1.松本城
日本のお城で、江戸時代以前からの天守が現存しているのは、姫路城、彦根城、松本城、松山城、松江城、犬山城、弘前城、丸亀城、丸岡城、高知城、宇和島城である。私は、これらのうち、最後の高知城と宇和島城以外は、訪れたことがある(その後、高知城には、2017年に行くことができた)。今回の熊本地震で大きな被害を受けた熊本城には、実は何十年も前の新婚旅行で行っただけなので、退職して暇になったら、また二人で行ってみたいと考えていたところだった。こういうものは、やはり待つのではなく、行けるときに暇を見つけて行くものだと、改めて思った。
今回、そのうちの松本城を再訪した。これで3回目である。私は上高地や白骨温泉が好きだった時期があり、その時は東京から松本まで来て、そこから松本電鉄に乗って新島々駅に着き、そこで上高地行きのバスに乗るというコースだった。その行き帰りで時間と余裕があるときに、この松本駅から商店街を歩いてお城を見物したものである。
松本で仕事があったので、お昼に簡単な蕎麦を食べ、それから午後1時過ぎの会合まで時間があるので、お城を見るだけ見て来ようと、慌ただしく行ってみた。地元の人からは、修学旅行の生徒さんたちが重なると、天守閣まで上がるのに1時間待ちだと言われた。しかし、そんなことで諦めてはいけない。場合によっては、お城の外側の写真だけでも撮って来よう、それだけでも十分だと思って行ってみた。
すると、お城には、並ぶことなく、スッと入ることができた。しかも天守閣に繋がる階段は、さほど混んではいない。ちなみにこの階段は、非常に急であると思ったら、中には60度の傾斜のところもあるという。もうそうなると、下から見上げたらまるで切り立つ絶壁のように感じる。私の眼の前には、中南米からの観光客らしい、揃って重量級のご夫婦が、巨体を揺らしつつ一生懸命に登っている。その下敷きになって骨折でもしたら、かなわない。しばらく待ち、登り切ったのを確認して上がっていった。ちなみに、現代建築ならこんな急傾斜の階段を作らない。この城は見物客を前提にしているのではなくて、あくまでも戦闘を前提に設計されているから、こういう構造なのである。だから、昔のまま、その通りに保存されていることの証左といえる。
城内に昔の火縄銃などが展示されている。じっくり見たかったが。ともあれ時間がないので、足を止めている暇がない。どんどん上がって最上階までたどり着いた。周囲の下界を眺める。北アルプスの山々が見えて、素晴らしい。一時、城主の気分を味わったようなものである。でも、思い過ごしか、昔と比べて、金網が多くなったような気がする。だから、外の景色を撮るのに、邪魔になる。東西南北の方向を順に見て回っていると、お濠に朱色の橋が架かっている。確か以前は、この橋を通って城内に入ったものだが、順路が変わったようだ。
せっかくだから、松本城天守閣の特徴をそのHPからみると、北アルプスの借景の中にある、壁面の上部を白漆喰、下部を黒漆塗りの下見板で覆っているから、その白と黒の対比が美しい、天守は戦闘のためのものだが平和になった寛永期に増設された月見櫓(上の写真の赤い欄干のある部分)は誠に優雅であるとかが紹介されている。
2.善光寺
私は、長野県にはよく来ていて、例えば、志賀高原、白馬、野尻湖、軽井沢、佐久平、小布施、小諸、松本、茅野(御柱祭)、上高地、白骨温泉、大町、馬籠などである。ところが、長野市には、一度も降り立ったことがない。何の用事もなかったからだ。それが今回、珍しく仕事があって、やっと来たという訳である。ところが、仕事が終わって、すぐにホテルへ直行しようとするから、せめて途中にある善光寺に立ち寄ってみようということになった。もう扉を閉めようとする直前に、頼んで本堂の中に入れてもらった。
地形を見ると、長野駅が、いわばすり鉢の底だとすると、そこから登り坂を2キロメートルほど上がっていったところに善光寺がある。途中は、表参道というわけだ。ちなみにここは、北国街道のルートにもなっていたといわれる。昨年は7年に一度の御開帳があり、全国から700万人が訪れたと運転手さんが説明していた。実は私の母も、妹に付き添われてその内の一人として、参拝したと言っていた。家に帰ると、参拝のときにいただいた、小さな柱があった。2本あったので、その前の2009年の御開帳にも参拝したとのことだ。
実を言えば、私はこの方面には全く疎いので、善光寺さんのHPなどからその概要について取りまとめると、次のようである。
信州善光寺の御本尊は、一光三尊阿弥陀如来様であり、この阿弥陀如来様は、インドから百済を経由して仏教伝来で552年に日本にもたらされた日本最古の仏像という。ところが、仏教の受容を巡る争いで廃仏派の物部氏が難波の堀江へ捨ててしまった。それを信濃国司の従者の本田善光が信濃の国へとお連れし、飯田の地から642年に現在の地に遷座し、その2年後に伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられたそうな。
鎌倉時代には源頼朝や北条一族によって守られた。戦国時代には武田信玄が御本尊様を始め善光寺を丸ごと甲府に移してしまった。ところが武田が織田・徳川に敗れ、御本尊様は両家の祀るところとなって、最後は豊臣秀吉が京都の方広寺の御本尊とした。秀吉の死の直前、如来様自らのお告げで、慶長3年(1598年)に再び信州善光寺に帰還することができた。江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領の寄進を受けたりして、次第に復興を遂げ、伊勢参りとともに善光寺詣でも広く行われるようになった。教義の上で一貫して男女平等の救済を説いてきたことからとりわけ女性の参拝者が多い寺院として知られた。前立御本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」によって浄財が集められ、江戸期に現在の伽藍が整えられた。
今日では年間約600万人もの参拝者が訪れる。平成10年(1998年)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡ったそうだ。
そういえば、チベット仏教の弾圧にも抗議していたと記憶している。昨年の御開帳のときには、僧侶による儀式の列のすぐ近くに少年の操縦するドローンが落ちてくるなど、何かと世界の先端をいくお寺のような気がする。
(平成28年5月27日著)
(お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |