悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 高岡への旅( 写 真 )は、こちらから。


1.高岡御車山会館

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 富山県高岡市で「高岡市内観光施設クーポン」なるものを購入し、その表の面で観光施設一覧を見て、また裏の面で地図を確認しながら、観光して回った。何といっても、「高岡御車山(みくるまやま)会館」が、一番、興味深かった。実は私は、20年ほど前に、このお祭りを現に見たことがあるのだが、その時はこれほどの歴史と伝統があるものだとは、ついぞ知らなかった。ユネスコ無形文化財登録のおかげだろうか、会館内は、このお祭りについて非常に網羅的ながらも緻密かつ理解しやすい展示がしてあり、まずそれに感じ入った。建物の中に入ると、照明を暗くした渡り廊下の壁に、御車山の由来が書いてあって、歴史がよくわかる。それを抜けると、正面の吹き抜けの空間に、ドーンとばかりに高さ10メートルほどの本物の御車山が一基、置いてあるので、迫力がある。御車山は全部で7基あり、普段は神社の収蔵庫に安置してあるが、それを4ヶ月おきに引き出して、ここにこうやって展示替えをするそうだ。現物の展示であるから、下から見上げると、車輪、人形、鉾から下がる花飾りなど、何から何まで圧倒される。私の行った日は、二番町の御車山の展示だった。

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 御車山は、ざっと見て3層に分かれている。下段は四角い箱で、周囲には美しい幕が張られているし、平安時代の牛車を思い起こさせる4つの車輪が実に凝っている。単に大きな車輪であるだけでなく、誠に繊細な金属の装飾が施されている。高岡は銅細工などの伝統工芸が盛んだが、その技術が惜しみなく使われている。面白いのは、その方向転換の方法である。他の祭り、例えば京都祇園祭の場合は、道路に割り竹を敷いて水を撒き、その上で山車を引いてその方向を変える。飛弾高山祭りも、(もう夕暮れだったこともあり)割り竹こそ見なかったが、引き摺って90度回転させるという基本は同じだ。ところがこの高岡の御車山は、4つの車輪のうち、前の2つの車輪を人力でわざわざ「持ち上げ」て、方向転換をする。それでは、ひっくり返らないのか心配になるところだ。しかし、中段には人形と人が数人が乗っているものの、その上は上段に見えるが、鉾を中心とした大きな花飾りだから、実質的には重さはさほどないと思う。だから重心は低く、こうした方向転換の方法でも安定しているのだろう。また、からくり人形が7基中の4基にあるそうだ。それから、「平成の御車山」というものも展示されていた。まだ製作中の由だが、お内裏様とお雛様のような二体の人形が乗っていて、その脇に童女の人形があって、これがからくり人形のようだ。つまり、平成の技工と材料で、8基目の御車山を造っているというのである。結構なことだ。

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 いただいたパンフレットから、引用させていただこう。「高岡御車山は、1588年(天正16年)、豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎え奉るときに使用した御所車を、加賀藩租前田利家が拝領し、高岡開町の祖、2代目前田利長が1609年(慶長14年)、高岡城を築くにあたり、町民に分け与えられたのが始まりといわれています。御車山は、御所車形式に鉾を立てた特殊なもので、金工、漆工、染織等の優れた工芸技術の装飾がほどこされた日本でも屈指の華やかな山車です。高岡御車山は国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財の両方に指定されています。これは日本全国で5件指定されている内の一つです。(他の4件は、 祇園祭山鉾と京都祇園祭の山鉾行事高山祭屋台と高山祭屋台行事秩父祭屋台と秩父祭屋台行事と神楽(秩父夜祭)日立風流物


高岡御車山祭りパンフレット(平成30年5月1日版) 
1頁 2・3頁  4頁 


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 高岡御車山会館は、2015年3月の北陸新幹線の開業に合わせて、翌4月にオープンしたそうだ。今月(2017年5月末)の土日に富山県魚津市で全国植樹祭が催され、そのときに天皇皇后両陛下がお出でになるが、その際にこの会館にも立ち寄られるそうだ。そのときには、7基全部が出て、お迎えするそうである。




2.菅野家住宅

 高岡御車山会館から歩いて数分のところにある。家の前で一見してわかった。これは、川越の蔵造りの町屋とそっくりである。2階の窓には、分厚い観音開きの窓が付いている。大火の後に、このような町並みができることが多いと思ったら、やはりそうだった。いただいたパンフレットによると、


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(1) 菅野家の歴史

 菅野家(すがのけ)は、明治初頭に5代に伝右衛門が北海道との通商などで家業を広げ財を築いた。明治22年(1889年)には、高岡銀行を設立、36年には高岡電灯を創立する一方で政界にも進出して、木津家や荒井家と並んで高岡政財界の中心的な存在として活躍した。

(2) 重要文化財菅野家住宅

 母屋は、明治33年(1900年)の大火直後に再建された。土蔵も同時期の建設と推定される。大工棟梁に室田直助、左官には壁長が携わり、当時10万円という大金を投じて建てられたという。母屋は土蔵造り、2階建て、平入りの町屋で、黒漆喰仕上げの重厚な外観と正面庇の天井飾り、軒を支える鋳物の柱などの細部の華やかな装飾に特徴がある。土蔵は2階建てで蔵前も土蔵造りとし、大火の教訓を生かして防火に念入りにそなえた造りとなっている。当住宅は、質の高い伝統的な町屋が多く残る高岡市の中でも、大規模で最も質の高いもののひとつとして貴重であると評価され、平成6年12月27日に重要文化財に指定された。(ご子孫の方がまだ住まわれているらしい。)

(3) 母屋の意匠

 [構 造] 明治32年の富山県令51号「建築制限規則」により、繁華街における建造物は土蔵造りなどの耐火構造とすることが義務付けられた。菅野家は、2階には観音開きの土扉を備えた窓があり、両袖には防火壁が立ち上げられているほか、1階正面道路側と中庭に面する縁には、鉄板を張った防火扉が設けられ、一朝有事には貝が蓋を閉じたようになるなど、防火に配慮した構造としている。防火壁は釉薬を施した煉瓦で造り、屋根の小屋組みには土蔵造りとしては珍しい真束(しんづか=トラス構造の骨組み)の手法を用いるなど、時代を反映して洋風建造の要素を取り入れた構造となっている。

 [意 匠] 外観は黒漆喰仕上げで、太い出桁とその先に何段もの厚い蛇腹を巻いている。また、棟には大きな箱棟を造って鯱や雪割りを付けるなど、全体として重厚な意匠となっている。一方では、防火壁正面の石柱、正面庇の天井飾りの鏝絵(こてえ)や軒を支える鋳物の柱などの細部の要所には、細かな装飾が施され、華やかな意匠としている。内部は、土蔵造りでありながら、柱や長押の部材が細かく、土蔵を意識させない。特に、ホンマなどの外向きの部屋は、数寄屋風で木割りが細かく全て白木の柾目の檜とし、天井板も屋久杉等の厳選された銘木をふんだんに使用している。壁は自然石を砕いた粉を混ぜた鮮やかな朱壁で、年月を経ても色落ちしていない。」


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 見学者は、たまたま私一人だったものだから、係りの方が親切に案内していただいた。確かに、家の中は、土蔵の中にいるとは全く感じないくらい普通の商家で、一つ一つの材料が実に凝っている。天井板は全て屋久杉でできていたり、床の間の柱が京都の北山杉だ。確かに、木に絞りが入っている。これは、貴重だ。しかし、そんなことに驚いてはいけない。長い廊下の頭の少し上にある横に長い丸太、これが一本の北山杉なのには、びっくりした。特に感心したのは、欄間である。普通のものより、はるかに空間が多い。有名な井波の作品でも、このようなものは、見たことがない。また、建ってからかれこれ120年近く経っているというのに、自然石を砕いた粉を混ぜた鮮やかな朱壁は、確かに未だに色鮮やかである。なるほど、よい材料を使うと、これほど違うものである。




3.土蔵造りのまち資料館

 菅野家住宅の少し先に、高岡市土蔵造りのまち資料館(旧室崎家住宅)がある。菅野家住宅に比べれば規模は小さい。やはり土蔵造りで、当時の商家はこんな感じだったのかと、その繁栄ぶりの一端が偲ばれる。綿布の卸売りを営んでいたそうだ。ここでも、いただいたパンフレットによると、


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(1) 山町筋と室崎家の歴史

 慶長14年(1609年)、加賀藩第二代藩主である前田利長が高岡に隠居城と城下町を作り、高岡の町が開かれた。そのときに商家町として町立てされたのが山町である。慶長19年、利長が築城5年で没し、さらに元和元年(1615)年の一国一城令によって高岡城が破却され、武士団が金沢に引き上げたために高岡は城下町としての存在意義を失ってしまう。高岡の窮状を憂えた第三代藩主の利常は、町人に他所転出を禁じて町年寄(町人の自治組織)を発足させ、魚問屋、塩問屋、米蔵、塩蔵を設けるなど、高岡を商工業の町へと転換させる政策を進め、以来、高岡は越中における米や綿などの集散地として繁栄した。中でも山町は長らく商都高岡の中心地として隆盛を極めた町である。

 「山町」の呼称は国の重要有形民俗文化財・無形民俗文化財である7基の高岡御車山を保存、継承する十ヶ町に由来するもので、特に「山町筋」と呼ぶ地域は旧北陸道に面した町筋を指すものである。御車山祭は4月30日の宵祭に始まり5月1日の町内を曳き回される。

 室崎家は、現当主で九代目となる歴史のある町で、明治初期にこの場所に移ったものであり、それ以前は道路を挟んで向かい側の小馬出町60番地に住んでいた。当家は昭和20年まで綿糸や綿布の卸売業を手広く営んでいた高岡でも屈指の商人である。現在は石油商を営んでいるが、室崎氏の転居に当たって市がこの土蔵造りの民家を資料館として整備し、一般に公開している。


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(2) 旧室崎家住宅

 山町筋の土蔵造りの建造物は、明治33年(1900年)の高岡の大火後の復興に当たって、防火に配慮した耐火建築として建てられたものである。土蔵造りの特徴は、外壁を黒又は白の漆喰で塗り込み、隣家境には延焼防止のための防火壁を設け、屋根は桟瓦葺きにして大きな箱棟や鬼瓦を乗せ、2階窓には観音開きの土扉を付けて、全面に下屋庇とそれを支える鋳物の鉄柱があるなど、外観は重厚な印象を与える意匠としている。一方、内部の意匠は外観とは対照的に繊細な数寄屋風に仕上げ、主屋と土蔵の間にある中庭は市街地にあって静謐な空間を創出している。旧室崎家住宅の主屋は東西道路に北面して建ち、その後方には中庭を挟んで土蔵が建っている。・・・その間取りは典型的な3列3段の通り土間型の町屋である。また、山町筋においては珍しく前庭があることや2階窓の観音開きの土扉のないことを除けば、山町筋の土蔵造りの特徴をよくとどめている。内部はザシキの壁を赤壁とし、柱や長押に銘木を使用して木割を細かくして仕上げている。また、土蔵造りの特徴の一つである通り土間が改造されることなく残されている数少ない町家である。





4.国宝 瑞龍寺

 高岡駅前のホテルにいったん戻り、そこから南へ10分ほど歩いた。途中、農地があった。そこに見慣れない花が咲いていると思って、その場にいた農家の方に聞くと、ジャガイモの花だそうだ。それからすぐに瑞龍寺に着いた。伽藍がすっきりとしていて、門や建物の形が伸びやかである。こちらも、駅前の観光案内所でいただいたパンフレットによると、


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 「瑞龍寺は、高岡の町を開いた加賀前田家二代当主前田利長の菩提寺です。三代当主利常は兄利長への深い恩から、寺は加賀百二十万石の威信をかけた一大事業として取り組まれ、藩の名匠山上善右衛門によって約二十年の歳月をかけて建立されました。建立以来350年を経た曹洞宗寺院瑞龍寺は、日本で唯一、七堂伽藍と呼ばれる江戸初期の典型的な寺院様式を今に残している建築物として高く評価され、平成9年(1997年)、国宝に指定されました。伽藍は、総門、山門、仏殿、法堂が一直線上に配され、法堂から仏殿を取り囲むように山門まで回廊が巡って、荘厳にして格調高い空間を作っています。特に、最高傑作の誉れ高い仏殿では、47トンに及ぶ屋根に支える美しい木組みを見ることができます。このような鉛瓦葺きは珍しく、わずかに、金沢城の石川門と瑞龍寺だけに現存するといわれています。」

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5.高岡大仏

 やはり、パンフレットによると、「奈良、鎌倉と並んで日本三大仏に数えられている高岡大仏は、伝統ある高岡の鋳物技術の粋を集め、30年の歳月をかけて昭和8年(1933年)に青銅大仏として完成しました。その出来栄えは素晴らしく、日本一のイケメン大仏様と言われています。総高15.85m、重量65t、すべて地元の手による大仏は、銅器日本一のまち高岡の象徴である。」とのこと。確かに、高岡大仏のお顔は、正面から見ても横から見ても、非常に均整がとれていて、非常に美しい。


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 なお、「高岡」という地名の由来について、このパンフレットが触れている。それによると、「加賀藩第二代藩主前田利長がこの関野の地に築城して入城したとき、詩経の『鳳凰鳴けり。かの高き岡に』から命名」されたという。




6.雨晴海岸の名勝 義経岩


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前日、富山からくっきりと見えた立山連峰



 前日に富山市にいたとき、もう午後3時過ぎなのに立山連峰が非常にくっきりと見えた。こういう日は珍しいので、もしかすると、今日の早朝に雨晴海岸に行けば名勝義経岩のバックに立山連峰が撮れるかもしれないと思って、行ってみる気になった。早朝、高岡駅からJR氷見線に乗って雨晴駅まで行き、そこから海岸線を歩いて義経岩に行った。ところが、立山連峰が見えるどころではなかったし、肝心の義経岩も全くの逆光で、無駄足だった。地元の人によると、2月から3月にかけての午後だと、両方とも見える日があるらしい。

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運が良ければ背景にこのような立山連峰が見えるのだが・・・
この日は、義経岩の背景にうっすらと見えるような気がするばかり



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 ところで、駅前の観光案内所でいただいたパンフレットによれば、このように紹介されている。「雨晴海岸は、波が洗う奇岩と白砂青松が続く景勝の地です。とりわけ冬晴れの日に見られる、海上にそそり立つ立山連峰の雄大な眺めは比類のない絶景として讃えられています。海越しに3000m級の白い山々を間近に望むという素晴らしい景観は、世界でもこの海岸だけのものです。雨晴という地名の由来は、かつて義経主従が奥州に落ち延びる途中にこの海岸でにわか雨にあい、弁慶が持ち上げた岩陰で雨宿りしたという『義経雨はらしの岩』の伝説からきています。雨晴海岸は、万葉の歌人、大伴家持が訪れるたびに絶賛したところであり、そのときの情景を詠んだ歌の数々が、万葉集に収められています。」ということで、「世界で最も美しい湾クラブ」に加盟しているそうだ。





(平成29年5月21日著)
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