1.プロローグ 東北の3都市を、例によって駆け足で走り抜けてきた。仕事づくめなので、観光どころではない。スケジュールの隙間の早朝や夕方などに、慌ただしく公園などを眺めに行った程度である。そうでもしないと、せっかく行った甲斐がない。秋田では久保田城跡である千秋公園、弘前では天守閣が引っ張って移された弘前公園、青森では昭和大仏のある青龍寺を、それぞれ30分程度だったが、何とか見てきた。 まず秋田へは、羽田空港から飛行機で一気に飛んだ。快晴の日で、秋田空港の近くまで、雲ひとつない。加えて、私の聞き間違いでなければ、飛行機は高度6,000メートルの上空を航行していた。国際線の普通の飛行機の高度は10,000メートルであるから、これはかなり低い高度だ。でもそのおかげで、地表に近いから地上の様子がよくわかる。出発直後、富士山が良く見えた。 2.秋田市千秋公園 久保田城は、慶長7年(1602)に出羽国へ国替えとなった佐竹氏二十万五千八百石の居城であり、複数の廓を備えた平山城です。築城は慶長8年(1603)年5月に開始され、翌年の8月には初代藩主佐竹義宣が久保田城に入り、旧領主秋田氏の居城であった湊城は破棄されました。しかし、義宣が湊城から居を移した後も城普請は続けられ、完成したのは寛永8年(1631)頃といわれています。久保田城の特徴は、石垣がほとんどなく堀と土塁を巡らした城であることと、天守閣をはじめから造らなかったことが挙げられます。天守閣を造らなかったのは、国替えによる財政事情や幕府への軍役奉仕、徳川幕府への遠慮などが原因であると考えられています。現在、久保田城跡は千秋公園として整備され、市民の憩いの場として、また、桜の名所としても親しまれています。」とある。 なお、千秋公園の入り口近くに、戦前から戦後にかけての国民的歌手だった東海林太郎の銅像があり、彼の歌が流れている。髪の毛が斜めに突き出していて、ロイド眼鏡で燕尾服、直立不動のスタイルで歌っていたので、私も覚えている。 3.弘前市弘前公園 「津軽平野は、戦国時代、南部氏の支配下にあった。その中で、家来の数が300に満たない大浦氏の大浦城は孤立していたが、永禄10年(1567)、大浦為信(後の津軽為信)が18歳で婿養子に迎えられたことが、勢力を拡大するきっかけとなった。その為信の母は、岩手県久慈市の城主の後妻となって、為信を産んだとされる。ところが母は、先妻の子に家を追われ、14歳だった為信を連れて家を出た。母子は大浦城に身を寄せ、そこで為信は同じ年の大浦為則の娘、阿保良と相思相愛の仲となった。為則は2人の結婚を許したが、2人が結婚した翌月に父の為則が急死した。そこで、為信と阿保良は、『いつか主君である南部氏をしのぎ、津軽を手にしたい。』と津軽統一の野望を持つようになった。 大浦為信は元亀2年(1571)に南部高信を討ち、ここから為信の津軽攻略の進撃が始まった。為信は、合戦に敗れた落ち武者や流れ者の中から有能な人物を召し抱えることで強力な側近武士団を作り上げた。 賭博場で見つけたならず者83人を手勢に加えたり、あるいは敵方の婦女子を襲わせるなどの卑怯な手を使ったりした。この出撃に当たり、阿保良はならず者たちに花染めの手ぬぐいに強飯を包んで与え、その士気を鼓舞した。 あるいは、戦で火薬が不足したとの急報が届くと、大浦城の留守を守る阿保良は、狼狽する家臣を尻目に侍女を集めて錫類の器物を持ってこさせ、自ら指揮をとって合薬を精製、戦場へと届けさせたという。こうした苦労の末、遂に為信は、天正18年(1590)、津軽地方の統一を成し遂げ、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められた。慶長8年(1603)には関ヶ原での功績によって、徳川幕府から外様大名として津軽領有を承認され、高岡の地(現在の弘前)に町割りを行い、城の築城を計画したが、城が完成する前に、慶長12年(1607)に亡くなった。(現代の津軽人と南部人の気質の差がしばしば話題になるが、こういう歴史があったのかと納得した。) その後を継いだのが三男の信枚(信牧)である。信枚は慶長15年(1610)から築城を始め、翌年には五層の天守閣を擁する高岡城が完成した。併せて城下町も整備されて、町の名称も、寛永5年(1628)に「高岡」から「弘前」へと改められた。信枚は、天海大僧正に導かれて天台宗に帰依改宗し、その縁で慶長16年(1611)、家康の養女の満天姫を正室に迎えたとされる。 家康没後の元和3年(1617)、日光東照宮が建立されたが、この東照宮に津軽家が真っ先に城地を持つことが許され、これにより万一の場合でも東照宮を盾にすれば幕府さえも手出しができず、徳川の天下が続く限り藩の安泰が約束された。高岡城が完成してから16年後の寛永4年(1627)、不運にも落雷により天守閣が炎上した。翌年3層の櫓を再建し、これをとりあえずの天守閣とした。その際、天海和尚の命名で、城名を「高岡」から「弘前」へと変えた。天台密教の真言「九字の法」から選んだとされる。 ところで、石田三成は関ヶ原の合戦で徳川に敗れ、刑死となったが、その遺児が津軽に逃げてきた。それが信枚の妻となる辰子とその兄である。その後、津軽が本州最北端にあることから、幕府は防衛上、津軽家との絆を強固なものとしようと考え、徳川家康の養女の満天姫を信枚の正室へと送り込んだ。そうすると、石田三成の子の辰子は身を引くしかなかった。しかし、辰子を大事に思う信枚は、辰子を現在の群馬県太田市に隠し、江戸と弘前を往復する際には必ずその大舘の地に逗留し、後に嫡男が産まれた。その子が5歳になった元和9年(1623)、辰子は病没したが、それまでの12年間、信枚の寵愛を受けたという。 家康の姪であり養女である満天姫は、信枚とは再婚になる。大名家に嫁いだ徳川の女の多くは将軍家の威光を笠に威張っていたが、満天姫はその逆に、控え目な人柄で、むしろ嫁いだ家を第一に考える女性だった。 子供連れの再婚で、その子は岩見直秀と名乗り、家老の婿養子となった。津軽家では満天姫に子が授からなかったことから、辰子が生んだ子を引き取り養育することになった。満天姫は辰子の子を元服させ、信義を名乗らせた。信枚が寛永8年(1631)に没すると、その信義が3代目藩主の座に就き、満天姫は信義の母として津軽家を守ることとなった。ところが、最初の嫁ぎ先である福島家の子の直秀の福島家再興運動が信義の害となり、津軽藩の命取りになることを危惧しはじめた。 寛永12年(1632)、実の息子の直秀が、満天姫がいくら自重を求めても聞き入れずに、9月24日、江戸に発とうと母を訪ねてきた。どうしても行くと言ってきかない息子に、満天姫は別れの盃をとらせた。その盃には、毒が入っていたので、直秀は絶命した。つまり、満天姫は、自分が腹を痛めて産んだ子を毒殺することで、婚家である津軽家を守ったのである。何とも凄まじい歴史であるが、徳川の敵だった石田三成の血を引く藩主を、その徳川の女が守ったことで、津軽家は安泰となり、来るべき太平の世に繋げることができたという。」 4.青森市の青龍寺・昭和大仏 (平成28年5月19日著) (お願い 著作権法の観点から無断での転載や引用はご遠慮ください。) |
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