悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 湖東三山 紅葉の旅( 写 真 )は、こちらから。


 土曜日に名古屋に用があったので、それを済ませ、その日は金山駅近くに泊まって、翌朝、名古屋駅から東海道新幹線で米原駅に向かった。ちょうど紅葉のシーズンだから、湖東三山などの名刹に行って、紅葉に囲まれたお寺の写真を撮るのが目的である。ちなみに私は、滋賀県、特に琵琶湖の東部地区には、先日、彦根城を見るために彦根に泊まった以外はここ何十年も行ったことがない。

 今回、米原駅で降りてまずびっくりしたのは、駅とその周辺にはほとんど何にもなかったことだ。レストランはなくても、せめて喫茶店くらいあるだろうと思ったが、それすらない。寂れているどころかそれ以上で、これが日本の鉄道路線の中で最も賑わっている東海道新幹線の駅の一つなのだろうかと、思わず駅の表示を見てしまったほどである。外にいると寒いので、これから乗ろうとする湖国バスの待合室で待とうと思って、その事務所をやっと見つけた.しかし、誰もいないし、まるでうさぎ小屋の類いのごく小さな建物で、待合室など望むべくもない。呆然とその場に佇んでいると、脚が寒くなって来た。そこで、また自由通路に戻って外気に当たらないところで待ち、時間になったので、再び事務所に行った。その前に突っ立っていると、やっとバスが来た。乗り込む前に、バスガイドさんに湖東三山コースであることを確認し、料金8000円を支払う。このガイドさんは、なかなか愛想が良いし、話すテンポと内容が面白い。これは良いガイドさんに当たったと思った。


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 出発してまず松峯山金剛輪寺(こんごうりんじ)に着いた。いただいた資料では「金剛輪寺 国宝の本堂は、鎌倉時代の代表的な和洋建造物である。堂内には、秘仏本尊聖観音をはじめ14の仏像が安置され、三重塔及び二天門も重文指定である。」とある。風車を持った小さなお地蔵さんが、聞くところによると2000体もあって、独特な雰囲気がある。赤と黄色の紅葉が美しい。二天門に大きな草鞋が掛かっている。すごい急坂を我慢して登りに登って、ようやく本堂に達した。途中の参道の苔の緑が美しく、目にしみるようだ。本堂には血染めの紅葉なるものがある。確かに、真っ赤だ。写真に撮ったが、この真っ赤から赤色が褪せていくグラデーションの感じがなかなか出ない。腕の問題かカメラの限界か。たぶん、その両方のせいだと思う。

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 次は、龍應山西明寺(さいみょうじ)で、参道を登っていく途中やはり苔が美しく、あたかも京都の西芳寺を思い出す。その上に赤い紅葉が落ちているのは、一幅の絵画に勝る。ところでここは「鎌倉時代に建てられた本堂と三重塔は、いずれも国宝に指定されている。中でも三重塔内部の仏像壁画は見事である。参道の途中にある庭園は浄土を表現した池泉回遊式。」とある。話によると、平安時代に創建され、室町時代に最盛期を迎えて、一時は17の諸堂、300の僧坊があったと伝えられるが、戦国時代に織田信長が比叡山を焼き討ちした際、同じ天台宗だということでこの西明寺も焼き討ちされた。ところが、本堂(国宝)、三重塔(国宝)、二天門(重文)は、山の奥まったところにあるから、焼失を免れた。その背景には、当時の僧侶が機転を利かせて、手間にたくさんあった僧坊などに自ら火を付けて一見全山が燃えているように見せかけて本堂などを守ったからだと言われる。なるほど、それはそれは大変な功績である。でも、織田の軍勢も、そんな小細工で簡単に騙されるものだろうかと、いささか疑問に思うが、話としては大そう面白いではないか。

 ところで、その「奥まった」本堂などに上がって行くのはなかなか大変である。大小様々な石でできた階段はもちろんあるが、規格が揃っていないので非常に登りにくい。しかも昨夜の雨で泥がある。それをよいしょよいしょとばかりに無理矢理登っていくと、なるほど、織田の軍勢もこんな山奥には何もないと判断したのは本当かもしれないという気にもなってくる。そういう大変な思いをして、やっと着いた。本堂もさることながら、その脇の三重塔が紅葉に囲まれて、実に品があって優美な姿をしている。赤色と黄色の紅葉を重ね合わせて、少しでもその美しさが出るような写真を撮るように心掛けた。それから今来た道を下っていき、そこで食事をした。あれこれとある和食だったが、お肉も入った野菜鍋のスープがなかなかの味だった。中に近江牛が入っていたらしく、ガイドさんが「持ち上げてかざすと、向こうが透けて見えるような」と表現したから、笑ってしまった。


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 釈迦山百済寺(ひゃくさいじ)は「聖徳太子が百済寺からの渡来僧のために健立。織田信長によって全山を焼失したが、江戸時代、井伊氏の寄進で再建。湖東平野が一望できる庭園は自然を借景した鑑賞式庭園である。」とある。話によると、このお寺は、平安時代に天台宗が開創されると天台宗の寺院となって規模が大きくなった。やがてお寺全体を山城のように要塞化するとともに僧兵をたくさん抱えて大変な武力を誇り、「湖東の小叡山」といわれたほどだったそうな。ところが織田信長に抗した佐々木義治を支援したため、比叡山と同様に信長の焼き討ちに遭い、全滅したばかりか石の土台に至るまで徹底的に破壊しつくされた。織田勢は、この山城のような百済寺から石垣を抜いて運び出し、それを安土城の土台としたらしい。そのような歴史を知ると、いにしえの戦火による悲劇を思わざるを得ない。そういえば、本堂に向けて登って行く途中で山中のあちらこちらに空き地がある。かつての僧坊跡だそうだ。池泉式庭園も、狭い空間なのにそれを感じさせない作りである。そこを過ぎて坂をやっと登り切って「遠望台」に達すると、近江平野が一望でき、まるで領主の気分を味わえる。昔は、百済人達がここから遥か遠くの故郷を眺めていたのだろうか。

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 湖東三山はこれで終わって、次に臨済宗瑞石山永源寺(えいげんじ。永源寺大派本山)に行った。こちらは「愛知川の右岸の崖沿いに建つ寺院。600年前に開山したが、兵火に遭い荒廃。江戸時代、彦根藩の援助を受けて復興。葭葺の大方丈、元光像を祭る開山堂、法堂、含空院など今も大伽藍が立ち並び、元光の墨跡などの寺宝も多い。」とある。湖東三山とは、どこか雰囲気が違う気がした。一言でいうと、拝観者のためのサービスが手厚いのである。例えば、外国人のためにQRコードによる案内がある。夜にはロウソクによる幻想的なライトアップがある。紅葉が美しいのは当然であるが、そうした工夫で、夜も観光客を誘致している。ともあれ、一味違うお寺さんである。

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登っていく途中にある十六羅漢像は、一見すると石山に溶け込んでいるようで区別しにくいが、よくよく眺めていると、それぞれの表情がとても豊かである。また、ポツンと離れて眼鏡を掛けたお地蔵さんがあるが、これは十代の半ばで亡くなった息子の供養のために、ご両親が寄進されたものだという。

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 というわけで、四つのお寺の拝観と紅葉を鑑賞してきた。しかし、近年にないほど山道の階段の登り降りをしたので、米原駅に着いたときには、膝が笑っているような感覚を覚えた。明日以降に響かなければよいのだが・・・。



【後日談】  

 その夜遅くに東京の自宅に帰り着いた私は、家内から「そういうときは下半身の温水浴をするといいわよ。」と聞いて、お風呂で身体を洗った後、お腹から下を温いお湯に浸けて20分間、気持ち良くのんびりと過ごした。すると、あらまあ、その効果があったのか、翌日になっても、足は少しも痛くない。それは、良かった。でも、どういうわけか、首と両肩が痛くてたまらない。別にリュックなどを担いだわけでもない(バスの中に置いて登った)。だから、もしかするとこれは、カメラのせいかもしれないと、思い当たった。レンズと合わせて、わずか1.5kgくらいの重さしかないのだが、まさかそんなものが響くとは・・・。








(平成29年11月19日著・20日追記)
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