悠々人生・邯鄲の夢エッセイ



ノートルダム寺院のステンドグラス






 私は中学2年生のとき、田舎から都会の名古屋に転校した。新しく通うことになった中学校は、全校生徒数が4,300人にも達した日本一のマンモス校であった。さすがに私が通う頃には分校が行われて生徒数は減ったものの、それでも私の学年には、1,000人近い生徒がいたものである。これだけ生徒数が多いと、田舎ではまずお目にかからないような、ピンからキリまでの色々な生徒がいて、目を見張る思いがしたものである。

 たとえば、家にクラシック・ミュージックのレコードが2000枚もあって、それを毎日聴いているという高尚な趣味の男子がいた。私は、羨ましくて仕方がなかった。でも、その子のお屋敷のような家と比べれば、こちらは社宅住まいの転勤族だから、仕方がないと諦めていた。しかし、せめて音楽の時間に教えてもらうクラシック音楽くらいは覚えようとしたものである。あるいは東京からの転校生で、どう見ても勉強しているとは思えないのに、テストを受けるとどの科目も満点に近い点をとるという天才肌の同級生がいた。

 そうかと思うと、奇声を上げて机の間を走り回って男子の股間を触る変な男子とか、何か気に食わないことがあると、他の生徒を直ぐに殴る暴力的な男子がいた。いわゆる問題児である。どちらも近づかないに越したことはないが、特に後者には、悩まされた。

 私は、ラジオの気象観測情報で、例えば「汕頭(スワトウ)、南の風、風力3。気圧986ミリバール」などと各地の観測値が読み上げられるのを一生懸命に聞いてメモをとり、白地の地図に落とし込んで気圧の等高線を引いた。そして、日本周辺の天気図を作って明日の天気を予測するのを楽しみにしていた。我ながら、オタクっぽい趣味だった。(ちなみに、この気象観測情報は、つい最近、廃止された。気象観測衛星の精密な画像が入手できる今日では、もはや無用の長物となったというわけだ。しかし、あの独特の口調とテンポで読み上げられる放送は、今でも私の記憶に残っている。)

 ある日、その白地の地図を買いに名古屋気象台まで行った帰りに、運悪くその乱暴な男子に呼び止められた。「何を持ってる。」と言われて「白地の気象地図だよ。」と答えたら、「よこせ!」と言うので、「嫌だ。」と言ったとたん、いきなりストレートで右眼付近を殴られた。相当、痛かった。帰って顔を見たら、眼の周りに青い隈ができていた。こちらは転校してきたばかりだから、そんな粗暴なヤツだとは、ついぞ知らなかったので油断した。

 今なら、刑事事件もので補導対象となるところだが、当時は、まあ何というか大らかなもので、同級生や親にまで「なに、その顔」と笑われて、それでおしまいだった。ところがその男子は、あちこちでそういう乱暴狼藉を働いていたらしい。しばらくして姿が見えなくなったと思ったら、風の便りに、少年院送りとなったと聞いた。どうも、父親が土木作業員の乱暴な人で、家庭でもよく殴られていたらしい。だから、人に対して、そういう接し方しかできなかったのだろうと思う。

 それから、はるか後年になって、自分の子供が小学校の高学年になったとき、やはり友達を殴る癖のある子供がいて、クラスの会合で問題になった。家内がその場にいた。家内からのまた聞きだが、たまたま、その子の母親も出席していて、その人が言うには「そんなこと、絶対にありません。父親は、それはそれは厳しくしていますから」。いや、それが原因なのだと、皆が思った。つまり、その厳しさというのが、おそらく日常的に子供を殴ることだと思うのである。家でそういう扱いを受けているからこそ、学校でも何の躊躇もなく、人を殴り、それが普通のことと思ってしまうのだろう。

 そうしてみると、子供が小さい頃から、愛情を注いで接することが、まず何よりも必要だ。そして、社会生活上で良くないことがあれば、問答無用とばかりに直ぐに殴るなどというのは論外で、なるべく言葉で諭すようにすべきである。そうやって、言葉を通じて周りの人と触れ合う習慣を身に付けさせることが、非常に大事なことだと考えるのである。・・・などと考えていたら、先日、小学校1年生の初孫くんが、同級生に噛みついたことを思い出した。

 本人に理由を聞くと、「ボクが椅子に座っていたところにその子がやって来て、追い出そうと肩で押して来たり脚を蹴ってくるので、つい噛んじゃった」という。正当防衛の中の過剰防衛的な出来事だったようだ。いずれにせよ、学校側が「何かそういうことがあれば、噛んだり叩いたり蹴ったりするのではなくて、まずは言葉で自分の気持ちを伝えなさい。それでもダメな時は、先生に言って解決してもらいなさい」という指導をしてくれて、その後は問題なく仲良くやっているようだ。まあしかし、社会生活を送る上で、こうした何らかの軋轢は付きものなので、まだ精神的に未熟な時代にかえってある程度あった方が、自分で解決する経験を積みやすいと考える。

 話は飛ぶが、最近の新聞記事をみると、引きこもりの人が増えているという。それも、20歳台や30歳台ならばともかく、40歳台や果ては50歳台まですらいるというから、驚いてしまう。こういう人は、小さい頃から他人と触れ合い、その中で折り合って生きて行くということをした経験がないのではなかろうか。

 子供の周囲にたくさんの大人がいて、いつも誰かがさり気なく見守ってくれていたり、あるいは嬉しいことや悲しいことがあれば、大人が一緒に喜んだり慰めてくれたりするような環境にあるのが、子育てに相応しいと思う。そういう環境にいつも置かれているのなら、人を信じ、時には裏切られなどしながら、社会でやっていく勇気が湧いてくるというものだ。ところが現実の家庭環境は、激変している。かつての大家族から、夫婦単位の核家族に移行し、さらにそれが「おひとり様」のシングル世帯になりつつあるという。その結果、今や男性の5人に1人が、生涯一度も結婚しないという社会になっているらしい。それでは、人口が減るわけだ。日本は、どこかで道を誤ったのかもしれない。

 京都大学霊長類研究所の松沢哲郎教授が、「チンパンジーと博士の知の探検(34)助け合い子育てする人間」で、西アフリカの森の中で狩猟採集生活をする人々について書いている(日本経済新聞平成28年1月10日付け)。それによると、「人間の特徴は、おとなの男女や親族が共同して子育てすることにある。人間は高度に発達した脳をもち、おとなと呼べるようになるまでに長い時間がかかる。子育てに時間がかかるので、一人ずつ産み育てていては間に合わない。子どもを次々と産み、共同で養育するようになった。・・・家族が複数集まって暮らし、さらには離れて住む血族や姻族の力も借りて、互いに助け合いながら暮らす。子どもたちは、その集団生活の中で歳月をかけて、子育てのしかたや森での生活に必要な知恵を学ぶのだろう。」

 全く同感で、それが人類のあり方だと思う。学校はそのための公的なインフラで、昼間の集団生活を送る場だが、子供の面倒を四六時中見る場所ではない。つまり、かつての大家族による子育てを完全に代替するものではないのである。やはり、大勢の親切な大人によって、子供が常に見守られている社会を作る必要があるのではないか。

 そのためには、手っ取り早く昔のように大家族制に戻るのも一案である。一緒に住まなくとも、親戚が近くにいて、何かあればすぐに助けてくれるという体制にあれば、それと同じようなものだ。あるいは、たとえ血がつながっていなくとも、親しい家族同士でシェアハウスをするような仕組みもよいだろう。そういう関係ができなくても、学童保育でもよいし、私の住んでいる下町のように、町内会や青少年育成協議会がしっかりしているところでは、子供の見守り活動をしているから、その類でもよいので、集団で助け合うという場をもっと作るべきだろう。

 子供の時代は鍵っ子、大人になって未婚で個食、老人になって孤独死というのはあまりにも寂しすぎる。どうやら戦後の日本は、個人主義が行き過ぎ、個々バラバラになり過ぎた。そろそろ、皆で暮らすことの大切さ、つまり家族集団や疑似家族集団の普遍的価値という面に、もっと目を向けるべき時期に来ていると思う。





(平成28年1月10日著)
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