悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



帝国ホテルの正月の飾りつけ




 今から40数年前のことである。私は、上京して就職し、一生懸命に仕事をしていた。ところがそれは、連日、明け方まで残業をするとてつもない激務で、月間の超過勤務時間は230時間を超えていた(注1)。今なら、過労死が問題になるレベルだ。しかもこれを何年も続けていて、その間に結婚し、子供もできていた。今振り返ると、一体どうやって生きていたのか、我ながら不思議に思うくらいである。強いて言えば、仕事に使命感と誇りがあったし、それに若かったし、家族の助けがあったからこそ、耐えられたのだろう。

 私が勤務する霞ヶ関のオフィスは有楽町に近かったので、お昼は時々有楽町まで歩いて行って、普通のサラリーマンの食事をしていた。そんなある日、こう思った。「こんな明け方まで、コマネズミのように働いていると、精神的に貧しくなる。せっかく東京まで出てきたのだから、少しは晴れやかな知らない世界を覗いてみよう。」と。そういう中、有楽町のレストラン街に行く途中にある帝国ホテルを見上げた。「そうだ、ここでお昼を食べてみよう。」という気になった。少しばかり、懐が寂しくなるが、気分転換が優先だ。そこで、帝国ホテル脇の入口の右手にあるレストラン(向かいに帝国劇場のある通りに面した現在のパークサイド・ダイナー)に入ってみた。当時、街の喫茶店でジュース1杯が100円台だったところ、帝国ホテル最上階の喫茶室では確か1,200円もしたから、こちらの昼食代もかなりのものかと思ったが、案外そうでもなかったことを覚えている。


帝国ホテルの外観


 私がそうやってホテル食を味わいながら食べていると、あるご老人が、ゆっくりとした足取りで入ってきた。髪はほとんど銀髪で、それとよくマッチしたグレーのブレザーを着込み、ポケット・チーフをするなど、実にお洒落でダンディな、おじいさんだ。脚がお悪いらしく、ステッキを付きながら、それでも背筋をなるべく伸ばしつつ歩き、案内されることもなくどんどんと進んで、隅っこの席にどっかと座った。その人の定席らしい。そして、ボーイさんと慣れた様子で会話を交わしていた。時折、眼鏡越しに実に魅力的な笑顔を見せるのである。地方出の私は、「ああ、まさしくジェントルマンとは、このことだ。東京には、こんな魅力的なおじいさんがいるんだ。」と、感激したものである。ただ者ではないなと思って、ボーイさんに聞くと、「藤原さんです。」と、小声で教えてくれた。あの、藤原影劇団の創設者の藤原義江さんだ。

 それから、半世紀近くも、このエピソードは私の頭の片隅に仕舞われて、そこから出てくることはなかったのだが、先日、「日経回廊10号 ホテルに暮らす」に、「藤原義江と帝国ホテル」という記事を見つけて読み進むうちに、この記憶がまざまざと蘇ってきた。その記事の内容をかいつまんで紹介すると、次のようなものである。

 「藤原義江は、19世紀の終わりに、下関在住のスコットランド人ネール・ブロディ・リードと、琵琶芸者の坂田キクとの間にできた非嫡出子である。20歳のときにオペレッタ公演を観にいき、これなら自分もできると思って浅草歌劇団に入り、イタリアに留学した。ハンサムで大柄で、本場で勉強して歌も上手い藤原は、ニューヨークでも絶賛され、レコーディングをするなど活躍して、大正の終わり頃、日本に華々しく帰還した。超一流ホテルの一番安い部屋に住むのを旨として(注2)、帝国ホテルに投宿した。人妻との世紀の恋を繰り広げ、女性歌手からは『お話は上手で文章も素晴らしい。最高におしゃれで一度会ったら忘れられない魅力と優しさがあった』とか、『小物ひとつに至るまでこだわりがある。今の方にはない風格がありました』とか、『食事中のマナーは素晴らしく、絶対に悪口はいわず、ほほえみをたやさなかった』などと評された。」という。

 なるほど、大勢の観客を魅了するオペラ歌手たるもの、女性に愛され、身の回りのものにこだわりがあり、立派な社交マナーを身に付けるなど、まさにこうでなくっちゃと思う次第である。ところで、私も藤原義江さんの晩年の年齢に近づいてきた。我が身と藤原さんとを比較して、つくづく考えさせられる。まず服装だが、オフィスではもちろんイージーオーダーの背広しか着ていないし、普段着といえば下はユニクロ、表はせいぜい平均的なアパレル会社の製品だ。それに、肝心なジェントルマンとしての教養だけれども、私は、趣味はオペラも歌舞伎も古典もさっぱりで、知識は生業の法律に偏っている。身のこなしは、オペラ歌手のように背筋を伸ばしてというわけにはいかず、気のせいか、最近は前かがみにならないように意識をしないといけない。要は年齢相応の平均的日本人なのである。また、職業柄か、誰にでもにこやかにというわけにはいかなくて、むしろ謹厳で怖そうなどという印象を与えているのではないかと反省することしきりである。まあこれは、育ってきた世界と職業が全く違うので、仕方のないことかもしれない。

 それにしても、藤原義江さんの破天荒なことといったらない。何回も結婚と離婚を繰り返し、愛人を何人も作り、洋服を仕立てては踏み倒す(もっとも、洋服屋さんは踏み倒されるのを薄々知りながら、大将のためならと喜んで作る)。みずから率いる歌劇団がアメリカで巨額の詐欺に遭う。自宅を銀行の担保にとられて失う。晩年を帝国ホテルで過ごしたときは無一文だったが、昔、世話になったというビクター、昭和音楽大学のほか、たくさんいた彼女たちの中の一人が家を売ってまでして、宿代を支払っている。

 美食家で、帝国ホテルのレストランやグリル小川軒には、藤原義江ゆかりのメニューが未だに残っている。最晩年には、車椅子には絶対に乗らず、壁伝いに歩いてダンディズムを貫いたそうだ。ともかく、規格にはまらない人で、歌以外にそこがまた魅力だったのだろう。





 さて、お正月に、その帝国ホテルの前に行くと、道路に鈴なりの応援団がいる。その大歓声に包まれて、箱根駅伝のランナーがひたひたと通り過ぎていった。写真を撮ったら、ランナーの両足が地面から離れて空中にあるではないか。なるほど、これでは早いはずだ。




箱根駅伝のランナー




(注1)週5日、毎日平均午前4時までとして1日10時間の超過勤務だから(1) 月200時間、(2) 当時の土曜日は半どんで平均午後8時までとして(1) 月32時間、合計で(1)+(2)=232時間。今から思うと、よく病気にならなかったものだと思う。まあ、一生懸命だったし、若かったし、東京で仕事ができる喜びがあったからこそだろう。ちなみに、超過勤務手当などほとんどなく、今の言葉で言うと、いわゆるサービス残業だった。

(注2)「超一流ホテルの一番安い部屋に住むのを旨」とするのはなぜかという理由を聞いて、笑ってしまった。それは、客船の場合は等級ごとにサービスが異なるが、ホテルであれば、そのお客である限り、全てのバーとレストランが使えるからだそうだ。お金持ちなのか、ケチなのか、よくわからない発想である。





(平成29年1月3日著)
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