悠々人生・邯鄲の夢エッセイ








 マラッカ市内( 写 真 )は、こちらから。


1.マラッカ

 マレー半島の西海岸に、昔の海峡植民地だった3つの都市がある。北から南へと順に、ペナン、マラッカ、そしてシンガポールである。いずれも大航海時代とそれに続く列強の帝国主義の時代に、東西の中継貿易の拠点港として、大いに栄えたが、その後の近代都市としての歩みは、大きく分かれた。このうち、シンガポールは、国家としては1965年にマレーシアから分離したが、故リー・クアンユー元首相の類い稀な指導の下で、時代の先端を行く産業政策を取り入れ、今や日本を遥かに凌ぐ高所得の先端都市国家となった。いわゆる開発独裁ではあるが、廉直な政治で、少なくとも国民の生活を世界一豊かにしたという点では、誰にも異論はないだろう。その後継の政治体制も整っているので、これからも引き続き、大いに経済発展を続けていくことと思う。

 それにかなり遅れて続くのが、イギリスの租借地だったペナンである。その黄金期は19世紀から20世紀の半ばまでで、その後はマレーシアの一地方都市となった。それなりに外国資本を呼び込むのに成功し、経済と観光を車の両輪として、そこそこの成長は続けている。しかしながら、華人が率いるペナン州政府と、マレー人が主導権を握る中央政府との普段からの軋轢もあって、シンガポールには、はるかに及ばない。

 これに対し、マラッカは半島の中部にあって天然の良港に恵まれていたせいか、大航海時代から列強諸国の争奪の的となった。それほど重要な交易都市だったのである。それゆえに、後述のようにめまぐるしく宗主国が変わった後、独立したマレーシアの下での発展が期待されたが、今日に至っても、さほど目ぼしい産業が育っておらず、今や地方の一観光都市に甘んじている。しかし、それがかえって良かったのかもしれない。新しいものがない代わり、逆に古いものがよく残った。そのおかげでマラッカは、2008年にペナン島ジョージタウンとともに、世界遺産の街になった。私は今年の5月にペナン島に行ったので、今回はマラッカを訪ねてみた。ちなみにマラッカは、マレー語で「MELAKA」、英語で「MALACCA」と表記されている。


17.jpg




2.マラッカとマレーシアの歴史


 1396年 マラッカ王国が、対岸のスマトラ島から逃れて来たパラメスワラ皇太子によって建国。
 1403年 明の使者「イェン・チン公使」が来訪。
 1405年 明の永楽帝によって派遣された「鄭和」が来訪。これ以降、明に朝貢し、その庇護の下で東西の香料貿易の中心港として繁栄。
 1414年 イスラム教を受入れ。
 1515年 ポルトガルの攻撃で陥落し、国王はジョホールに逃れる。以降、マラッカは植民地となる。
 1545年 宣教師のフランシスコ・ザビエルが初めて寄港。
 1641年 オランダがポルトガルを追い出し、植民地化。
 1650年 オランダがスタダイス(市役所)の建物を建築。
 1786年 イギリスの東インド会社がペナンを租借して植民地化。
 1819年 イギリスの東インド会社社員のラッフルズがシンガポールに上陸。
 1826年 イギリスの東インド会社が、ペナン、マラッカ、シンガポールを海峡植民地とする。
 1896年 マレー半島全域がイギリスの植民地となる。
 1941年 日本軍がマレー半島に上陸し占領。
 1945年 日本の敗戦とともに再びイギリスの植民地に。
 1957年 マラヤ連邦として独立。
 1963年 マレーシア連邦が、シンガポール、サバ、サラワクを加えて発足。
 1965年 シンガポールがマレーシア連邦から分離独立。


002.jpg




3.マラッカの中心街

001.jpg


001.jpg


001.jpg


 マラッカは、中心街のオランダ広場(Dutch Square)には、昔オランダの行政庁だったスタダイス(The Stadthuys)、オランダ人が1753年に建てたプロテスタントのクライストチャーチ(Christ Church)、中国人豪商が父親を偲んで建てたクロックタワー(Clock Tower)、ビクトリア女王の噴水(Victoria Regina Fountain)、オランダ風車などが立ち並んでいる。そこで目につくのが、トライショー(Tryshow)という人力車で、そのデコレーションの派手なことといったらない。ドラえもん、ポケモン、キティちゃん、アナと雪の女王、スパイダー・マンなどが使われている。はてさて、これらは一体全体、著作権や商標権使用の許諾を受けているのだろうか・・・たぶん、そんなものはお構いなしにやっているのだろう。

002.jpg


 スタダイスは博物館となっていて、中に入ってみると、列強諸国に支配されたマラッカの歴史、中国との交流、マレー人の風俗が展示されている。驚くのは、植民地化した列強諸国の多さで、ポルトガル、オランダ、フランス、イギリス、日本、またイギリスと、誠に目まぐるしい。上の年表にはないフランスまで出てくる始末だ。これは何時のことだったか調べたが、今もって、よく分からない。あるいは、フランス革命のときにオランダは一時フランスに編入されたことがあったので、その影響がこの地にまで及んでいたのかもしれない。そのうち、識者に聞いてみたいと思っている(注)。

002.jpg


 スタダイスを出て、裏手の小山に登り、セントポール教会跡(St. Paul's Church)に行ってみた。まず迎えてくれるのが、宣教師フランシスコ・ザビエル(St. Francis Xavier's Statue)の白い像である。日本に来る前は、ここマラッカで布教していたという。この教会は、1521年、ポルトガルによって建てられた。ところが、ポルトガルはカソリックだったことから、その後にこの地を支配したプロテスタントのオランダ人によって放置され、今や屋根もなく、外壁しか残っていない。

002.jpg


 ところが、その遺跡そのものとなっている教会の内側に、幾つもの墓石が立て掛けられている。この経緯が、いかにもマラッカらしいところである。マレーシア独立後、この丘に州知事の公邸が建てられたが、そこから見下ろすところに、プロテスタントのクライストチャーチ関係の墓石が点在していて、イスラム教徒の知事にとっては目障りだった。そこで知事はその撤去を求めたが、代替地を用意してくれない。困ったプロテスタント信者に手を差し伸べたのがこのセントポール教会史跡のカソリック信者で、せめて墓石だけでも保存したいと、このように運び入れたそうだ。そのセントポール教会跡から見る景色は格別である。手前に緑の芝生、その向こうに市街地、さらに向こうは海で、大きな船を行き交う。市街地の真ん中には白いマラッカ・タワーがあって、ときどき、円盤のような展望台が上がって来るのが面白い。

002.jpg


002.jpg


 オランダ広場から、マラッカ川に架かる橋の近くに、鄭和の記念碑があった。そこに立ち寄ったあと、ジョンカー通り(Jonker Street)の入り口のところにある海南飯店で、名物のババニョニャ料理を食べた。ババニョニャとは、かつて18世紀から20世紀にかけての英国統治時代に、ゴム農園労働者や錫鉱山労働者として、中国南部からやって来た中国人が、現地の女性と婚姻し、両者の文化が融合して形成された独特の人々である。プラナカンともいう。もちろん、その前の15世紀に明王朝から輿入れしたハンリーポー皇太子妃とそのお付きもいたが、男性は宦官だっただろうから、この人たちがババニョニャの祖先になったわけではない。

002.jpg


002.jpg


 何れにせよ、ババニョニャ料理は、中華料理とマレー料理の融合でできたもので、イスラムの戒律に反するから本来はマレー料理ではあり得ない豚肉を使用した料理もあるし、中華料理に当地独特のココナッツやパイナップル、香辛料を使用した料理もある。この日、私がいただいたのは、「オタ・オタ(Otak Otak)」という、魚のすり身を平べったい長四角の形に焼いた料理で、香辛料が効いていて、ピリッとした辛さがある。もう一つが「チキン・ライス・ボール」で、鶏肉とともに炊いたご飯をピンポン球ぐらいの大きさにしたものである。なお、ジョンカー通りにはたくさんのアンティークショップがあって、一つ一つ訪ねて歩くと面白いのだが、この日はともかく暑くて、すぐにホテルに帰ってしまった。



4.ザ・マジェスティック・ホテル・マラッカ


002.jpg


002.jpg



 マジェスティック・ホテル(写 真)


 マラッカでのホテルを決めるとき、たまたま何の気なしに「ザ・マジェスティック・ホテル・マラッカ(大華旅店)」を選んだが、これが非常に良いホテルだった。本館は1920年築の大富豪の邸宅を改装したもので、白い壁にライトグリーンの窓枠をはめてあるコロニアル風の佇まい。部屋に通されると、まずウェルカムドリンクとして、暖かい中国茶が供される。ベッドはキングサイズで寝やすい。ベッドの頭側の壁には、大航海時代のマラッカ港の絵が掛かっている。これらの部分は、木製だ。シャワールームとは引き戸で仕切られ、開けてみると、大理石敷きの床の上に置いてあるバスタブが、4つの脚の付いている古き良きヨーロッパ式のものだ。これだけでも、何だか嬉しくなる。窓近くには、横たわることのできるコーチ、その上には、天上扇があって、ゆったりと旋回している。窓から外を見ると、近代的なホテルの建物と、その下を蛇行するマラッカ川が見える。降りて行って見たところ、川沿いに木製の遊歩道があって、川を見ながらずっと散歩できる。

002.jpg


002.jpg


002.jpg


 ホテルの従業員の皆さんも、ホスピタリティが溢れていて、話をしていて心地よい。いかにも、リゾートでのんびりしていって下さいねと言わんばかりだ。女性の従業員さんに、その民族衣装のニョニャ・ケバヤ姿で写真を撮らせてほしいとお願いしたら、快く引き受けてくれた。しかも、飛びっきりの笑顔付きだった。朝食も、洋中折衷で、特に中華の飲茶はたいそう美味しかった。これで、1泊10,900円とは、とても思えない。ホテルのレストランで夕食にいただいたのは、「ニョニャ・ラクサ」である。これは、魚を出汁ベースにし、パイナップル、レモングラスなどの香辛料で作ったカレースープの中に、ココナッツミルクと黄色い麺を入れたもので、ピリッと辛いと同時に、まろやかな味がするという、まさに中華とマレー料理の混交したものである。

002.jpg


002.jpg



5.ドリアンとマンゴスチン


 マレーシアを訪れたので、私の好物のフルーツ、ドリアンとマンゴスチンについて、少し触れておきたい。それぞれ、果物の王様、果物の女王様と表現される南国の果物である。殊にドリアンについては、「天国の味、地獄の匂い」と言われるほど癖のある果物なので、人それぞれで、受け止め方が違う。一方では、全く食べられない人がいるかと思えば、私のようにドリアン・ラヴァーと言って、一度病みつきになったら、もうどうにも止められなくて、出回る時期が来ると、つい買ってきてしまう人もいる。ドリアンが売られる季節は、6月から8月にかけてと、11月から翌年1月にかけての年2回である。だから今回は、ギリギリ間に合った。連日、朝ご飯の代わりに食べたほどである。

23.jpg


24.jpg


 ところで、ドリアンは、当たり外れが大きい。美味しいものはとても美味しいが、その反面、大して美味しくないものも多くて、あれだけのお金を出して買ったのを悔んだりもする。ではその美味しいものの見分け方だが、買うときに、枝の付いているのとは反対側に鼻を近づけて、その匂いの良いものが美味しいという。あるいは両手で持ってドリアンを振って、中で種がゴロゴロと転がるようであれば、食べる部分が少ないという。しかし、こんなことを一々確かめてはおられないので、最近ではこのドリアンの世界でも、ブランド化が進んでいる。たとえば「猫山王(Musang King)」が最も有名である。露店で普通のドリアンがキロ当たり10〜15リンギット程度であるのに対し、猫山王は20〜30リンギットと、倍の値段がするが、その代わりどれも味は保証されている。一つのドリアンが2キロ前後なので、今の為替レートだと日本円では1個当たりおよそ1,000円から1,500円である。現地の食料品の値段は私の実感としては日本の半分以下なので、これは日本だと2,000円から3,000円を出して、1個のフルーツを食べているようなものである。他のブランドとしては、XOD24がある。

25.jpg


 なお、ドリアンはロードサイドの露店で買うというのが、昔ながらの求め方だった。ところが最近ではドリアンの栽培技術が進んで、早く市場に出すためにまだ熟れていない果実に植物ホルモンを投与して促成栽培をしているという噂がある。露店でそういうものを掴まされて健康を損なっても困るので、値段はやや高いが、私はイオンなどの日系マーケットで買うことにしている。そうすると、中身だけを取り出して白い発泡スチロールに入れてくれる。

26.jpg


 マンゴスチンは、暗赤色の外皮に白い果実が入っていて、それが本当に品の良い甘さなのである。だから、マンゴスチンが嫌いという人には、お目にかかったことがない。ただし、その外皮の赤い果汁が服に掛かったら、絶対に取れないシミができる。だから、染料に使われるほどである。ドリアンはその匂いのゆえに、ホテルへの持ち込みが禁止されているが、このマンゴスティンも、やはり持ち込み禁止である。それは、この果汁が床のカーペットなどに掛かったら困るからという理由である。



6.シンガポールでジカ熱が発生


 夏休みで1週間の休暇をとった。最初の計画では、マレーシアの首都クアラルンプール郊外でしばらく滞在した後、シンガポールに行くつもりだった。ところが、マレーシアに到着したその日に、シンガポール南部の住宅地域で、突然、ジカ熱の患者が1名出た・・・と思ったら、患者数が翌日には42名、翌々日には115名、さらにその翌日には200名以上と、倍々ゲームのように急速に感染が拡大していった。その地域は住宅開発が進んでいて、建築現場が数多くあり、そこで働く外国人建設労働者が持ち込んだと言われている。現に初期の頃の患者の多くは、外国人建設労働者だった。

 ジカ熱といえば、蚊が媒介するウイルス感染で起こる病気で、発熱、全身の倦怠感 、関節の痛みが主な症状である。ほんの2週間ほど前に終わったリオデジャネイロ・オリンピックでも大きな問題となり、特に妊婦が罹ると小頭症の子供が生まれてくるし、抵抗力の弱い高齢者や子供では、死亡することがあるという。私は、その日本人患者第1号になるのもどうかと思い、シンガポールに行くのは止めて、同じ海峡植民地だったのマラッカに行くことにしたというわけである。










(注) マラッカの支配者の推移

 その後、Wikipediaの「海峡植民地」中の「マラッカ植民地」の項を参照すると、「マラッカ海峡を臨むマラッカの町は、1645年以来、オランダの支配下にあったが、フランス革命の余波を受けてオランダ本国がフランスの勢力下に入ると(1793年、フランス革命軍はネーデルラントを占領)、イギリスは1795年にマラッカをはじめとするオランダ領東インドの各地を占領した。ナポレオン戦争終結後の1818年、イギリスは同地をオランダに返還したが、その後、1824年の英蘭協約によって、イギリスはスマトラ島西海岸にあった英領ベンクーレン植民地と引き換えにオランダからマラッカを獲得した。それまでイギリスとオランダの植民地がマレー半島とスマトラの各地に混在していたが、この協定で両国の植民地の境界がおおまかに引かれた(2019年4月1日現在)。」という。

 そういうことで、マラッカの支配者は、マラッカ王国(1396年〜)、ポルトガル(1515年〜)、オランダ(1641年〜)、フランス(1793年〜)、イギリス(1824年〜)、日本(1941年〜)、再びイギリス(1945年〜)と次々に代わり、そして1957年にマラヤ連邦がイギリスから独立した。現在のマレーシア連邦は、サバ州とサラワク州を加えて、1963年に発足したものである。





(平成28年9月2日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。)





悠々人生・邯鄲の夢





邯鄲の夢エッセイ

(c) Yama san 2016, All rights reserved