1.長良川の鵜飼
おもしろうて、やがて悲しき鵜舟かな
松尾芭蕉が45歳のとき、「美濃の長良川にてあまたの鵜を使ふを見にゆき侍りて」、この句を詠んだそうだ。
今回、私も芭蕉と同じように鵜飼観覧船に乗った。すると暗闇の中を、パチパチと勢いよく燃える篝火を焚きながら、鵜を操る鵜匠の鵜舟(うぶね)が一列縦隊で目の前を通り過ぎる。「狩り下り」だ。舟の舳先では、鵜匠に紐で繋がれた10羽ほどの鵜が水に潜り、鮎などの魚を咥えて水面上に上がってきて、魚の向きを変えて頭を下に飲み込む。ほんの一瞬のことだ。それが何羽も同時並行的に水に潜ったり水から上がったりしている。そういう鵜舟が5隻、目の前を次々に通り過ぎる。結構な早いスピードであるし、しかも風向きがこちらに向いているから、篝火の火の粉が飛んでくる。目の中に火の粉が入ってもたまらない。だから、火の粉を手持ちの厚紙で避けながらの見物だ。これも一興かもしれないと、思わず笑えてくる。
暗闇に目が慣れてくると、ああ、あれは事前に説明してくれた鵜匠の山下哲司さんの舟だと見分けがつくし、働いている鵜や、ちょっとサボり気味の鵜もわかる。面白い。これは面白い。鵜舟が我々の乗船している舟を通り過ぎたかと思うと、ぐるりと反転してこちらの舟を一周するというサービスぶりだ。その縦に連なった5隻の鵜舟が通り去ってあと、今度は「総がかり」といって鵜匠が「ホウホウ」と声をかけながら5隻が横になって鮎を浅瀬に追い込む漁が行われ、興奮は文字通りの坩堝に達する。それを潮に、次の瞬間、誠に呆気なくすべての鵜舟が暗闇の中を消え去っていった。すると「ああ、終わってしまったのか。」と、今度は急に虚脱感に襲われて、とっても寂しく物悲しくなる。なるほど、これが芭蕉も味わった「やがて悲しき鵜舟」の心境なのだと納得した。
乗船時にいただいたパンフレットによると、「鵜飼は鵜を使って魚を捕る伝統漁法で、長良川では1300年以上前から行われていました。かつては時の権力者に保護され、川の様々な権限が与えられていましたが、明治維新以降、特別な保護もなくなり鵜匠をやめる人が続きました。その後、明治23年からは宮内庁に属し、現在に至っています。岐阜市に6人いる鵜匠たちの正式な職名は宮内庁式部職鵜匠といい、世襲で受け継がれています。」とのこと。私が行った日は、平日だったので、6隻ではなく5隻の鵜舟が出た。
また、そのパンフレットによると、鵜舟は全長13メートルで、3人が乗船する。主役はもちろん一人の鵜匠であり、船首にいる。二人目は操船責任者である「とも乗り」で、その名の通り「とも」(船尾)にいて、舟を操る。三人目は「中乗り」で、舟の真ん中にいて、鵜匠やとも乗りの助手を務める。鵜舟の舳先には、篝棒(かがりぼう)の先に篝(かがり)という鉄製の籠を付け、それに赤松の割り木を入れて火を付け、これを照明とする。一隻当たり10〜12羽の鵜に、それぞれ手縄(たなわ)という2メートル半ほどの縄を付けて、鵜匠がこれを操る。
鵜飼が始まる前、その日の担当の鵜匠である山下哲司さんから説明があった。まず、頭に被っている「風折烏帽子」は麻布で、頭に巻き付けて篝火の火の粉から髪の毛を守る役目があるそうだ。黒い漁服は木綿製、それに胸当てを付けて火の粉と松やにを避ける。藁製の腰蓑は漫画の浦島太郎のようだが、これが水しぶきをはじいて保温効果があって大いに役立つそうだ。最後に、裸の足に突っ掛けているのは、普通の草鞋の前半だけふっつり切れているような「足半(あしなか)」で、魚の脂や水あかで滑らないようになっているという。
鵜飼いの鵜には、体力のある海鵜を使う。茨城県日立市の海岸で野生の鵜を捕まえるそうだ。注文すると、その数だけ捕まえてもらう。鳥獣保護管理法第9条第1項第1号に規定する環境大臣の許可を規則第5条4号に基づいて得ているようだ。鵜匠は、我々の眼の前で鵜に鮎を捕まえてさせて見せてくれた。鮎を咥えた鵜は、器用に獲物の方向を変えて魚の頭を下にして、一気に飲み込む。頭から飲み込むのは、鱗で食道を傷つけないためだ。ところが、飲み込んでも首に手縄(たなわ)が掛かっているので、魚はそこで引っかかってしまう。鵜匠は、首のその所に手をやって魚を吐き出させる。これが鵜匠の技だ。ただ、鵜も人間に横取りされるばかりでは生きていけないので、その手縄の締め方をある程度緩めることにより、小さい魚は呑み込めるようにしているそうだ。なるほどと納得した。ちなみに、この鵜飼で採った魚には、鵜の嘴によってできた筋があり、これが鵜飼の獲物の証だそうだ。高級料亭で供されるそうな。こういう技を見て、いつも思うのは、最初に考え出した人は凄いということだ。しかも、それで、1300年間以上も食いつなげるというのは、さすがに発明した人は考えつかなかっただろうと思う。
見物人から、「鵜に魚を吐き出させるなんてひどい。」という声が上がる。これに対して山下鵜匠が曰く。「野生の鵜の平均寿命は、7年と言われています。これに対して我々鵜匠の元にいる鵜は、20年間、長いものだと30年間です。大事にしておりますし、毎年、血をとって健康診断をしております。」とのこと。また、頭に被っている「風折烏帽子」は、火の粉を払うのに必要なもので、ところどころに穴が空いていた。
鵜飼観覧船から乗船したのは、午後5時頃で、それから川の所定の位置に付き、待機していると、専用の鮎舟によって配られた鮎料理が供される。それを食していると、川中から大音量の音楽が流れてきた。何事かと思ってその方を見ると、何と浴衣姿の若い女性たちが踊っている舟が動いてくる。鵜飼の客をもてなしてくれているらしい。それからしばらくして陽が落ち、花火を合図に、冒頭のような鵜飼絵巻が繰り広げられるというわけだ。
実は、岐阜の鵜飼いは、もう30年近く前に一度見たことがある。ところがその時に持っていたカメラの性能では、ただ暗闇にぼんやりと篝火が写る程度で、まともな写真は全く撮ることができなかった。その点、今回はキヤノンEOS70Dがあるので、少しは見られる写真が撮れるだろうと楽しみにして行った。さて、その結果はというと、やはりフラッシュを使わないと無理だった。でも、少しは撮れたので、記念にはなった。それより、川面から金華山山頂の岐阜城を見上げると、その右隣に、大接近中の火星が見えた(上の写真の右上)。
2.川原町の町並み散策
ところで、鵜飼観覧船は、長良橋の南端から出る。その近くに、芭蕉と川端康成の碑がある。芭蕉の方は冒頭の句で、川端康成の方は恋人の伊藤初代さんを追って岐阜に3度ほど来たことがあるので、そのゆかりの地ということらしい。観覧船に乗る前にそこから南西へと続く湊町、玉井町、元浜町(まとめて「川原町」という)の街並みが、素晴らしいというので、ぶらりと歩いてきた。案内人は、シルバー人材センターの方だ。この辺りは、かつて長良川の水運の中心だったようで、木材や美濃和紙、茶、関の刃物などの諸々の商品を扱う大店が連なっていて、大いに栄えたそうだ。なるほど、昔ながらの古い町家が並んでいる。家々の格子造りが、いかにもレトロな雰囲気を醸し出している。いずれも、狭い間口に長い奥行きだ。京の町家もそうだった。
日本史の知識によると、昔はその表通りに面している長さで町家に税が課せられていたので、どの町家も間口を狭くし、奥行きを長くしたそうだ。こちらもそうかと思って聞くと、わからないという。ところが、この長い奥行きの先まで行くと、昔はそこがもう川で、荷物の受け渡しに使っていたらしい。そして、細長い家は、受け渡しの商品でいっぱいになっていたとのこと。単にそれだけのことかもしれない。
道の左手にまず現れるのが、美濃和紙と竹に柿渋を塗って作る伝統工芸品の「岐阜渋うちわ」の住井冨次郎商店である。涼しげな団扇が並んでいる。次いで、岐阜銘菓の「鮎菓子」の玉井屋だ。これは品が良くて美味しいお菓子で、私もお土産に買ってきた。道の左手には、1860年創業の旅館十三楼である。その前には手湯が設けられて、向いの建物に水琴窟(すいきんくつ)があり、良い音がするというが、この日は入ることはできなかった。そこでふと金華山の方角を見ると、建物の間に岐阜城が忽然と見えた。
さらに行くと、シンプルな「卯建(うだつ)」のある家があった。これは、「民家の両妻に屋根より一段高く設けた小屋根つきの土壁又はこれにつけた袖壁をいうもので、家の格を示し、装飾と防火を兼ねる(大辞林)」。よく、「うだつが上がらない」などと否定的に使われるが、これを付けた家を建てられるほどお金持ちになって出世することがとても叶わない状態を意味する。その「うだつ」である。
とある家の前に「十二月十二日」と書かれた小さな紙が貼ってあった。これは、天下の大泥棒である石川五右衛門の生まれた月日で、京都だとその天地を逆さにして貼るから泥棒よけの呪いになるのだが、この地では、そのまま貼ってある。これだと、意味がないのではと思うのだけど、さてどうなるのだろうか。
この辺りの家の軒先にぶら下がる提灯には、なかなか趣味の良い鵜飼の絵が描かれていると思ったら、著名な日本画の大家の絵から使わせてもらっているそうだ。川原町屋という建物に到着した。唐傘、岐阜うちわなどの地元の伝統産品を売っていて、奥の方まで行くと喫茶店もある。表には、昔懐かしい赤い丸ポストまで鎮座している。その向かいの店には、1階の屋根の上に祠があると思ったら、これが町内を火事から守る秋葉神社の「屋根神様」で、洪水がよくあったことから、屋根の上に置いたのではないかと言っていた。
これらのレトロな家々の裏手に回ると、そこは昔の川の支流がそのまま流れていたそうで、今は川原公園となっている。それを通り抜け、岐阜公園に向かう。見上げれば、金華山の上の岐阜城だ。その途中に長良橋の「陸閘(りっこう)」があった。これは、橋の取付道路と堤防が交差するため、堤防より道路が3メートルも低くなり、昭和34年の伊勢湾台風のときにはそこから水が溢れて岐阜市内が水びたしとなったことから、洪水時にはここを締め切り、氾濫を防ぐのだそうだ。ということは、川原町は、堤防の外に取り残される。事実、あの土地は、川の中洲に作られているとのこと。
陸閘から少し歩くと、岐阜公園に至る。門前に織田信長の像がある。そのデザインは、どうも我々のセンスとは全く違っていて、非常に劇画的である。とても付いていけない。園内には、名和昆虫研究所があり、板垣退助殉難の碑も目立つ。これは、自由党首としてこの岐阜で遊説中、暴漢に襲われ負傷したとき、「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだという逸話が残っている。ちなみに、このとき板垣退助を治療したのが後藤新平医師で、後々、彼が政治家になる契機となったといわれる。そのほか、織田信長の居館だったところを発掘中で、金箔の貼った瓦が出てきたそうだ。安土城に先立って、ここに使われたことが判明した。また、公園の一角に、友好都市となっている中国の杭州市との関係で作られた中国式の庭園がある。
なお、私は岐阜駅に降り立ったのは30年ぶりだが、今昔のあまりの変化に驚いてしまった。駅は最近流行りのガラスとパイプでできている建築物だし、駅前広場に立っているのは金ぴかの織田信長像である。だいたい、信長は尾張の人である。今川義元を討ち取るために出陣したのは尾張の清洲城である。徳川家康との盟約の地も清洲城だ。斎藤一族を滅ぼして信長は岐阜に移ったが、岐阜にいたのは48年の生涯中で10年間にすぎない。それで岐阜が信長で売り出すのは、尾張贔屓の私としては、どうにも納得のいかないところである。確か十数年前には、岐阜は古田織部の地だと言っていたような記憶があるから、ご当地の偉人というのは、いい加減なものだ。それにしても、駅頭に立ってみたら、昔の柳ヶ瀬の雰囲気はどこに行ってしまったのかと寂しく感じる。これでは、日本全国ミニ東京駅ができるばかりだ。情緒も何もあったものではない。
(平成28年6月4日著)
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