悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 尾道と福山への旅( 写 真 )は、こちらから。


 たまたま、尾道を訪れる1週間ほど前、「ブラタモリ」というNHKテレビ番組で、この町が取り上げられていた。この地は山に奇岩があったため、中世の頃から修験道の地として有名で、そのため寺社の町として発展してきたそうだ。それが近世になって瀬戸内海の交易の要衝として栄え、そのとき土地が足りないものだから、南北に平行して並ぶ三つの半島の間を埋め立てて土地を造成し、今の町の形ができたという。それが鉄道の時代になって、人口が稠密な海岸地区から少し山寄りの土地に線路を引いたものだから、山の上にある寺社へと続く一本道の参道が線路で途切れる形になった由。また、この町は大戦中の空襲で壊滅するということもなかったので、戦前の街並みがそのまま残り、その点でも珍しいという。

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 さあ、町歩きをしようと駅から出発した。尾道は、その歴史からわかるように、それこそ中世以来の迷路のような入り組んだ道が続く町である。最初のプランは「尾道駅より15分ほど歩けばロープウェイの駅に着くから、そこから乗って千光寺に行けばよい、帰りは下りなので楽だ」・・・と思って歩き始めた。ところが、何しろ路地の先がどうなっているのか、実際に歩いてそこへ行ってみないとさっぱりわからない。そういう中、「古寺巡りコース」という案内の石柱が目に入り、そちらの方がわかりやすい。それを辿っていくと、千光寺に行き着けると思ったのが苦難の始まりだった。まるで普通の民家の台所の裏のような路地を抜けて、すれ違うのも難しいような裏道を通り、それこそ中世に築かれたのでは思うくらいの苔むした石垣を見上げながら、ともかく前進していった。猫もいて悠然と歩いているのに対し、こちらは急坂の連続で、へとへとになる。途中、民家の玄関先にこんな詩が書かれていた。

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     旅する人へ

   おのみちを歩いてごらん
   千光寺山を古家が這い上がる道を
   海から風も登ってくる
   汐の香を撒きながらあなたへご馳走
   坂道をさ迷うとき
   やさしく迎える山寺のみ仏
   どこへゆくのかこの道
   どこまで続くのかこの道
   ほそい道はだまって登ったり下ったり
   そのたびに青い海がきらりと顔をのぞかせて
   行き手をふさぐ巨石が遠い祖先の顔をしてあなたに話す
   ここでは時も同じ速さで過ぎはしない
   山ふところが□□□て誰か呼ぶ声
   人生の過ぎゆく□旅ゆく人よ
   さびしい時は孤独を連れて
   花咲く春は愛するひとと帰っておいでよ旅人よ
   千年の昔からみほとけ達の膝に住むふるさと    おのみちへ

 とっても、心温まる詩だ。惜しむらくは、最後の署名が薄れて読めない。でも、いかにも尾道らしく、その町の特徴、伝統、み仏への信仰の深さ、そしておもてなしの気風がよくわかる。この詩に出会えただけでも、ここまで歩いてきた甲斐があったというものだ。肩に力が入っていたので、これを読んで少し気が楽になり、落ち着いた。さらに先を目指して登りに登り、やっとのことで、千光寺に着いた。上から今にも落ちてきそうな大きな岩の脇を抜けて、本堂にお参りしたついでに、そこの売店のおばさんと立ち話をする。「先週土曜日にブラタモリでやっていた内容だけど、あの大岩の上にあるのがその輝く石ですか。昔々それが外国人によってえぐりとられてなくなったというのは、本当ですか」と聞くと、「自分が中学生のときに、私がその外国人役をやったから、そういう言い伝えがあるのは、本当です。」という。このやり取りの最中、可愛いお地蔵さんのような像が目に入ったので、記念にそれを買い求めた。


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 さて、そこからさらに上に位置する千光寺公園まですぐだろうと思って登って行ったが、坂がきつくなるし、歩くのは容易でなかったが、何とかロープウェイの山上駅に着いた。そこからほど近い展望台に上がって見る尾道水道(海峡)の美しさといったらない。まるでパノラマ写真のように広がっていて、視界の左手には尾道大橋、真ん中には向島、右手には因島や生口島がある。しばらく眺め、写真を撮って風景を堪能した。ついでに、山登りが過ぎて膝にきてしまったので、ソフトクリームを買い求め、そこで一服した。八朔と蜜柑の味だ。なかなか良い味だ。この風景の中だから、ますます美味しい。

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 少し休んだので、下って降りる気になった。まずは三重塔のある天寧寺だ。細い道を辿って行き、やっと着いた。この三重塔は、室町時代のものだという。あちこちが傷んでいるが、修理が追いつかないのかもしれない。その脇に、鯉のぼりが見える。はて、もう季節は終わったのにと思ってその方向に向かうと、ああ、これが猫の小道かと納得した。それらしきお店があるし、確かに猫もいて、堂々と振舞っている。それにしても、この狭い道と苔むした石垣は、相当な古さだ。戦前の日本の家屋は、これくらいの近さで建っていたのだろう。その狭い道の上に鯉のぼりを掲げているから、ますます狭く見えるが、不思議なことに、どことなく調和している。

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 艮(うしとら)神社というところに出た。境内に御神木の大きな楠がある。見たことがないほど大きくて美しく、立派な木である。驚いたことに、その神社の真上に千光寺ロープウェイが通っている。

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 さて、千光寺ロープウェイに乗って下へ降りてきた。鉄道の線路をくぐって、やっと海岸の平坦な地区に行き、商店街の中を歩くことになった。通行人が多く行き交っているので、もちろんシャッター通りではない。その中を歩いて見て回った。気の利いたレストランがあればなと思ったが、なかなか見つからない。そこで、町の食堂のようなところに入った。焼肉コロッケ定食を頼む。私はダイエット中なので、ご飯は半分でと特にお願いしたのだが、ソースの香りをプンプンさせて運ばれてきたものを見ると、半分どころか全く普通の量だ。思わず隣の人の食べているのを見たら、ご飯はまるでどんぶりメシのようだった。これが標準のボリュームらしい。店の中は、活気がある。九州から来たグループは、九州弁で大声で話している。聞くとなしに聞いていると、同じ九州でも、博多弁、大分弁、鹿児島弁、宮崎弁と、方言の違いが面白いと盛り上がりを見せている。そこへ地元の尾道弁が絡んできて、収まりがつかなくなっている。もう、笑い話だ。

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 お腹がいっぱいになり、その店を出て、「おのみち映画資料館」に入った。期待通り、小津安二郎監督と原節子の作品についての解説が多い。私の両親の若い頃が、こういう日本映画の全盛期の時代に当たる。私自身は30歳の半ば以降になって、当時中学生だった子供たちとともに東京物語、羅生門、影武者、近松物語、大阪物語、めし、驟雨、破れ太鼓、喜びも悲しみも幾歳月などを鑑賞したから、それぞれの物語のストーリー自体は知っている。しかし、こういう名画は、その人の感受性が最も豊かな青春時代に見ると、一番感動するものだと思うので、その点はいささか残念である。ちょうど、現在は50歳代半ば頃の人が、懐かしそうに「ガンダム」について語るのに、私には全く何のことかわからない。それと同じである。ところで、その後の日本映画は、苦難の道を歩む。怪獣もの、ヤクザもの、ポルノものが出るに連れて、堕落してしまった。それから長い期間を経て、宮崎駿監督のジブリシリーズが現れるまで、観に行く気もしなかった。

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 その映画資料館で、懐かしいスターたちのポスター見て回った。それから、その姉妹館のような、おのみち歴史博物館に行ってみた。この建物は、かつては尾道銀行本店だったそうで、中に入ると造り付けの金庫(熊平製作所製)があるので、面白い。ただ、展示自体は期待外れで、何もないに等しい。

 その頃、尾道の急坂での上り下りの無理がたたったか、どこかで休みたくなった。海岸通りに出たら、ちょうど停留所があって、レトロバスが来た。それに乗り込んで、ホテルへと戻った。身体中が痛いので、バスタブにぬる目のお湯を張って、そこでしばらく筋肉をほぐした。普段使わないところが痛い。かなり無理をしたようだ。風呂から上がって、眠たくなって、1時間半ほど寝てしまった。


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 起き上がってみると、午後6時半をすぎている。お腹が空いたので、しっかり食べようと思って、ホテルのフロントにレストランマップをもらって出たが、尾道ラーメンから始まって何から何まであらゆる飲食店が書いてあるから、何の役にも立たない。仕方がないので、海岸沿いに汐の香りを感じながら歩いていると、大きなビルの2階に、ちゃんとしたレストランがある。ステーキ屋さんだ。美味しそうなので、そこに入って200gのステーキを注文した。運ばれてきて、一口、味わったところ、とても美味しい。1日の疲れが一気に取れるようだ。

 1人で黙々とナイフとスプーンを動かしていると、隣の4人席にバラバラと60歳代前後のご婦人方が集まってきた。そして、今度、外国旅行に行くだの、レジャーボートを持っていてあちこちに釣りに行くだのと、まあ景気の良い話ばかりをしている。地元で自営業をされていて、その裕福なお仲間のようだ。この地でも、裕福な人は、それなりの暮らしをされている。若い人たちは、どうなのだろうかと思いつつ、それから、夜の港の写真を少し撮ってホテルに帰ったが、昼間は何の変哲もない向島のクレーンが、色彩豊かにライトアップされているのを見て、なかなか洒落ていると思った。


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 なお、JR尾道駅の真後に当たる丘の上に、お城らしきものが見える。確か、尾道は商都であって、お城などなかったはずなのにと思ってホテルの人に聞くと、「観光施設として作られたのですが、今は閉鎖されて外構だけがあのように残っています。」とのこと。要は、ハリボテだそうだ。確かに、ロープウェイでもない限り、あのような丘の上に歩いていくのは、大変だから、行く人は少なかったのだろうと思う。

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 翌日、尾道から新幹線の駅がある福山に行く。新尾道という新幹線の駅があるのだが、尾道駅からは離れているので、それくらいなら岡山に近い福山に行った方が早いと思ったわけである。それに、福山駅のすぐ北に、福山城公園があり、そこに立ち寄ってみたかった。福山城のHPによると、「福山城は徳川幕府から西国鎮護の拠点として,譜代大名水野勝成が元和5年(1619年)備後10万石の領主として入府し元和8年(1622年)に完成した城で、江戸時代建築最後の最も完成された名城としてたたえられていました。また伏見櫓は築城の際に、京都伏見城の『松の丸東やぐら』であった遺構を徳川秀忠が移建させたもので白壁三層の豪華な姿に桃山時代の気風が伺えます。歴代の藩主は、水野家5代、松平家1代、阿部家10代と続き廃藩置県に至るまで福山城が藩治の中心でした。明治6年(1873年)に廃城となり、多くの城の建物が取り壊され,更に昭和20年(1945年)8月の空襲により国宝に指定されていた天守閣と御湯殿も焼失することとなります。その後昭和41年(1966年)の秋に市制50周年事業として天守閣と御湯殿、月見櫓が復原され、天守閣は福山市の歴史を伝える博物館として藩主の書画・甲冑など展示しています。」

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 こちらも、戦争のために国宝のお城が失われ、その後になってコンクリート製でお城が復元されたようだ。名古屋城と同じ運命をたどったというわけである。そのコンクリート製のお城に入ると、数々の甲冑が飾られている。その一つ一つを見ていると、最後には、あまりにも生々しく感じられた。そこを抜けて、さらに上階に上がろうとすると、前日の尾道で痛めた身体の筋肉が悲鳴を上げた。そこで、ゆっくりと登っていくことにした。福山城の天守閣に着いた。

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 天守閣からは、さすがに眺めが良い。目の前を左右に新幹線が通る。お城の周りには緑が多い。あれあれ、西の方角に、西洋のゴシック建築の大きなカセードラル(礼拝堂)がある。こんなの、あったのかと不思議に思う。ところが、これは礼拝堂でも何でもなく、単なる結婚式場であることが判明した。尾道駅のお城といい、まがい物でも良しとする文化があるのだろうか?その後、お城の周りを一周して再び駅前に戻って、ホテルの四川料理レストランに入り、麻婆豆腐を注文した。やや疲れた身体には刺激の強いものが良いと思ったからだが、期待に違わず、激辛だったけど、美味しいものだった。それから、元気であればもう少し回ってみるつもりだったが、いささか疲れたので、切符を変更して、早めに山陽新幹線に乗った。ここからわずか3時間半で東京に着くとは、驚きの速さである。なお、福山で買ったお土産は、もちろん、きびだんごと、ままかりの干物である。






(平成29年5月28日著)
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