邯鄲の夢エッセイ



モナリザ




 欧州3ヶ国の旅( 写 真 )は、こちらから。


 2015年8月、我々夫婦と小学校1年生の初孫くんの3人が、成田発午後1時55分にパリに向けて出発した。到着は現地時間午後7時25分の予定で、全日空機である。今回は、長時間の機中の旅となるので、ビジネスクラスにした。費用はかかるが、エコノミークラスだと、初孫くんが、ただでさえ狭い座席の上に我々の膝の上に寄りかかって寝てくる。もう老境に差し掛かっている身の我々には、これはなかなか辛い。江戸時代に、座っている膝の上に石が次々と乗せられる拷問があったが、ちょうどそれと同じようなことになるからだ。

スイス・アルプス


 その点、全日空のビジネスクラスは、座席がフルフラットで、互い違いに座れるようになっていて、なかなか快適だ。食事も美味しい。映画は、新作のトゥモロー・ランドと羊のショーンが面白かった。そのほか、ハリーポッターなどの旧作を見ていたら、あっという間に時間が経ってしまった。問題は、孫の姿が見えないことで、何をやっているのかは、いちいち座席から身を乗り出さないとわからない。それでも、最初の頃はそうやって我々夫婦が交互に身を乗り出してしばしば様子を見ていたが、そのうち面倒になって見なくなった。それをよいことに孫は、映画三昧の楽しい時間を過ごしている。座席からゲタゲタと笑う声が聞こえてくる始末だ。まあ、ご機嫌さんなら、それでよい。お食事も、スチュワーデスさんとあれこれお喋りをして、洋食のお肉を頼んで、パクパク食べていた。

ハイデルベルクの橋のたもとの猿


 そうこうするうちに、飛行機は予定通り、午後7時25分、シャルルドゴール空港に着陸した。イミグレーションは混み合っていて、通過に40分近くもかかる。だいたい、入国審査官がたった2人しかいない中で、そこに旅客が集中している。あれだけの入国者の数だというのに、係官の数を増やすという工夫もないようだ。そこをやっと通り抜け、バスで19区にあるホテルに着いたときには、既に午後9時を回っていた。高緯度地帯だから、外はまだ明るい。3人部屋がないというので部屋を2つ予約していたが、禁煙を頼んでいたのに、私の部屋が煙草臭い。フロントに言ったら、消臭スプレーを持った人が現れて、あちこちに掛けて回ってくれた。しかし、その檜の香りのような匂いが気になって、かえってダメだ。そこで、とうとう部屋を替えてもらった。

 やれやれと思っていると、今度はもう一つの部屋で、お風呂に入っていたはずの家内から緊急電話があった。何事かと思って駆けつけたら、孫が1人でシャワーを浴びていて、ふと目を離すと、シャワーの水が浴室から流れ出て、部屋の絨毯が水浸しだったという。水に濡れた部分の大きさは、畳1枚半くらいだ。最初はバスタブの中にいたのに、いつの間にか外へ出てシャワーを使ったらしい。欧州のホテルでは、バスタブの外には排水口がないのが普通だから、これは欧州旅行で、初心者がよくやらかすミスだ。日本の自宅と同じ感覚で使った初孫くんが知らなかったのは無理もない。添乗員さんにフロントに連絡してもらい、タオルを何枚か当てて、水を吸い取った。いやもう、第1日から、やらかしてくれたので、この先が思いやられる。しかし、こういう予想外のことが起こるので、いよいよ外国旅行らしくなってきた。


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 第2日は、午前中にパリからヴェルサイユまで22kmをひたすら走り、1時間半の宮殿観光だ。私にとっては3回目の訪問である。ヴェルサイユ宮殿に着くと、既に大勢の人だかりで、まるで日本のお正月の初詣のような感じである。予約時間まで間があったので、建物の裏手に回り、ラトーヌの泉やアポロンの泉を見に行くが、その先まで庭園がどこまでも続いている。元々、ここは水もない荒れ果てた土地だったそうだが、太陽王ルイ14世が、水道を引いて起伏をならし、反乱がおきないように貴族をこの地に移り住まわせ、民衆を呼んで庭や演劇を鑑賞させたそうだ。

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 時間になり、入場した。建物内には、もちろん冷房などあるはずもないので、その大勢の人がもたらす熱気で、ものすごく蒸し暑かった。初孫くんが嫌がったほどだ。鏡の間、王の居室、王の寝室、王妃の寝室などを見て回り、ガイド付きだったので、ルイ14世から始まって、15世、16世と続き、その奥方などの逸話をたくさん聞かせてもらった。16世とともに処刑されたマリーアントワネットは、なかなか家族思いだったようだ。最近はガイドの機器があるから、とても便利だ。見学が終わったときに、お土産物屋に行くのをやめて、初孫くんと駆け込んだブラッセリーのアイスクリームが美味しかった。

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 午後は、まずレストラン・モラドで昼食。その玉ねぎスープ、鴨肉とポテトが美味しかった。初孫くんが、お肉はその半分だけだが、その他はすべて食べてしまったのには、驚いた。ただ、好物の林檎ジュースが炭酸入りだったので、飲めなくてがっかりしていた。そこを出て、市内を走り、凱旋門をくぐった。ふと上を見ると、屋上にたくさん、見物客がいた。



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 ルーブル美術館に着いた。私は4回目となる。そのうち1回はまだ若いときだったから、1日中、館内をくまなく回ってみて、くたくたに疲れたことを覚えている。しかし、何回、どれだけ見てもまだまだ見るべきものがあるのが、この美術館である。今回は時間がないし、初孫くんもいる。だから、昔、感激した絵と彫刻に再会するつもりで、それらだけを手早く見るつもりだった。しかし、ここにもまた、大勢の観光客がいて、冷房が全くきかないほどの大混雑だった。それでも、モナリザ、ドラクロワの民衆を導く自由の女神、ナポレオンの戴冠式、サモトラケのニケ、ミロのヴィーナスなどを手際よく観た。たった2時間の成果としては、上出来だ。

エッフェル塔


 シャイヨー宮テラスに行き、エッフェル塔が真正面からよく見えた。全く、威風堂々としている。これが建てられたときには、パリの景観を壊すということで反対運動が起き、万国博が終わった時点で取り壊される予定だったと聞く。ところが、電波塔として使うということで取り壊しを免れ、今日に至っているという。機中の映画「トゥマロー・ランド」で、この塔からロケットが発射されるというシーンがあったのを思い出してしまった。ところで、シャイヨー宮テラスの大噴水に、たくさんの子供が水着を着て、水浴びをしているのには、驚いた。

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 セーヌ河畔のノートルダム寺院に行った。こちらも、少年時代に読んだ「ノートルダムのせむし男」以来、とても馴染み深いところだが、来るたびにそのゴシック様式が醸し出す荘厳な雰囲気に圧倒される。850年もの歴史があるというが、ヴィクトル・ユーゴーの名作が出るまでは、保存はあまりよくなかったという。内部に入ると、その天井の高さといい、ばら窓などのステンドグラスといい、誠に素晴らしい。初孫くんも、驚いて見上げるほどだ。2人で、灯明の蝋燭を差し上げ、若干の寄付をした。ちょうどミサが行われていて、荘厳な空間に歌声が響きわたっていた。見学が終わって外に出てみると、この寺院は、横から見る姿、正面の姿、そして後ろの姿が、全く異なっているので、これまた不思議な魅力といえる。

【後日談】 ノートルダム寺院の大聖堂では、2019年4月15日夜、大規模な火災が発生して、誠に残念なことにそのほとんどを消失してしまった。私はその外観から、てっきり石造りの建物だと思っていたが、実はそうではなくて木造だったそうで、火災には脆弱だったようだ。この火災を報じるテレビのニュースを通じて、大屋根の尖塔が燃えて崩壊するのを見て、深い悲しみに包まれた。ここに、ヨーロッパで最大の文化的建造物が失われた。日本において、1950年に金閣寺が燃えてしまったときは、多くの人が、まさにこのような気持ちになったことだろう。


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 夕食はエスカルゴの前菜だったが、初孫くんは、蝸牛と聞いて、顔を背けてしまったので、我々が代わりにいただいた。そのほかの料理は、これまたしっかり食べてくれたので、安心した。ところがその夜、また事件が起こる。明け方に初孫くんがベッドから落ちて、膝小僧を擦りむいてしまった。壁の一番下の木の装飾にぶつけたようだ。骨を折っていないか、膝を曲げさせたりしたが、幸い、大丈夫なようだ。頭を打たなくて良かった。念のため、入っている保険会社の病院の位置を確認した。翌日にもまた同じホテルに泊まるので、フロントにベッドサイド・ガードがないか聞いたが、ないという。仕方がないので、ベッドを壁際まで寄せて、落ちる空間がないようにした。

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 第3日目は、丸1日かけてモン・サン・ミッシェル修道院の観光で、片道350km、所要13時間45分という長旅である。出発して2時間後、ノルマンディ地方のポンレベック村というところに着いた。名前を聞いたことがあるなと思ったら、チーズの名前で、まさにこの地の産物だという。小さな村だけれど、あちこちに花が飾られていて、家々がメルヘンチックで実に美しい。以前、ジュリエット・ビノシュが演じた映画「ショコラ」の舞台のような小さな村である。

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 更に2時間かけて、午後1時に到着。4時45分に集合ということで、さっそくモン・サン・ミッシェル修道院の中を見学させていただいた。暑い中、まるで岩山の中をぐるぐる回って登り、見学し、そして、降りるというもので、千年以上の歴史と百年戦争のときのエピソードなど、見所、聞き所が満載だった。これほど、威容の、いや異様といってもよいほどの建物を作るのであるから、それ相応の歴史があるのだろうと思っていたけれど、やはりその通りであった。それにしても、修道士たちがよく結核で倒れたというから、食事なども貧しかったのだろう。痛ましいことだ。なお、この修道院の名にもなっていて、塔のてっぺんに金色に輝いているサン・ミッシェル(セイント・ミカエル)は、最後の審判のときに現れて、人々の霊魂の重さを計り、天国行きか地獄行きかを判定する天使だそうな。午後9時半頃にようやくパリ市内に帰ってきて、遅い食事をとって寝た。

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  第4日目は、パリのリヨン駅からスイスのバーゼルに向けて新幹線TGVに乗った。実は私は、ヨーロッパの鉄道には昔々に2度ほど乗ったことがあるが、細かいことは忘れてしまった。今回改めて乗ってみると、改札口はもちろん発車ベルがないのに気が付いた。日本人なら、心配になるところである。

 スイスのバーゼル駅に着いて、バスで首都ベルンへ向かった。ここは、アーレ川が曲がる「つ」の字型の内側のところに1191年にツェーリンゲン大公のベルトルト5世が町を築いた。鎌倉幕府成立の前年である。町の名前の由来であるが、狩りをして最初に獲れた獲物の名を付けようとして、それが熊だったので、「ベアー」からベルンとしたという。


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 ベルンの中心となる商店街は、ヨーロッパ最長のアーケード街になっていて、その真ん中辺りにアインシュタインがベルンの特許局に勤めていたときに2年間住んだ家がある。立ち寄ってみたかったが、生憎その時間はなかった。あちこちに噴水があり、その真ん中に高いモニュメントが建っていて、その上には色々な像がある。聖人像のようなものから、アリストテレスらしき像、さらには熊が鎧を着ているようなものまである。今は噴水になっているが、元は街の人も使える井戸だったそうで。時計台には、可愛いからくり時計がある。教会は、威風堂々としている。バラ公園に行ってみたが、この季節にはもうバラは終わっていて、その代わり、公園から一望するベルン市内の風景が素晴らしかった。旧市街を取り巻くアーレ川の水も、青みがかっていて、美しい。一幅の絵になる景色である。ガイドによれば、スイスの国名は、どの言語にも偏らないコンフェデラチオン・ヘルベチア(CH)が使われるという。

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 それから227kmも移動してツェルマットに到着した。ここは、マッターホルンへの登山基地で、スキーも1年中楽しめるらしい。小さいながらも美しい街で、あらゆる建物の窓という窓には咲きほこる花が飾ってある。日本の妙高と姉妹都市だというし、京都とも縁があるようだ。今年は、マッターホルンへの初登頂から150周年に当たる記念の年で、三角形をしたテントがめぼしい場所に飾られていた。街中、静かな車ばかりだと思ったら、どれも電気自動車で、環境保護のためにそういう車しか走らせていないそうだ。泊まったホテル近くに、川が流れていて、そこに架る橋(日本人がよく見に来るので、通称が「日本橋」)からマッターホルンが正面に見えるというので、早速行ってみた。そうすると残念ながら雲がかかっていて、山の台座の一部しか見えなかった。しかし、川の下流の方を見てみると、そちらの方は一部晴れていて、4,000m級の山の山頂が見えた。

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 第5日目は、日の出時刻の6時23分前に再び日本橋に行って朝焼けのマッターホルンを見るはずだったが、曇りのために断念して寝ていた。午前にマッターホルン観光をした。登山電車のゴルナーグラート鉄道で標高3,089mの駅に着き、徒歩でさらに上がって3,100mのゴルナーグラート展望台ヘ行った。本来は正面にマッターホルンがあるはずだが、白い霧で何にも見えなかった。初孫くんは、元気に雪遊びしている。標高が高いので、少し歩くと、息切れする。周囲は、氷河で覆い尽くされている。それにしても、氷河の表面にあれほど皺が多いとは思わなかった。地球温暖化で溶けつつあるのだろうか。

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 ここで食事をしたら、なかなか美味しかった。写真屋さんに、皆で記念の写真を撮ってもらったが、背景は真っ白だった。ガイドが来て、一つ下のローテンボーゲン駅から、さらにもう一つ下のリッフェルベルク駅まで1時間半のハイキングをするかという打診があったが、天候が悪いし、家内と初孫くんが気になって、参加せずにそのまま電車で下って行った。すると、天候がみるみるうちに悪化し、みぞれ交じりの雨となった。この軽装備では如何ともしがたかったから、止めて良かった。

 ゴルナーグラート展望台から一気に下り、ツェルマット駅に着いて、撮ってもらった写真を見たら、真っ白な背景だったはずなのにちゃんとマッターホルンの写真が合成されて写っていたのには、笑ってしまった。それから290kmをバスで移動してインターラーケンへ行き、そこで泊まった。


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 第6日目は、インターラーケン駅の次のゲステルワイヤ駅から列車でグルンド駅まで行き、そこでユングフラウ鉄道に乗り換えて50分かけてユングフラウヨッホ駅に着いた。そこから歩いて・・・といいたいところだが、そんなことをすれば高山病になるかもしれないと思ったので、エレベーターでスフィンクス展望台へと登った。標高3,454mである。昨日より354mも高い。ところが天候は曇りときどき雨である。眼下にアレッチ氷河が広がり、周りは霧で真っ白だ。本来なら、正面の左から右へと、ユングフラウ4,158m、メンヒ4,107m、アイガー3,970mが並んで見えるはずだった。建物の外に出てみると、つららが下がっている。氷点下2〜3度というから、当たり前だ。さすがの初孫くんも、寒くてすぐに建物内に戻ってしまった。

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 我々がユングフラウヨッホ駅に着いたときには、周りは中国人観光客ばかりであった。中には初孫くんと同年代の子供もいて、追いかけっこをしている。こんな高い地点でそんなことをして、高山病にかからないか、大丈夫かなどと気になった。でも、中国にも高地はあるし、生来、元気な人たちなのかもしれない。そうでないと、中国3,000年の歴史の過程でご先祖様が生き残らなかっただろう。

 それに比べて、私たちはというと、初孫くんは、頂上に着いた途端、「お腹が空いた」というし、家内は、「肩の筋肉がピクピクし、心臓がパクパクしてきた」という。私も、気のせいか若干、息が切れる。いつでもどこでも元気溌剌な初孫くんはともかくとして、もはや老境にさしかかった我々にはきつい高度だ。先月行った立山で一番高い雄山3,003mより高いところに来ているから仕方がない。大事に至らないように、家内には休んでもらった。我々二人がスフィンクス展望台に行っているとき、家内は、駅舎内でマグカップ付きのアイガー風にクリームを載せたコーヒーをゆっくりと飲んでいたという。すると突然、着いたばかりの列車からどっと出てきた大勢の韓国人の団体客に取り囲まれた。そして、どういうわけかそれぞれが「激辛」カップラーメンを一斉に食べ始め、その激烈な匂いに閉口したという。こんなところに来て、なぜそんなものを食べるのか、どうにも理解しかねる。


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 展望台の中には、氷河の中をくりぬいて作ったというトンネルがある。初孫くんと手を取り合い、つるつるすべる中を進んでいった。その氷河トンネル内には展示があって、そもそもユングフラウ鉄道というのはその大半が山体をくりぬいて作ったトンネルで、イタリア人工夫たちの活躍により、ようやく開削したとのこと。寒さと破砕帯と出水で、大変だったらしい。初孫くんは、ユングフラウ鉄道の帰りに小一時間ほど、ぐっすりと寝てくれた。

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 また列車でグルンド駅まで戻り、その駅舎内で食事をした。初孫くんが、「あーあ、またソーセージとじゃがいもか」と嫌そうな顔をした。そこで、何かないかとメニューを見たところ、「うどん」10ユーロ・48セントというものがあるではないか。頼んでみたところ、やや時間がたってから、出てきた。関東風の醤油味のもので、ネギがきざんで入れられている。味はどうかと聞くまでもなく、美味しかったらしくて、初孫くんは一気に食べ終わってしまった。小さくとも、やはり日本人だなと笑ってしまった。それからバスで、ドイツのフュッセンに到着して食事をした。そして376kmをバスで移動して、シュパンガウのホテルに泊まったが、これがまるで田舎の安宿だった。

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 第7日目は、シュパンガウから4km離れたホーウェンシュパンガウへ行き、ノイシュバンシュタイン城を見学した。私は4回目だが、過去3回はいずれも冬の寒いときの観光だったから、寒いだけでなくお城に向かう坂道が凍ってすべりそうで参ったことを覚えている。それに比べて今回は、気温が18度と、ちょうどよかった。だから、安心して坂道を40分ほど登っていった。しかし、途中の道には馬車の馬の糞が転がっていて、それには閉口した。ようやくお城に着いたのに、残念ながら中は撮影禁止ということなので、写真は撮れなかった。だから、外観だけの写真にとどまる。途中ではガイドの機器を貸してくれて、それで各部屋を説明してくれた。王の寝室や中世騎士伝説が描かれた宴会場などに感心して出てきた。驚いたことに、王がどうやら住める状態にした程度で、その部分のみを公開しているから、本来なら他の部分にも手を加えないと、完成しているとはいえない状態らしい。

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 そもそもこのお城は、バイエルン王のルートヴィヒ2世によって19世紀に建てられた。ちなみに、ノイ(新しい)、シュバイン(白鳥)、シュタイン(石)という意味らしい。1869年着工で、とりあえず王が住めるようになるまで17年かかった。そういう意味で完成はしなかったが、王はここに102日間住んだだけで、捕らえられて翌日に死んだという。彼は、中世の騎士道にあこがれ、若くてハンサムだったので国民に人気があった。ところが、ドイツ統一の覇権争いのプロシャとオーストリア・ハプスブルク家との戦争があったとき、その負けた側のハプスブルク家に付いたために莫大な賠償金を支払う羽目になった。これで、王の政治的権力は大きく失墜した。それだけでなくその頃、結婚話があったが、どうも同性愛者だったらしくて破談になった。その二つの出来事のほか、国民に不人気な作曲家ワグナーをかくまって非難されたりして、あれやこれやで極端な人間嫌いになったという。晩年には、昼夜逆転して真夜中に起きて黄金の馬車や橇を走らせたりする奇行があったそうだ。4つ目のお城を建設する計画を発表して国家財政の2倍もの赤字を膨らませたことから、家臣から精神病者との医者の診断書を突き付けられて幽閉され、その翌日に死んだというのがガイドの説明だった。

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 ヴィース巡礼教会に立ち寄った。ここは、私が30年ほど前に一度訪れて、天井画のあまりの美しさに、しばし呆然と立ち尽くしたところだ。ドイツ・ロココ様式の最高傑作だといわれている。ただ、外見は、まさにヴィース(草原)の名のとおり、牧場の真ん中にポツンと立つ素朴な教会なのだが、その天井のフレスコ画は、まさに世界一流品である。パイプオルガンも美しく装飾されていて、感嘆するほどだ。今や世界遺産となっているというから、万人の認めるところだろう。初孫くんと二人で蝋燭をあげたのだが、彼の蝋燭は強い炎を放っているのに、私の蝋燭の火はどういうわけか弱々しくて、しかも今にも消えそうで、こんなところにも歳を感じてしまった。

アラット湖


 それからロマンチック街道を230km北上し、ローテンブルクに向けて走り始めた。途中、アラット湖畔のレストランで食事をした。メイン料理はマスだと耳にした初孫くんが、両手を振ってリズムをつけ、「お魚食べない」「お魚 No、No」とやるものだから、私が二つの人差し指を頭の上に持ってきて鬼の角のようにして節をつけて「ダメよ、ダメだよ」と言い返すと、ますます面白がってどんどんやりだす。困ったものだ。でも、いざお魚が来たら、白身のとても良い味で、衣はさすがに食べなかったものの、それを取ってあげたら中身のお魚は、結局、全部食べてしまった。ちなみに、ロマンチック街道は、ドイツ政府観光局の命名だという。北のビュルツブルクから始まり、中世の面影を残しているローテンブルグ、ディンケルスビュール、ネルトリンゲン、アウグスブルクの4つの街をつないで、南のフュッセンに至る。今回は、それを北上する形である。

 話は変わるが、私は、学生時代にホイジンガー著「中世の秋」を読んで深く感動したことがある。それを思い出しながら、この旅行でガイドから聞きかじったドイツの歴史について書いておきたい。これから見学する各中世都市の理解のためにも、有用な知識である。4世紀から5世紀にかけてのゲルマン民族大移動の結果、ローマ帝国が東西に分裂して、西ローマ帝国は、ほどなく滅亡した。それから約300年間の混乱が続いた後、ようやく8世紀になってフランク族がカール大帝の下で統一の偉業を成し遂げ、今のフランス、ドイツ、イタリアをまとめた。フランク族は、代々が分割相続だったため、孫の時代に領土は3つに分割される。だから、フランスとドイツの始祖は、いずれもカール大帝となる。

 10世紀に優れた指導者が現れた。それがオットー大帝で、962年に戴冠して神聖ローマ帝国を築いた。これはいわば中世のドイツのことで、1802年にナポレオンに制服されるまで続いた。ドイツの皇帝は選挙で選ばれた。最初は王族の間であったが、そのうち王族でなくともよくなった。カレル二世が、選挙権を持っているのは7人のみと決め、これを選帝侯という。選帝侯は、マインツ、ケルン、トリーアの教会の3大司教、ブランデンブルグ辺境伯、ザクセン公、ベーメン王、ラインプファルツ伯の4領主である。しかし、あまり力の強い皇帝を選ぶと自分たちが牛耳られてしまうから、そこそこの力量の人物を選んでいた。こうしたバラバラな国の成り立ちは、プロシャのビスマルク首相が1871年の対仏戦争の勝利を通じて、ドイツを統一するまで続いた。皇帝から自治権が与えられたのが、「帝国自由都市」である。教会とともに、領主を抑えて支配する仕組みであり、教会には、信者から寄進された土地の支配権を与えた。

 1618年から48年までの30年間に神聖ローマ帝国を舞台に戦われた宗教戦争は、ドイツの発展に深い爪痕をもたらした。これは、最初はプロテスタントの諸侯がハプスブルク家に反旗を翻したものだったが、大国スウェーデンの介入やハプスブルク家の勢力拡大を嫌うフランスの直接介入により、いわば国家間の大戦争となった。これによりドイツ国内の小国や民衆は疲弊し、国土は大きく荒廃して、その後、ドイツが産業革命などの近代化に後れをとる遠因になったといわれる。この旅行でも、たとえばローテンブルクの次のからくり時計塔にそのときの逸話がうかがわれる。


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 第8日目は、そのローテンブルグ観光である。中世の宝石箱といわれるだけあって、本当に中世の街に迷い込んだような気がする街である。旧市庁舎前のマルクト広場(マルクトとは、英語のマーケット)にあるからくり時計を見ていると、定時になって時計の左右の窓が開いて、向かって右側にジョッキを持った年配の紳士、左側に将軍が現れる。そして、紳士がジョッキを飲む仕草をして、こちらを向いて誇らしげに空いたジョッキを見せる。そして、窓は閉まる。ただそれだけのものだが、ガイドによれば、30年にわたった宗教戦争のとき、プロテスタント化したローテンブルグの街が、カソリックの皇帝軍に囲まれた。そのとき、皇帝軍の将軍に対して、当時のローテンブルグ市長が3.5リットルものワインを一気に飲み干すから街を焼かないでくれと頼み、10分間で飲み干したので、街は無事だったという逸話を示しているそうだ。

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 ローテンブルグの街を散歩すると、まるでおとぎの国に来たようで、歩いていて実に楽しい。初孫くんも、キョロキョロしながら、写真をパチパチ撮っている。一年中、クリスマス用品を売っている店があるかと思えばテディ・ベアの専門店もあるし、パン屋も装飾が綺麗だ。大人の握りこぶしぐらいの大きさの茶色いお菓子があると思ったら、当地名物の「シュネーバル」である。やわらかくてコクのあるお菓子で、小麦粉、西洋スモモの蒸留酒、卵と砂糖で作られ、結婚式や洗礼式などでふるまわれたものという。粉砂糖がふりかけられているところから「雪の玉」という名が付いたそうだ。初孫くんと食べてみたら、とても美味しかった。

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 中世犯罪博物館という建物の前を通りかかったら、鉄製の檻のようなものがぶら下がっている。これは何かとガイドに聞いたら、中世の頃、量目を偽って売ったパン屋か誰かを処罰するために、この檻に入れて、川に沈めたそうだ。いやはや、魔女狩りといい、この原始的な処罰方法といい、中世というのは、なかなか大変な時代だったことがよくわかる。

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 第9日目は、ローテンブルクを出発して古城街道に入り、一路、ハイデルブルクに向かった。バスで170kmの距離である。ちなみに、ローテンブルクは、南北に走るロマンチック街道と東西に走る古城街道との交差点に位置する。南から北上していた我々は、その交差点を左に折れてネッカー川沿いにマンハイムに向けて走った。古城街道には、中世から近世にかけての古城が90ほど建っている。バスの車中だったが、それらを眺めた。古城の中には、まだ領主の子孫が住んでいるものもあれば、朽ち果てているものもある。しかし今では、そのかなりの数が、ホテルやレストランになっているとのことである。

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 お昼を食べて、ハイデルブルク城、マルクト広場、カール・テオドール広場などを見て、古城ホテルに泊まった。ハイデルブルク城というのは、選帝侯のラインプファルツ伯の居城で、何度も戦火に見舞われて、もうボロボロの有り様だ。城の中に、ワインが30万本入るという大きなワイン樽があったかと思うと、道化師の像があった。この道化師は、ちょっとした箱の取っ手を引っ張ると動物の尻尾が出てくる仕掛けを用意し、これに引っかかって気絶した貴婦人を介抱するのを楽しみにしていたそうだから、面白い。このような単純な仕掛けで簡単に人が気絶するものかと思っていたら、当時の貴婦人はコルセットをきつく締めていたので、案外そうかもしれないとのことだった。街中を歩くと、大学町だけあって、それらしい雰囲気である。京都大学のリエゾンオフィスがあるようだ。人口12万人中、学生は3万人、大学関係者は1万人だという。橋のたもとにあった猿の像が面白かった。また、ロベルト・シューマンが住んだ家があった。

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 さらにバスで90km移動して、フランクフルトに着いた。レオナルドロイヤルホテル・フランクフルトで、この旅で初めての高層24階に泊まった。金融の街で知られるフランクフルトは、街中もすっきりとして誠に近代的である。

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 第10日目の最後の日は、フランクフルトから190km離れているケルンにバスで移動した。途中で、ライン河岸にはたくさんの古城と通行税をとっていた関所を見た。14世紀には、ライン川岸に60を超える関所があったという。これでは経済が発展しないわけだ。

 フランクフルトからケルンまで45分、ケルン大聖堂と旧市街を見学した。大聖堂を撮ろうとしたところ、手持ちの標準レンズでは全体が収まり切れず、広角レンズでないと撮れなかった。広角レンズはトランクの中に収納してあったので、取り出せず、涙をのんだ。なお、香水のオーデコロンというのは、てっきりフランスのものと信じていたが、実はその原型は、このケルン(コロン)の4711という香水にあるという。ケルンの技師が、かんきつ類から抽出した香水を製造販売していたところ、ナポレオン戦争の頃、当地に駐在したフランスの士官が、故郷で待つ妻や恋人のためにお土産として買って帰り、それで香水が広がったとのことである。


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 さらに45km走って、デュッセルドルフに到着し、空港を午後8時に出発して、帰国の途についた。11時間25分の旅である。そして翌20日の午後2時25分、無事に成田に到着した。今回の旅は、気温ひとつをとってみても、フランスが32度、スイスが零下2度、ドイツが18度と、大変な環境の変化であった。しかし、皆、無事でよかった。それにしても、子連れだったから、片手で初孫くんの手を引き、もう一方の片手で大きなカメラを構えて撮るというのは、とても難しく、そのためか、いつもより写真の水平の線がずれてしまったのは、残念だったが、まあ仕方がない。

 ところで、今回の旅の前に現地通貨を用意しておこうと思って、あらかじめ東京で日本円をユーロに替えていった。もちろん、紙幣ばかりである。それは良いのだが、現地ではコインを使うシーンが多かった。たとえば、泊まったホテルの枕銭(1泊1人当り1ユーロ)、高速道路の休憩所などの有料トイレ(1ユーロ又は70セント。ただし、70セントのうち、50セントほどを休憩所のレストラン等で使えるクーポン券がもらえたりする。)、食事時の飲み物代の清算などである。もちろん、街中でミネラルウォーターや子供のお菓子やアイスクリームなどを買った時にも、お釣りのコインが貯まる。これを使えばよいのだが、とりわけトイレを利用する際に時々それが不足しそうになったりして、綱渡りだった。

 なお、スイスはまだスイスフランなので、ユーロが使えるかどうかわからなかったが、いざ行ってみると、観光客が行くような所はどこでもユーロが使えた。ただ、ユーロで払うとフランのお釣りをもらうことが多かった。為替レートをみると、1ユーロが140円、スイスフランが120円くらいだから、うるさくいえば、損をしていることになる。しかし、特に有料トイレでは、スイスフランの銀色のコインが絶対に必要である。また、5スイスフランの大きな硬貨があって、それには、ウィリアムテルの肖像が描かれている。初孫くんは、これを二つももらって、満面の笑みを浮かべていた。





(平成27年8月20日著)
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