私は、東海道新幹線に乗って通過するたびに気になっていたのが、浜松駅前にある特徴的な高層ビルである。一見して200mを超えるレンガ色のハーモニカのような形のビルで、同じ静岡県でも県庁所在地である静岡駅には、こんなに高い建物はない。これは、いったい何だろうと思っていたからである。ところがこのほど、機会があって、浜松を訪れることができた。いつものように、あまり時間がない忙しい旅なので、楽器博物館、浜松城、ジオラマパーク、そしてこの高層ビル(アクトシティ浜松)を見てきた。このほか時間があれば、井伊家の菩提寺である龍潭寺と、地元の自動車メーカーであるスズキ歴史館にも行きたかったのだが、それぞれ、車で片道45分もかかるとか、事前の予約が必要とか言われて断念した。
まずは、楽器博物館に行った。イヤホンを貸してくれて、その楽器の前に行って掲示してある番号を押すと、音楽や解説が聞こえてくるという仕組みだ。解説はもちろん有り難いが、それ以上に、目の前の楽器からはこんな音が聞こえてくるのかと納得できるのがよい。だいたいが見かけ通りの音だったが、中にはその武骨な外観とは想像ができないほどに繊細な音が聞こえてきて、面白い。係りの人には、全部を聴いて回ると、2時間かかると言われた。
1階には、アジアや中近東の民族楽器が展示してある。入り口から入って正面にあるのは、ジャワとバリ島のガムラン音楽の楽器である。打楽器だが、お鍋そのもの並んでいるような楽器もある。また、私が先年バリ島に行ったときに観た「バロン劇」に出てくる善の神バロンのようなものまであった。まさかこれは楽器ではないだろう・・・日本で言えば、お獅子のようなものである。そうかと思えば、近くに仏像と象が表に彫られた不思議な楽器があった。これはタイのものかと思ったら、やはりそうだった。更に先へと進む。おやこれは、古代中国の曾侯乙墓から出てきた「編鐘」のレプリカだ。昔、東京国立博物館で開催された特別展「曾侯乙墓」で見たことがある。大中小の数多くの青銅製の鐘が、青銅の支えがある3段の木枠に並べられた楽器だ。このように、どうも私は、音楽や楽器よりもむしろ民族文化に、ついつい興味が向いてしまう。
地下1階に降りると、まずは中南米やアフリカの楽器が置いてある。弦楽器の伝播の地図がある。中近東のペルシャで生まれた「バルバット(?)」が、西へ渡って西アジアの「ウード」になり更に西の欧州の「リード」になった。そのバルバットは、東へ渡って中国の「ビバ」に、それが日本に伝来して「琵琶」になったそうな。平家物語の引き語る琵琶も、シルクロードの伝来物だったとは知らなかった。 それから、アフリカの楽器もある。これらは、音色はともかく太鼓を叩く姿などその素朴な生活を表す造形が面白い。また、木琴のような打楽器の下を覗くと、色々な大きさの瓢箪が付けられていて、共鳴器のように使っていた。
地下1階の奥の部分には、とりわけピアノの歴史がよくわかるようになっていて、その原型のチェンバロから、これに音の強弱を付けられるようにしたピアノの先祖に当たる「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」に始まり、現代のピアノに至るまで技術的改良が加えられてきた経緯が良く分かる。感心したのは、アクション(鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組み)の改良の歴史で、アップライト型ピアノの時代とグランド型ピアノの時代への移行と、アクションがウイーン式、フランス式、最後にイギリス式へ進化していく過程を、実際にその模型で知ることができる。音を出してみて、よくわかった。
こうしてピアノはもちろん、そのほか管楽器も含めて、どうしてこれほどまでに体系的に揃っているのかと思ったら、同博物館のHPによると、「楽器収集家であったアメリカ人、ロバート・ローゼンバウム氏のコレクションが中心で、18〜19世紀の管楽器がそろっています。T.スティンズビーSr.作のイギリスのオーボエや,プロイセン王国フリードリヒ大王ゆかりのフライヤー作クヴァンツ型フルート、フランス ブルボン王朝の王室御用達楽器製作家F.E.ブランシェ2世作のチェンバロなど,世界的名器も含まれています。ウィーンのワルターやシュトライヒャー、ロンドンのブロードウッドなど名工の手による19世紀のピアノ(フォルテピアノ)は圧巻です。A.サックス自身の作のサクソフォーン、19世紀イギリス製のミンストレル・バンジョーも世界的に貴重なコレクションです」とのこと。なるほどと納得した。
次に浜松城に向かう。当時の遺構は野面積みの石垣だけで、天守閣そのものは戦後のコンクリート造りであるから文化財としての価値はない。しかし、なんと言っても徳川家康の根拠地であったし、その後に江戸幕府が成立してからも、藩政300年の間に歴代浜松城主が25代もころころと代わったが、水野忠邦などその多くが幕府の重役に出世した。老中に5人、大阪城代と京都所司代に各2人、寺社奉行に4人という具合で、「はま松は 出世城なり 初松魚」(松島十湖)と詠まれたという面白いお城である。
浜松城の天守門を140年ぶりに復元し、加えて今年は天守閣の再建60周年記念だそうだ。天守閣そのものは3層構造で、他の城の天守閣を見慣れた目には、非常に小さく見えるが、登ってみると、見晴らしは非常に良い。ただ、最上階の周囲を金網で覆っているために、写真が撮れないのは、誠に残念である。手を伸ばして金網の上から数枚を撮ったが、疲れる。管理者の方で、金網のところどころに、写真用の穴を開けてくれればと思った次第である。
かねてより観てみたいと思っていたのが、家康が三方ヶ原の合戦直後に絵師に描かせたという自らの憔悴した姿である(本物は、たしか徳川美術館にあった)。言い伝えによると、家康はこれを見て常に自分を戒めたという。なるほど、油断したり奢ることなく、いつも自省しつつ慎重に行動するというのは、いかにも家康らしい。ところで、その脇にあった「徳川家康公400年記念事業として制作された30歳前後の等身大家康像。 『手相・しわ・毛穴』まで再現され、今までにない家康公の姿を披露しています。」には、そのあまりの迫真さにビックリした。
三方ヶ原の合戦(元亀3年:1572年)は、家康の生涯で最大の敗戦で、南下して通過しようとする武田信玄の騎馬軍団2万7千に対し、家康が1万2千(8千という説もある)で挑んで一蹴された戦である。この戦いについては、次のような色々な伝承がある。曰く、
(1) 「小豆餅」「銭取」という地名の由来である。家康が三方ヶ原で敗戦の直後に逃げてきたところ、ある茶店に小豆餅を売っていた。それを口にしていたところ、武田氏の軍が追いかけてきた。そこで家康は、代金を払わないまま逃げ出した。茶店番の老婆はこれを数キロも追いかけて、遂に支払ってもらったという。その茶店があったところが「小豆餅」(あずきもち)と、代金を払ってもらったところが「銭取」(ぜにとり)というらしい。いずれも現存している。
(2) 「白尾」というのは、三方ヶ原の敗戦で、白い尾の馬に乗って辛くも逃げてきた家康が、八幡神社の楠木の洞穴に逃げ込んだ。ところが白い尾が出ているので、村人がそれを指摘したことから、難を逃れた。家康は恩賞としてその村人に「白尾」(しらお)という苗字を与えた。
(3) 「小粥」というのは、三方ヶ原の敗戦で逃げている途中の家康が空腹になり、とある農家に逃げ込んだ。ところが食べるものといえば、粥しかない。それを何杯も食べた家康は、お礼として後に「小粥」(おがゆ)という苗字を与えたという。いずれも話としては面白いが、どれも出来過ぎていて、眉唾物である。
さて、そこから少し歩いて、ザザシティという建物の中にある「浜松ジオラマファクトリー」というところに行った。こちらは、山田卓司さんという地元のジオラマ作家の作品を常時展示しているところで、駄菓子屋さんの一画を借りている風である。スターウォーズやゴジラなどの日本の怪獣もの、スタジオジブリの「天空の城ラピュタ」に出てくるロボットなどがある。それに、郷愁をそそる「昭和シリーズ」(主に昭和30年代が描かれている。)、例えば、扇風機の前で気持ちよく寝入っている男の子、アイロンがけのお母さん、セミ採りの男の子などがある。そしてこれは一般からの応募作品らしいが、農家の嫁入りや卒業を描いた作品もあった。
最後に、高層ビル(アクトシティ浜松)に行ってみた。そのHPによると、「大・中ホールやコングレスセンターなどを持つAゾーン、オフィスやホテル、専門店街のあるアクトタワーのBゾーン、展示イベントホールのCゾーン、楽器博物館・研修交流センターのあるDゾーンの4つのゾーンに分かれており、Bゾーンは民間が管理する民間施設、その他は浜松市から管理委託を受けて公益財団法人浜松市文化振興財団が管理する市施設となっております。アクトシティの象徴でもあるアクトタワーは、地上 45階、高さ212.77mの超高層ビル。 低層部にはガレリアモールとショッピング街・レストラン街で構成される『アクトプラザ』、中層部はオフィス、高層部には『オークラアクトシティホテル浜松』があり、人と環境の融和への配慮が随所に生かされた魅力的な都市空間となっております。
浜松市の施設は、日本初の4面舞台を持ち、本格的なオペラや歌舞伎も上演できる大ホール、フランス・コワラン社のパイプオルガンを備えた音響の優れた中ホール、国際コンベンション等多用な利用が可能なコングレスセンター・研修交流センターの会議室、広さ3500平米を有し展示会や様々なイベントを開催できる展示イベントホールの貸出施設と、公立では全国で初めての楽器専門の博物館である『楽器博物館』、そして音楽の人材育成を図る『アクトシティ音楽院』から構成されております。」という。
何のことはない。最初に行った楽器博物館は、アクトシティ浜松の一部だったのだ。交差点のはす向かいにあるから、分からなかった。それはともかく、ハーモニカに当たるアクトタワーの最上階には展望台があるというので行ってみたが、残念ながらこの日は雨模様の曇りで非常に視界が悪い。ちょうど夕食時だから、30階のレストラン、パガニーニに行き、そこで食事をした。ちょっとしたコースがあって、なかなか美味しく食べられた。ビルの谷間に、先程、訪れた浜松城が見えた。
ところで、このアクトシティ浜松について調べてみると、バブル経済の最後の1991年に着工されて1994年に完成した。市有の大中ホール、コングレスセンター、博物館、研修センターと、私有の複合商業ビル(アクトタワー)から成る。アクトタワーは高さが212m、45階である。静岡市で最も高いビルが葵タワーの125m、25階であるから、これを超えて静岡県で最も高いビルとなっている。静岡市への対抗意識からか、それにしても浜松市は頑張ったものだ。当初の事業主体は、浜松市と第一生命、三菱地所である。現在の運営主体は、市有施設は浜松市文化振興財団、私有施設はオリックス傘下の子会社である。市有施設は、音楽コンクールやサーカスの公演などの文化施設の運営がうまくいっているそうで、税金による赤字補てんはないようだ。私有施設については、いったんはバブル崩壊によって不良債権化しかけたことから、当初の施主の第一生命がオリックスの子会社に売却したようだ。しかしその後、浜松市が政令指定都市となったことなどから稼働率は回復し、今では入居率が95%と、過去最高を記録しているという。結構なことである。また、アクトタワーにあるホテルオークラ浜松は、当初はホテルオークラの直営であったが、2004年にオークラの名前を残しながらオリックスの運営になっているとのこと。ただ、レストランは、桃花林、さざんか、山里など、ホテルオークラ東京と同じ名前のため、私には馴染みがあるというか、運営主体が違っているとは思わなかった。レストラン・パガニーニの料理とサービスは、なかなか良かった。
(平成30年7月7日著)
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