悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



現在のクアラルンプールの市場




 昔の資料を整理していると、思いがけない宝物が見つかることがある。先日は、私が東南アジアの国で駐在員をしていたときに、家内が「奥様レポート」と題して、いわゆる社内報に掲載した文章が出てきた。2人で読み進むうちに、若さに任せてひたむきに生きていた当時のことを思い浮かべて、懐かしくなるやら、何とも切なくなるやらで、非常に感慨深いものがあった。改めて、家族思いの家内に感謝しつつ、その勇気ある微笑ましい冒険を記念して、ほぼ同じ文章をここに掲げておくことにしたい。

 なお、ここに掲げた市場の写真は最近のものであるが、家内が買物をしていた35年前の頃のプリミティブな時代の名残りは、残念ながらほとんど感じられなくなっている。

クアラルンプールの現代の市場





   「奥様レポート」


 洋の東西を問わず、買物は育児とともに主婦の大事な仕事です。そして、買物のコツは、要するに「新鮮」で、「質のよい」そしてなるべく「安い」ものを手に入れることだと思います。

 この国の首都である当地は、「豊かな木々の緑の中にしゃれた建物が立ち並ぶ近代的な都市」というのが日本からの旅行者の方が異口同音にいわれる感想です。外国人が日常の食卓を飾る買物をするには、すばらしいショッピング・センターの地階に政府直営のスーパー・マーケットがあり、少なくとも種類の豊富さという点では日本の地方都市のスーパーにもひけをとりません。また、最近では日本のスーパーが進出をしはじめており、おかげで日本食品で手に入らないものはないほど恵まれています。

 冷房のきいた部屋で「きれいに」買物するには、スーパーほど便利なものはありません。しかし、生鮮食品を買おうとしますと、質はともかく、新鮮さでは及第点をつけかねます。値段にいたっては完全に落第です。でも外国人の主婦にとっては、少なくとも母国並みの環境で言葉もほとんど使わずに買物をすますことができるのは、非常にありがたいといえましょう。そこで、私ども外国人の主婦の中でもこのようなスーパーだけで買物をすますという人達もいます。しかし、私のように、これだけではあきたらず、特に生鮮食品について、新鮮さを求めて、地元の伝統的な青空市場に出かけて買物をするという人達もいます。そこで以下では、このローカルの典型的な市場にご案内したいと思います。

 当地では大小様々な青空市場がありますが、その大半が中国人(全人口の35%)によって運営されているといっても言いすぎではありません。 毎朝たつ店の数、品物の量、そして繰り出す買物客を見るにつけ、中国人の食に対する意欲には並み並みならぬものがあり、それがいつも市場に活気を与えているのです。

 まだ暗い明け方から、ぼつぼつ店が開きはじめます。店といっても俄か作りの屋台のような「露店」で、小型トラック、バイク、自転車やリヤカーなど思い思いのものを使って、どこからともなく荷物を引っ張ってきては適当なところに開店します。とはいえ、よく注意してみると同じ人は大体同一の場所に陣どっています。

 露店は、八百屋、魚屋、豚肉屋、鶏屋をはじめ豆腐屋、卵屋、焼豚屋、果物屋などの食料品店や、花屋、布地屋、靴屋、玩具屋、衣料品店、雑貨商などさまざまで、これだけでも約200店はあるでしょう。これらの青空露店は、中心となる一棟の建物(市場の原型で中に70店ほど入居)の周辺の広場のような道路をすきまなく埋めています。

 さて、いつものように、朝、主人と子供を送り出した後、車で10分ほど走り、駐車場に車をとめて、汚れてもよい服装と靴で道に降り立ちます。市場に近づくにつれ、あたり一面にただよう異臭に鼻が驚きます。周囲の店に並んでいる豚の頭、耳、爪のついた手足からはじまって、羽をむしられた鶏、皮をはがされた蛙などを横目で見つつ、店と人垣の間を縫って進んでいきます。そろそろ鼻も多少のことでは感じなくなります。今日はどの店に新鮮なものがあるかと一軒ごとに覗きつつ、外れの方まで一通り見ながら歩いて行きます。

 当地の食べ物には果物以外には季節がなく、年がら年中、同じものが出ています。加えて、種類に乏しいので、いつもながら同じものを買うことになります。でも、多少は旬の時期があるようで、きゅうり一本でも美味しいものに巡り合うと、その日の夕食には家族の誰かが必ず気がつきます。おかげで気がぬけません。

 青空市場の常識として、もともと正札というものはなく、また店どうしの協定価格のようなものはないので、買いたい人が売り手の言い値をなるべく値切って買うことになります。この「小さな商談」の時、決してあわててはいけません。特に、英語で聞くと、外国人であることがすぐにわかり、高い値をふっかけてきます。そこで恥ずかしがらずに中国語で「いくら」と聞いてみます。よかった、通じました。これは買物に来るたびに中国人の買物客の会話を注意して聞いて何とか習得したものです。もちろん、お金の数え方も大事です。複雑でわからないと、親しくなった八百屋の気のいいおばさんに確かめてみます。発音を直してくれました。ありがとうおばさん。にやにやしています。今日はなるべくここで野菜を買うことに決めました。

 さて、魚屋を覗いてみましょう。名前も知らないような魚がいくつも並んでいます。ところが、店の人は魚の名前を尋ねても知らないことが多く、要領を得ません。仕方なく、じっくり魚を観察して「イトヨリかな」などと考えます。もっとも私としても魚の知識は貧弱ですから、最終的には目をつぶって買うことになります。もし失敗して変な魚を買ってきても大丈夫。自宅のワンちゃんが綺麗に平らげてくれます。

 魚の売り方としては、日本の魚屋さんのように切り身はほとんどなく、あってもたとえば直径20センチ、長さ70センチほどもある魚を大胆に丸切りするだけです。日本人がよく立ち寄る店では魚を料理しやすいよう捌いてくれますが、随分と高いようです。日本人は高くとも言い値で買ってしまうことを、店の人はよく知っているのでしょう。しかし私は、見よう見まねとはいえ簡単な中国語を話し、あろうことか顔も非常に似ているとのことで、当地の中国人から見ると間違いなく私も中国人なのだそうです。それはどちらでもいいのですが、おかげで私の場合、「外国人価格」に悩まされずに同じ品物を買うことができます。また、買い方としては、日本と違ってその店の信用で買うという習慣はないので、どの店であろうと自分の目で見て品物の鮮度と値段だけで判断し最も良いものを見つけ出して買うことになります。このような買い方は時間もかかり最初は不安感も手伝って面倒でしたが、慣れるとこれが買物の原点ではないかと、かえって楽しみになってきました。

 30分ほど市場の中をうろうろしていますと、そろそろ荷物が重く、肩もこってきました。とにかく駐車場にいったん引き上げ、また出直してきましょう。腕も疲れ汗がふき出してきましたが、もう一度市場へ、二回戦です。

 冷気の効いたスーパーのことを考えれば、青空市場で時間をかけ汗もかいて苦労して買うのは何か滑稽な感じもします。でも、家族に新鮮で美味しいものを食べてもらいたい、できれば家計の足しにもなるのかな、いや私もこんな買物を楽しみにしているのかな、などと考えながら、今朝も青空市場に向けて車を走らせる私です。





(平成29年9月9日著)
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