悠々人生・邯鄲の夢エッセイ









 父が亡くなってはや5年になる。もうすぐ命日が来るので、帰省して母や妹たちと、また父の思い出を話して来ようと思っている。私は18歳で上京して家を離れた。だから、それ以来、父とゆっくり話すのは夏と冬の帰省のときくらいであった。だから、父のことを隅から隅まで知っているかというと、必ずしもそうではなくて、雑談の中で断片的に話してくれたことを記憶しているにすぎない。それにしも、私が東京で忙しくしているうちに、故郷で父が急に体調を崩し、皆が心の準備ができないままに、突然亡くなってしまった。だから、父の最後の日々に、ゆっくりと話す機会がなかったことが本当に心残りである。今年は、皆と父のことを話すときの話題として、父の記録がないか、調べてみることにした。それに、今の内に父の記録を確認しておかないと、時間が経つにつれ、そうした記録が失われるかもしれないという心配もあったからである。

 父の父、つまり私の祖父は農家の三男坊だったことから、早くに自立する必要に迫られ、国鉄の職員となった。そして、父は8人兄妹中の男子の3番目として生まれた。その日付つまり生年月日と、生誕の地がどこだったかは、戸籍を調べればよい。相続のときに役場から、原戸籍を送っていただいたから、それを見れば、父だけでなく祖父や祖母の両親についても分かるようになっている。日本という国は、こういう庶民の記録までしっかり残っているから、何とまあ、すごい国だと思う。

 では次に、父が出た学校を調べようと思った。思い出したのは、生前に父と実家近くをドライブしていて、ある学校の前を通りかかったときのことである。父が、「この学校を出たんだよ。」と言っていた。私はこの地で育ったわけではないので、あまり地理に詳しくない。そこでグーグル・アースを動かして、その時のルートをたどった。すると、その行程上に高校がある。これは戦後の新制高校だから、父の時の学校を継承しているのかも知れないと思って、そのホームページで学校の沿革を見たところ、確かに戦前の学校名が出てきた。しかもその戦前の学校の同窓会は、現在の高校の同窓会に引き継がれているようだ。そこで、同窓会にメールを出して、父が卒業者名簿に載っているかを確認してもらった。すると、数日後に返信がきて、確かに載っているとのこと。その後、実家で昔の父の写真を見ていたら、その高校の同窓会に出席している写真があったので、間違いない。

 高校卒業後、父は上京して、東京の私立大学で学んだはずだ。でも、もう戦争の末期で学徒出陣になったと話していたから、卒業できたかどうかまでは、聞かなかった。そこで、その大学の同窓会に電話して、父の名が昭和19年か20年の卒業者名簿に載っていないかと尋ねた。すると、その場でパソコンで検索して、「昭和20年3月に卒業されています。」と答えてくれた。意外に簡単にわかったので、むしろ驚いた。

 確か学徒出陣してから、群馬の方の部隊に配属されたそうだ。すると、「上官から『おまえは学徒出身だから生意気だ。』などと、散々殴られたりした。それだけでなく、自分の足が元々大きくてそれに合う軍靴がなかなか見つからないのに、『足を靴に合わせろ。』などと無茶なことを命令されたりして、酷い目にあった。そういう不条理な日々を過ごしているとき、見るに見かねて勧めてくれる親切な人がいて、憲兵になる試験を受けた。そうしたところ、運良くこれに合格して、東京の中野にある学校に行った。陸軍刑法や刑事訴訟法を勉強し、それから馬に載って見回る教育訓練を受けているうちに、終戦となって故郷に帰った。」というのが、父の話だった。軍隊のような階級社会では、1階級違えば人間と虫ケラくらいの差がある。そのような状況の下で、学徒出陣兵はすぐに出世する立場にあったから、上官の妬みの的になったのだと思う。それにしても、捨てる神あれば拾う神ありだ。憲兵試験を勧めてくれなかったら、どうなっていたかわからない。

 こういう、軍隊に父が在籍中のことについて調べられないかなと思っていると、軍歴証明というのがあることを知った。読売新聞(2016年)によれば、戦後70年の節目を迎えて、最近、子や孫の世代による請求が増えているらしい。海軍と陸軍とは請求先が違っていて、旧海軍の履歴原表と旧陸軍の留守名簿(外地にあった部隊別の連名簿)は厚生労働省社会・援護局社会・業務課調査資料室に、旧陸軍の軍歴等の身上に関する資料は終戦(戦没)当時の本籍地を管轄する都道府県の担当部局に、それぞれ請求すればよいというのである。父は陸軍だから、本籍地の県に電話した。すると、まず父の名前が名簿にあるかどうかを調べて折り返し電話してくれることになった。2日後に電話があり、名簿に載っていたから、「旧軍人軍属の個人情報開示請求書」を県のホームページからダウンロードして、そこに書いてある書類を添付して送ってくれれば、該当箇所をコピーして送るとのことだった。そこで、ダウンロードした書類に、私の運転免許証のコピー、父の除籍証明、私の戸籍と住民票を添えて県に送付した。すると、3週間ほど経った頃に、父の軍歴が送られてきた。それは見開きの1枚で、次のように書かれていた。


軍歴



陸軍兵籍

 兵種:憲兵(「高射兵」を二重線で消してある)
 本籍族称:○○県○○郡○○番地
 氏名:○○○○(○年○月○日生) 戸主:○○
 出身別:現役兵
 現役:昭和19年9月1日
 技能:高手
 官等級:昭和19年9月 5日 二等兵
     昭和20年3月20日 一等兵
     昭和20年8月24日 憲兵兵長

履歴
 ○昭和19年9月 日 ○○大学○○科卒
 ○昭和19年9月5日 現役兵として高射砲第○○部隊に入営
 ○同日第一甲隊に編入
 ○昭和19年9月5日より昭和19年12月1日 ○○要地制空勤務に従事
 ○昭和19年軍令陸甲第○○号により昭和19年12月2日 独立高射砲第□大隊に専属 同日第一中隊に編入 12月5日 編成完結
 ○昭和20年3月20日 一等兵
 ○4月2日 昭和20年度憲兵下士官候補者を命ず
 ○4月10日 教育の為 憲兵学校に分遣
 ○8月26日 憲兵学校に転属



 なるほど、父の話と、全て符合する。唯一違うのは、私が調べた大学卒業年である。大学側の認識では昭和20年3月だが、陸軍側では実際に入営させた昭和19年9月としてある。これは、当局間の認識の違いだ。更にこの記録を眺めていると、憲兵学校の教育期間は6ヶ月だったようだから、本来なら昭和20年9月末に憲兵になっていたはずだ。その前の8月15日に終戦を迎えたのに、その後の8月26日に高射砲部隊から憲兵学校に転属になっているし、その2日前の24日、一気に憲兵兵長になっている。教育を終えていたのなら本来なるべき憲兵上等兵をも飛び越えての2階級の特進だ。これは、どうしたことだろう・・・軍隊を解散する前に、おそらく、もう最後だから、お手盛りで昇進させてやろうということだったのかもしれない。

 こうした戦時中を生き抜くのは、実に大変である。その点、父の2人の兄さん達は辛酸をなめた。5歳上の長兄は、私にとって誠に頼りになる叔父さんだったが、フィリピンに6年間も派遣され、最後は生と死の境を彷徨い、どうやら生還した。帰国してからも、時折マラリアの発作に苦しんだ。3歳上の次兄は、確かガダルカナルの戦いに参加したと聞く。ガダルカナルといえば、補給作戦が徹底的に妨げられた結果、武器弾薬どころか食糧が圧倒的に不足し、加えてマラリヤにも苦しめられて、将兵は骨と皮ばかりに痩せ細り、派遣された約3万人中、およそ5千人が戦闘で死亡、1万5千人が餓死又は病死し、帰還できたのは1万人だったと聞く。あまりにも餓死が多いので「餓島」とさえ言われたそうだ。そういうところから、叔父さんは何とか帰還することができた。とても温和な叔父さんだったが、そのときの無理がたたったのか、戦後十数年して急逝してしまった。このお2人に比べれば、父は、実に幸運だったと思う。たまたま生まれ合わせた年が遅かったために、外地にも派遣されず、実戦にも行かずに済んだからである。

 父にとっての本当の戦いは、故郷に帰ってから就職した銀行員生活だろう。全国各地を転勤して回り、我々3兄妹をいずれも遠隔地の大学に進学させてくれた。それだからこそ、今日の我々があると思うと、感謝してもしきれるものではない。父はお酒が全く飲めなかったので、趣味といえば、釣りに行くことだった。私も小学生の頃には、よくお供をした。夏の炎天下に、釣竿を持ってビクリともしないで何時間も釣っていた。よほど忍耐強くないと、できることではない。そういえば、温泉に入ることも好きだった。それも、熱い湯ばかりなので、私が一緒に入ると身体が真っ赤になって、のぼせるほどだった。晩年には県内の温泉を200近くも行ったと話していたから、ほとんど網羅したのではないか。まあ、そのような昔話を、母や妹と、またしてきたいと思っている。




(平成28年6月7日著)
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