1.若草山焼き
奈良の若草山焼きを見物に行ってきた。一度は見てみたかったのだが、何しろ寒い季節に行われるし、加えて例年その頃は仕事が忙しい時期に当たり、なかなか行く機会がなかった。ところが今年は体調はよろしいし、幸いにして十分に時間があったので、それでは見物して来ようと思ったのである。現地の状況がある程度事前に見当のつく行事なら、往復の交通機関の切符と宿、そして有料観覧席があるならその切符を手配してから行くようにしている。ところが、今回は寒い季節に行われる夜のイベントでもあり、風邪をひいたり転んで怪我でもしてはかなわないので、安直にツアーに乗ることにした。そのパンフレットの写真によると、漆黒の空の下、若草山の上空に花火が上がり、ライトアップされた寺社の建物の背景に、山焼きの紅蓮の炎が浮かんでいる。こんな写真が撮れたらいいなというわけだ。それだけでなく、山焼きの翌日には、京都で4つの社寺を訪れるそうだ。青龍、朱雀、白虎、玄武の、都を守るいわゆる四神である。このうち、八坂神社と上賀茂神社はよく知っているが、松尾大社と城南宮には行ったことがない。だから、面白そうだという気がしたのも事実である。ところが問題は、新幹線なら楽なのに、バスで行くツアーだったことだ。まあ、この冬の寒い季節だから、道路はそれほど混まないだろうと期待して、申し込んだ。
当日朝、新宿に集合して8時半にバスに乗り込んで出発した。私は、中部・関西方面に行くにはもっぱら新幹線を使っているので、新東名高速道路は通ったことがない。だから、バスの旅を楽しみにしていた。東名高速道路を順調に走る途中で仰ぎ見る真冬の富士山には、真っ白な冠雪がある。それが折からの快晴の青い空を背景に輝いて見え、文字通り感動するほどに美しい。期待通りだ。御殿場を過ぎたところで、いよいよ新東名高速道路に入る。道路は新しいし、ドライブイン内はまるでスーパーのように商品で溢れている。30年ほど前のこと、私は小さい車に家内と子供たちを乗せて高速道路を走り、当時はまだ粗末な設備のドライブインでよく休んだものだが、その時代とはまるで大違いだ。バスは更に進み、名古屋市中心部を通らずに、伊勢湾岸自動車道に抜ける。巨大な吊り橋をどんどん走って、左手に昔は長島スパーランドと呼んだ娯楽施設が、まだあるではないか。でも、ジェットコースター中心のようで、昔とは様変わりだ。新名神高速道路に入り、甲賀の山を越える。その辺りで雪になる。これが奈良まで続いて山焼きが中止になったりすると、目もあてられないなという考えも一瞬、頭の中をよぎるが、「いやいや、私は晴れ男だから」と思ってそういう考えを振り払う。
さて、バスは奈良市内に入り、東大寺南大門脇の駐車場に停車する。雪がちらついているが、大したことはなくて、安心する。時刻は午後4時である。5時から若草山麓の「古都屋」で早目の夕食をいただいた後、その前で繰り広げられる山焼きを見物し、バスには7時20分に戻ってきてほしいとのことである。私は、せっかくだから、この際、東大寺の大仏さまを拝んで来ようと大仏殿に入った。そして大仏さまを正面から拝んで裏に回り、更に例の四角い穴が空いている柱をくぐる人を「あっ、やっている」とばかりに眺めて、直ぐに出てきた。それから手向山神社の方へと階段を上がっていき、そこから右手に曲がって若草山の裾野に出た。夕食会場の「古都屋」は、すぐその前だ。天候は曇りで、花火直前には雲一つない青空が見えてきた。これは良い。
現地でいただいた若草山焼き行事実行委員会作成のガイドブックによると、「若草山三重目の頂上には巨大な前方後円の鶯塚古墳があります。その昔、ここから出る幽霊が人々をこわがらせるという迷信が長く続いていたらしく、しかもこの山を翌年1月までに焼かなければなにか望ましくないことが起こるといったことで、通行する人が放火し、東大寺境内に火が迫る事件が再三起こりました。1738年12月に奈良奉行所は若草山に放火停止の立て札を立てましたが、その後も誰ともわからないまま放火が続きました。近隣社寺への延焼の危険が絶えず、江戸時代末期には若草山に隣接する東大寺・興福寺、奈良奉行所が立ち会って山を焼くようになりました。このように山焼きの起こりは、山上古墳の鶯塚に葬る霊魂を鎮めるための祭礼というべきものであり、供養の為でもあったと言えます。」とあった。
その他、ネットでは、「若草山一帯の春日大社・興福寺と、東大寺との領地争いから始まった」とか、「早春にしばしば行われる原始的な野焼きに由来する」などという話もあった。上の実行委員会パンフレットの説では、春日大社が出てこない。ところが、当日の式次第では「春日の大どんど」より御神火が発したり、神事一切を春日大社が行っているし、そもそも春日大社の宮司さんがこのパンフレットに一文を寄せているので、むしろ興福寺や東大寺の影は薄い。わずかに「三社寺にゆかりの深い温食」として、名前が挙がっているのみである。真実のところはどうなのか、聞こうにも適当な人はいなかった。それでもパンフレットをよくよく見ると、「春日大社、興福寺、東大寺の神仏が習合し、先人の鎮魂と慰霊、さらには奈良全体の防火、世界の人々の平安を祈ります」とある。長い間に色々と変遷があったのだろうが、今では、春日大社が前面に出て、それを奈良県と消防団が支える観光行事となっているようだ。当日の式次第は、次のようになっている。
午後4時45分 御神火奉戴祭「春日の大どんど」より御神火をもらい受けます。」
午後5時05分 聖火行列出発「御神火が金峯山寺の法螺貝に先導され、山焼きに関係の深い三社寺と奈良奉行所の役人など総勢40名の厳粛な時代行列により、山麓にある野上神社まで運ばれます。」
午後5時15分 松明点火「春日大社の御神火を松明に点火します。」
午後5時40分 山麓中央の大かがり火に点火 「御神火は野上神社到着後かがり火に点火され、山焼き行事の無事を祈願する祭礼が行われます。続いて法要として、東大寺・興福寺・金峯山寺の読経の中、山麓中央の大かがり火に点火します。
午後6時15分 大花火打ち上げ
午後6時30分 山焼き一斉点火「奈良市消防団員が山麓中央の大かがり火から松明に火を移し、法螺貝、ラッパの合図で一斉点火します。
夕食会場の古都屋から出てきたのは、午後5時50分頃である。そのまま古都屋の前で見物する人も多かったが、私の場合はカメラを載せる三脚を広げるので、そんなことをすると通行の邪魔となる。それではどこか適当な場所はないかと見渡して、若草山の麓にもっと近づいて、その柵を越えたところで三脚を構えることにした。幸い、この日は柵の中に入ってよいし、適当な場所も見つかった。その間、風に乗って法螺貝の音や読経の声が聞こえてくる。気温は零度を下回っているようなので手先が寒い。手袋をした。午後6時15分になり、花火が打ち上げられた。打ち上げ場所が近いので、花火がシューッと上がり大輪の花を咲かせた瞬間、ドーンという音と身体に響く振動を感じる。
さて、愛用のキヤノンのカメラを構えて、「B」(バルブ)、つまりシャッターを常時開放にし、それにケーブル・レリーズを接続する。これのボタンを押している間だけ、シャッターが開くという仕掛けである。我々人間が花火を見ると、一瞬の残像が繋がって美しい像となる。ところが、カメラで数十分の1秒間だけシャッターを開けても、ほんの一瞬の点にしか見えない。そこで、バルブ状態でレリーズを使うのだが、手でやるものだからあまり短いと点になり、長すぎると火の玉のようになる。そこで、適当に手動ですることになる。その他、バルブを使わずに2分の1秒などの長いシャッターにすれば良いのだが、本日の花火は僅か15分間なので、試行錯誤している暇はない。私が以前持っていたオリンパスのカメラの場合は素人向けの製品だったから「花火モード」というものがあって、単にシャッターを押すだけで綺麗な花火が撮れた。ところがこのカメラは少し高度なものだから、そういう素人向けの便利なモードはない。私も、花火は年に1回、撮るかどうかというところだから、全く慣れていない。でも、この際、適当にやるしかない。
花火が始まり、そんな心許ない状態で、撮り始めた。暗い中だし、次の花火が大空の中でどのくらい広がるのかを想定してレリーズを押さないといけない。でも、やってみると何とか写っている。順調である。そう思ったその瞬間、とんでもないことが起こった。押し込んだレリーズのボタンが元に戻らないのである。やっとのことで元に戻した。その間、シャッターが開きっぱなしになるから、写った写真はまるで太陽のような火の玉となってしまった。こんなことがあるのかと思ったが、翌日、試してみたところ、1回も起こらなかった。原因は、零度を下回る低い気温のせいだったのかもしれない。とにかく、そうこうしているうちに、15分間の打ち上げは終わった。皆が盛り上がったのは、奈良公園の鹿を模したスターマインだったが、残念ながら写真はうまく撮れなかった。
それから、若草山に左右から火が放たれて、山頂に向けて燃え広がった。漆黒の空に、炎が揺らめく。幻想的な風景である。顔が少し暖かくなる。壮大な焚き火である。写真を撮るが、今度は幸いなことに、レリーズがフレーズしない。撮っているうちに30分ほどであっけなく終わってしまった。でも、山に近すぎて全体像が上手く撮れない。少し離れた春日野園地や、もっと遠くの若草山の南側に位置する高円山から撮るべきだったと思った。その他、奈良県庁の屋上という手もあった。ただし、県庁は予約が必要だそうだ。あるいは、平城京跡で行われる「奈良大立山祭り」の闇夜に浮かぶ巨像とともに写すという方法があったようだ。
なお、この若草山焼きは、一昨年は乾燥していて、普通なら30分は燃えるはずのところ、たった3分しかもたなかったそうだ。昨年は牡丹雪が降って湿っていて、ちっとも燃えなかったという。こうなると、もう笑い話の類いだ。では今年はどうかというと、前日から晴れて適度に乾燥し、雪もちらついて気温が低く、点火から30分、普通に燃えてくれたそうだ。
それは良かったのだが、そもそもこのツアーのパンフレットにあった「若草山の上空に花火が上がり、ライトアップされた寺社の建物の背景に、山焼きの紅蓮の炎が浮ぶ」というのは、実は合成写真だったのだ。現実には花火を打ち終わってからの山焼きだし、その炎のごく近くにあんな大きなライトアップされた寺社の建物があるはずがない。もしあったら、今頃は燃えてしまっているだろう。騙されたようなものだが、翌日の日経新聞を見ると、(1)山焼き、(2)花火、(3)ライトアップされた寺社の建物の3点セットの写真が載っている(下に掲げた2枚の上の写真)。全く見事に合成したものだが、読者を騙しているようなものだ。その点、朝日新聞大阪版を見ると、「燃え上がる若草山。手前は興福寺五重塔」という題名で「午後6時13分から7時31分までの17枚を合成」と、ちゃんと書いてある(下に掲げた2枚の下の写真)。こちらの方が正直だし、花火は合成の対象にはしていない。
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2.京の四社巡り
(1)八坂神社(青龍)
八坂神社は、東大路通と四条通との交差点に向けて建っている京都のシンボルのような社で、祇園祭の本拠である。私は、桜の季節になると、その裏手にある円山公園にはよく行って枝垂れ桜を愛でたものだが、1月に行ったのは初めてで、「いとすさまじきものかな」という感じである。
しかし、今回発見したのは、八坂神社には実に色々な「祇園さんの神さまたち」がおられるということである。素盞嗚尊を祀る厄除けの本殿のほか、例えば、 美御前社(お参りすると身も心も美しくなる)、疫神社(無病息災)、大国主神社(縁結び)、太田社(諸芸上達)、北向蛭子社(商売繁盛)、刃物社(刃物を扱う人の守り神であり、開運)などである。時代背景によって、庶民の色々な需要に応えようとしたものだろう。
今回、プロサッカーチームが、外国人監督以下揃って八坂神社本殿にお参りに来ていたのには驚いた。日本の神様の懐が深いのか、それとも外国人サッカー選手たちの唯一神信仰がいい加減なのか、私にはよくわからない。
(2)上賀茂神社(玄武)
別名「賀茂別雷神社」(かもわけいかづちのかみじんじゃ)で、9年前に家内と訪れた思い出の神社である。神社の一ノ鳥居の緋色が映えて美しい。広い境内を進んで行くと、右手に手作り製品のマーケットをやっている。そこを過ぎると、神様の使いである白馬がいる「神馬舎」があり、子供が人参を食べさせていて、それが誠に可愛い。外国人観光客を含めて、参拝客皆がニコニコしながら見守っている。
二ノ鳥居の前まで来たら、神主さんと巫女さんに先導された神前結婚式の御一行のお通りだ。新郎新婦さんの幸せそうな顔が通り過ぎて鳥居をくぐり、神域に入る。そして直行したのが「細殿」である。これは、400年の歴史ある建物だそうだ。もちろんその前には、上賀茂神社を特徴づける立砂(円錐形をした二つの砂の山)が置かれている。その裏手に回ると、本殿に通じる緋色が美しい楼門がある。それをくぐると、権殿と本殿だ、家内と来た9年前はあと7年で式年遷宮を迎えるというので桧皮葺用の桧皮を寄進したが、もうそれが使われているのだろう。何しろ時間が限られているバス旅行だから、のんびり感慨にふける間もなく、次の社に向かう。
(3)松尾大社(白虎)
次は松尾大社で、私はこれまで来たことがなく、これが初めての参拝となる。一言で松尾大社を評すると、「いかにも昔ながらの神社らしい渋い神社」である。上賀茂神社のような派手な緋色の楼門や鳥居などは一切なく、檜皮葺の地味な社がひたすら並んでいる。この日はまだ1月だったので、正面に色鮮やかな戌年の大きな犬の絵馬が飾ってあったものの、それ以外は誠に平凡な印象である。
ところが、その中でひとつだけカラフルなお酒の樽が並んでいる一画があった。何かと思ったら、この社は、お酒の神様なのだそうだ。というのは、5世紀頃に朝鮮から「秦氏(はたし)」の一団がこの地に入植した。その秦氏が得意としていた技術の一つが、酒の醸造だったからだという。ちなみに、飛鳥から奈良、平安時代にかけて上賀茂神社一帯にいた豪族は賀茂氏といい、桓武天皇が平安遷都に踏み切った後は、松尾社の秦氏とともに、皇室を支えたとされる。よって、「当社(松尾大社)と賀茂神社とを皇城鎮護の社とされ、賀茂の厳神、松尾の猛霊と並び称されて、ご崇敬はいよいよ厚く加わるに至りました。」(同社HP)とのこと。
ちなみこの日は、赤ちゃんの初宮参り(産土参り)を、3組も見かけた。この零度近い中、生まれて僅か1月ほどの赤ちゃんと連れ回して大丈夫かと思ったが、両親と双方の祖父母が笑顔で写真を撮り合っている。微笑ましい風景だ。なお、重森美玲作の庭園「松風苑」があったようだが、残念ながら観る時間がなかった。また次回にしよう。
(4)城南宮(朱雀)
京都の伏見にある城南宮については、私は全く知らなかったが、鳥羽伏見の戦いの舞台だったようだ。そのHPには、「明治維新を決定づけた鳥羽伏見の戦いは、城南宮の参道に置かれた薩摩藩の大砲が轟いて始まったのであり、錦の御旗が翻って旧幕府軍に勝利すると薩摩の軍勢は城南宮の御加護によって勝利を得られた、と御礼参りに訪れました。」とある。
「都の守護と国の安泰を願って、平安遷都の際に京都の南に創建されてから1200年。城南宮は、引越・工事・家相の心配を除く「方除(ほうよけ)の大社」と仰がれています。家庭円満や厄除や安全祈願、また車のお祓いに全国からお見えです。また古くより、住まいを清める御砂や方角の災いを除く方除御札を城南宮で授かる習慣があります。そして曲水の宴が行われる神苑は、しだれ梅、椿、桜、藤、躑躅、青もみじ、秋の七草や紅葉に彩られ安らぎの庭になっています。巫女神楽の鈴の音が毎日響く城南宮をお訪ねください。」とある。
その神苑に入ってみた。なるほど、梅や桜、曲水の宴の時期にはさぞかし美しかろうという風情であるが、残念ながらこの日は真冬の気温が低い時期だったので、まさに「すさまじき」景色であった。ただ、鳥羽伏見の戦いを描いた絵巻物のある建物は、とても良かった。外の景色を見るより長い時間をかけて、絵巻物を覗き込んだ。
(5)京都五社巡りのいわれなど
城南宮の「京都五社めぐり ー 四神相応の京(みやこ)」の説明によると
「千年にわたって続いた京の都は、「四神相応」と讃えられています。方角を司る「四神」、すなわち玄武(北)、蒼龍(東)、朱雀(南)、白虎(西)が守護する土地として、ここに都が造営されたのです。
うらうらと朝日が昇る東山の麓に八坂神社、広々とした桂川を渡った西に松尾大社、水清き鴨川が流れ出る北に賀茂別雷神社(上賀茂神社)、鴨川と桂川が出会う南に城南宮、そして、平安神宮の建物は、平安京の大極殿さながらに建てられ、東に「蒼龍楼」、西に「白虎楼」がそびえます。
古来より人々は都の要所要所に鎮まるお宮に祈りを捧げ、それに応えて神々は人々の暮らしを守り、願いを聞き届けて来られました。四季の祭礼行事と美しい自然に彩られた京都のお社を巡れば、神々の息吹きに触れ、清々しい気持ちになります。元気をもらいに平安京にゆかりの深い神社にお出かけください。そして神様のご加護の印の御朱印を集めてみてはいかがですか。」とあって、「五社めぐり四神色紙」なるものを勧めている。
ああ、なるほど、そういう仕組みだったのかと、やっと納得した。そういえば、各社で僅か40分間しかない参拝時間で、どうやって御朱印をもらおうかと腐心している人がおられた。ちなみに私の場合は、もう物には一切こだわらないので、そういう一種の「物欲」には無縁である。残すとしたらデジタルの形式にしている。そうすると、誠に清々しい気分になる。例えば、昨年はアルバムにして20数冊分の写真をデジタル化してすっきりした。今年は、書類と本のデジタル化に手を付けようかと思っている。そして最終的には、ハードディスク1個になるのが理想である。
(平成30年1月27・28日著)
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