悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



平城京跡の大極殿




 奈良のお寺を巡る旅( 写 真 )は、こちらから。


1.弾丸ツアーを企画

 奈良の薬師寺で食堂(じきどう)が完成し、田渕俊夫画伯が「阿弥陀三尊浄土図」など全長約50メートルに及ぶ大壁画を奉納したそうだ。それを記念して、今年11月まで一般公開をしているという。また同時に、興福寺でも「興福寺国宝特別公開2017 阿修羅〜天平乾漆群像展」が開催されているとのことで、どちらも行ってみたくなった。特に阿修羅像は、学生時代に2度ほどお目にかかったものの、その後、何回か興福寺を訪れたが、他に出展中だったりして、-ほとんど観る機会がなかった。だからこの際、奈良に行って観てこようと考えた。

 この2つなら、東京から行っても観るのに半日もあれば十分だ。しかし、問題は奈良での交通手段である。バスで行けないことはないが、それを待っていては、なかなか回れない。ツアーでは、今回のような見学は無理だ。そこで、タクシーを半日、借り上げることにした。すると機動性が増して、もっとお寺を回ることができる。費用は3万円だが、奈良ホテルに一泊したと思えば安い。ということで、まずタクシーをインターネットで予約した。東京から午前8時の新幹線に乗ると、京都に10時過ぎに着き、そこから近鉄特急に乗ると大和西大寺駅に午前11時に到着する。そこからタクシーに6時間乗っても、暗くなる前に回ることができる。

 そういうことで、奈良の地図を見ながら、大和西大寺駅 → 平城京跡 → 唐招提寺 → 薬師寺 → 興福寺 → 東大寺 → 春日大社 → 近鉄奈良駅、というコースを作って、タクシー会社にお願いした。近鉄奈良駅からは、特急で京都駅に行き、そこで食事をして帰京するというコースである。このスケジュールに従って、新幹線の切符(大人の休日倶楽部)、近鉄特急の切符を近鉄のHPでチケットレスのものを買い、京都駅近くのレストランを押さえて(ぐるなび)、手配が終わった。今から思うと、「奈良のお寺を巡る弾丸ツアー」と言ってもいいくらいだ。それにしても、個人でこれくらい簡単に、ほんの僅かな時間で手配できるのだから、そのうち旅行会社などは無くなってしまうかもしれないと思うほどである。

 ちなみに、私が最後に奈良に行ったのは、2009年7月だから、もう8年以上も前のことだ。そのときは、デジタル一眼レフを買って嬉しくて、初めて夜景を撮りに行ったものであるが、意外と美しく撮れたので、感激したことを覚えている。夜景は、春日神社の一ノ鳥居、浮見堂、仏教美術資料研究センター、東大寺南大門の金剛力士像、興福寺五重塔、猿沢池の柳を撮り、昼景は、春日神社、東大寺大仏殿、若草山を撮影したものである。それに比べて今回は、昼間のお寺を巡る旅なので、はてさて、どうなるのだろうか。いずれにせよ、大仏以外の仏様は、どれも撮影が禁じられているから、寺院の外観だけを写してくるほかない。


2.平城京跡

 さて、旅行当日、新幹線は順調に走り、京都駅に到着した。私の好きな八つ橋の「おたべ人形」が迎えてくれた。それから、中央改札口より近鉄に乗る。特急電車が走り出したと思ったら、もう大和西大寺駅に着いてしまった。例の、お坊さんのような少年の頭に鹿の角を生やしている「せんとくん」の像が迎えてくれる。これをどう贔屓目に見ても、私はあまり好きではないのだが、もはや奈良では定着しているようだ。駅の階段を上がると、約束していたタクシー会社の運転手さんが迎えてくれた。「目的は、写真を撮ることと、薬師寺食堂と興福寺展の見学で、後は付け足し程度と思ってください。」と伝える。


八つ橋の「おたべ人形」


「せんとくん」


 平城京跡は、延暦3年 (784) 年に都が長岡京に移転した後、長い間、忘れられていた。戦後になって特別史跡に指定されて、1998年には朱雀門が復元された。ここまでは、私も見たことがある。その後、平城遷都1300年の2010年に、更にそこから800m離れた所に太極殿正殿(冒頭の写真で、これを裏側から撮ったもの)が復元され、またそれらを囲む長い塀が整備されるなどして、形を整えつつある。私が学生時代の頃には、ここは近鉄電車がすぐ近くを通るだけの全く何もない原っぱだった。今回、それを見に来たのだが、問題は、周りに駐車場がないことである。そればかりか、道路は狭くて曲がりくねっているので、車を停めてゆっくり写真を撮る場所すらない。つまり、タクシー観光には最も不向きなところというわけだ。 もちろん、整備が完了すれば、そういうこともなくなるのだろうが、ともあれ、現状は何ともならない。だから、道の脇の僅かなスペースに停めて太極殿を撮影したり、朱雀門などは走る車の中から撮ったりという有り様になった。だから、この2つは、ただ撮っただけである。


3.唐招提寺

 唐招提寺に着いた。平城宮跡からほど近い。戒律の専修道場として、759年に創立されたお寺である。唐の高僧であった鑑真は、聖武天皇の願いによって日本に渡ることを決意し、5回に及ぶ難破のすえに失明しながらも、ようやく来日して我が国に戒律を伝えた。その経緯は、私が中学生のときに読んだ井上靖の小説「天平の甍」に詳しい。だから昔から、身近に感じているお寺だ。


唐招提寺の国宝である金堂


 国宝の金堂(8世紀後半)に近づいていくと、8本のエンタシスの柱が美しい。運転手さんが、「正面の2本の柱の間隔が、端の方の柱の間隔より狭いでしょう。遠近法で建物を大きく見せる工夫ですわ。うまく作らはりまんな。」と解説する。そういえば、そうだ。これまで何回もこの金堂を見ているが、こういう解説は初めてである。内部の写真は撮れないが、拝観すると、内陣には高さ3メートルの本尊である盧舎那仏坐像があり、こちらが宇宙の中心である。その左右に、薬師如来立像(現世の苦悩を救済する)、十一面千手観世音菩薩立像(理想の未来へ導く)がある。更に本尊の脇士として、等身大の梵天・帝釈天立像が、須弥壇の四隅に四天王立像があり、曼荼羅世界を現している。

拝観パンフレットより


 同じく国宝の講堂(8世紀後半)は、元々、平城宮の東朝集殿を移築したもので、宮殿建築そのものだそうだ。なるほど、こういう形でなければ、1200年も前の宮殿の建物が残ることはなかったろうと思う。本尊は弥勒如来座像(将来、必ず如来として出現し、法を説くとされる)で、持国天と増長天が併せて置かれている。この2天は、半世紀以上も前の中学校の美術の教科書にあった。

松尾芭蕉の一句


 運転手さんが、「鑑真大和上のお姿は御影堂にあるんやけど、毎年6月の三日間しか見せてもらえまへんよって、最近、こういうものができたんですわ。」と言って、御身代わり像という模造が置かれている。「平成御影像」として、2013年に落慶したそうだ。階段を登って近づいてみると、日焼け防止の青いガラスに遮られて、今ひとつよく拝むことができなかった。


4.薬師寺

 薬師寺は、私の学生時代には、立派な東塔とやや貧弱な金堂があっただけだった。度重なる戦乱や火事で、伽藍中の数多くの建物が失われていったかたである。ところが、この残った東塔だけは白鳳時代の白眉と言われた素晴らしい建物である。一見すると六重の塔のように見えるが、真ん中の小さな屋根は裳階(もこし)という覆いのようなもので、実際は三重の塔だということを習った記憶がある。なぜ覚えているかというと、美術は、高校入試の9科目(英数国社理、体育、音楽、技術家庭、美術)の一つだったからだ。

 その後、伝説的な説教師である高田好胤師が出て、薬師寺は一変した。同師(その後、管主)は、特に修学旅行生に対する話術で名を上げ、次第に一般の方からも評判となった。ただ、いわゆる「受け」を狙った話し方をしたこともあったそうである。運転手さんによれば、御釈迦様の絵をわざわざ逆にして示し、それを見た生徒たちがざわめくと、「おっと失礼。これこそ『お逆さま』でした。」と言って笑いをとっていたから、眉を顰める向きもあったそうだ。ところが、その人間的な魅力で、金堂の復興のために浄財集めのお写経勧進に邁進し、遂に百万写経を達成して、金堂が出来上がった。それから、西塔、大講堂、食堂(じきどう)と、次々に整備されていった。


薬師寺金堂


薬師寺大講堂


薬師寺西塔 width=


 金堂には、国宝の薬師三尊が鎮座している。中央が薬師如来(東方浄瑠璃浄土の救主で、またの名を医王如来と言い、人々の身と心の病を救う。)、向かって右に日光菩薩、左に月光菩薩の脇侍が控えている。いずれも光背が光り輝く金色であるのに対して、仏様の本体はブロンズ色で、どうもマッチしないなと思っていた。しかし運転手さんが言うには、薬師三尊は、本来は金箔が置かれた輝くばかりの仏様だったのだが、度重なる戦乱で焼かれて金箔が剥げ落ちて、このようなお姿になったのだそうだ。凛とした表情を見せながらも目ざしが優しい薬師如来に対して、脇侍の日光・月光菩薩は身体を自然に曲げて、見方によれば実に魅力的なお姿をしている。



拝観パンフレットより


 大講堂は、本当に大きな建物である。本尊は彌勒三尊で、国宝の仏足石があった。玄奘三蔵院伽藍には、故平山郁夫画伯の「大唐西域壁画」が納められている大唐西域壁画殿があり、まるで砂漠やヒマラヤ山中を旅している気分になる。いずれも、非常に見事なものである。西塔の向かいの大きな覆いは解体修理中の東塔であり、10年間の予定で作業中で、2020年中頃に完成するだろうということだった。

玄奘三蔵院伽藍


 さて、私が今回の旅の一つの目的は、薬師寺食堂の「阿弥陀三尊浄土図」の見学である。食堂は非常に大きな建物で、その3面、計50mにわたって「仏教伝来の道と薬師寺」が並べられている。入って左手に、唐へ向かう遣唐使船とその帰ってくる姿が描かれ、写実的である。正面には阿弥陀三尊浄土図があり、いずれも誠に凛々しくて品のある仏様である。更に右手には、飛鳥川と大和三山の畝傍山らしき「うねび」、耳成山のような「みみなし」、そして香具山らしい「あまのかぐやま」と題する一連の絵で、奈良の街をやや斜め上空から見た鳥観図が、春夏秋冬に分かれて4枚、展示されている。私はこれらから醸し出されるほのぼのとした雰囲気に非常に感じ入って、しばらく立ち止まって眺めていた。最後の右手の壁には、碁盤の目が強調された平城京の街が、薄い緑色で描かれている。もちろんその中には、薬師寺もあるという趣向である。青葉が萌えるようで、非常に清々しい。これは、良い絵を見せてもらった。

絵の配置図。拝観パンフレットより







5.興福寺



興福寺五重塔。猿沢の池越しに見る。


 いよいよ興福寺に到着した。「阿修羅 天平乾漆群像展 興福寺国宝特別公開2017 興福寺中金堂再建記念特別展」と題するパンフレットをいただいて入場する。これは実に良く書けているので、以下、それを逐次、引用しながら感想を記しておきたい。正面におわしますのは、本尊の阿弥陀如来(西方極楽浄土の教主)である。「宣字形裳懸座に結跏趺坐し、左手は膝の上で掌を上に親指と人差し指で輪を作り、右手は曲げて掌を前方に向け、親指と人差し指で来迎印を結ぶ。平安時代後期に流行した定朝様式が踏襲されている。」と、難しく解説されているが、正面に立ち、ふと仏様を見上げると、仏様と目が合った気がした。



展覧の像の配置図


拝観券に描かれた阿修羅像


 何といっても、是非とも観たかったのが、阿修羅像で、阿弥陀如来像の向かって左手に安置されていた。高さは153.4cmだが、置かれているところが高いから、その顔が私のすぐ前にある。学生時代に2回、勤め始めてから1回、お目にかかっているから、4度目である。しかし、これほど間近に観るのは、初めてだ。なるほど、何回観ても、少年の顔そのものである。少年とは言っても、よくよく観ると、なかなかに憂いを含んだお顔をされている。それが、3つもあるとは・・・その内面には、非常に複雑なものがあるといえよう。解説には、「八部衆はインド神話に登場する神々で、仏教に帰依してその守り神となった。」とあり、阿修羅はその筆頭である。「阿修羅はインド神話に登場する戦闘の神で、・・・一般的には激しい怒り顔で3つの顔と6本の腕を持つ姿に表されるが、興福寺の像には怒りや激しさが見えず、表情は繊細で内向的であり、腕と体が細い少年の姿で表される。その表情には懺悔という仏教で重要な宗教行為が反映されているとも推定される。」とのこと。専門家にも、この像の解説は難しいらしい。

 また、阿形(あぎょう)と吽形(うんぎょう)の金剛力士像が、誠に素晴らしい。中学生の頃、美術の教科書に乗っていたこの像を見て、まるで鍛えられた力士像のような写実性に驚嘆してしまった。今回の説明でも、「金剛力士は、口を開いた阿形と口を閉じた吽形が1組となり通常は仁王門などに安置されるが、奈良時代には堂内の須弥壇上に置かれる場合が少なくなかった。この1対は・・・鎌倉初期彫刻の特色である写実性、激しい動き、力強さが顕著で、それに加えて強い風が意識され、筋肉が凹凸をもって隆起し、血管が浮き上がるなど、迫真的な鎌倉彫刻の真髄をみることができる。」というのが解説である。このうち、「強い風」というのは、あるいは「強い作風」の間違いではないかと思うが、筋肉や血管に着目しているのは、正にその通りである。


興福寺東金堂


興福寺東金堂と五重塔





6.東大寺



東大寺の鹿


南大門に向かう


 これで、今回の旅の目的はほぼ達成した。まだ午後4時前なので、残りの寺社を回れる限り回ってみることにした。東大寺に着いたが、タクシーを停めたのは大仏殿の脇である。運転手さんが、「せっかく来られたのやから、仁王さんたちを見て来まひょ。」と言って、南大門の方へ案内してくれる。鹿が食べ物をくれるかと思って擦り寄ってくるし、観光客の流れも反対なのでそれに逆らって歩いていった。運転手さんが「奈良公園では、芝刈りの必要がないんですわ。鹿がねえ、食べてくれるから。」。それで私が、「奈良公園の鹿で感心したのは、例えば鹿煎餅を売る屋台があったとすると、お客さんがそこで煎餅を買ったとたん、鹿がそのお客さん目掛けて殺到するんだけど、決して屋台そのものには、鹿はやって来ない。ダメなことをちゃんと分かっているんですね。」。「そうそう。鹿はよく、分かっていまんねん。」

口を閉じた阿形


口を開けた吽形


 さて、しばし歩いて、東大寺南大門に着いた。東大寺のHPによれば、「天平創建時の門は平安時代に大風で倒壊した。現在の門は鎌倉時代、東大寺を復興した重源上人が再建したもの」とある。相対して置かれているのが金剛力士立像(国宝)で、 建仁3年(1203年)の創建。運慶と快慶が中心となって作られた。右手に口を閉じた阿形、左手に口を開けた吽形の仁王さんである。運転手さんが、「この一対の阿形と吽形は、普通の置き方とは反対に置かれていて、そのせいで視線が集まるのは、ホレ、ここ(と言って門の真ん中の木げたを指す。)ですわ。それに、あの顔は、普通より大きいですねん。下から見上げて、自然に見えるでしょ。ああ、それから、この柱にいくつか穴が開いているでしょ。これは、昔の鉄砲の弾痕ですねん。」と、こともなげに言う。調べてみると、永禄10年(1567年間)の三好三人衆と松永弾正との戦さで放たれた弾の痕らしい。

三好三人衆と松永弾正との戦さで放たれた弾の痕


 さて、南大門から大仏殿の方へと引き返し、大仏殿の寺域へ入った。相変わらず雄大な姿の建物で、屋根の端が空に向かってやや反っているのが、何とも優雅である。中国の寺院などにもこういう「反り」が見られるが、反りの程度が強すぎてあまりに人工的な感がする。その点、日本の建物の反りは、自然で無理なく受け入れられるので、私は好きである。

東大寺大仏殿


盧遮那仏


盧遮那仏と傍の仏様


 大仏殿の建物内に入る。視野いっぱいに青銅色の大仏様が迫る。ああ、この感激は、昔々に感じたのと同じものである。盧遮那仏は、752年の開眼以来1265年間、ほぼこのお姿でここに鎮座されている。途中1180年と1567年の2回にわたって火災により大仏殿とともに焼失したが、いずれも再建されて今日まで伝わっている。奈良の昔、これだけ大きな大仏様が、今の光背のように目が眩しくなるほどの金色に輝いていたというから、実に美しくきらびやかなものだったかが偲ばれる。しばしお参りした後、時計回りに見学して行った。寄進の瓦があったが、そういえば私も前回来たときに、寄進した覚えがある。柱の穴くぐりは、まだ行われていたが、今は半数が外国人となっている。


7.春日大社


 タクシーは東大寺から春日大社の二ノ鳥居に向かう。そこで降りて、表参道を登っていった。参道の両脇に昔から奉納されてきた燈籠が数多く建てられている。運転手さんが、「ほれ、あの燈籠には全て紙が貼ってありますやろ。毎年、張り替えるんでっせ。3000円ですわ。」。私は、「ええっ。あの燈籠の窓に貼られた四角い紙は、元々の燈籠の寄進主とは違うんですか。」と聞いた。「全く関係ありまへん。年に1回、募集して、きちきちっと張り替えますんや。」と言う。燈籠に近づいてよく見ると、なるほど、全く関係なさそうな大阪在住のおばちゃんの住所と名前が書かれている。私が「その通りですね。あれあれ、穴が開いて破れているのや、完全になくなっているのもある。」と言った。すると、運転手さんは、「穴が開いているのは子供や観光客のいたずらで、鹿も食べちゃうから、そういうときには紙が完全になくなってしまうこともあるんです。」


春日大社の参道


燈籠の窓に貼られた四角い紙


 商魂の逞しさと鹿の食欲に驚きつつ、参道を引き続き登っていると、春日大社の南門に着いた。朱色の神社と、周囲の藤の木の葉の緑色との対比が鮮やかである。春日大社については、最近のNHKの番組「ブラタモリ」で取り上げられていた。要は、藤原氏を祀った神社であること、寄進の釣り燈籠の中で最も大きいのは藤原一族である近衛家のものであること、だから御神木が藤の木であること、後ろの山そのものが御神体であることなどが紹介されていた。

春日大社の南門


大宮特別参観図。拝観パンフレットより


 藤の花のかんざしを付けた巫女さんからパンフレットをもらい、国宝御本殿の大宮の特別参拝に入れていただいた。中にたくさんの神社がある。数えてみたら、16もあった。それらを順路に従い、階段を上がったり下がったりしながら、一つ一つお参りをしていく。途中にずらりと並ぶ釣り燈籠が荘厳な雰囲気を与える。運転手さんが「ここは、面白いでっせ。前はなかったんですけどなあ。」と言って、暗いカーテンで仕切られた「藤浪ノ屋」という部屋を指さす。何でも、春日大社全体で3000基の灯籠があるそうで、2月の節分と8月の半ばには、それらを全部灯す「万燈籠」という行事がある。それを体験してもらおうと作られたそうだ。部屋に入ると、暗い中に燈籠が灯されて、ずらりと並んでいて、なるほど幽玄な雰囲気である。これが暗闇の中で3000も揺らめくのは、さぞかし宗教感が研ぎ澄まされることだろうと思う。外に出ると、運転手さんが「砂ずりの藤」(樹齢800年)と「大杉」(同1000年)を指し示してくれる。それぞれ、古い記録に残る神木である。

春日大社の燈籠


徳川綱吉寄進の燈籠




8.二月堂

 春日大社を出て、運転手さんが「まだ、時間があるようだから、二月堂に行きますか。」と聞く。もちろん、それは願ってもないことだと思って、行くことにした。東大寺に着き、同じところに車を停めて、二月堂まで早足で歩いていった。お堂に登ると、なるほど、ここでお水取りの行事が行われるのかと感じ入る。だいたい、こんな貴重な国宝の建物内で、松明とはいえ、あれほど盛大に火を使って良いものかと思うのであるが、8世紀以来、続けられている伝統行事である。ただ、「寛文7年(1667年)、お水取りの最中に失火で焼失し、2年後に再建されたのが現在の建物」だという。建物に登って、テラスに出るまでに、ふと天井を見ると、焦げ跡のようなものが見える。


二月堂


二月堂から眺めた不思議な風景


 テラスに出た。ここは小高いところにあるので、テラスからは奈良盆地がずーっと見渡せる。空を見上げると曇り空だが、空の真ん中が大きく四角に割れている。その中の雲が薄くなっていて、青い部分が見えたりする。不思議な風景である。しばしそれを眺めていたら、どういうわけか気持ちがすっきりして、今度は早く帰りたくなった。運転手さんに若干の御礼をして別れ、近鉄奈良駅から京都に出て、そこで鴨鍋を食し、早々に帰京の途に着いたのである。





(平成29年10月8日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生・邯鄲の夢





邯鄲の夢エッセイ

(c) Yama san 2017, All rights reserved