邯鄲の夢エッセイ



長尾峠にて




 何年か前に実家へ帰ったら、母から「こんなものが出てきたわよ。」と、古い写真入りのファイルを手渡された。しかし、忙しさにかまけて、そのままにしてあった。つい最近、そういえばそんなものがあったなと思い出し、取り出して読んでみた。それは、ちょうど50年ほど前、私が名古屋の中学校に通っていた頃に東京方面へ修学旅行に行ったときの日記である。その時は14歳で、それこそ約半世紀前の自分に出会えたようなものである。しかし、その観察眼とお菓子好きなのは、今とさして変わらないものだった。読み進めていくうちに、先生やバスガイドへの皮肉、友達の意地汚い行動など、はっきり書いてある。我ながらついおかしくて笑ってしまった。


1.出発の前日

 目のへんが、ぼんやりと明るくなってきた。手足を動かすと、畳にすれる感覚がある。そうだ。昼寝していたんだっけ。あ、あすは修学旅行だ。水筒、くつ、かんづめなんかを買わなきゃいけない・・・と思うと、頭がふらついたが、仕方なくとびおきた。でも、立っていられない。やはり、もう一度寝てやれ・・・ふとんの上に横たわると、時計の刻む音がした。「今何時?」と聞いた。「4時はーん」と、母が答えた。これはいかん。どうしても買いに行かなきゃ。

 外へ出ると、いい風が吹いている。しばらく立っていると、母が買い物かごを下げて出てきたので、まずショッピへ行ってみた。「ここらへんに水筒があるよ。」と、母がさす方を見たら、これはひどい。切手に、鉄腕アトムに、狼少年ケンに、鉄人28号と、変な絵が描かれている水筒ばっかりで、ちっともましなものがない。でも、選ばないといけない。目をつぶって、選ぶ。それから、ぶらぶら1人で回って何でもかんでもかきあつめてきた。おせんにキャラメルはないが、かんづめにあられ、ガムにくつ下までかごにつっこんで、袋にいれてもらって、1人で帰ってきた。

 家に帰ってすぐにボストンバッグへ荷物をつめようかと思ったけれど、夕食後にした。ごはんもそこそこにして、すぐつめこみ作業を開始した。まず、ならべてみた。三畳の小さなへやがいっぱいだ。蓼科高原に行ったときは炊事用具を入れたから、かさが多くなったが、こんどはお菓子でいっぱいだ。食物だけで2分の1畳くらいが埋まった。また荷物の量では、組で最高になるだろうと思いながら、つめはじめた。食べ物を入れて一服、着る物を入れてまた一服。苦闘二時間半でやっとつめおわってテレビを見た。寝ようとしたところで、遊び道具を入れるのを忘れたことを思い出し、またあけてぎゅうぎゅう押した。紙のチェス盤がこわれるといけないので、手でもっていこうかとも考えたが、めんどうになり、ほったらかしにして寝床に入った。


2.名古屋駅前に集合して乗車

 名古屋駅の交通公社の前にやっとついた。時計を見ると、午前6時10分。もうだいぶん組のかたまりができている。重くて、チャックがはじけそうになっているボストンバックを持って、柱と人のあいだを、首をちじめて通りぬけ、やっと3年16組のいるところまできた。荷物を置いて立っていると、17組の子か16組の子かはっきり覚えていないが、新聞を買おうという。そこで売店の方へ行ってみた。いるいる、2〜3人、スポーツ新聞らしいのを買っている。「たっかいなぁ、20円だぜ。」というのがいたり、そうかと思うと20円出して手に握って、買おうかどうか迷っているのやら、お金を投げるように置いてひったくるように取って、すぐ読み始めるのやら、全く十人十色だ。

 しばらく立って見ていると、売店の人がこっちを見ている。きまりが悪くなって、荷物のあるところまで逃げてきた。すると、もうだいぶ集まっている。総務だったと思うが、旗を上げはじめたので、ボストンバックを下げてそっちの方へ行き、先生の指示でしゃがんだ。ちょうどその時、父兄会で見送るために父と母が来て、ついでに弁当を持ってきてくれた。このときは、きまりが悪かった。顔があつくなるのが感じられた。幸いむこうの方へ行ってくれたので、ほっとした。しばらく腰をおろしていたら、かかとと、もものところが痛くなってきた。すわりたいけれど、すわったらズボンがだいなしだ。しかたがないので、汗を流しながら、このままでいた。おしゃれも楽ではない。

 やっとプラットホームへあがることになった。20分ばかりがまんしてしゃがんでいたから、いざ歩こうとしたとき、立ったことは立ったが、痛くてしようがない。左足に体重をかけていたので、みんなにせきたてられて、びっこをひきひき、やっと階段をあがった。乗車隊形になったら、父も母も森先生とあがってきた。森先生は、2年のときの担任だったので、父をよく知っていて、いっしょに談笑している。駅員さんが白線の外を通ってしばらくしたら、遠くにポツンとクリーム色で四角形の車体の「こまどり号」が見えてきた。案外ゆっくりと入ってきた。けれど、ひどい風圧だ。

 車内は、たしかうすい緑色だったと思う。まず、入ってすぐに目についたのは、飲料水タンク、それに手まわしよく、ほうきにちりとりまである。それから・・・座席の小さな机、幅20cmくらいのパネライト製だった。ふつうの準急か何かに、ただ机を溶せつしただけだ。ぼくに、斎藤君、飯田君、伊藤君が入口から進行方向にむかって左側の3番目だった。いざ座ってみると、例の机の支柱に足がつかえて不便だった。


3.名古屋駅を出発して東京へ

 名古屋駅を出た。20〜30分すると、斎藤君が通り過ぎる駅に向かって、しきりに敬礼みたいなことをやっている。何だと聞くと、駅長へのあいさつだそうだ。前にやってみたことがあるらしいが、その時は、答えて敬礼してくれた駅もあったということだ。ちょうどすることがなかったし、間食は、浜名湖まではだめだったので、ぼくもやりだしたが、3〜4回やったら、マンガを見せてくれる有志がいたので、そのまま見ちゃった。

 マンガのあいまを見て、時々外のようすを記録した。これから、少しそれを書いてみよう。

 7:43
  大府:ほとんど通勤客、建設機械が多く、水田が一面に広がっている。
  刈谷:家は、案外少ない。

 7:47
  ラジオ放送局が左手。そのまわりに水田が一面広がっている。左手に機械工場のしき地。速度110km。セロテープ工場が左手、ミシン工場が右手。(このころになると、車内は、マンガを読んだり、写真の写し合いをやっていた。)

 7:52
  安城:畑が多く、水田も少しだけあった。日本のデンマークといわれているが、普通の農村と同じ。

 7:55
  少し大きい川。鉄橋を建設中。

 8:00
  岡崎:小さな自動車学校があった。

 8:20
  ずっと畑。キュウリ、ナス、トマトなんか。ラジオが聞こえなくなった。テレビアンテナが、ほとんどの家に立っている。アンテナの林。

 8:27
  豊橋:(トランプをやりだして、筆記一時中止)

  ポーカーをやっているうちに浜名湖を過ぎた。一番はじめに何を食べたかは覚えていないが、いまはおかきを食べている。ただ、かたくてかたくて。

 9:10
  大きな川。たぶん天竜川だろう。あいかわらずポーカー

 9:27
  山の斜面、平地、すべて茶畑。「あんな高いところにも」と思うぐらいに山の頂上まですべて茶畑。さすがに全国の茶の半分を出している王国だけのことはある。

  先生も、うしろの席にすわって、少年サンデーやマガジンを読んでいる。いくつになっても、マンガだけは面白いのかな。

 9:40
  大井川だ。ほんとうに広い。ポーカーと7ならべ。


4.東京に到着して都内観光


東京駅の絵葉書


 午後1時頃、東京駅に着いた。建物の中の感じは、名古屋とそんなに変わらない。階段を降りて、地下道を通って出口まで行った。地下道の終点と出口までの間に、大きなドームがある。下から見上げると4、5階くらいか。丸い輪のようなものが、上へあがるにともなって、だんだんちぢんで行って、てっぺんはとんがっていた。やっと外へ出ると、やっぱり東京だ。車がひどく多い。歩道を行ってふりかえると、古風な東京駅が見えた。色は写真のパリの町を、とんがった屋根は国会議事堂を思い出させる。しかし、窓のふちの白さと、その周りの茶色の対比は、しぶい感じだ。

 東京駅を降り、車の洪水に驚かされながら、バスに乗った。ガイドさんは黄色い声をはりあげて「ハッスルしましょう」とか、「皆さん、もっとハッスルして」とか、やけにハッスルがすきだった。ためしに数えてみたら、旅館に着くまでの3時間に5回も言った。

 丸の内ビル街を過ぎて、もうすぐ霞ヶ関だという時、左手のビルとビルとの間に、もくもくと煙が上がっていた。「さすがに東京だ。ビルの中にまで工場がある」と思っていたが、あとで旅館に着いて新聞を読むと、新幹線のまくら木が焼けていたのだった。

 しばらく行くと、道路の端にバスが止まった。買ったばかりのカメラを後生大事に持って降りた。先生の先導で広いアスファルト道路を横切って広いじゃりの広場に出た。ここでやっとわかった。皇居だ。歩きにくいじゃり道をハッスルガイドさんの説明を聞きながら、「なんとか門」というところまで来た。これは、正月三が日と天皇誕生日にしか開かれないという開かずの門だそうだ。


皇居・二重橋の絵葉書


 開かずの門から10mくらい行ったら、二重橋のところまで来た。東京へ観光に来た人なら、誰もが来て、そして写真をとるというこの橋には、やっぱりどこかのいなかのおじいさん、おばあさんが、小学校の生徒のようにガタガタの列を作りながら、写真を撮ってもらっていた。われわれもそこで集合写真を撮る。まわりは交通戦争なのに、ここだけはのんびりとして、ほんとうに憩いの場所だ。

二重橋でのクラス写真


 二重橋の前の公園をよこぎると、また公園があって、入り口から少し入ったところに楠公の銅像がある。一面に緑青があった。小さい時に聞いた話では、ハトが・・・いるいる。しっぽと肩とかぶとの上に。しっぽのところに巣がありそうだ。20分くらいたったかもしれない。急に笛がなって、バスのところに集まった。席に着くと同時に出発。桜田門を回って国会に向かった。国会前は徐行すると言っていたのに、ちっとも速度をゆるめない。そんな時にあわてて写真を撮った。1度でもいいから、ここにはいりたいと思った。

 明治神宮を出発したら、もう神宮外苑だ。見上げるような球場のライトや、かすかに見える東京タワーの先などが印象的だ。すぐ前に聖徳記念館があった。まわりの美しい風景に反して、池のきたないこと。記念館の窓から中を見ても、つい立てしか見ることができない。

 靖国神社に着いた。大きな菊の紋章がついている。門の前に、石どうろうがあった。その四面に戦っている軍人のレリーフがあった。剣をふりかざして突撃している者、地面に伏せて、弾をよけている者など、なまなましい戦場のようすを再現していた。石畳をあるいてさいせん箱のところまで来た。みんなおさいせんを投げ入れている。その左の方へ行くと、戦死?した馬の霊を祭っているとのことだ。その横に、ずらっと旧式の大砲が並んでいた。

 東京は、外人が多い。バスが信号待ちをしているときなど、1人は見かける。ガイドさんが「もうすぐ神田です」と言った時から、あたりを見ていると、こんどは学生が多い。横断歩道を渡っているのも、ほとんど学生。学生に次いで多いのは本屋だ。通りに並んでいる店は、全部、本屋だ。全く「よく倒産しないな」と思う。


現在の鳳明館の看板


鳳明館入り口。昔の記憶のまま

 午後4時すぎ、やっと旅館についた。バスから降り、細い路地を通りぬけ、目の前に、古びた建物がある。こんなところに泊まるのかと思っていやになったが、先生はそれより左に行く。変だ変だと思いながらついていくと、あった、あった。やっぱりボロいが前のよりましだ。小さな文字で「鳳明館」と書いてある。少し大きな顔をして、ちょいとせまい玄関にはいった。はいるなり「早くあがってください」とどなっている。おちおち休んでもいられない。ぼくたちは、地下室。くるくると回るらせん階段を降りて、案外いい感じのへやへ入った。大の字になって寝るもの、マンガを読みなおすもの、トランプをやるもの、種々さまざまだ。

 夕食の時が一番楽しかった。この旅館では、食事はエレベーターでおりてくる。それをお手伝いさんが部屋まで運んで来る。お手伝いさんは、小さい背なのにおぜんを高く積み上げて、ふらふらしながら来る。ひっくり返すのではないかと皆は期待したが、そういうことはなかった。けれど、隣の部屋でゆのみを割ったらしい。食べはじめると、しばらくしておかわりのご飯を持ってきた。そして、すぐにどこかへ行ってしまったので、食べはじめた人から順に、自分でよそいに行った。

 しばらくしたら、花山が出てきて、一生懸命、何かやっている。ちらっと見たら、どんぶりに一杯、山のように盛っている。文字通り、どんぶりのふちから7〜8cmはもり上がっている。その時、運悪く若い方のお手伝いさんが戻ってきた。それを見て、黄色い声で「コラッ」。花山は、自分の席まで背を丸めて逃げて行った。この旅行で一番面白かったことだ。

 午後7時半ごろ、バスで都内の夜の観光に出た。ぼくは、ちょうど窓側にいたし、半そでシャツの制服だったので、寒くて寒くて、とうとうがまんできなくて、隣の子に、場所を代わってもらった。一番印象に残っているものというと、やっぱり銀座だ。あたり一面、赤、青、緑、黄などの光の原色の海。特に、三愛のスカイリングが立派だ。円筒形のガラスの建物で、地上20〜30mはある。各階の円筒形の蛍光灯が、原色の海の中にくっきりと建物を浮かび上がらせている。


5.羽田、横浜、江の島、鎌倉


羽田空港の絵葉書


 翌日、朝から雨だ。がっかりしながらバスに乗りこんだ。羽田空港まで行くという。モノレールに沿った高速道路を走った。完全な立体交差道路を走るのはこれがはじめてだ。ジェットコースターののろいのに乗ったみたいだ。身体がグーンと押し付けられたと思ったら、まわりのガードレールが盛り上がり、そうかと思うと「ガクン」と下がったり。羽田では、待合室をガラス越しに見下ろす見学室にはいった。細い階段をのぼっていくと急に、明るくなった。右側には貧弱なガラスケースがあって、模型飛行機とスチュワーデスの人形、それにかわいらしいフィンガー・バックなどがある。さらにもう少し行くと、「飛行機に乗るまで」という解説があった。写真入りで、ビザを受けたり、切符を買ったりなどがあったが、飛行機料金の高いこと、高いこと。

 それから、どこをどう通ったかは記憶にないが、長さ2m、直径1mくらいのエンジンがあった。模型にしてはよくできている。そこから確か左に行ったら、大きな売店があった。東京で350円ほど使ったので、心細くなり、80円の案外高そうな地球儀型の万年カレンダー、それに、ちょっと辛抱して30円の絵はがきを買った。

 羽田を出ると第一京浜国道を通って横浜に来た。空気は、小雨が降っているのに煙のにおいがして、いやな感じがした。特に、コンクリートのおおいがある歩道に沿った100mぐらいの間は、ほんの20〜30m行っては止まり、また少し行っては止まりなんかして、これに自動車の排気ガスのにおいが拍車をかけて、急に気分が悪くなった。しかも小雨が窓から入ってきて頭にかかり、全くひどいものだった。

 車酔いは、薬を飲んでもだめ。まわりを見るとよけい気持ちが悪いから、下を見ていると、ズックのゴムのにおいが鼻をつく。目をつぶると隣の子のピーナッツのにおいがする。車酔いのときは、急に嗅覚細胞の働きが活発になるのかもしれない。これを考えているあいだは何もにおわなかったが、気がつくとまたにおってくる。そのうち車が急停車する。しばらく待っても動かない。外を見ると、あいかわらず小雨だ。すぐ近くに海が見え、みんながぞろぞろ降りていく。やっとのことで旅行のしおりを出してみると、山下公園だ。カメラとかさをつかんで、ひょろひょろしながら外へ出た。

 バスから離れて、道を横切ると、どろんこの所に出あった。そこを渡らなければ、公園内に入れないというので、ぬき足さし足の要領で、どうやら渡った。そのころから、海がプーンと、気持ちがよい風とともに、におってくる。まだやっぱり、頭が重い。けれども、吐き気だけはなおった。道路に沿ったところだけは木が茂っているが、その他は芝生があって、海に面したところには小さなさくがある。港の一部にさくをつけて、公園にしたのかもしれない。遠くには、灰色のぼんやりとした空と海の中に、大きい船が浮かんでいる。ふと右の上の方を見上げると、これまた遠くの方に、マリンタワーのてっぺんが見える。ふりしきる小雨の中で、海のにおいをかぐのも、いいものだ。

 またバスに乗った。排気ガス、菓子、ジュース、たまご、ゴムのにおいが入りまじって、なんともいえないいやな感じだ。おまけに道が悪くなって、ガタン、ガックン、ガタッ、ガタッ。胃が持ち上がるみたい。荷物にもたれながら、上を向いて寝た。ねむったわけではない。道は悪いし、いやなにおいだし、何も考えないことにした。だが、頭に浮かぶのは、出発の前の日に朝日新聞で読んだ修学旅行無用論。こんなことなら無用論に賛成だ。ガイドさんが「左に見えますのは・・・」と言っても、動くと吐くような気がして、じっとしている。この間が、旅行中、一番いやな時だった。おかげで、源実朝が公暁に殺された時の隠れいちょうは見えなかった。

 やっと、鎌倉大仏のところに到着した。もうその頃は、はく寸前だった。降りると、軽いゲップが上がってきて、深呼吸したら、すうっと引いていったのをよく覚えている。はきそうになったのをこらえて、みんなのあとをついて行った。石段のところで記念写真を写した。


鎌倉大仏前でのクラス写真


 ほんの10分くらいで、バスに乗った。すぐに江の島へ着いた。昼食を食べる海の家は、道路より一段下にあった。1mくらいの幅しかない。せまい階段を降り、弁当にカメラを持って、中に入った。ものすごくせまい。ぎゅうぎゅうで、お茶もくめないほどだ。隣の組の子が、やかんのひもをぼくの湯のみに入れたりした。おりづめの、はしのふくろはおとしてしまったが、貝箱を買ってきた。またバスに乗って、ガタガタゆられながら、こんどはあまり酔わずに、小休止の小田原についた。ここでは、はんにゃのついた、緑色のかわいいくつべらを買った。


6.箱根の湖尻、芦ノ湖、大湧谷

 箱根バイパスを通るときは、ひやひやした。なにしろ、あたりは霧でまっ白。ほんとうに10mくらいしか視界はきかない。窓から手を出していると、びしょぬれになる。雨は降っていないが、ひどい霧だ。この頃には珍しい霧だそうだ。景色に慣れている人はいいが、こっちは大変だ。目を凝らして見ても白、どうやっても白なので、後班がうらやましい。しばらく行くと、少しよくなってきた。下の方は、よく見える。下の方は温度の関係で、霧が発生しないのかもしれない。このバスのまわりは、白、白なのだが、下の方は箱庭のように、手に取るように見える。一本一本の木、そして、ところどころにある池、向こうの方には、かすかに芦ノ湖があり、ほんとうにおとぎの国に行っているかのような錯覚をおこす。

 湖尻に着いた頃には、発着場の名前もうまく見えなかった。かすかに大きなものがあると思ったら、船だ。先生がバスからもどって来て、「これから、すぐ旅館の方に向かう。」と言ったので、また後班を思い出してしまった。旅館に着いても、やっぱりひどい霧だ。ここは、東京の旅館と比べて、だんぜんいい。ボーイさんの親切な応対があったし、すぐ前の庭には、ほんとうに青い色をしたプールがあった。まるで、空の色をそのまま持ってきたようだった。

 こんどは、地下ではなく2階だった。すぐひっくり返ってカブを始めた。この時は、おもしろいようについた。元手4枚で10枚前後はもうけた。しかし、へやのすみにあった応接セットにはり紙がしてあって、
「修学旅行の生徒さんは使わないように」とあったのは、シャクだった。ぼくたちの部屋は使わなかったが、他の部屋は使っていたところもあったようだ。時々窓の外を見ると、白の中で、たぶん、水銀灯だったろうか。一カ所だけ青く光っていたのは不気味だった。夕食のときは、ひどく食べにくかった。せまい部屋で全員が食べるのだから、もともと無理な話だ。足を折るようにして、やっと食べ終わった。

大湧谷の絵葉書


 朝は、6時頃に起こされて、大湧谷というところまで行った。30度くらいの傾斜を登っていくと、たまごがくさったようなにおいがする。登るにつれて、ひどくなる。やっと登りつめたと思うと、右に茶店があった。そこに、黒い石のようなものが、高く積み上げてあった。よく見ると、小さく1個20円と書いてあり、その横に名物の卵とか何とかが書いてあったように思う。左には、3〜4m四方くらいの、柵で囲ってあるところから、ひどく煙が上がっている。その隅の方にかっ色の砂が、ゴボッ、ゴボッと丸くもり上がっている。試しに砂に手を入れてみたら、ほんのりと熱い。表面でこんな熱だから、中心部は200度くらいになっているかもしれない。

 バスから降りると、今日はもうはっきりと見えた。あたりは、山、また山で、すぐ前には船の発着場らしい建物があり、そこからすぐ前のさん橋が続く。左には、くらかけ丸、右には小さなモーターボートがあった。船は、屋上も入れて3〜4階はあって、割合広い方だった。ぼくは、屋上の方へ行ってみた。寒い、とても寒い。でも、景色を見るには、もってこいの場所である。まだ、湖のまわりの山は、霧をかぶっている。デッキには、人がむらがっていて、とっても写せはしない。屋上の前部はわりあいすいていたが、風が当たってひどく寒い。しかたがないので、背のびして、あたりをみまわした。

 後ろを見ると、さっき右側にあったモーターボートが爆音を立てて突っ走ってきた。湖のカミナリ族だ。ビーン、ビーンという気持ちのよいエンジン音を響かせながら、みるみる近づいて来た。そして、むこうに走っているもう一つの遊覧船と、本船の間をサーッと行ってしまった。その方角を見たら、噴水が4すじ、上がっていた。消防訓練のようだったが、観光地の見せ物の一つであったかもしれない。その向こうにあるちょっとした半島のようなところを過ぎると、一回転して、また湖尻に戻った。


7.山中湖、白糸の滝を経て名古屋に帰る


やっと姿を現した富士山の写真


 富士山の展望が一番という長尾峠だが、霧がまた深くなって、富士山は見えなかった。その長尾峠を過ぎて、山中湖にへ来た。ここは富士五湖のうちで、一番俗化されているということだ。曇ってはいても、観光客がだいぶん来ている。手でこぐボートに、モーターボートなんかが走り回ってにぎやかだ。富士山がチラッと見えたので撮ったが、全然写らなかった。昼食のハイランドホステルへ行くまでに、やっと待望の富士山が見えた。バスの中から、身を乗り出すようにして、4枚も写したが、3枚はだめ。でも1枚だけ写り、それがこんどの旅行中、一番のできで、雲の切れ間のようすも、一番よかった。

 もう、この頃になると、腹が減って、何でもかんでも手あたり次第、食べちゃった。ようやくハイランドホステルに着いた。野原の真ん中にある近代的感覚の建物だ。その横の方に、砂利でも積み上げたような小さな富士山があった。「雨や曇りのときは、ここへでも登ってください」というわけか。待望の食堂の中に入って、テーブルの上にあるカレーライスを見て、ギャフンと来た、あれほど待っていた昼食が、こんなに少ないとは、残酷だ。カレーが、1cmにもならない厚さに「入れた」というよりは、皿に「塗ってある」くらいだ。その横に、申しわけに、ほんのちょびっと、ライスがある。しかも、食べてみると、冷えていてまずい。これなら、あと4〜5はいは食べられそうだった。


白糸の滝の絵葉書


白糸の滝前で友人たちとの写真


 次は、白糸の滝に向かう。バスを降りると、すぐ、長い階段を下りて行った。水が流れている川は、売店よりも一段下にあり、川をはさんでぼろい橋があり、わずか10mくらいだが、向こう岸につないでいる。渡って右側はおとどめの滝という、すごく雄大で男性的な滝へ行けるらしいが、時間の関係やら道幅がせまいなどの理由で行けなかった。しかたがないので、別の滝まで行ってよく見て帰ろうと思ったら、学級写真を写すというので止められた。写し終わったので、もう一度戻って、売店の前の滝の方に行こうとした。ところが、2〜3mも行くと、もうひどい雨が降ってきた。先に滝のそばまで行った子たちは、ずぶぬれで、かぜを引かなかったのが不思議なくらいだ。

白糸の滝前でのクラス写真


 白糸の滝で帰る時間を調整して、午後4時30分頃だが、工場の帰りの人でごった返している富士駅で、また「こまどり号」に乗った。もう、慣れているので、座ったら、発車する前に食べ始めた。ぼくの荷物は、残っているお菓子に、かさの大きいおみやげを買いすぎたため、ボストンバッグにナップサックまで動員して、どうやらつめこんだ。カブをやって、ぼろまけにまけていると、名古屋に入った。わくわくした気持ちにかられながらプラットホームに立ち、家の者の顔を見たときは、何かホッとした。




【今から思うと】

(1) ちなみに、私たちが東京の本郷で泊まった旅館「鳳明館 森川別館」は、今なお営業している。しかも、私が毎日、通勤のためにその前を通りかかるので、相当のご縁があるようだ。

(2) また、バスで国会前を通りかかって写真を撮り、「1度でもいいから、ここにはいりたいと思った」と書いてあるが、その後、政府の仕事をするようになって、数え切れなく入ることとなった。願いが「かない過ぎた」というところだ。

(3) この時の生徒数を計算してみると、1クラスは55人、3年は17組まであったから、学年全体では930人は超えていたと思われる。道理で、食事の時に立錐の余地もなかったわけである。そんな競争の激しい中を今までよく生き残ってきたものだと、我ながら思う。




(平成27年9月26日著)
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