さに改めて感心し、同時に失われた江戸文化そのものに思いを馳せた。この山車は、将軍の上覧に供するために江戸城内へ入るときに、門でつかえないよう、最上階の人形の身体が山車の中へと収納されて高さがその分だけ低くなるように作られている。現在、その機能は、道路の途中にある電線を避けるために実際に使われているというから、面白いものだ。
さて、その江戸型人形山車を地図に並んでいた順に南から北へと書き出すと、【室町の桃太郎】、【倭町二丁目の神武天皇】、【倭町三丁目の静御前】、【万町一丁目の劉備玄徳】、【万町二丁目の関羽雲長】、【万町三丁目の張飛翼徳】、【嘉右衛門町の仁徳天皇】、【泉町の諌鼓鶏】、【大町の弁慶】となる。この他に山車ではないが【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】が展示されていた。前日に来れば、【万町一丁目の天照大神】と【万町二丁目の素盞嗚尊】が見られたようだ。
午後2時から山車が動き出すようだが、それまでは蔵の街大通りに山車が並べられている。それを南から北へと撮って行き、次に動き出してからまた撮った。まずは、【倭町一丁目の雄獅子、雌獅子】であるが、これだけは道端に展示されているだけで、山車はない。明治6年頃の作で、厄除け、和合、火防の願いが込められているそうだ。なぜ山車がないのかは聞きそびれたが、夜になるとこの二つの獅子の間に提灯を持って立つ姿の私自身の写真を撮っていただいた。良い記念になった。改めて、お礼を申し上げたい。
それから、【室町の桃太郎】である。これは、明治38年作の県指定有形民俗文化財であり、総合的に見て、私が最も良いと思った山車である。桃太郎人形は、「日本一」の旗を背中に挿した童顔で「日本一」の旗を背中に挿した童顔で、素朴な表情をしている。山車の前に置かれている囃子座は小松流で、屋根がなくて外に出ている。錫杖を持って行列の先頭に立って歩く手古舞衆(注)というお嬢さん方の数が揃っていて可愛いし、何よりもユニークなのは、2人の鬼である。その「手作り感」がとても良いし、皆で写真を撮るときなどはそのうち1人が寝転ぶという茶目っ気ぶり。また、その前に大きな御幣のような棒を持って乱入して振り回す男女2人もいて、皆で大笑いしている。とても仲が良い町内だなと、誠に微笑ましく思った。
(注)「手古舞(てこまい)衆」というのは、川越祭りの用語
【倭町二丁目の神武天皇】逆光になったが、神武天皇の山車があった。明治38年作の県指定有形民俗文化財とのこと。四囲の幕には赤地に金の龍が描かれていて、神武天皇の人形が持つ金ピカに光る八咫烏が太陽と重なって実に神々しい。これが動き出すと、八咫烏がゆらゆら揺れてますます有り難みが増す。その前に4人の手古舞衆のお嬢さんたちは日本髪姿で和風だから、これまた神武天皇像と良くマッチしている。平砥流のお囃子が力強く鳴り、「ああ、お祭りだなぁ」と思う。
【倭町三丁目の静御前】は、嘉永元年(1848年)作の県指定有形民俗文化財。四囲の幕には、二段目が緑地に雲模様、三段目が赤地に金で若松模様が描かれている。山車の前には、ひょっとこのお兄さんが剽軽な踊りを披露していて、その脇には姉さんかぶりの手古舞衆のお嬢さんたちがいる。神武天皇の日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがやや武家風だとすると、こちらは茶摘み娘のような非常に庶民的な感じの手古舞衆のお嬢さんたちである。衣装一つでそれほどの個性の違いが見て取れる。ただ、静御前は公家風の烏帽子をかぶっているので、それと対比すると、なかなか面白い。
【万町二丁目の関羽雲長】は、明治26年の作で、同じ町内の日本武尊や万町三丁目の素戔嗚尊などと同じ作者であるが、これら2つが県指定有形民俗文化財なのに、これはそういう指定有形民俗文化財には指定されていない。途中で原型をとどめないほどの破損でもあったのだろうか。よくわからない。聞きそびれた。関羽雲長像そのものは、中国風の槍を縦に構えていて目立つ。それに、山車の周りを彩る幕には赤地の背景に金色の糸で羽の生えた飛龍が刺繍で描かれていて、スコットランドのドラゴンに似ている。どちらも想像上の動物だから、まあ目くじらを立てるほどのことはない。いずれにせよ、誠に力強い限りの刺繍である。こちらは、手古舞衆のお嬢さんたちというよりは、いなせないでたちの若衆(?)が目立っていた。
【万町一丁目の劉備玄徳】は、明治26年の作で、中国風の冠を被っている文人様の像であり、漢王朝の始祖である劉備玄徳だろう。山車の周りを彩る幕には関羽雲長の山車と同じ飛龍が刺繍で描かれていると思ったら、作者はこれと同一の三代目法橋 原舟月だった。いやいや、それどころか、神武天皇も静御前も張飛翼徳も、皆同じ作者である。本日は見られなかった天照大神と素盞嗚尊もそうだという。このうち4体が県指定有形民俗文化財となっている。現代の目から見ても写実的で実に美しい人形である。
【泉町の諌鼓鶏】は、「人型の人形」ではなくて「鼓に乗った鶏の人形」であることが面白い。これが曳きまわされていくと、ものすごく存在感があって辺りを睥睨するかのようだ。これには説明があって、「天下泰平の象徴で、良い政治が行われ訴えを聞く太鼓を叩く者がなく鶏が太鼓に巣を作ったという故事」からきたものだという。かつての手古舞衆のお嬢さんたち(?)が元気に縄を引いて頑張っていた。この調子で高齢者の模範として、それこそ足腰が立たなくなるまで、続けていっていただきたいものだ。
【万町三丁目の張飛翼徳】は、明治26年の作。髪が両側から迫って顔の半ば以上を覆っているので、人形の表情を窺うのは難しいほどである。遠くから見ると、鼻しか見えない。そして、額に犬の面のようなものを付けているので、ますます剣呑に見える。ついでに言うと、四囲の幕には虎が刺繍されていて、おどろおどろしい。顔については、夜になってライトアップされて、ようやく見ることができた。
【大町の弁慶】は、明治初期の作で、作者は不明だが栃木市指定有形民俗文化財である。例の弁慶姿で、薙刀を斜めに構え、これから切って捨てるぞとでも言いそうな迫力がある。それはとっても良いのだが、人形の難点としては、顔の表情がいかにも素人が作ったと思える造作なのである。しかも、腕に凸凹があって、あまり美しくない。少なくとも腕に付いては、弁慶らしくボディビルダーのようなムキムキの筋肉を付けられないものか・・・いやいやそうすると、せっかくの民俗文化財の指定が取り消されるかもしれない。余計なことを言ったかもしれないが、明治初期といえば既に150年は経っている。今や立派な文化財である。こちらも、行列の先頭には日本髪を結った手古舞衆のお嬢さんたちがいて、とても可愛い。
【嘉右衛門町の仁徳天皇】は、栃木市指定有形民俗文化財であり、非常に印象に残るお顔をした人形である。仁徳天皇が、威厳のある顔にも見えるし、やや憂いを帯びた顔にも見える。天皇というお立場を表裏共に表現しているように思えるのである。この山車に付いていくと、蔵の街大通りを左に曲がって、銀座通りに入り、巴波川(うずまがわ)の方へと向かった。銀座通りには電線が縦横に走っている。どうするのだろうと思っていたら、仁徳天皇像がするすると下がって山車の中に収納され、おじさんがその脇で先が三角形になっている木の棒を構えている。電線がある所に来るとそれを使って電線を上に持ち上げて通過している。なるほど、うまくできている。そうやって銀座通りを突っ切り巴波川に架かっている幸来橋に至り、それを渡り切ると思いきや、橋の向こう側でUターンした。
おやおや、どうするのだろうと思っていると、また銀座通りを通って別の山車である万町一丁目の劉備玄徳がやってきた。そうして橋の上で嘉右衛門町の仁徳天皇と向かい合う。すると、手古舞衆のお嬢さんたちがお囃子衆の台に上がって、黄色い声を張り上げて、自分の町内の名前を叫んでいる。ああ、これは川越祭りでいう「 曳っかわせ」というものではないか。この栃木祭りでは、「これらの絢爛豪華な山車とともに囃子が競演する『ぶっつけ』では、山車を寄せあって日頃の練習の成果を競い合い、その盛り上がりは、まさにこの祭りの醍醐味といえます。」とされている。遠く秋田の角館のお祭りでは、道を譲れ、譲らぬという交渉人のやり取りがあって揉めると聞くが、こちらではお囃子の競い合いで平和に勝負を決するようだ。お祭りらしくて、なかなかよろしい。何回か見たが、しばらくしてどちらかが道を譲って去っていく。なぜ、どういうことで一方が譲るのか、未だによくわからない。これも地元の人に聞きそびれた。
3.遊覧船に乗る
幸来橋のたもとから巴波川(うずまがわ)沿いに散策路が続いていて、それに沿って行くと、蔵の街遊覧船乗り場がある。所要時間わずか20分ほどである。菅笠を貸してくれるので、それを被って待っていると人数が揃ったと見えて、20人乗りほどの平底の舟に案内されて乗り込んだ。そこから船頭さんがゆったりと漕ぎ出す。川の水の透明度が高くて、鯉らしき大きな魚が行き交う。そのまま幸来橋まで行くと、橋上ではちょうど劉備玄徳と張飛翼徳の山車が対決をして「ぶっつけ」の最中である。お囃子の響きとぶっつけの女の子の声、それを囃す人々の怒号などが鳴り響いている。
そこで巴波川をUターンして、舟は船着場の前を通り過ぎ、橋の向こう側の瀬戸ヶ堰の手前まで行く。そこは川幅が少し広がっていて、全長が1mはあろうかというくらいに大きい鯉がたくさん生息している。また、色々な種類の鴨がいる。そこへ、出るときに船着場で鯉の餌を買った人がそれを投げ込むと、多くの鯉や鴨が面白いほどに寄ってきて、争って食べる。最後に、船頭さんが美声を披露して、船着場に戻る。5月になると、この川を挟んで数多くの鯉のぼりが飾られるそうだ。
4.蔵の街並み
いただいたパンフレットによると、「江戸との舟運そして日光例幣使街道の宿場町として栄えた『小江戸とちぎ』には商人の心意気が残っております。明治7年、県庁構内(当時栃木町)で行われた神武祭典には東京日本橋の町内から購入した現在の山車が参加し、明治26年、栃木県最初の商業会議所開設認可に係る祝典では計6台の山車が競演し、町をあげてのお祭りとなりました。豪華絢爛な山車が蔵の街並みを巡行する様は栄華を極めた往時の栃木を彷彿とさせます。」とある。
なるほど、ここは川越のような町なのだということで納得し、それに日光例幣使街道の宿場町だということで、二度納得した。それにしても、川越のような土蔵造りばかりだと思ったら、やはり幕末に3度の大火と1度の水戸天狗党による兵火に見舞われたそうだ。そういう悲しい歴史の上での土蔵造りなのである。なお、この巴波川は舟運の中心地だったが、明治期の鉄道の開通によって、衰退したらしい。
5.夜のお祭り
さて、夕食を食べてお祭り会場に戻ってみると、空がすっかり暗くなっていて、その中をしずしずと山車が進んでいる。それぞれの山車は提燈が下がり、人形にはライトが当てられて、昼間の姿とはまた違った幻想的な美しさがある。それに笛と太鼓のリズミカルなお囃子が耳に心地よく聞こえてくる。道路周辺の夜店もお祭りの盛り上がりに一興を添えている。2台の山車の「ぶっつけ」が始まった。女の子たちが山車に登り、その周りで若衆がてんでに持った縦長の提灯を上下に揺らして大声を上げる。昔はともかく、今はとても友好的で、お互いに対するエールの交換のように聞こえてくる。昼間とは違って、夜は余計なものが目に入らないから、純粋にお祭りの世界に没入することができる。いや、とても楽しい。
室町の桃太郎の一行に出会った。ライトアップされた桃太郎人形が夜空に輝いている。手古舞衆のお嬢さんたちに、昼間とはまた違った艶やかさを感じる。おやおや、鬼の前で小さな子供たちがポーズをとっていて、それがまた実に可愛い。
そういうことで、十分に楽しんだことから、午後9時の終了を待たずに午後8時半発の特急で帰ることにした。それにしても、毎回思うことだが、この地に生まれてこのような伝統的な祭りに参加することができる地元の人は、本当に幸せである。私のように全国各地を巡って来たために伝統行事のある故郷というものがなく、その挙句に東京に定住してしまった人間には、とても味わえない幸福である。もちろん、その反面として、伝統の灯を絶やさないための家族や町内全部の人々による見えない努力や負担があるとは思うが、どうかこの伝統行事を次代に引き継いでいっていただきたいと、心から願うものである。
(平成30年11月11日著)
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