1.義理の母の具合がとても悪いものだから、この週末は、静岡に来ている。義理の父母は、もともと、3階建の自宅の2階部分に居住していた。ところが、80歳代半ばを過ぎて足腰が弱った。エレベーターの設置ができればよいのだけど、建築規制やスペースの問題でそれも難しくて、ついに老人ホームに入居することを決断した。数年前のことである。一般には、入居するかどうかで千々に悩むところだ。しかし母は、もうこうして住むのは限界だと進んで決断し、父も引き連れて入居したのは、さすが、元経営者だっただけのことはあると、感心した。
家内が探した県内の老人ホームのうち、いくつかを比べて候補を選び、体験入居して決めたのが、今の老人ホームである。茶畑だったところを開発したので、まず日当たりがよい。2階に上がれば、食堂兼集会室の全面が1枚の大きなガラスになっていて、その正面には真正面に富士山がドーンと鎮座している。もう、絶景としか言いようがない。富士山は、冬になれば白い綿帽子を被る。夕方になれば、夕陽でピンク色に染まって、実に贅沢な景色を味わえる。 ここ1年ほどの変化として、これまではそんな入居者はいなかったのに、方針が変わったためか、手のかかる入居者が入ってくるようになったように思う。たとえば、男性で80歳くらいの人は、認知症のせいでまともなコミニュケーションをとるのが難しいのだけれども、その代わり身体は誠に頑丈で、外へ出て、散歩というよりランニングをしたがる。老人ホーム側としては、そんな外でのランニングに付き合う人手もないし、事故でもあったら困る。だから、建物内に留めようとする。この人は、口に出すことはできないが、それが不満なようで、玄関を見渡せるソファに身体を沈め、誰かが玄関を開けたその隙に、あっという間に、その脇を脱兎のようにすり抜けて飛び出す。それがまあ速いものだから、若い職員でもなかなか追い付けないらしい。こうなると、もう笑い話の類いだ。 あるいは、昼間だけだが、どういうわけか大声で居室の戸締りを確認して回る90歳代のおばあさんがいる。「この部屋、戸締りよーし!」という調子である。うるさくてかなわない。でも、非常に熱心に職務に取り組んでいるのには、感心する。だから、もともと、一体どういう職業の人だったのかと考えたりする。この人が自室に戻ると、シーンとした元の雰囲気に戻る。 部屋の中でも、やっているのだろうか? でも、そういうところに入って、至れりつくせりという介護を受けていても、義理の父は、3年前に脳梗塞が原因で亡くなってしまった。享年88歳だった。2年にわたる闘病生活の末だったが、これが仮に自宅での介護であったならば、90歳近いおばあさんである母一人で対処しなければならなかったので、色々と大変だったろうと思う。そういう意味で、老人ホームにいて、つくづく良かったと思う。しかし、今度はその母の番になってしまった。 ところで、老人ホームに入居すれば、家族の手が離れるかといえば、必ずしもそうではない。眼がおかしいといえば眼科に、腰が痛いというから整形外科に、定期的な歯石除去で歯科医院に連れて行かなければならない。ちなみにこういう医者通いは、老人ホームの人は連れては行ってくれるものの、医者と交渉したりやりとりするのは家族でなければならないので、老人ホームでは対応できず、どうしても家族の責任となる。そういうことで、老人ホームに入居したらそれで全面的に任せきりというわけにはいかなくて、家族の出番もかなりあるのである。そのため、両親が老人ホームに入ってから、ほとんど毎週、欠かさずに東京から静岡へと通っている。これには、頭が下がる。 家内も最初は、母親のすぐ横にベッドを置いてそこに寝て、トイレの世話をしたり、胸が痛いという訴えに対応したりしていたが、2晩も付き添うと自分が疲れてヘトヘトになり、自らが倒れそうになった。そこで、引き続き、毎日、老人ホームに通い詰めることにするが、四六時中一緒に過ごして看護するのはさすがに止める。代わりに、近くのホテルに滞在して、そこから適宜通うスタイルにした。つまり、昼間は老人ホームでなるべく一緒に過ごすようにする。しかし夜間は、スタッフが1時間おきに様子を見てくれるので、それに任せるのである。それでも、結構、気力と体力を使う。だから、これが仮に自宅介護だったならば、それこそ共倒れだっただろう。 当初、義理の母が、飲まず食わずで、心臓の拍動が不安定で、体温も急に上がって37度から38度の状態が続いたときは、私も何回かお見舞いに行って、そのたびに、もうダメかと思った。しかし、眼を開けているときの意識はしっかりしていて、私が顔を出すと「ああ、よく来てくれたねえ。」と言ってくださる。でも、続いて「胸が苦しいのよね。私、死んじゃったら、どうなるんだろう。」と聞かれる。聖職者ではないから、これは、なかなか答えにくい。言いよどんでいると、家内が脇から「人は必ず死ぬの。でも、その後は誰も死んだことがないから、ここに居る人には分かりません。たぶん、おじいちゃんのところに行くんでしょ。」などと答える。それを聞いていた看護師さんが「よくそんなこと、はっきり言いますね。」と、呆れたりする。確かに、他に言いようがない。 そうしているうちに、母が「ああ、心臓が痛い。」と言って、胸を押さえる。こちらは、ああ、心臓が止まってしまうと、気が気でない。ところが次の瞬間、それが治って「なかなか、楽には死なせてもらえないねえ。」とポロリと言うから、不謹慎だが、つい笑ってしまう。看護師さんが「こんなに今際の際まで、意識がはっきりしている人はいませんよ。早く、自然のモルヒネが出て、お楽になるといいのですが。」と、いささか同情の眼差しで言う。 施設長さんと相談して、痛がる時には、掛かりつけのドクターに、麻酔を打ってもらおうとした。ところが、そのドクターは「この状態で痛み止めを打つと、それがショックになって、命を落とすかもしれません。」と言って、なかなか肯んじない。これは、責任逃れかもしれないとも思うが、本当かもしれない。ベッドでは、母が痛がり続けているので、せめてこれくらいは、ということで、睡眠薬を処方してもらうのが、せいぜいだった。 3.そういう状態で、毎日毎日、いよいよ明日はもうダメかと思いつつ、沈鬱な気分で過ごしていたのだが、7日目から、家内が持って行ったお土産の果物やお菓子を口にするようになってくれたし、高カロリーの液体も飲むようになった。最初は、ほんの数口から始まって、みるみるうちに以前の8割ほどの食事をするまでになった。まさに、驚異的な回復である。それだけでなく、この数日間は、車椅子の上ながら、いつもの通り、皆と体操をしたり、脳トレの算数や漢字の書き取りもするようになった。家内が、老人ホームの担当者の了解を得て車椅子で外に連れ出すこともした。施設長さんに言わせれば「私は40年近く看護師をやっていますけど、こんな方は、初めてです。」というくらいに元通りになった。驚くばかりだ。 もちろん、今でも胸が痛いということがしばしばある。そういうとき、海老のような形に体を曲げる。それを見ているこちらは心が痛むが、何もできない。測定データを取ると、血圧が上がっていることが多い。でも、そのうち30分もすれば呼吸が整ってくる。そうすると自然に姿勢が仰向けに戻って、気持ち良さそうに寝入り始める。ここ数日間は、そういうことの繰り返しである。今日など、家内が見守っていると、急に「いったん大きく目を開けるなり『治った!』と元気に言って、またスッと気持ち良さそうに寝てしまった。」という。まるで冗談のような話だが、とりあえず安心した。ちなみに、老人ホームの人によれば、看取り状態でこれまで最大1年間も頑張った人がいたというが、この調子で記録を更新してくれるのではないかと、秘かに思っている。 ただ、ときどき、胸が痛いと訴えるのを目にすると、なすすべもないだけに、こちらも、それこそ「切なく」なるのである。人生の最後の瞬間を平和に過ごし、すやすやと眠るように幸せに去るというのが、一番、望ましいと思う。功なり名を遂げた方だし、ひ孫も3人いて、それぞれの顔も見たし、人生に満足していると、ご自分では語っておられる。しかし、どのようにこの世を去るかというのは、いずれにせよその人の運命次第で、最後まで運が良いとは限らない。これもその人の人生の一つのエピソードであり、人それぞれなのだろう。そういうことを今回、考えさせられた。 私の場合、何年先になるのか知らないが、今際の時がいよいよ来たら、誰にも迷惑や心配をかけずに、できれば、満足と平穏な気持ちのままで、痛みとは無縁で大往生といきたいものだ。日本平の頂上から、紅梅白梅の間より顔を出す富士山の美しい姿を見て、つくづくそう思った。 (平成29年2月26日・3月14日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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