1.岸和田だんじり祭
日本で最も派手で勇壮なお祭りといわれる、岸和田だんじり祭の見物に行ってきた。まずは、いつも通り、お祭りを見物する際の習いとしている有料観覧席からの見物である。それには、午後3時半からを予約した。午後1時からというのもあったが、東京を午前8時に発つと、宿泊する堺のホテルに荷物を預けに立ち寄れば、ギリギリの時間となる。それでは慌ただしいので、時間に余裕を持たせることにした。
東海道新幹線を新大阪駅で降り、南海電車の堺駅経由で岸和田駅に着いてみると、お昼の12時半を回っていた。駅前には紅白の幕が掛かり、いかにもお祭りムード満点だが、ひどい混雑だ。この調子では、予約した有料観覧席までたどり着けるかどうかもわからない。だから、駅近くでのんびり昼食を食べるのは止めて、なるべく観覧席に近い場所まで近づくことにした。駅前から北に延びているアーケード商店街の混雑が半端ではない。だからそこには入らずに、アーケードに並行する右手の道を通り北に向かおうとしたら、「だんじり」(山車)が通るというので、あちこちで通行止めだ。それを一々避けて歩こうとすると、困ったことに、どんどん右へ右へと流されていってしまう。私の前に中年女性グループがいて、どうやら私と同じ観覧席を予約しているらしいが、午後1時からのチケットだという。この調子では、とても間に合いそうもないから、慌てている。私は、遅い時間にしておいて良かった。
この日は、晴れ間が見える蒸し暑い天候で、大汗をかきながら、午後1時過ぎにようやく有料観覧席近くの北町交差点にたどり着いた。そこには、生協の大型スーパーがある。その中に入って、冷風を浴びてホッと一息をついた。身体の熱がどんどん逃げて行くのがわかる。実に気持ちが良い。そこで簡単な食事をして、早速始まった「だんじり」の「やりまわし」つまり、だんじりが勢いをつけて直角に曲がる様子を見物する。
青年団の面々が、頭にはちまきを巻いて白いパッチと地下足袋を履き、各町毎に特徴のある法被を着て、「そーリャー、そーリャー」と言いながら、だんじりを引いて来る。その高さは4m、重さ4tという。その大屋根の上には数人の「大工方」(だいくがた)が乗り、なかでも一人、両手に団扇を持って曲がる瞬間に舞い踊る様には、ほとほと感心する。だんじりは、相当な勢いで走るだけでなく、その速度を落とさずに直角に曲がる。その上で、振り落とされないばかりか、余裕をもって飛んだり跳ねたりするのだから、大したものだ。まさに、「祭の華」である。なかでも、曲がる瞬間、片脚を曲げて前傾姿勢をとり、もう一方の脚を伸ばすポーズには、まさに痺れる。
ただ、これは外から見かけた様子に過ぎない。本当のところは、見えない場所にいる縁の下の力持ちが重要な役割を果たす。岸和田市のHPにおける「やりまわし」の解説によれば、「だんじりを前へ前へと曳く青年団、旋回のきっかけをつくる前梃子、舵取り役の後梃子、後梃子に合図を送る大工方、それぞれのタイミングを合わせるのが難しく腕の見せどころである。速く、正確に『やりまわし』を行うには、それぞれの持ち場を受け持つ各団体の息が合うことが重要となる。そのため、町ごとの仲間意識が非常に高く強いのも岸和田だんじり祭の大きな特長である。」ということらしい。
ようやく、午後3時過ぎになったので、道路を渡って予約した有料観覧席に向かった。それは浪切神社脇のカンカン場といい、海岸沿いの東西に走る大きな道路の大阪臨海線と、南の岸和田商店街を通って駅に向かう通りが交わる「T」字交差点に面する所に位置する。ここからは、左右からやってくる「だんじり」が、駅前商店街に向かって曲がる様子がよく見える。ただ惜しむらくは、だんじりまでやや遠いので、いささか迫力に欠けるのが問題だ。それでも、300ミリ望遠レンズを目一杯使えば、だんじりの屋根上の「大工方」のお兄さんの全身が何とか捉えられる。これがもし、向かいの生協スーパー脇の有料観覧席だと、曲がった瞬間がすぐ目の前にくるので、写真を撮るには、そちらの方が良かった。ただし、そこだと、だんじりの全体像が見えないと思うので、良し悪しである。ともあれ、着席して、だんじりが来るのを待つ。
遠くから青年団の「そーリャー、そーリャー」という掛け声が聞こえて、観覧席前の岸和田港交差点に差し掛かる。いったん停止して順番を待つ。順番が来ると、まずその町内の「まとい」が先行して走る。そして引っ張る青年団が一緒に行って準備が整うと、だんじりの大屋根上で大工方の両手に持った団扇が翻る。それを合図に猛烈な勢いでだんじりが走り出す。上手く直角に曲がると、目の肥えた見物人たちが、やんやの喝采を送る。失敗してだんじりが外側へと膨らみ、またその反動で内側へぶれたりすると、見物人から「ああーっ!」というため息とも心配の声ともとれる声が上がる。その度に引き手、大工方、見物人との一体感が、いやが上にも増す。見事としか、言いようがない。こうして、約1時間半の見物を終えた。
午後5時過ぎに見終えて、気が付いてみたら、汗びっしょりである。灯入れ曳行が午後7時からとなっているので、いったん堺のホテルに帰り、出直すことにした。シャワーを浴び、着替えた後、そこで軽い夕食を食べてから、また南海電車で岸和田駅に戻った。すると、昼間見た「だんじり」が全く別のものに変わっていた。
町名を書いた提灯が100個近く、電球を灯されて周りを覆っているではないか。アーケード商店街の中をだんじりが行くと、お囃子(鳴り物)が、昼間とは全然違う。いずれも、太鼓、笛、鉦を鳴らしたり吹いたりするものには変わりがないが、昼間のだんじりは特にやりまわしの時などは、進軍ラッパのようにテンポが速くて激しい。
ところがこの灯入れ曳行は、ゆったりした優雅なものである。しかもよく見ると、だんじり内の演奏者が全て子供達だったのには、驚いた。そういえば、だんじりを引っ張る綱を引く先頭には、法被を着た子供達が多かった。だんじりの大屋根を見上げると、大工方のお兄さんが、両手に「大工方」と書かれた細長い提灯を、左右にゆっくり振っていて、どこそこ情緒を感じさせられた。
その翌日、今度は午前9時半からの岸城神社への宮入りを見物に行った。岸和田城とだんじりが重なる風景を撮りたくて、適当な場所を探したところ、岸城神社の手前にした。そうすると、だんじりが次々にやって来て間近で撮れる。しかしその反面、お祓いを受ける順番待ちで動きがなく、あまり面白くない。そこで場所を移動して、市役所脇の「こなから坂」を登り切って曲がる所に移動したら、だんじり全体の動きが良くわかった。
まず、纏(まとい)が現れる。町内ごとに、様々な色と形をしている。それを前触れとして、だんじりを引っ張る綱の先頭に近いところ(綱先)を法被を着た小学生とおぼしき一団が引いて来たと思うと、綱中を中学生が引き、だんじりが現れる。大屋根には大工方がいて、調子をとる。曲がり角に差し掛かると、だんじりの綱の根元に近い綱元の青年団が力を込める。前梃子の2人が、だんじりの前の両側にある棒を曲がる側の地面に差し込んで抑え、そちら側に曲がる。だんじりの後方では、後梃子という棒に綱を付けて、それを20人ほどで引っ張ったり肩で押したりして方向転換をする。いやはや、各世代が力を合わせたすごい労力である。感心して見物していた。
最後に、岸和田だんじり会館を訪れた。この岸和田だんじり祭は、江戸時代中期の元禄16年(1703)に始まり、300年の歴史があるという。初期のだんじりの形は、まるでトロッコの客車のようなものだった。それが進化して、今の姿になった由である。また、法被や手拭いが、各町内で独特のデザインである。それらを見ているだけでも、楽しい。また、昼間にはよくわからなかったが、実はだんじりには、非常に緻密で精巧な「彫り物」が施されている。これには、驚いた。動く芸術品なのである。また、体験コーナーというのがあって、だんじりの大屋根の模型の上に、大工方のように法被を着て写真を撮ってもらったり、あるいはお囃子の鳴り物を鳴らすことができる。なかなか良いアイデアである。それやこれやで、良い思い出をもって、岸和田を離れた。
2.仁徳天皇稜
私は関西に4年間、住んでいたが、堺市の仁徳天皇稜には、未だ訪ねたことがない。そこで、岸和田市の近くの堺市に泊まることにしたついでに、見て来ることにした。駅前から堺まち旅ループバスに乗って、街の見物がてら、仁徳天皇稜古墳前に着いたのだが、古い木製の鳥居があるこんもりした森を見ただけに終わってしまった。全長486mと、あまりに大き過ぎて、人の視界には入らない。たまたまボランティア・ガイドさんがいたので、話をした。私が「この古墳は、もう仁徳天皇稜とは呼ばずに、地名をとって大仙稜古墳と呼ばれているんですか。」と聞くと、苦笑しながら、「いやいや、あれは学者さんの言うことでして、仁徳天皇の実在が証明されていないというのですよ。でも、仁徳天皇の時代には、まだ文字がなかったからで、文字が使われるようになったのは、仁徳天皇より二代あとからです。だから、証明が難しいのです。でも、私たちは、仁徳天皇稜だと思っています。」とおっしゃる。どうやら、地元の人たちの琴線に触れる質問だったらしい。
せっかく来たのだからと、近くの堺市博物館を訪れた。仁徳天皇稜は、その周辺一帯に44基もある古墳をもって百舌鳥古墳群を形成するという。仁徳天皇稜は、今は宮内庁の管理なので入ることはできないが、展示品には、確か明治のはじめに出土したとされる甲冑、人形・馬形埴輪などがあった。また、中世の堺で製造されたという3m、125kgの大型火縄銃には、こんなものがあったのかと驚いた。
さて、堺市役所の21階の展望台に上がると、仁徳天皇稜の全体像が少しはわかるというので、行ってみることにした。実際に上がってみたが、遠くにこんもりとした森が広がっているだけで、お堀すら見えなかった。それほど、大きいということだ。航空写真で満足するとしよう。そもそも、なぜこれだけの築造物が必要だったのかというと、当時、中国の宋と交易をするに当たって、倭国の権威を示す必要があったというのが、堺市博物館の説明である。
3.あべのハルカス
阿倍野に、あべのハルカスという現在、日本一の高さのビルが完成したという。近鉄百貨店系だ。神戸に行く途中で、立ち寄ることにした。展望台は、60階の地上300mのところにある。従来は横浜ランドマークタワーが296mだったから、それより4m高い。登って大阪の街を見たが、あまり馴染みがないので、今ひとつだった。ただ、真下が天王寺動物園で、動物が見えたのは、面白かった。
4.神戸元町のドリアン
神戸元町に宿をとり、神戸の高浜岸壁に行って、夜景を撮るつもりでいた。ところが、神戸に午後7時半頃に到着したときには、台風16号の影響で、かなりの雨になっていた。残念ながら夜景写真は諦めて、ホテルにチェックインしてから、中華街の南京町や元町商店街を散歩した。ところが、東京と違って、もう大半のお店が店仕舞いしている。実は小さい頃に好きだった高砂のきんつばをお土産にと考えていたが、既に閉まっていた。僅かに空いているトロピカルフルーツの店があり、ふと見ると、ドリアンを売っていた。触手が動かないでもなかったが、タイ産の大粒で量が多い上に、1個8,500円もしたので、諦めた。
翌朝は、早く起きてホテルで朝食を食べた。スクランブルエッグをいただいたら、写真のように、トマト・ケチャップで、スマイル・マークが描かれていた。ホスピタリティにあふれ、可愛らしく、趣味が良い。いかにも神戸らしいと、感心してしまった。
5.姫路城と好古園
平成の大修理が終わった姫路城に行くつもりで、新神戸駅から新幹線に乗った。姫路駅に着いてみると、駅前から北へ続く大通りの先に、姫路城が真っ白い優雅な姿を現している。私は、前回は平成20年7月に訪れている。その翌年に平成の大修理が始まり、昨27年に完了した。この大修理で、それまで少しくすんだ白色の城だったのが真っ白になったというので、その様子を確かめたかった。こうして現にその姿を見ると、確かに、白鷺城という名に相応しく、真っ白になっていた。
姫路市の公式HPによると、「国宝姫路城は平成5年12月、奈良の法隆寺とともに、日本で初の世界文化遺産となりました。シラサギが羽を広げたような優美な姿から『白鷺城』の愛称で親しまれる姫路城。白漆喰総塗籠造りの鮮やかな白の城壁や5層7階の大天守と東、西、乾の小天守が渡櫓で連結された連立式天守が特徴です。今、私たちが目にしている姫路城の大天守は、慶長14(1609)年に建築されたもの。400年以上が経過した現在でも、その美しい姿を残しています。」という。まさにその通りである。実は駅から姫路城まで歩いてくる途中、買い物カゴの着いた自転車に乗ったお母さんが、5歳くらいのお子さんに、「あの城は郷土の宝なんやから、大切にしないと、あかんで」と、言い聞かせている場面に出会った。結構なことである。
天守閣まで、息を切らせながら登った。前回来た時と同様に、この日も蒸し暑い日だ。最上階の6層目から、再び播州平野を見渡した。400年前に、この景色を見た人の数は、ごく少数だっただろう。ところが現代では、たくさんの人が押し掛けて来ることから、文化財保護のために1日の見学者数を15,000人に制限しているという。この日は、曇り模様だということもあり、あまり見学者数は多くなくて、現に私は810人目だった。というのは、その管理用に、一連番号のついた紙を渡されたからわかったものだ。
姫路城は、日本の城の中で、奇跡のような城だと言われている。日本の城で、昔ながらの姿で残っている国宝の城は、全国にたった5城しかない。犬山城、松本城、松江城、彦根城、そしてこの姫路城である。特に、第二次世界大戦中は、危なかった。姫路市内が灰燼に帰す空爆を受けて、当然誰もが姫路城も燃えてしまったと思ったとき、空爆による煙が晴れたときに以前と変わらない勇姿を現したので、人々は驚き、かつ勇気を与えられたという。また、この400年間、この城を舞台にした戦争は一度もなかった。そういうお城をこの目で見ることができて、幸せな気持ちになった。
これまで、好古園(姫路城西御屋敷跡庭園)には来たことがなかったが、この日、初めて入ってみた。お昼近くで、レストラン(活水亭)にでも入るつもりだった。そこで官兵衛弁当なるものをいただいた後に庭園の方に行ったら、その素晴らしさに驚いた。東京にも柳沢吉保の居宅だった六義園という立派な大名庭園があるが、それにも決して引けをとらない庭園である。まず、滝の音が大きく聞こえる。水量と落差がある。池はさほど大きくないが、全体にまとまりがあって素晴らしい。池の向こうに姫路城が見えるのも良い。また、大きく屈曲して流れる川がある。もちろん、深さはほとんどないが、幅が広い。これが何ともいえず、好ましい。秋の紅葉の時期にまた、訪れたいものである。
6.神戸布引ハーブ園
姫路から新神戸駅に戻った。そこから北野異人街にも行けるが、今回は、ロープウェイに乗って、布引ハーブ園に行くことにした。前回はせっかく行ったのに、悪天候で十分に楽しめなかったからである。いわば、落穂拾いのようなものだ。ロープウェイに乗って山麓を上がって行くと、神戸の街並みがよく見える。今回は雲空とはいえ、天候がもっている。バーブ園の三つ子のグラスハウスを越えて、山頂駅に着いた。神戸が一望の下にある。
展望プラザ、ローズ・シンフォニー・ガーデンを散歩する。なかなか、ムードがある。おやおや、ドイツ祭が開催中だ。定番のソーセージ、ケーキ、ドイツビールにワインがある。ソーセージはカロリーが高すぎるので、ダイエット中の身にはよろしくない。ケーキが美味しそうだ・・・でも、水分がないと・・・白ワインのグラスがある。この組合せなら、罪は軽いと思って、その二つをいただいた。そうすると今度は、気分が良くなり過ぎて、山麓駅まで歩いて降る意欲を喪失してしまった。というわけで、再び山頂駅から新神戸駅まで、ロープウェイで一気に降っていった。
7.鉄人28号モニュメント
新神戸駅で、新幹線の切符をもう少し早めの列車にしてもらおうとしたら、三連休の最終日のため、予定通りにはいかず、出発時刻まで1時間半も時間が余ってしまった。では、どうするか。突然思い出したのが、新長田駅の鉄人28号モニュメントである。「鉄人28号」と聞いて、ピンと来るのはもう70歳代に近い人ではないかと思う。私が中学2年の頃に、テレビでアニメが放送されていた。
かつて日本陸軍が秘密兵器として作ったロボット「鉄人28号」を使って、少年探偵の金田正太郎が悪者を懲らしめるというストーリーだった。作者は、横山正輝である。しかし、鉄人28号は、知能というものを全く持ち合わせていない。小さなリモコン装置を使えば、金田少年だけでなく誰でも操作できるので、人口知能が幅を利かす現代の技術水準からすると、まるでブリキ製のおもちゃと変わらない。ところが、私のようなその当時の少年からすれば、あんな大きなロボットを、小さなリモコン装置で意のままに動かすこと自体が格好よく、ハラハラドキドキしながら見ていたことを思い出す。
駅を降りて、大きな住宅のすぐ裏の公園に、いたいた、鉄人28号が。片手を突き出して、その雄姿を見せている。私が少年の頃は、実に格好よく見えた。しかし、自分が老年期に入った現在の目からすると、このロボットは典型的な太鼓腹だし、背中にロケットを背負っているとはいってもこれほど小さくては全く飛べそうもない。こんなものを格好よく感じた小さな頃の自分が、いささか恥ずかしい。とはいえ、このモニュメントを見たときに、一瞬にして半世紀ほど記憶が遡り、旧友に再会したような、懐かしい気がしたのも事実である。しかも、自分が幼年時代を過ごしたここ神戸で、こうして再び目にするとは思わなかった。作者横山正輝も、この地、神戸に縁があるとのことである。
神戸公式観光サイトによると、「新長田にゆかりの深い横山光輝さんの作品の魅力でまちを盛り上げようと、地元の商店街などが中心となって立ち上げられたNPO法人『神戸鉄人プロジェクト』が、震災復興と地域活性化のシンボルとしての期待を託し、作られました。 」とある。元少年としては、その「神戸鉄人プロジェクト」が、今後とも活発な活動を続けていってほしいと願っている。
さて、これを最後にこの三連休の旅を終えた。東京の家にたどり着き、家内の顔を見て、なぜかホッとした。いやそれにしても、岸和田のだんじりと姫路城のほか、ずいぶんあちこちに行ったものだ。家内からは、「若い女の子みたいに、楽しく遊んでいますね。」と言われている。しかし自分では、好奇心のある証拠で、これをなくしたら、それはもう、人生が終わりの時だと思っている。
(平成28年9月19日著)
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