昨年の夏前、「父の思い出と軍歴」というエッセイで、私の父の軍歴証明書を本籍のある県に問い合わせて送ってもらい、父を偲ぶ「よすが」としたという趣旨のことを書いた。それから1年ほど経って、実家にあった、「古いアルバム写真のデジタル化」を進めていったが、その過程で、私の祖母や父、そして叔父さんと叔母さんの若き日の姿が収められた写真を拝見して、何とも懐かしい気持ちになった。私の祖父は、終戦後まで存命だったが、私が生まれる直前に亡くなったので、私自身はその顔を知らない。ところが、この写真の中では、元気な顔をして写っているので、まるで会ったような気がした。
ところで、そのエッセイの中で、私はこう書いた。「父の2人の兄さん達は辛酸をなめた。5歳上の長兄は、私にとって誠に頼りになる叔父さんだったが、フィリピンに6年間も派遣され、最後は生と死の境を彷徨い、どうやら生還した。帰国してからも、時折マラリアの発作に苦しんだ。3歳上の次兄は、確かガダルカナルの戦いに参加したと聞く。ガダルカナルといえば、補給作戦が徹底的に妨げられた結果、武器弾薬どころか食糧が圧倒的に不足し、加えてマラリヤにも苦しめられて、将兵は骨と皮ばかりに痩せ細り、派遣された約3万人中、およそ5千人が戦闘で死亡、1万5千人が餓死又は病死し、帰還できたのは1万人だったと聞く。あまりにも餓死が多いので「餓島」とさえ言われたそうだ。そういうところから、叔父さんは何とか帰還することができた。とても温和な叔父さんだったが、そのときの無理がたたったのか、戦後十数年して急逝してしまった。」 しかしながらこれは、亡くなった父から聞いたことで、叔父さんたちに確かめたわけではない。もっとも、確かめようにも、叔父さんたちも既に鬼籍に入っているから、直接聞くことはできない。さりとて、わざわざ私の従兄弟たちに聞くほどのことではないし、例え聞いたとしても、特に次兄叔父の方の従姉妹は、まだ小学生のときに父親が亡くなっているから、知らない可能性が高い。そういうことで、家系を把握するという意味では画竜点睛を欠くので長年気にはなっていたことではあるが、確かめようがないので、そのままにしておいた。 ところがこのほど、解消する糸口を意外と簡単に見つけることができた。3親等以内の親族であれば、軍歴証明書を取り寄せられるというのである。叔父さんたちは、もちろん私の3親等に当たる。このお2人が召集されたのはいずれも陸軍であるから、父の軍歴証明書を交付してもらったのと同じ手続でよい。まず、県に対して電話で、叔父さんたちの名前と生年月日、召集時の本籍地を伝え、軍歴証明書があるかどうかを聞いた。すると、あるという。そこで、書類一式を揃えて、交付申請をした次第である。 私の知っている長兄叔父は、実に温和で優しい人だった。私や妹の結婚式では、親族を代表して、心温まる挨拶をしていただいて、非常に有り難かった。父と仲が良く、いずれも銀行を退職してからは、お互い近くに住んで、共通の趣味の釣りによく行っていたものである。その人が、こんな大変な戦争体験をしていたとは想像もしなかった。この叔父さんは、銀行を退職後、自分の会社を立ち上げてそれを立派な会社に育て上げ、それを息子に譲って、引退した。それから悠々自適の生活を楽しんだ後、70歳代で亡くなった。 それ以降の記録は、「昭和18年5月より10月まで第一次ビスマルク戦に参加。11月より昭和19年3月まで第二次ビスマルク戦に参加。編成替えを経て昭和19年3月より10月まで第三次ビスマルク戦に参加。11月より昭和20年4月まで第四次ビスマルク戦に参加。同年4月より8月まで第五次ビスマルク戦に参加」とある。その間に、兵精勤章を2度もらっている。ところで、この「ビスマルク戦」とは、一体、何だろう。その頃、近くで行われたビスマルク海戦のこのことかと思ったが、そうではないようだ。ガダルカナル島が米豪軍の手に落ち、次に来るのはニューブリテン島の日本軍のラバウルかと思われた。ところが戦況の悪化で、補給がままならない。そこで第8方面軍は、戦闘力の保持と食糧の確保のため、陣地の構築や食糧の生産を進めたそうで、それを称してビスマルク戦と言ったそうである。 一方、米軍はガダルカナルを落とした後、手強い抵抗が予想されたラバウルを避けて、いわば飛び石のように島を伝って北上し、フィリピンや日本本土を目指したため、これ以降、ラバウルが巻き込まれた大きな戦闘はなかった。そのようなわけで、昭和20年8月15日の終戦時には、ラバウルには6万9000人の将兵がいたという。次兄叔父もその一人で、昭和21年4月にラバウルを出発し、わずか10日間で名古屋港に到着している。帰国の時期は長兄叔父とほぼ同じだったので、海外に派兵された2人の子供が無事に帰ってきた両親の喜びはいかばかりだったか思うと、胸が熱くなる。ちなみに私の父は国内に留まっていたので、こちらも無事だった。あの戦争の時代に、3人の男の子を持って、いずれも命を永らえて帰ってくるというのは、あるいは珍しいことだったかもしれない。終戦時の長兄叔父は軍曹、次兄叔父は伍長だったから、それなりに務めを果たしたのだと思う。 次兄叔父が一時送られたガダルカナル島では、昼夜を分かたず米豪軍の砲撃がある一方で、日本軍の兵站が全く届かず兵士は常に飢餓状態に置かれたそうだ。昭和18年2月の撤退時には、送られた兵員31,358名に対して、撤退できたのは10,665名と言われている。撤退できなかった兵員のうち、戦闘による死亡は約5,000名、餓死や病死が約15,000名とされている(NHK「ガタルカナル島 学ばざる軍隊」平成12年)。そのような惨状にあって、よく生き残ったものだと思う。ただ、残念なことに、そのときの無理がたたったのか、次兄叔父は、戦後十数年して奥さんと1人の女の子を残して急逝してしまった。心臓麻痺だったと聞いているが、誠に残念なことである。亡くなられたとき、私は確か小学校6年生で、私のいとこであるその女の子は4年生だったように記憶している。亡くなる前は、家族ぐるみでよく行き来したものだった。優しい叔父さんという印象が残っている。その人が、結局のところ、この戦争の犠牲になった。つくづく、戦争とは罪作りなものだと思う。 (平成29年9月18日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) ( 注: この記事中の地図はグーグルの地図に手を加えたものです。) |
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