悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



青森ねぶた




 青森ねぶた・弘前ねぷた( 写 真 )は、こちらから。

青  森 弘  前
名 称
掛け声 ラッセラー ヤーヤドー
山車形 人形 (立体的) 扇形 (平面的)
跳 人 い る いない



1.青森ねぶた(夜)

青森ねぶた


 青森ねぶた祭りを見物に来ている。東京を午後1時20分に出発して、午後5時過ぎにはもう青森駅前に立っていた。さすがに新幹線は速い。駅前の寿司屋さんで海鮮ちらしを食べ、これを夕食とした。新鮮で、具そのものの味が良く、とても美味しく食べられた。

青森ねぶた


 青森駅から青森県庁前の決められた席に着いた。前回は小雨模様で肝心のねぶたにビニールが掛かっていて、写真にならなかった。しかし、今日は晴れ上がっているから、今度こそ、ねぶたがくっきりと見えるはずだ。しかも、席が高い位置にあるから、前面に遮るものがない。良い写真が撮れるはずだと、期待が高まる。

青森ねぶた


 いよいよ開始時間の午後7時10分となった。花火が上がり、ねぶた祭りの始まりを告げる。道の左手の方から、腹に響き渡る太鼓のダン・タタ・タンという音、笛のピョーロ・ロッロ、ピョロロ・ロッロローという旋律、それにラッセラーの掛け声が聞こえてくる。暗闇の中で、耳を通じて頭の中で反響し、胸が踊るような気がする。それに続いて原始的とも言える原色が踊るねぶたが近づいてくる。ねぶた絵は、日本古来の武者絵が多いが、それが実に力強く描かれている。目の隈取りや力強く不自然なまでに曲がった腕の筋肉は歌舞伎役者を思い出させる。どのねぶたをとっても、心を揺さぶられ、日常を忘れるほどの迫力がある。わざわざ見に来て良かったと思う瞬間である。

青森ねぶた


 青森ねぶたに派手な印象をもたらしているのは、主役のねぶた絵とともに、もう一つの主役の「跳人(ハネト)」さんたちである。頭に花笠をかぶり、白い浴衣に赤いたすき、腰の周りにシゴキという黄色い帯のようなもの、手には団扇という派手な格好をしている。それが多いときには、あの広い道一杯に広がるから、1,000人以上もいるのではないかと思うくらいである。口々にラッセラーと叫んで、ピョンピョンと跳ねる。大きな渦を作ったり、天衣無縫に飛び跳ねる。これだけでも、運動不足の解消に役立つこと請け合いである。若かったら、やってみたいと思うほどだ。

青森ねぶた


 次に、あの横一列に並んだ太鼓をはじめとする囃子方も、祭りの見もの、いや聞きものだ。太鼓は、両手の撥(バチ)を全力で叩いている。その後に続く笛が太鼓の合間にその旋律を奪うように甲高な囃子を鳴らす。更に「手振り鉦(てぶりがね)」で、シャンシャンと楽しそうにやっている。笛は、なかなか難しそうだが、とても澄んだ音が出ている。いずれも、太鼓の響きを主旋律に、まるで暗闇の中で縄文時代からのメッセージを直接聞いているような気がした。

青森ねぶた


 面白かったのは、1つだけだが、大太鼓があったことで、下から敲くだけでなく、上に乗って上からも敲くのである。これを見たときには、とても感激した。ところがその翌日、弘前ねぷたの見物に行ったところ、青森のものと勝るとも劣らない勇壮な大太鼓があって、実に格好良く感じた。


2.青森ねぶた(昼)


青森ねぶた


青森ねぶた


 青森ねぶた(夜)を見た次の日、その受賞作品を中心に20基のねぶた運行が午後1時から行われる。それが終わると夕方、受賞作品が艀に乗って青森港内を運行し、その背景に花火大会が行われるという。本当はそれを観て帰りたかったのだが、宿の手配ができなかったことから、これを見ずに帰京せざるを得なかった。

青森ねぶた


青森ねぶた


 さてその昼間のねぶた運行だが、暑い日で気温が33度をもあり、しかもカンカン照りだ。こういう気象条件では、日影にいないと熱中症になりかねない。ねぶたの運行経路の地図を見て、駅とは反対側の、国道4号と平和公園通りの交差点まで一気にタクシーで行き、三井住友海上ビルの角の日影にいることにした。

青森ねぶた


青森ねぶた


 開始時間になった。跳人がたくさん現れ、跳ねるのではなく整列して、なんとか音頭のような踊りを披露している。それに引き続き、先頭がやってきたと思ったら、ねぶたではなく、新幹線開通を記念して、青森と函館が協力して観光に力を入れていることをアピールしているようだ。待つことしばし。やっと、本物のねぶたの一行が来た。青空の下でねぶたを観るのも、なかなかよい。夜間には見えなかったねぶたの下にいる引き手が良く見え、大変な作業であることがよくわかる。

青森ねぶた


 交差点を直進して、観衆のところまで来て急停止し、そのとき、前へつんのめる形となる。それを立て直して、ぐるりと一周する。そのおかげで、ねぶたの表、横、裏の全てが見える。表は眉が太くて目がギョロリと目立つような隈取りがされ、刃をかざしたり、相手の侍や蛇を睨みつけている。いやもう、これは迫力満点である。跳人さん達は、この暑さの中で、まさに軽々と、飛び、回り、跳ねる。元気なことだ。中には、3歳くらいの男の子が、真似して跳ねる。親切な跳人さんがその前で一緒に飛んで、跳ねるという微笑ましい風景もあった。将来の跳人候補である。また、夜間と違って、囃子方の太鼓、笛、鉦の様子がよくわかった。


3.弘前ねぷた(夜)


弘前ねぷた


弘前ねぷた


 前夜の青森ねぶたに続いて、今度は弘前に来ている。駅前の曲がり角にある指定席に座った。ねぷたが方向転換をするので、絶好の位置にある。辺りが暗くなってきたが、始まる時間の午後7時を過ぎても、なかなかやって来ない。しばらくして、ようやく囃子の音が聞こえてきた。最も目立つのは太鼓の音で、事前の弘前ねぷた村で見聞きしたら、この太鼓は右手に持った撥(バチ)でそれが120度くらい後ろにしなうくらいにして鼓面を力を入れて叩き、それが一拍だとすると、左手の方でその半分くらいの力で半拍を繰り返している。太鼓の力を借りるので、女性でも子供でも打てる。そして笛が、短いがはっきりとした旋律を繰り返している。最後は鉦で、両手を揉むように回して音を立てていた。

弘前ねぷた


弘前ねぷた


 掛け声が、青森の「ラッセラー」に対して、弘前は「ヤーヤドー」というのである。初めて聞いたので、最初はよくわからなかった。例えば、観客に対してねぷたが近づいてきて、メガホンを持った人が「ヤーヤドー」と叫ぶ。観客もそれに合わせて叫べと促す。皆が同じようにヤーヤドーと言うと、実に満足した顔で去っていくという具合である。

弘前ねぷた


弘前ねぷた


 時々、元気が余っているねぷたの曳き手がいて、観客に突っ込んでいき、直前で止まるというのを繰り返す。NTTのグループでは人形の馬がいて、そうやって観客に突っ込んだ後、馬が鼻から白い煙を出すから、皆が大笑いしている。色々と面白い仕掛けの工夫があるものだ。

弘前ねぷた


弘前ねぷた


 弘前ねぷたは、町内単位が多いので、青森のように大企業が主体になっている大きなねぷたは少ない。中には、保育園や小学校のねぷたもあり、かえってこちらの方が元気だったりするから面白い。特に赤い金魚のねぷたは可愛らしく、それを幼稚園児のような子たちが引いて「ヤーヤドー」と叫んでいて、観客の拍手を受けていた。

弘前ねぷた


弘前ねぷた


 弘前ねぷたは、青森のような立体的なものは小さなものしかなく、しかもそれはあくまでも脇役で、主役は大きな扇の形をしている。そしてその扇が廻るのである。1人の男の子が紐を持ってねぷたの周りを一周する。そうすると、あの大きな扇が廻る。扇ねぷたの表の鏡絵は武者絵である。裏には鮮やかな絵が描かれ、なかでも四角いのは見送り絵で美女が多く描かれている。もっとも、お岩さんのような幽霊もたまにはある。扇が廻ることによって、一度に見られる。これは、大変な観客サービスである。

弘前ねぷた


 「ねぷたの起源」について、弘前ねぷた村で係りの人の話を聞き、それとパンフレットの内容を合わせてみると、こういうことらしい。「青森県内では、40ヶ所でねぷた祭りが行われている。有名なところは、青森ねぶた、弘前ねぷた、五所川原の立ちねぷたの3ヶ所で、最近は五所川原が有名になりつつある。跳人(ハネト)がいるのは、青森だけである。弘前には跳人はいない。青森は港だから、威勢の良いのを好むが、弘前のねぷたは元々城下町で、殿様に見せるためのものだから、そういうやや品のない行いはしないということになったのではないかと言われている。

 そもそも『ねぷた』は、藩祖為信公が文禄2年(1593)、京都滞在中、都人に見せるために二間四方の大燈籠を出したのが始まりで、その語源は夏の農作業の妨げとなる眠気や怠け心を流し、五穀豊穣を願う行事の『ねむり流し』が『ねぷた』と訛ったものという。眠いことを弘前などの内陸では津軽弁で『ねぷてぇ』といい、それが青森のような海岸では浜訛りで『ねぶてぇ』となった。弘前ねぷたは、大小80台があり、元々灯籠流しが来ているので、ほとんどが扇ねぷた(灯籠)であるが、たまに青森のような組ねぷた(人形)がある。一方、五所川原は23mあるのが3台。ほか20台。平成10年に復活し、最近では、こちらの方が観光客に人気がある。


4.田んぼアート(田舎館村)

田んぼアート(田舎館村)


 弘前の近くに田舎館村というところがあり、稲で絵を描いているというので、せっかく当地に来ているし、ねぷたまで時間があるので、立ち寄ることにした。第1会場と第2会場があるが、村役場の前の第1の方に行くことにした。弘前駅前の観光案内所で行き方を教えてもらい、着いたのが午前11時前である。村役場がまるでお城のようだったので、まずびっくりし、次に50分待ちだと聞いて、またまた驚いた。人気がこれほどあるとは思わなかった。私のように個人で来るのは珍しくて、観光バスがどんどんと押しかけてきていて、それで列がその分、長くなる。暑い中、これは大変なことになると、覚悟した。ところが、いざ並んでみると、待ち時間もさほど苦にならなかった。というのは、私の前に社員旅行の一行がいて、その中の何人かが、「ポケモンGO」に興じている。「珍しいポケモンをゲットした。」などと遊んでいる。することがないので、私も教えてもらってやってみたら、どうやら希少種を捕まえたらしい。暇つぶしには、もってこいの遊びだ。

田んぼアート(田舎館村)


 さて、村役場の建物の中に入ると、冷房が効いているので、ほっとした。平成5年からこの田んぼアートを始めたということで、毎年の写真が飾られている。ところが最初の頃の技術はまだ未熟で、大したことがなかったが、年々、技術が向上して、今では繊細な線まで出せるようになってきたことがわかる。稲も当初の3種類から、今年は7種類を使っているとのことだ。また、役場の職員さんの話によると、5階の「天守閣」よりも、4階の高さから観ると、ちょうど良いように作ってあるそうだ。

田んぼアート(田舎館村)


 そういうことで、やっと50分が経ってエレベーターで4階に上がってみると、目の前には、主に緑と茶色で、2人の武士の絵が描かれていた。「NHK大河ドラマ「真田丸」をテーマとし、山本耕史さん演じる石田三成と、草刈正雄さん演じる真田昌幸をモチーフ」にしたそうだ。うーん、何というか、絵は繊細な線で描かれていて、実によくできている。

田んぼアート(田舎館村)



5.大鰐温泉

 実は、第1日目に、青森でも弘前でも宿がとれなくて、弘前の先の大鰐温泉郷というところに泊まった。そこの「赤湯」で、説明書きに書かれていた内容をまとめると、次の通りである。

 「数百万年前の2度の噴火でカルデラができて、その中央に、溶岩ドームとして隆起したのが阿闍羅(あじゃら)山である。これら一連の火山活動で、現在の大鰐温泉ができた。平安の後期には、阿闍羅山はその形が釈迦の涅槃の姿に似ていたことから、修験の地となっていたが、そのうち寂れてしまった。鎌倉時代の初期、東国を行脚中の僧の円智がその余りの荒廃ぶりを見かねて、仏像を麓の村に移すつもりで高伯寺(現在の大円寺)を建立していたところ、病気になったが、平川岸に発見した温泉で療養したところ、治ったと言い伝えられている。

 安土桃山時代の末期、津軽藩祖の為信は、南部藩からの独立を目指して戦っていた時に重い眼病を患ったが、当地の茶臼山麓に湧く温泉で洗って治った。第3代の津軽藩主信義(実母は石田三成の娘辰姫で、養母は徳川家康の養女の満天姫)は、温泉が大好きな殿様で、大鰐町に御仮屋を建て、参覲交代で帰藩中の半分をそこで過ごしたため、周りに家臣用宿舎ができ、加えて新鮮な野菜のない冬場に温泉もやしが食べられることもあって、賑わいだしたという。地名は、鎌倉時代は大阿ミ(弥の字の弓へんをとったもの)、室町時代は大安国寺(高伯寺の別称。共にオオアニ)で、大鰐としたのは藩祖為信公という。」








(平成28年8月7日著)
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