悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



豊川稲荷東京別院




 愛知県の東端にある豊根村、東栄町、設楽町、新城市、豊川市、豊橋市、蒲郡市そして田原市から成る地域を、まとめて「東三河」と称する。このたび、その東三河を紹介するセミナーが、豊川稲荷東京別院において行われた。私も参加者50人の1人として参加させていただいた。私自身は愛知県名古屋市という「尾張」の出身なのだけれど、学校行事で行った鳳来寺山を除いて、この東三河には行ったことがなかった。

奥三河の花祭


 パンフレットを見ると、私が興味を惹かれるものがいくつかある。それは、写真を撮りたくなる題材であり、豊根村には茶臼山高原、同村と東栄町と設楽町には奥三河の花祭、新城市には鳳来寺山、豊川市には豊川稲荷、豊橋市には鬼祭、蒲郡市には竹島、そして田原市には恋路ヶ浜である。このほか豊橋カレーうどん、豊川いなり寿司という食べ物もあるようだ。おもしろかったのは、手筒花火のパンフレットで、花火の火の粉の中に男の人がいて、それに添えられたキャプションが「罰ゲームではありません。好きでやっています。」というもので、思わず笑ってしまった。

手筒花火


 セミナーでは、愛知県東三河県庁の方が、「いいじゃん」というのは、東三河の方言等の説明をされた。その後、豊橋市・二川宿本陣資料館の和田実さんが日頃の研究成果を発表されて、なかなか興味深かった。東海道53次の中で、二川宿は33番目だった。本陣が一つしかない小さな宿場だったことから、かえってそれがよくて「本陣(大名の宿)、旅籠屋(庶民の宿)、商家の3ヶ所を同時に見学できる日本で唯一の宿場町」とのこと。二川を描いた浮世絵には、お茶屋に草履がぶら下げてあり、この当時の旅人は草履を履きつぶして毎日取り換えていたそうで、現代のコンビニのような役割を果たしていたらしい。本陣には上段の間があり、これがお殿様の部屋であり、湯屋があってその中には大きな風呂桶がある。大名によっては風呂桶をかつがせて持参してくる人もいたという。まさに「マイ風呂桶」というわけだ。

豊橋市・二川宿本陣


 本陣の利用は年に40回から80回くらいだったが、幕末に参勤交代制度が廃止されてからしばらくは、最高の年で160回を超えた。これは、江戸に人質になっていた大名の奥方たちが、国元へと帰ったからだとのこと。利用形態は、小休58%、宿泊25%、昼休13%、その他4%となっていて、前後に浜松宿、吉田宿があったために、宿泊はそれほど多くなかった。こちらを利用した主な大名としては、毛利家(宿泊25回、小休72回、その他2回)、島津家(宿泊25、小休30、その他12)、蜂須賀家(宿泊16、小休48、その他1)、黒田家(宿泊57、小休11)などである。文久10年の加賀藩前田家の参勤交代の参加者数は、1969人である。うち、藩士185人、藩士の家来や従者830人、雇った足軽など686人、各宿場が用意する宿継人足268人である。これらの食事は、身分に応じて献立がはっきりと分かれていた。なるほど、こうして事細かに数字で説明されると、思わず唸ってしまう。宿帳が残っていたというが、よく調べたものだ。

東三河いいじゃんセミナー


 その後、豊川稲荷東京別院の広報係のお坊さんが出てこられて、その由来などを説明された。まず、なぜこの東京赤坂の地に豊川稲荷があるかというと、先祖が三河の大岡村である大岡越前が信仰していたからだそうだ。なるほど、それは知らなかった。もともと、愛知県の曹洞宗の妙厳寺の境内にあった守り神の稲荷だったのが豊川稲荷で、そちらの方が全国的に有名になったとのこと。これも、全然知らなかった。そのHPによると、「豐川稲荷は正式名を『宗教法人 豐川閣妙嚴寺』と称し山号を圓福山とする曹洞宗の寺院です。・・・当寺でお祀りしておりますのは鎮守・豊川ダ枳尼眞天です。・・・当別院は江戸時代、大岡越前守忠相公が日常信仰されていた豊川稲荷のご分霊をお祀りしています。明治20年に赤坂一ツ木の大岡邸から現在地に移転遷座し、愛知県豊川閣の直轄の別院となり今日に至ったものです。豊川稲荷を信仰した方としては、古くは今川義元、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、九鬼嘉隆、渡辺崋山など武将達から信仰を集め、さらに江戸時代には、庶民の間で商売繁盛、家内安全、福徳開運の神として全国に信仰が広まりました。」とのこと。

豊川稲荷東京別院の狐さま


 広報係のお坊さんのお話によると、「稲荷は、日本独自の信仰である。仏教と日本の伝統信仰とどう折り合いをつけていくかと考えた末、同じものにしてしまった神仏混淆の姿」だという。神道系と寺院系があり、前者が伏見稲荷大社、後者が豊川稲荷だとのこと。確かに、私は昔から、食物神、農業神、殖産神、商業神、そして屋敷神と、実に多彩な姿をしているお稲荷さんとは何だろうと思いながら過ごしてきたが、これで少しはその由来が分かった気がする。ではなぜ狐かというと、お稲荷さんは元々は農業の神で、狐はその使いだと考えられてきたそうだ。狐は、穀物を荒らすネズミを捕まえるだけでなく、身体の色や尾の形が豊かに実った稲穂を連想させるからだという。

豊川稲荷東京別院


茶まんじゅう、ちくわ


 その後、セミナーでは、茶まんじゅう、ちくわ、お茶を御馳走になり、最後に豊川稲荷東京別院の祈祷となった。この祈祷がまた独特で、神社とはかなり違う。太鼓がリズミカルに叩かれる中、力強い読経があり、途中でそれが一通り終わると、読んでいる蛇腹型の法典を、南京玉すだれのような形で左右に振る。最後は参加者の名前一人一人を読んでいただいて、祈祷が終わった。こんな形は初めてなので、いささかびっくりした。このセミナーに続いてツアーが企画されているようなので、楽しみにしたいと思っている。





(平成29年1月21日著)
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